観音経
2010年09月01日
今年四月下旬ぐらいかと思いますが、・・
ようやく観音経・長行(じょうごう)を、暗誦出来るようになりました。偈文は随分前から覚えておりましたので、これでやっとこさ観音経全文制覇ですね。
観音経・長行(じょうごう)は非常に長いお経です。然し敢えて、特に覚えにくい部分をピックアップして、ピアノの練習のように繰り返し徹底的に覚えるといったやり方ではなく、ただ毎日一座だけ(あとの座は偈文のみ)読経し続けて、おおよそ一年ぐらいかかりました。
気合入れてアタマに詰め込むような暗記方法やなしに、自然に毎日読んでおったら勝手に覚えられるっちゅうのを今回実践してみました。皆さんの中には私よりも、きっともっと早く覚えられる方が多いでしょうから、是非おやりになってみて下さい。
以前、観音経全文和訳を書いてきましたが、少々お浚い致しますと、観音経は正式名を鳩摩羅什・訳(くまらじゅう・やく)『妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょーほーれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五』と申します。
なっがいし、番号入っとるとなんやクラシックの曲名みたいでっしゃろw。
長行(じょうごう)とは、『爾時。無尽意菩薩。即従座起。偏袒右肩。・・』で始まる、散文体としての前半2/3の本文を指し、偈文(げもん)とは、『世尊妙相具。我今重問彼。仏子何因縁。名為観世音。・・』で始まる韻文体の後半1/3の応頌(おうじゅ)と呼ばれる詩の部分を云います。
一般的に寺院で配布される経本に記載されておるのも、多くの信徒さんなどが詠まれるのは、この偈文部分であります。そのため、中にはこの前半部分を知らない人も沢山いらっしゃいます。
が、日本二大聖天の生駒山・宝山寺と待乳山・本龍院の経本には、どちらも観音経全文が記載されており、私たち聖天信仰者にとって、観音経が非常に重要視されるお経だと云うことが窺い知れます。
そう云うたら、大黒天神経もナンや知らん間に暗誦出来るようになっておったと以前書いたような気がします。観音経は大黒天神経より遥かに長いですが、理屈で言うたら般若心経が覚えれたら、それが2番3番〜10番まで楽曲があると考えると、どんだけ長ぉても覚えれんことはない筈ですさかいね。
本来お経は、経本の文字を見ながら読むとされとります。そのため私も月に一度程度は、暗誦しなれたお経でも経本を開いて文字を追うようにしとります。そうすると、また改めて文字から経典の意味を味わうことが出来ます。
実際は皆さん毎日お経を読んでおると、こんな風に変化してゆくんとちゃいますかね?
最初は字ぃ読めん、しどろもどろ
↓
ふりがなを見ながらたどたどしく
↓
漢字だけで読めるようになる
↓
意味を噛み締めながら読めるようになる
↓
字ぃ見てるようで見てへんでも読める
↓
手元に経本を置いてはいるが一切見ずに、
スラスラと唱えながらページだけをめくる
こんな感じとちゃいますかね?
ページの端と端を覚えとくと、頭ん中でページをめくっておけば、いざド忘れして詰まったときでも、そこだけ目を伏せて確かめることが出来ますさかいね。
暗誦が出来ると、常に経本を持ち歩かなずに済みますから例えば、巡礼や参詣の予定なしに出かけたときでも、バッタリいいお寺に出会ったときでも、いつでもどこでも読経出来ます。お仕事で朝が忙しくても、通勤中にクルマん中や電車の中で暗誦出来ます。私も間もなくそんな毎日となります。
実は最後んとこまでイッってもぉて、更にその先、全く詰まることなく諳(そら)んじることが出来るようになると、今度はナンか考え事しとってもスラスラ読経出来るようになってしまいます。
即ち、右脳で読んでおると左脳で雑念を思考出来るようになります。ホンマはアカンのですけどね。例えば私やと、『あー今日、買いモン行かんとアカンのぉ〜・・◎◎が足りんかったな』『そういや、猫にエサやったかの?』『晩飯何するかのぉ〜確か、鶏ももが残っとったなぁ・・』みたいな。
まー今はご存知の通り主夫なんで、考えることっちゅうたらもっぱらこんな程度ですがw。(お陰さまを以って、次の修行のため間もなく主夫引退しますが)
見た目には真面目に読経しとるようでも、アタマん中で要らんこと考えとってもスラスラ読経出来てまうっちゅうのが、唯一デメリットと云えばそうかも知れまへん。
観音経は全文で2062文字、偈文が大体500文字ぐらいですから長行は1500文字ぐらいでんな。般若心経が278文字ですさかい、ざっと10倍近い文字数です。
余談でっけど・・
般若心経の文字数は、264文字、266文字、とか色々書かれて混乱しとる人居てはるみたいですが。
正直云うて、文字数なんぞどーでも宜しいんでっけど、
ここらでハッキリさしときまひょかね。
中身が262文字、
最後の『般若心経〜』が4文字。これで266文字。
題目の『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』が12文字。
ほんで278文字。っちゅうことです。
読経するにせよ、写経するときも題目も全部書きますし、唱えるんですから278文字が正解です。そやけど、そんな事を質問するヒマあったら心経一巻でも読経するか、写経した方が功徳を戴けまっせw。どーでも宜しい。
私も朝の勤行一座目は、観音経に関して全文を読経しとります。夕方、深夜の二座三座目は、偈文のみ唱えとります。これで現在の勤行中、全てのお経を暗誦出来るようになり申した。略称でざっと書くと・・
◎般若心経
◎大黒天神経
◎明王陀羅尼愛染経
◎観音経
◎十一面観音陀羅尼経
◎大聖歓喜雙身天使呪法経
この他に比較的短いお経が、
◎理趣経百字の偈
◎弥陀讃
・・・
2008年12月の記事、お経を暗誦しよう!(お経の覚え方・暗記方法)から、増えたお経と云うと、今回の観音経・長行と愛染経だけですが、矢鱈と一日に読むお経増やすんもナンですしね。
聖天信仰者で居続けるなら、外せんお経だけ読んでおればいいと思います。あなたがあなたの出来る範囲で一生懸命に聖天さまと向き合っておれば、必ず聖天さまは導いて下さいますので。ナンも心配いりまへん。
本日もご訪問おおきに、
ご愛読有難う御座いました。
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
ようやく観音経・長行(じょうごう)を、暗誦出来るようになりました。偈文は随分前から覚えておりましたので、これでやっとこさ観音経全文制覇ですね。
観音経・長行(じょうごう)は非常に長いお経です。然し敢えて、特に覚えにくい部分をピックアップして、ピアノの練習のように繰り返し徹底的に覚えるといったやり方ではなく、ただ毎日一座だけ(あとの座は偈文のみ)読経し続けて、おおよそ一年ぐらいかかりました。
気合入れてアタマに詰め込むような暗記方法やなしに、自然に毎日読んでおったら勝手に覚えられるっちゅうのを今回実践してみました。皆さんの中には私よりも、きっともっと早く覚えられる方が多いでしょうから、是非おやりになってみて下さい。
以前、観音経全文和訳を書いてきましたが、少々お浚い致しますと、観音経は正式名を鳩摩羅什・訳(くまらじゅう・やく)『妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょーほーれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五』と申します。
なっがいし、番号入っとるとなんやクラシックの曲名みたいでっしゃろw。
長行(じょうごう)とは、『爾時。無尽意菩薩。即従座起。偏袒右肩。・・』で始まる、散文体としての前半2/3の本文を指し、偈文(げもん)とは、『世尊妙相具。我今重問彼。仏子何因縁。名為観世音。・・』で始まる韻文体の後半1/3の応頌(おうじゅ)と呼ばれる詩の部分を云います。
一般的に寺院で配布される経本に記載されておるのも、多くの信徒さんなどが詠まれるのは、この偈文部分であります。そのため、中にはこの前半部分を知らない人も沢山いらっしゃいます。
が、日本二大聖天の生駒山・宝山寺と待乳山・本龍院の経本には、どちらも観音経全文が記載されており、私たち聖天信仰者にとって、観音経が非常に重要視されるお経だと云うことが窺い知れます。
そう云うたら、大黒天神経もナンや知らん間に暗誦出来るようになっておったと以前書いたような気がします。観音経は大黒天神経より遥かに長いですが、理屈で言うたら般若心経が覚えれたら、それが2番3番〜10番まで楽曲があると考えると、どんだけ長ぉても覚えれんことはない筈ですさかいね。
本来お経は、経本の文字を見ながら読むとされとります。そのため私も月に一度程度は、暗誦しなれたお経でも経本を開いて文字を追うようにしとります。そうすると、また改めて文字から経典の意味を味わうことが出来ます。
実際は皆さん毎日お経を読んでおると、こんな風に変化してゆくんとちゃいますかね?
最初は字ぃ読めん、しどろもどろ
↓
ふりがなを見ながらたどたどしく
↓
漢字だけで読めるようになる
↓
意味を噛み締めながら読めるようになる
↓
字ぃ見てるようで見てへんでも読める
↓
手元に経本を置いてはいるが一切見ずに、
スラスラと唱えながらページだけをめくる
こんな感じとちゃいますかね?
ページの端と端を覚えとくと、頭ん中でページをめくっておけば、いざド忘れして詰まったときでも、そこだけ目を伏せて確かめることが出来ますさかいね。
暗誦が出来ると、常に経本を持ち歩かなずに済みますから例えば、巡礼や参詣の予定なしに出かけたときでも、バッタリいいお寺に出会ったときでも、いつでもどこでも読経出来ます。お仕事で朝が忙しくても、通勤中にクルマん中や電車の中で暗誦出来ます。私も間もなくそんな毎日となります。
実は最後んとこまでイッってもぉて、更にその先、全く詰まることなく諳(そら)んじることが出来るようになると、今度はナンか考え事しとってもスラスラ読経出来るようになってしまいます。
即ち、右脳で読んでおると左脳で雑念を思考出来るようになります。ホンマはアカンのですけどね。例えば私やと、『あー今日、買いモン行かんとアカンのぉ〜・・◎◎が足りんかったな』『そういや、猫にエサやったかの?』『晩飯何するかのぉ〜確か、鶏ももが残っとったなぁ・・』みたいな。
まー今はご存知の通り主夫なんで、考えることっちゅうたらもっぱらこんな程度ですがw。(お陰さまを以って、次の修行のため間もなく主夫引退しますが)
見た目には真面目に読経しとるようでも、アタマん中で要らんこと考えとってもスラスラ読経出来てまうっちゅうのが、唯一デメリットと云えばそうかも知れまへん。
観音経は全文で2062文字、偈文が大体500文字ぐらいですから長行は1500文字ぐらいでんな。般若心経が278文字ですさかい、ざっと10倍近い文字数です。
余談でっけど・・
般若心経の文字数は、264文字、266文字、とか色々書かれて混乱しとる人居てはるみたいですが。
正直云うて、文字数なんぞどーでも宜しいんでっけど、
ここらでハッキリさしときまひょかね。
中身が262文字、
最後の『般若心経〜』が4文字。これで266文字。
題目の『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』が12文字。
ほんで278文字。っちゅうことです。
読経するにせよ、写経するときも題目も全部書きますし、唱えるんですから278文字が正解です。そやけど、そんな事を質問するヒマあったら心経一巻でも読経するか、写経した方が功徳を戴けまっせw。どーでも宜しい。
私も朝の勤行一座目は、観音経に関して全文を読経しとります。夕方、深夜の二座三座目は、偈文のみ唱えとります。これで現在の勤行中、全てのお経を暗誦出来るようになり申した。略称でざっと書くと・・
◎般若心経
◎大黒天神経
◎明王陀羅尼愛染経
◎観音経
◎十一面観音陀羅尼経
◎大聖歓喜雙身天使呪法経
この他に比較的短いお経が、
◎理趣経百字の偈
◎弥陀讃
・・・
2008年12月の記事、お経を暗誦しよう!(お経の覚え方・暗記方法)から、増えたお経と云うと、今回の観音経・長行と愛染経だけですが、矢鱈と一日に読むお経増やすんもナンですしね。
聖天信仰者で居続けるなら、外せんお経だけ読んでおればいいと思います。あなたがあなたの出来る範囲で一生懸命に聖天さまと向き合っておれば、必ず聖天さまは導いて下さいますので。ナンも心配いりまへん。
本日もご訪問おおきに、
ご愛読有難う御座いました。
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2009年09月06日
画像はいつもの、tokotyan2さんの写真ページ から。
キレイでんな〜ホンマ。
癒されますわ。びゅ〜りほー。
はい、皆さん。お早う御座います。
北斗法蓮で御座居ます。
今日も元気能う、お仕事いってらっしゃいませ。
処で永らく御座なりになってしまってましたが、
本日は、観音経全文和訳の続きを書きたいと思います。
思いっきり忘れてはる人ばっかしでしょうから、(私もですw)
前回の和訳部分を振り返っときまひょかね。【観音経和訳・巻中2】
◆蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去
(がんじゃーぎゅーふっかつ けーどくえんかーねん
ねんぴーかんのんりき じんしょうじんえーこう)
《蚖蛇(がんじゃ=ムカデ)及び、蝮蠍(ふっかつ=マムシとか、サソリ)が、
猛毒を煙の如くに掲げ怒り狂い襲ってきたとしても、彼の観音力さえ念じれば、
その声に尋(つ)いで、自ずから回(かえ)り去るであろう。》
〜理釈〜
これまでの巻、前段に出てきました"悪鬼"や、"悪獣"たちは、
私たち人間よりも、イメージ的に大きな造形をしてますね。
その分、多少遠くからもきっと目に付くことでしょう。回避策も練れます。
然し、それらに対して、ムカデやサソリ・蝮などは私たちよりも小さく、
さもすれば、目に止まらず気付いたら噛まれとった。
なぁんちゅう事も、フツーに有り得なくはないでっしゃろ?
然も、コイツらは猛毒を持ってま。
身体はちっこぉても、人の命も容易に奪うことも出来ま。
さて、ここから理釈するにコイツらは一体、何を悟らせるために
お釈迦さんは、例に出されとるんでしょうかね。
ポイント
目立たない猛毒を持った小さな生き物
・・・
普段、目に付かんもの・・
せやけど、うっかりしたら命にも関わることになる・・
そーでんな、所謂、心の"油断"を云うてるんですね。
心のスキっちゅうか・・うっかりしてまうこと見逃すこと。
それらは常に、私たちの心の隙に隠れとりますからね。こっそりと。
そんな小さいひとつの油断・うっかりでも、
事を誤れば、致命的な痛手を被る時があります。
これは、私がやってたキックボクシングの試合でも同じ。
そして、事業を経営継続繁栄さしてくのも、全く同じですわな。
何億、何十億の取引や、またお医者さんなんかも、"ついうっかり"で
済まされん結果を招く場面も能うけ遭遇しまっしゃろね。
そんなコトの大小よりも、誰かて心には油断やスキがあるもんです。
普段、頑張ってはる人ほどたまには息抜きもしたいでしょう。それも大事です。
せやけど、そない油断した時こそが逆に大事なんでしょうね。
いやいや、リラックスすんなっちゅうてんとちゃいまっせ。
気ぃ抜きつつも気ぃ張るなんて、そんな器用なこと出来る人は少ないでしょう。
こんな話しを聞いたことがあります。
ヤクザの大幹部の護衛を仕る舎弟たちは、どんなに呑んでいても、
決して酔わないそうです。本人曰くね。
でも実際は、浴びるほど呑んどるんで、単にセーブしとるんとはちゃうんです。
呑み控えとるんやなしに、ホンマに呑んでて酔わへんのです。
身体の構造上、アルコールが廻らんなんて、そんなことは有り得まへんねやけど、
いつ如何なるときも、身体を張って親分さんを守らんとアカン立場のモンは、
そない日頃から訓練しとるらしいでっせ。
そやから、家で呑むとすぐ酔っ払うっちゅうてましたわ。
まー、これは極端な油断の戒め方ですが、
私たちも、何かを成し得たやり遂げたときなど、ついつい、
ハメを外したくはなりますが、そんなときでも"念彼観音力"とお唱えして
冷静な判断力を取り戻し、浮かれ過ぎんよう、浮き足立たんように、
私たちをお導き下さる。っちゅうんが、この理釈です。
そんなときにこそ人は、往々にして
"魔が差したり" "慢心して" 足元を見失うんでしょうね。
人は自分が精魂込めて、紆余曲折しながらひぃーひぃー云うて、
やっとこさの思いで、ようやく何とかかんとか死に物狂いで
目的地に辿り着いたときなんか特に、そんな心境に陥り易いもんでっしゃろね。
そこで慢心したばっかりに、これまで一生懸命に真面目に築いてきたもんを
毒煙に巻かれて全て失うことになったら、それこそアホらしいて死に切れまへん。
そやから、お唱えして平常心を取り戻したら宣しおまんねん。
南無觀世音菩薩、念彼観音力と。
本日もご訪問、希有なえにしに感謝致します。
洵に有難う御座いました。おおきに。
ほなさいなら。また明日。
感謝大合掌
法蓮百億拝
〜Topics とぴっくす〜
◆断食行 十日目でーす
・・・
。。。
なかなか死なんモンでんな〜人間。w
2009年07月14日
冠省
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。
初めてお遭いする方へ。
私は生涯、人生の歩き遍路・北斗法蓮。
そして生涯、悪態不良悪漢坊主を目指します。そんな元・外道だった私が
エッコラムなお話しをさせて戴く、それが本稿【心を洗う神仏とえにしの旅】。
それでは、第421稿の始まり始まりぃ〜。
観音経和訳も約一ヶ月、インターバルがありましたので、サラッと前巻までのお浚
いしましょうかね。
『或在須弥峯・・』から始まった、『推し墜とされる』・『墜落させられる』・
『刀を斬り付けられる』・『国王に処刑される』。以上、四つの災害『〜或遭王難
苦・・』までについてでしたね。
では、次は四つの災難について、ひょろっと読んで行きますかね。気楽に行きまし
ょう気楽に。それでアタマに入りゃあ〜心に響きゃあ〜儲けモンじゃない?
ここんトコ、南国鳥さんとMg高橋さんが、まるでチャットのようにコミュしてま
すが(笑。しかも、記事の内容を全く無視してのやりとりが尚、マジ受けるんです
が(笑。いやいや、いいんですよ。いいんですって。どうぞ親睦を深めて下さい。
元より私の目指す私寺は、和気藹々としたそんな場でありたいし、誰もが平等に学
べるサンガでありたいと願ってますので。
ちょうど、南国鳥さんの話しが出たのでついでではありますが、観る人によっては
一見、南国鳥さんは、あんま本文と関係ないようなコメントしてくるようだと仰せ
られる方がいらっしゃいますが、そうではないのですよ。
先も申し上げたように、観音経の和訳であろうとナンであろうと、このブログを読
んでいて気付いたことは、それがその人にとっての『悟り』なのです。
「あ・・こんなことがあったな。」と、発言してみようとする。本当に大事なのは
ソ・コ・です。何でもいいから思ったことを公にしてみる。これこそ、一行なので
すよ。私もこないだ、『SEX and The City』を観ながら、全くドラマ内容と違う事
を悟りました。『SEX and The City』ですよ。分かりますかね。
要はワープしようがナンだって、気付きはどこからでもやってくるのです。それを
自分で瞬間にキャプチャー出来るか否か。その用意が常に臨戦態勢に出来ているか。
そしてそれを知らしめる、行動を起こせるか否かなのです。それによってまた、人
が応える。感じるものがある。与え与えれる喜びを知る。
特に聖天信仰者の方々へ。
私、しょうちゅう云ってような気がしますが、また云いますけど。シツコイんで私。
聖天さまは、『秘めて述べずばこの尊の、貴き教えに背くなり。』と、和讃に唄われ
ておりますように、諸神諸仏の捨て賜う愚願をも、拾い上げて救いたい。と云うのが、
本来聖天さまの御誓願であられるにも、それを知らず知ろうとせず、他へ逃げてゆく
人まで、流石の聖天さまも救いようがありません。
ですから、「俺、こんなことあったんだよね! 悩んでんだったら、一度お参りして
みれば?」と、縁をえにしを繋ぐことが、殊の他、御喜びになられるのです。自分に
とっての神さまに喜んで戴ける。これ以上の幸福、恩返しってありますか?
自利利他の本懐とは、人にあげた福が更に大きくなって、再び我が元へ戻ってくるこ
とを期待するのではありません。それじゃあ、利回り期待する信託じゃないですか?
そうではなく、人に尽くすことこそが、【我が喜びそのもの】だと悟ることです。
画像は、生駒聖天さまの先代ご住職、真言律宗管長・松本実道
著の『生駒聖天法話 縁』です。特に関東の方へ、参考までに。
私、ボクシングの後遺症で手が震えるんです。
ですからいつも、3分クッキングがボケてんですが、まーあれはいいとして、
これは一生懸命、息を止めて写したんですが、・・特に携帯の方、読めますかね?
和讃も関東と違いますからね。和讃は前にアップしたでしょ。
読みましたか? 鑑みましたか?
お経だって、わざわざ買い求めなくても、それを印刷して折って使えばいいじゃな
いですか。Mgさんも、先日差し上げた弥陀讃を、丁寧に折り曲げて経本にしてま
したよ、しかもFAXで送ったんですよ。それをちゃんとコピーして切って貼って。
エライですよね。あの人は何でもスゴク大切にされる方です。
だから、もっともっとあげたくなるのが人の道理ってモンでしょう。
兎に角、三角、丸四角。コソコソと、私に下らないことをチクるようなメールをしな
くても、そんなモンこっちも読んだら分かるっつんですよ。
そんな人より余程、南国鳥さんの方が早く深く悟れるでありましょうし、無論、聖天
さまからの御利益も、きっと早々に下り来るのは云うまでもありません。
ですからお二人にはいつも感謝しておるのです。有難う御座います。
さぁってと、では今回も行ってみましょうか。
【四つの災難】
◆或囚禁枷鎖 手足被忸械 念彼観音力 釈然得解脱
(わくじゅうきんかーさー しゅーそくびーちゅうかい
ねんぴーかんのんりき しゃくねんとくげーだつ)
『或いは囚われの身となりて、枷(かせ)や鎖で手足の自由を奪われたとしても、
彼の観音力さえ念じれば、釈然とアッサリと解き放たれるであろう。』
*ご注意
自分は検挙されるような悪い事は何もしないと、人事と思うなかれ。
これは何も、本当に囚人となった時だけを例えているのではなく、自縄自縛(じじょ
うじばく)と云う言葉があるように、人はいつの間にか見えない鎖や枷で、自らを縛
りまくっているのです。
妻子、恋人、会社、友人、親・・。 誰かのせいにして生きるのは、楽なように思え
て、その実(じつ)、あなた自身を拘束しているものでもあります。
『露と落ち 露と消えにし 吾が身かな 浪花の夢もまた夢の夢・・』
『露と散り 雫と消ゆる世の中に 何と残れる 心なるらん・・・・。』
天下を治めた秀吉の後年苦悩も、この心の呪縛にありました。
ようやく手に入れた天下、絢爛豪華極める栄華。失いたくない、失いたくない。
寵愛溺れし茶々までも疑い、幼き我子・秀頼の可愛さ余り、戦国時代の最中にに無意
味とも云えよう、誓約書を大名達に書かせます。
ここに酔生夢死にしか生きられなかった秀吉の、云わば成り上がり者の最大の弱点が
急激に現出してゆきます。
成り上がりと云えば、永ちゃんですね。然し彼は、極めて珍しい成功者なのです。
なぜ、ハングリー精神だけでは、頂点を極められないのか?。それはまたいつかの稿
でお話ししましょう。
上司、部下、社長、取引先、顧客、政治家、行政、夫・妻、子供、はたまた前を走る
車、けつまずいた石、隣ん家、人やモノのせいにして生きる。 自分は悪くない、ア
イツのコイツのせいだ。 そうして人を批判して生きてる内は、真の幸福があなたの
ドアをノックしてくれることはありません。
人は一人では生きてゆけない。一人では大きな事は興せない。
それは本当ではありますが、感謝の念を忘れるなと云う戒めであり、誰かが居ないと
何も出来ない、応援してくれない、認めてくれない、励ましてくれない、自信持たせ
てくれない、理解賛同してくれない。・・うぇ〜〜ん。
どれもこれも、ぜ〜〜〜〜んぶ甘えに他なりません。一切関係ありません。あなた一
体、お幾つですか?齢を重ねてきた間、一体何を学んで生きてきたのですか。
そんな弱っちぃ人間には、是非ともなりたくないものです。特に男ならね。
貪欲に駆られれば、一瞬にして心の手足が鎖に縛られます。栄光栄華と無間地獄を往
復した小室哲哉然り、現実に見えもしない心の枷などに、真の心の自由を奪わぬよう
にありたいものです。縋るのは神仏のみ。これが正解です。
◆呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
(しゅーそーしょーどくやく しょーよくがいしんしゃ
ねんぴーかんのんりき げんじゃくおーほんにん)
『呪いやまじない、諸々の毒薬で誰かに命を奪われそうになっても、
彼の観音力さえ念じれば、その呪いは施したる本人へと還ってゆくであろう。』
もうすぐドラえもんが現れるような、科学至上主義の時代であっても、これだけの情
報が四六時中、空を飛び交っていようとも、中身の分からないサプリに群がったり、
振込め詐欺など、まだまだ悪行が横行しています。
これらも皆、単純な人の心の隙に付け入る、云わば『呪い(まじない)』なのです。
被害者となってからグズグズ云う前に、ひとつ、究極の対処法を教えて進ぜましょう
か。それが、『念彼観音力』なのです。
天地宇宙の絶対真理に触れ、完全に自己確立に至れば、酒・女・カネ・名誉・権利な
ど、すべての欲に絡みつく、『呪い』など一切通用しなくなると云うことです。
人の根源的な欲望である、本能的な色欲と非本能的な名利欲。これらもタガが外れれ
ば、一瞬にして自らを呑み込もうと、虎視眈々と狙いを定めておりますが、これも全
て己の心の中に巣食う、云わば自分の中のもうひとつの姿。
事あるごとに鏡を挟んで、向き合う実体と虚像のように、それも自分。これも自分。
そんな自分を認めたのなら、あとは観音さまにお縋りし、お任せすれば良いのです。
そうです。一心にね。
ひとつ、付加えるならば、その『呪い』が自ら起こしたものであれば、それすらも本
人≒本来の場所(あるべき姿) へ還ってゆく。と云うことでありますから、即ち、
疚しかった貧しかったそれが、自分の心からも去ってゆく消え去る。観音さまの御慈
悲に依って浄化された心が、本人へ還ると云うことです。
◆或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
(わくぐーあくらーせつ どくりゅうしょーきーとう
ねんぴーかんのりき じーしつふーかんがい)
『或いは、悪羅刹に例える人の煩悩たる幻から、毒竜や食人鬼にも似た自らの身体を
蝕む病や害のすべてをも、彼の観音力さえ念じれば敢えて臆することもなかろう。』
理釈なくとも、大体分かるように訳しましたが敢えて書けば、これも外敵だけの例え
ではなく、貪り喰い尽くす心、瞋(いかり)や愚痴(おそかさ)。そんな煩悩も我が
心にあり。されど、煩悩こそが菩提心の源であり、根幹であり、大欲大安樂への架け
橋なのです。
誰の心にも棲み付く悪羅刹な魔物たち。どうか、あなたは食い物にされぬよう、虚栄
心や無恥の心を捨てることも一行でありますが、それよりもまず、観音さまのお傍に
さえいれば救われるのです。そう。いつでも、どこでも、不安な心に打ち勝ちたいの
であれば、念彼観音力。
即ち、『南無觀世音』『おん あろりきゃ そわか』なんでも結構です。
聖天信仰者の私たちならば、迷わず『おん きり ぎゃく うん そわか』で、ドン
決まりですね。心ひとつに唱えましょう。
これ以上、簡単なことってありますか?ええんかい?って感じですが、ええねん、そ
んで。いいのですよ、それで。
それが天地宇宙と繋がるメッセージ・ご真言であり、念ずると云うことです。
最後の『悪獣』についても同じです。ある意味クドイのです、お経って。
ナンで? 私たちがアホやからに決まってますやん(笑。
◆若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
(にゃくあくじゅういーにょう りーげーそーかーふー
ねんぴーかんのんりき じっそうむーへんぼう)
『若し、悪げな獣たちに囲まれて、鋭い爪をかざし怖ろしい目に会っても、
彼の観音力さえ念じれば、とたんに遠い彼方へと走り去ってゆくであろう。』
こんな悪獣と云う名の、心に巣食う魔物の餌食にならないように、いつも観音さまや
仏さまのお側に居ることが、一番の安心(あんじん)なのです。
私利私欲、それに気付いたら、どうかアナタだけでなく、家族は勿論、隣にいる人も、
知ってる人も知らない人も、手に手を取り合って呼んであげて下さいよ。
そっちじゃないよ!こっちだよ!と。 その合い言葉が、『念彼観音力』なのです。
以上、今稿では枷鎖難、呪詛毒薬難、羅刹難そして獣難
四つの災難をお話しさせて頂きました。
今回も大変勉強させて頂きました。皆様へ感謝致します、有難う御座いました。
本日もご訪問・ご愛読、心より厚く御礼(おんれい)申し上げます。
有難う御座いました。 蒼々
我が願い尽き果てようとも、他益願うは尽きることなからん。
我ら一同等しく、この願い思い祈りが、一人でも多くの方に回向しますように。
願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道
厭離穢土欣求密厳浄土
感謝合掌
法蓮 百拝
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。
初めてお遭いする方へ。
私は生涯、人生の歩き遍路・北斗法蓮。
そして生涯、悪態不良悪漢坊主を目指します。そんな元・外道だった私が
エッコラムなお話しをさせて戴く、それが本稿【心を洗う神仏とえにしの旅】。
それでは、第421稿の始まり始まりぃ〜。
観音経和訳も約一ヶ月、インターバルがありましたので、サラッと前巻までのお浚
いしましょうかね。
『或在須弥峯・・』から始まった、『推し墜とされる』・『墜落させられる』・
『刀を斬り付けられる』・『国王に処刑される』。以上、四つの災害『〜或遭王難
苦・・』までについてでしたね。
では、次は四つの災難について、ひょろっと読んで行きますかね。気楽に行きまし
ょう気楽に。それでアタマに入りゃあ〜心に響きゃあ〜儲けモンじゃない?
ここんトコ、南国鳥さんとMg高橋さんが、まるでチャットのようにコミュしてま
すが(笑。しかも、記事の内容を全く無視してのやりとりが尚、マジ受けるんです
が(笑。いやいや、いいんですよ。いいんですって。どうぞ親睦を深めて下さい。
元より私の目指す私寺は、和気藹々としたそんな場でありたいし、誰もが平等に学
べるサンガでありたいと願ってますので。
ちょうど、南国鳥さんの話しが出たのでついでではありますが、観る人によっては
一見、南国鳥さんは、あんま本文と関係ないようなコメントしてくるようだと仰せ
られる方がいらっしゃいますが、そうではないのですよ。
先も申し上げたように、観音経の和訳であろうとナンであろうと、このブログを読
んでいて気付いたことは、それがその人にとっての『悟り』なのです。
「あ・・こんなことがあったな。」と、発言してみようとする。本当に大事なのは
ソ・コ・です。何でもいいから思ったことを公にしてみる。これこそ、一行なので
すよ。私もこないだ、『SEX and The City』を観ながら、全くドラマ内容と違う事
を悟りました。『SEX and The City』ですよ。分かりますかね。
要はワープしようがナンだって、気付きはどこからでもやってくるのです。それを
自分で瞬間にキャプチャー出来るか否か。その用意が常に臨戦態勢に出来ているか。
そしてそれを知らしめる、行動を起こせるか否かなのです。それによってまた、人
が応える。感じるものがある。与え与えれる喜びを知る。
特に聖天信仰者の方々へ。
私、しょうちゅう云ってような気がしますが、また云いますけど。シツコイんで私。
聖天さまは、『秘めて述べずばこの尊の、貴き教えに背くなり。』と、和讃に唄われ
ておりますように、諸神諸仏の捨て賜う愚願をも、拾い上げて救いたい。と云うのが、
本来聖天さまの御誓願であられるにも、それを知らず知ろうとせず、他へ逃げてゆく
人まで、流石の聖天さまも救いようがありません。
ですから、「俺、こんなことあったんだよね! 悩んでんだったら、一度お参りして
みれば?」と、縁をえにしを繋ぐことが、殊の他、御喜びになられるのです。自分に
とっての神さまに喜んで戴ける。これ以上の幸福、恩返しってありますか?
自利利他の本懐とは、人にあげた福が更に大きくなって、再び我が元へ戻ってくるこ
とを期待するのではありません。それじゃあ、利回り期待する信託じゃないですか?
そうではなく、人に尽くすことこそが、【我が喜びそのもの】だと悟ることです。
画像は、生駒聖天さまの先代ご住職、真言律宗管長・松本実道著の『生駒聖天法話 縁』です。特に関東の方へ、参考までに。
私、ボクシングの後遺症で手が震えるんです。
ですからいつも、3分クッキングがボケてんですが、まーあれはいいとして、
これは一生懸命、息を止めて写したんですが、・・特に携帯の方、読めますかね?
和讃も関東と違いますからね。和讃は前にアップしたでしょ。
読みましたか? 鑑みましたか?
お経だって、わざわざ買い求めなくても、それを印刷して折って使えばいいじゃな
いですか。Mgさんも、先日差し上げた弥陀讃を、丁寧に折り曲げて経本にしてま
したよ、しかもFAXで送ったんですよ。それをちゃんとコピーして切って貼って。
エライですよね。あの人は何でもスゴク大切にされる方です。
だから、もっともっとあげたくなるのが人の道理ってモンでしょう。
兎に角、三角、丸四角。コソコソと、私に下らないことをチクるようなメールをしな
くても、そんなモンこっちも読んだら分かるっつんですよ。
そんな人より余程、南国鳥さんの方が早く深く悟れるでありましょうし、無論、聖天
さまからの御利益も、きっと早々に下り来るのは云うまでもありません。
ですからお二人にはいつも感謝しておるのです。有難う御座います。
さぁってと、では今回も行ってみましょうか。
【四つの災難】
◆或囚禁枷鎖 手足被忸械 念彼観音力 釈然得解脱
(わくじゅうきんかーさー しゅーそくびーちゅうかい
ねんぴーかんのんりき しゃくねんとくげーだつ)
『或いは囚われの身となりて、枷(かせ)や鎖で手足の自由を奪われたとしても、
彼の観音力さえ念じれば、釈然とアッサリと解き放たれるであろう。』
*ご注意
自分は検挙されるような悪い事は何もしないと、人事と思うなかれ。
これは何も、本当に囚人となった時だけを例えているのではなく、自縄自縛(じじょ
うじばく)と云う言葉があるように、人はいつの間にか見えない鎖や枷で、自らを縛
りまくっているのです。
妻子、恋人、会社、友人、親・・。 誰かのせいにして生きるのは、楽なように思え
て、その実(じつ)、あなた自身を拘束しているものでもあります。
『露と落ち 露と消えにし 吾が身かな 浪花の夢もまた夢の夢・・』
『露と散り 雫と消ゆる世の中に 何と残れる 心なるらん・・・・。』
天下を治めた秀吉の後年苦悩も、この心の呪縛にありました。
ようやく手に入れた天下、絢爛豪華極める栄華。失いたくない、失いたくない。
寵愛溺れし茶々までも疑い、幼き我子・秀頼の可愛さ余り、戦国時代の最中にに無意
味とも云えよう、誓約書を大名達に書かせます。
ここに酔生夢死にしか生きられなかった秀吉の、云わば成り上がり者の最大の弱点が
急激に現出してゆきます。
成り上がりと云えば、永ちゃんですね。然し彼は、極めて珍しい成功者なのです。
なぜ、ハングリー精神だけでは、頂点を極められないのか?。それはまたいつかの稿
でお話ししましょう。
上司、部下、社長、取引先、顧客、政治家、行政、夫・妻、子供、はたまた前を走る
車、けつまずいた石、隣ん家、人やモノのせいにして生きる。 自分は悪くない、ア
イツのコイツのせいだ。 そうして人を批判して生きてる内は、真の幸福があなたの
ドアをノックしてくれることはありません。
人は一人では生きてゆけない。一人では大きな事は興せない。
それは本当ではありますが、感謝の念を忘れるなと云う戒めであり、誰かが居ないと
何も出来ない、応援してくれない、認めてくれない、励ましてくれない、自信持たせ
てくれない、理解賛同してくれない。・・うぇ〜〜ん。
どれもこれも、ぜ〜〜〜〜んぶ甘えに他なりません。一切関係ありません。あなた一
体、お幾つですか?齢を重ねてきた間、一体何を学んで生きてきたのですか。
そんな弱っちぃ人間には、是非ともなりたくないものです。特に男ならね。
貪欲に駆られれば、一瞬にして心の手足が鎖に縛られます。栄光栄華と無間地獄を往
復した小室哲哉然り、現実に見えもしない心の枷などに、真の心の自由を奪わぬよう
にありたいものです。縋るのは神仏のみ。これが正解です。
◆呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
(しゅーそーしょーどくやく しょーよくがいしんしゃ
ねんぴーかんのんりき げんじゃくおーほんにん)
『呪いやまじない、諸々の毒薬で誰かに命を奪われそうになっても、
彼の観音力さえ念じれば、その呪いは施したる本人へと還ってゆくであろう。』
もうすぐドラえもんが現れるような、科学至上主義の時代であっても、これだけの情
報が四六時中、空を飛び交っていようとも、中身の分からないサプリに群がったり、
振込め詐欺など、まだまだ悪行が横行しています。
これらも皆、単純な人の心の隙に付け入る、云わば『呪い(まじない)』なのです。
被害者となってからグズグズ云う前に、ひとつ、究極の対処法を教えて進ぜましょう
か。それが、『念彼観音力』なのです。
天地宇宙の絶対真理に触れ、完全に自己確立に至れば、酒・女・カネ・名誉・権利な
ど、すべての欲に絡みつく、『呪い』など一切通用しなくなると云うことです。
人の根源的な欲望である、本能的な色欲と非本能的な名利欲。これらもタガが外れれ
ば、一瞬にして自らを呑み込もうと、虎視眈々と狙いを定めておりますが、これも全
て己の心の中に巣食う、云わば自分の中のもうひとつの姿。
事あるごとに鏡を挟んで、向き合う実体と虚像のように、それも自分。これも自分。
そんな自分を認めたのなら、あとは観音さまにお縋りし、お任せすれば良いのです。
そうです。一心にね。
ひとつ、付加えるならば、その『呪い』が自ら起こしたものであれば、それすらも本
人≒本来の場所(あるべき姿) へ還ってゆく。と云うことでありますから、即ち、
疚しかった貧しかったそれが、自分の心からも去ってゆく消え去る。観音さまの御慈
悲に依って浄化された心が、本人へ還ると云うことです。
◆或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
(わくぐーあくらーせつ どくりゅうしょーきーとう
ねんぴーかんのりき じーしつふーかんがい)
『或いは、悪羅刹に例える人の煩悩たる幻から、毒竜や食人鬼にも似た自らの身体を
蝕む病や害のすべてをも、彼の観音力さえ念じれば敢えて臆することもなかろう。』
理釈なくとも、大体分かるように訳しましたが敢えて書けば、これも外敵だけの例え
ではなく、貪り喰い尽くす心、瞋(いかり)や愚痴(おそかさ)。そんな煩悩も我が
心にあり。されど、煩悩こそが菩提心の源であり、根幹であり、大欲大安樂への架け
橋なのです。
誰の心にも棲み付く悪羅刹な魔物たち。どうか、あなたは食い物にされぬよう、虚栄
心や無恥の心を捨てることも一行でありますが、それよりもまず、観音さまのお傍に
さえいれば救われるのです。そう。いつでも、どこでも、不安な心に打ち勝ちたいの
であれば、念彼観音力。
即ち、『南無觀世音』『おん あろりきゃ そわか』なんでも結構です。
聖天信仰者の私たちならば、迷わず『おん きり ぎゃく うん そわか』で、ドン
決まりですね。心ひとつに唱えましょう。
これ以上、簡単なことってありますか?ええんかい?って感じですが、ええねん、そ
んで。いいのですよ、それで。
それが天地宇宙と繋がるメッセージ・ご真言であり、念ずると云うことです。
最後の『悪獣』についても同じです。ある意味クドイのです、お経って。
ナンで? 私たちがアホやからに決まってますやん(笑。
◆若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
(にゃくあくじゅういーにょう りーげーそーかーふー
ねんぴーかんのんりき じっそうむーへんぼう)
『若し、悪げな獣たちに囲まれて、鋭い爪をかざし怖ろしい目に会っても、
彼の観音力さえ念じれば、とたんに遠い彼方へと走り去ってゆくであろう。』
こんな悪獣と云う名の、心に巣食う魔物の餌食にならないように、いつも観音さまや
仏さまのお側に居ることが、一番の安心(あんじん)なのです。
私利私欲、それに気付いたら、どうかアナタだけでなく、家族は勿論、隣にいる人も、
知ってる人も知らない人も、手に手を取り合って呼んであげて下さいよ。
そっちじゃないよ!こっちだよ!と。 その合い言葉が、『念彼観音力』なのです。
以上、今稿では枷鎖難、呪詛毒薬難、羅刹難そして獣難
四つの災難をお話しさせて頂きました。
今回も大変勉強させて頂きました。皆様へ感謝致します、有難う御座いました。
本日もご訪問・ご愛読、心より厚く御礼(おんれい)申し上げます。
有難う御座いました。 蒼々
我が願い尽き果てようとも、他益願うは尽きることなからん。
我ら一同等しく、この願い思い祈りが、一人でも多くの方に回向しますように。
願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道
厭離穢土欣求密厳浄土
感謝合掌
法蓮 百拝
2009年06月11日
冠省
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。
観音経偈文和訳【功徳編】の続き第二話です。
今回の続編も前回のFirst Chapter、『妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五 長行(観音経・全文)/和訳(上・中・下)』 同様に、私が寂聴さん贔屓と云うことで、一部に瀬戸内寂聴:著の、 『愛と救いの観音経』 を、そして更に今回は、ひろさちや:著(原作)の 『奇跡のお経観音経』 も一緒に参照させてもらいました。然し、出来るだけ剽窃 に頼らず、自分の言葉、自分の考え、それにいつもの独特な香りの漂う、法蓮ハーブスパイスをたっぷりと練りこんで、綴りあげたいと思っております。
この本は全108巻あるコミックで、(漫画と呼ぶには、表紙も分厚く新刊本みたいですが。) 仏教を宗派問わず、宗教上の重要人物や密教は勿論、御釈迦さまのこと、色んなお経のこと、
『歓喜天・愛欲の神』 なんて、聖天さまの逸話が書かれたのもあります。
これら仏教に関する様々なことが、堅苦しくなく非常に分かりやすく、日常的なドラマとして描かれております。
仏教ってナンだろう? あの高僧はどんな人だったんだろう? このお経ってどんな意味があるんだろう? そんな疑問に、ビギナーの方からでも読みやすい内容になっています。待乳山聖天さまの休憩所にも置いてありますから、時間があるときにでも読んで見て下さい。参るたんびに読んでればその内、108巻読めるでしょう(笑。
ひろさちやさんは、あのユーキャンから 『ひろさちやの仏教入門・全12巻』 という、ビギナーに打ってつけのCDカセットなんてのも出されてますが、いつかご紹介した最近の著書、 『「無関心」のすすめ』 などに見られるような、ちょっと人によっちゃ極端すぎる言動は、このコミックでは見受けられません。この頃はきっと抑えてたんでしょうか(笑。
【念彼観音力】について少々。
前稿、観音経和訳:巻上にて既に二つご紹介致しましたが、観音経偈文(げもん)では、『念彼観音力』がこれからもしつこいぐらい延々と続きます。『念彼観音力』は、観音経偈文の中で連続12回、もうないかと思ったらまた最後の方に1回、トータル13回出てきますので本稿ではあと、11回和訳としてご説明することになります。
この『念彼観音力』は、曹洞宗の最後の禅僧と言われ、座禅一筋の生涯を貫き、一生涯、寺を持つことなく「宿無し興道」とも俗称された、澤木興道(明治13〜昭和40)師によれば、次の3通りに理釈できるとされています。
1、念ずる彼の観音力
2、彼の観音力を念ずれば
3、彼の観音力を念ずる心
これらはいずれをどう受け止めても、観音さまと自分自身の境目がなくなるのだ。と云い回されております。一心に観音さまを信じて念ずるうちに、必然的に観音さまと一体となり、自分が観音さまであるような安心感に浸れると云われます。即ち、入我我入ですね。
入我我入は、今まで最も反響のあった稿でありました。
その後、実践を続けておられる方からも、時折便りを頂戴します。そんな中で、少々気付いたコツを追記しておきますと、観音さまを始め聖天さま然り、全ての神仏への崇拝の念は、勿論忘れても怠ってもならないのですが、距離を置きすぎると入我我入には中々至りません。喧嘩でいうなれば、変な妙な間合いと申しますか・・。
ここだけは特に、気を付けて下さいね。自分を家族を労わるように、いやそれ以上に、慈しむように神仏と接すること、心から随身しきること。四六時中、いつ如何なる時もお慕い申し上げること。これが距離を近づけるコツです。
密教で云えば、すべてが大日如来へと繋がっていくわけで、大日如来は全知宇宙そのものであるわけで、そうなってくると自分自身も宇宙生命体の中のひとつなんだ!と直感的に感じられれば大成功です。
だって、自分がそんなどっからどこまであるのか未だに分からない大宇宙の一個一部分なのですよ。科学ではまだお隣の火星にすら降り立てないのですよ。地球から丸見えの月にすら、たった一度だけ。アポロ計画以後、月面を歩けてないんですよ。人間の科学なんてそんなもんです。屁ぇーみたいなモンです。
科学に頼るから、医者はさじを投げるのです。余命何年何ヶ月だと宣言する根拠は臨床データなのです。アシュリーは我々に、宣告された、蓄積されたデータ以上に生きて見せてくれたではないですか?
それらを超越した天地宇宙と一体となれれば、何に脅える必要があるのでしょうか。そんなことも含めて今回はお話しして行きたいと思います。
ちょっと余談ですが、憧れですね〜「宿無し興道」、宿無しっての。「オイラは宿無し〜by ツイスト 古っ!」違うか(笑。 ってか、元々オイラは風来坊な性分。ひと処にジッとしてるのが嫌いだから、あちこち家を持ちたがる(あちこち女を作る。もとい、作ってきた:過去形)そんな不純な動機じゃないけれど、一遍上人、市上人(空也)、高野聖・・、オイラもそんな風に遊行しながら、生涯行脚し続けたいのであります。
戻します。
そもそも、私たち人々の苦しみや悩みとは、元々どこから発生しているのでしょう。
近頃、身体の老化を早めるのは、食品添加物や便利になり過ぎた現代生活が、体内の活性酸素を助長させるせいだと分かりましたね。だから、皆さん一生懸命にポリフェノールとかラクトフェリンとか摂取して、アンチエイジングに励むわけですよね。
あそーそー、今日たまたま用があって行った、輸入雑貨とガーデニングをしている店で、偶然に絞りたてのオリーブオイルのテイスティングをやっておりまして、美味しかったのもあるんですが、ポリフェノールは活性酸素を抑制する効果があるので、いいオリーブオイルには沢山含まれていて、花粉に当然効果があるそうですよ。
ホント、毎日ヒドイ花粉と激闘しながら、鼻垂らしぃーのクシャミしぃーの勤行続ける法蓮ですが、赤ワイン呑んでオリーブオイル舐めて頑張ります。ホンット、うっとぉしいんですよでも。まるで鼻折って、鼻ん中にタンポンギプスを入れてるときのように、延々延々鼻水が出っぱなしです。マジでウザイです。毎日本当は機嫌が悪いです、昔だったら歩いてるヤツ片っ端からぶん殴ってます。これも精進、修行だと我慢してるだけです。
もいっぺん戻します。
同じように、悩みや苦しみの素が分かれば、最初っから自分に取り込まなかったらいいんですよね? 或いは、既に悩んでしまっていたら、除去する方法が分かればいいと思いませんか? 是非知りたいって人いらっしゃいませんか? ナンならお教えしますよ。しかも、一切無料で。
先日、先行公開された『ターミネーター4』。
もう結構、長く支持されてるシリーズですね。確か、2の試写会は大阪に居たころ観ましたから。まぁハリウッドもネタ切れって話しも聞きますが。シュワちゃん知事になっちゃって出演しませんしね。
その予告を観て思ったんですが、ターミネーターは金属製の殺人ロボットですね。知らない方のために、ヤツは一度プログラムされたら、徹底的にターゲットの命を奪うまで執拗に追跡してくる。マシンガンで打ちまくろうが、ロケットランチャで吹っ飛ばそうが、全く歯が立たず追撃の手を緩めない。泣いて懇願したって感情すらない。無論、取引にも応じない。人間なら倍の金積んで形勢逆転も可能ですが。ただ、冷徹に「殺せ」という指令に従うのみです。
でも皆さん、ちょっと考えたら、そもそもそんな強靭なロボットが必要なんか?って思いませんか? たかが、人間一人殺すのに。ゴッドファーザーPart2で、アル・パシーノ扮する巨大マフィアのドン、マイケル・コルレオーネがこう云いました。「この世で唯一、確かなことは人は殺せるということだ。」と。自分はこの映画が大好きで何度も観ておりますが、特にこの台詞が非常に印象的で、いつまでも忘れられずにおります。
何が云いたいのかと申しますと、人の命なんて本当に些々たる呆気ないものだと云う事を感じたのです。ターミネーターのようなマシーンや車なら、壊れない限り動きます。燃料が切れたら止るだけで、また補給すれば走り出しますが、人は食わないと確実に死にます。ただ、食事を与えない。たったそれだけで、簡単に死に至らしめることができます。
命ある者は放っておいても、老いても飢えても必ず死ぬのです。虫でも動物でもバクテリアでも同じです。そしてその命は、いとも容易く瞬間的にだって奪えるものなのです。政府要人であろうが、ヤクザの大幹部であろうが、玉砕覚悟で死も厭わなければ奪えない命などありません。
今は仏道に生きるこの身で、命の尊さを軽んじてるワケでは御座居ません。家の中に迷い込んだ、蚊も蝿も蟻も古本に挟まってる変な虫も、今は一切殺しません。やめろっつってんのに、「だってヤなんだもん。」と、家内はバンバン皆殺しにしますが(笑。
そしてまた、どんな人の命にも重い軽いはないのです。
社会に大きく貢献した人も、歴史上の偉人も、連続殺人を犯した凶悪犯も、命の尊さは本来同じなはずです。どっちかは死んでも当然、とは本当に満場一致なのでしょうか。
それを人が人を裁き、正義や道徳の名の元に制裁を科しているのが、極刑や戦争ではないでしょうか。戦争で人を大量に殺せば戦勝国にとっては英雄ですが、敗戦国にとっては無慈悲で残忍な悪魔にしか見えません。強盗で人を刺せば遺族には許し難き殺人者です。貧困な国へ行けば、3千ドルでも持たせれば喜んで人を殺します。人を殺してレジや財布から、わずか3百ドルを奪う人もいます。
随分、遠回しになってしまいましたが。
もうお分かりのように、私たちの悩みや苦しみは、私たち自身の心が作り出した、云わば幻影だとは思えませんか?。自らの心の執着や確執から生まれた我執(がしゅう)から派生しているのです。第六識、即ち『意識(心の主たるもの)』と相応する、悪見(あくけん)=誤った見解に固執する心の働きの一つであります。*そういや、『意識』も仏教語ですね。覚えるとオモシロイでしょ。えーー?ってのが沢山あります。
ですから、貴方は貴方以外に何者でもなく、そんな誰にも掛け替えようのない、尊い命を持ってこの世に生まれ、(これが私の思う、座右の銘:天上天下唯我独尊の意味。) そして死なずに、飢えずに、また殺されもせずに今をこうして生きている。世界の国々を見渡しても、極めて治安国家たるこの日本において、ウジウジ悩んだり、シクシク泣いたり、ゴチャゴチャ考え込んだり。そんなことしてる自体が馬鹿馬鹿しいと思いませんか?。
靴が履けずに、裸足で歩く脚からバイ菌が入って死んでいく子供たちをご存知ですか?。
私たちの子供が、学校で当たり前のように摂取しているワクチンがなくて、バタバタと倒れていく子供たち、その屍に群がり飛び交うコバエ。そんな光景を貴方は目の当たりにしたことがありますか?
貴方の悩みや苦しみは、彼の子供たちの未来ある命よりも深刻ですか?
貴方の晒された立場は、彼の子供たちの状況より不幸なんだよと、
貴方が会社や家族に対する不平不満も、決して贅沢な事は云ってないんだよと。
そう、その子たちの円らな瞳を探りながら、果たして本心として言い切れるでしょうか?
『莫妄想(まくもうぞう)』という、言葉があります。
元は唐の無業禅師の言葉で、和尚は誰が何を尋ねても、いつも「莫妄想!」とだけ答えたそうです。「莫妄想」とはどんな意味でしょうか。妄想は現代語でもありますから、分かりますね。あの誇大妄想の妄想です。莫は? (バク)って苗字の方もいますが、「莫(なか)れ」とも読みますね。即ち、(妄想する莫れ!)と答えられてたんですね。
鎌倉時代に禅宗に帰依していた北条 時宗が、日蓮を佐渡に配流した同じ年、1274年に来襲した強大なモンゴル軍の対処に困窮し、中国から亡命的に招いた無学祖元へ、戦勝の智慧を求めた折にも示した言葉です。
「どちらが勝つか負けるか、家臣に巧い戦いぶりを見せようとか、敗退しては困るとか、損か得か?等に囚われ、自己の集中心を失くすようではいけない。そういった相対的欲望に囚われることが自体が妄想である。」と。
実はこれこそが、観音経の真の功徳なのです。続きを読む
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。
観音経偈文和訳【功徳編】の続き第二話です。
今回の続編も前回のFirst Chapter、『妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五 長行(観音経・全文)/和訳(上・中・下)』 同様に、私が寂聴さん贔屓と云うことで、一部に瀬戸内寂聴:著の、 『愛と救いの観音経』 を、そして更に今回は、ひろさちや:著(原作)の 『奇跡のお経観音経』 も一緒に参照させてもらいました。然し、出来るだけ
この本は全108巻あるコミックで、(漫画と呼ぶには、表紙も分厚く新刊本みたいですが。) 仏教を宗派問わず、宗教上の重要人物や密教は勿論、御釈迦さまのこと、色んなお経のこと、
これら仏教に関する様々なことが、堅苦しくなく非常に分かりやすく、日常的なドラマとして描かれております。
仏教ってナンだろう? あの高僧はどんな人だったんだろう? このお経ってどんな意味があるんだろう? そんな疑問に、ビギナーの方からでも読みやすい内容になっています。待乳山聖天さまの休憩所にも置いてありますから、時間があるときにでも読んで見て下さい。参るたんびに読んでればその内、108巻読めるでしょう(笑。
ひろさちやさんは、あのユーキャンから 『ひろさちやの仏教入門・全12巻』 という、ビギナーに打ってつけのCDカセットなんてのも出されてますが、いつかご紹介した最近の著書、 『「無関心」のすすめ』 などに見られるような、ちょっと人によっちゃ極端すぎる言動は、このコミックでは見受けられません。この頃はきっと抑えてたんでしょうか(笑。
【念彼観音力】について少々。
前稿、観音経和訳:巻上にて既に二つご紹介致しましたが、観音経偈文(げもん)では、『念彼観音力』がこれからもしつこいぐらい延々と続きます。『念彼観音力』は、観音経偈文の中で連続12回、もうないかと思ったらまた最後の方に1回、トータル13回出てきますので本稿ではあと、11回和訳としてご説明することになります。
この『念彼観音力』は、曹洞宗の最後の禅僧と言われ、座禅一筋の生涯を貫き、一生涯、寺を持つことなく「宿無し興道」とも俗称された、澤木興道(明治13〜昭和40)師によれば、次の3通りに理釈できるとされています。
1、念ずる彼の観音力
2、彼の観音力を念ずれば
3、彼の観音力を念ずる心
これらはいずれをどう受け止めても、観音さまと自分自身の境目がなくなるのだ。と云い回されております。一心に観音さまを信じて念ずるうちに、必然的に観音さまと一体となり、自分が観音さまであるような安心感に浸れると云われます。即ち、入我我入ですね。
入我我入は、今まで最も反響のあった稿でありました。
その後、実践を続けておられる方からも、時折便りを頂戴します。そんな中で、少々気付いたコツを追記しておきますと、観音さまを始め聖天さま然り、全ての神仏への崇拝の念は、勿論忘れても怠ってもならないのですが、距離を置きすぎると入我我入には中々至りません。喧嘩でいうなれば、変な妙な間合いと申しますか・・。
ここだけは特に、気を付けて下さいね。自分を家族を労わるように、いやそれ以上に、慈しむように神仏と接すること、心から随身しきること。四六時中、いつ如何なる時もお慕い申し上げること。これが距離を近づけるコツです。
密教で云えば、すべてが大日如来へと繋がっていくわけで、大日如来は全知宇宙そのものであるわけで、そうなってくると自分自身も宇宙生命体の中のひとつなんだ!と直感的に感じられれば大成功です。
だって、自分がそんなどっからどこまであるのか未だに分からない大宇宙の一個一部分なのですよ。科学ではまだお隣の火星にすら降り立てないのですよ。地球から丸見えの月にすら、たった一度だけ。アポロ計画以後、月面を歩けてないんですよ。人間の科学なんてそんなもんです。屁ぇーみたいなモンです。
科学に頼るから、医者はさじを投げるのです。余命何年何ヶ月だと宣言する根拠は臨床データなのです。アシュリーは我々に、宣告された、蓄積されたデータ以上に生きて見せてくれたではないですか?
それらを超越した天地宇宙と一体となれれば、何に脅える必要があるのでしょうか。そんなことも含めて今回はお話しして行きたいと思います。
ちょっと余談ですが、憧れですね〜「宿無し興道」、宿無しっての。「オイラは宿無し〜by ツイスト 古っ!」違うか(笑。 ってか、元々オイラは風来坊な性分。ひと処にジッとしてるのが嫌いだから、あちこち家を持ちたがる(あちこち女を作る。もとい、作ってきた:過去形)そんな不純な動機じゃないけれど、一遍上人、市上人(空也)、高野聖・・、オイラもそんな風に遊行しながら、生涯行脚し続けたいのであります。
戻します。
そもそも、私たち人々の苦しみや悩みとは、元々どこから発生しているのでしょう。
近頃、身体の老化を早めるのは、食品添加物や便利になり過ぎた現代生活が、体内の活性酸素を助長させるせいだと分かりましたね。だから、皆さん一生懸命にポリフェノールとかラクトフェリンとか摂取して、アンチエイジングに励むわけですよね。
あそーそー、今日たまたま用があって行った、輸入雑貨とガーデニングをしている店で、偶然に絞りたてのオリーブオイルのテイスティングをやっておりまして、美味しかったのもあるんですが、ポリフェノールは活性酸素を抑制する効果があるので、いいオリーブオイルには沢山含まれていて、花粉に当然効果があるそうですよ。
ホント、毎日ヒドイ花粉と激闘しながら、鼻垂らしぃーのクシャミしぃーの勤行続ける法蓮ですが、赤ワイン呑んでオリーブオイル舐めて頑張ります。ホンット、うっとぉしいんですよでも。まるで鼻折って、鼻ん中にタンポンギプスを入れてるときのように、延々延々鼻水が出っぱなしです。マジでウザイです。毎日本当は機嫌が悪いです、昔だったら歩いてるヤツ片っ端からぶん殴ってます。これも精進、修行だと我慢してるだけです。
もいっぺん戻します。
同じように、悩みや苦しみの素が分かれば、最初っから自分に取り込まなかったらいいんですよね? 或いは、既に悩んでしまっていたら、除去する方法が分かればいいと思いませんか? 是非知りたいって人いらっしゃいませんか? ナンならお教えしますよ。しかも、一切無料で。
先日、先行公開された『ターミネーター4』。
もう結構、長く支持されてるシリーズですね。確か、2の試写会は大阪に居たころ観ましたから。まぁハリウッドもネタ切れって話しも聞きますが。シュワちゃん知事になっちゃって出演しませんしね。
その予告を観て思ったんですが、ターミネーターは金属製の殺人ロボットですね。知らない方のために、ヤツは一度プログラムされたら、徹底的にターゲットの命を奪うまで執拗に追跡してくる。マシンガンで打ちまくろうが、ロケットランチャで吹っ飛ばそうが、全く歯が立たず追撃の手を緩めない。泣いて懇願したって感情すらない。無論、取引にも応じない。人間なら倍の金積んで形勢逆転も可能ですが。ただ、冷徹に「殺せ」という指令に従うのみです。
でも皆さん、ちょっと考えたら、そもそもそんな強靭なロボットが必要なんか?って思いませんか? たかが、人間一人殺すのに。ゴッドファーザーPart2で、アル・パシーノ扮する巨大マフィアのドン、マイケル・コルレオーネがこう云いました。「この世で唯一、確かなことは人は殺せるということだ。」と。自分はこの映画が大好きで何度も観ておりますが、特にこの台詞が非常に印象的で、いつまでも忘れられずにおります。
何が云いたいのかと申しますと、人の命なんて本当に些々たる呆気ないものだと云う事を感じたのです。ターミネーターのようなマシーンや車なら、壊れない限り動きます。燃料が切れたら止るだけで、また補給すれば走り出しますが、人は食わないと確実に死にます。ただ、食事を与えない。たったそれだけで、簡単に死に至らしめることができます。
命ある者は放っておいても、老いても飢えても必ず死ぬのです。虫でも動物でもバクテリアでも同じです。そしてその命は、いとも容易く瞬間的にだって奪えるものなのです。政府要人であろうが、ヤクザの大幹部であろうが、玉砕覚悟で死も厭わなければ奪えない命などありません。
今は仏道に生きるこの身で、命の尊さを軽んじてるワケでは御座居ません。家の中に迷い込んだ、蚊も蝿も蟻も古本に挟まってる変な虫も、今は一切殺しません。やめろっつってんのに、「だってヤなんだもん。」と、家内はバンバン皆殺しにしますが(笑。
そしてまた、どんな人の命にも重い軽いはないのです。
社会に大きく貢献した人も、歴史上の偉人も、連続殺人を犯した凶悪犯も、命の尊さは本来同じなはずです。どっちかは死んでも当然、とは本当に満場一致なのでしょうか。
それを人が人を裁き、正義や道徳の名の元に制裁を科しているのが、極刑や戦争ではないでしょうか。戦争で人を大量に殺せば戦勝国にとっては英雄ですが、敗戦国にとっては無慈悲で残忍な悪魔にしか見えません。強盗で人を刺せば遺族には許し難き殺人者です。貧困な国へ行けば、3千ドルでも持たせれば喜んで人を殺します。人を殺してレジや財布から、わずか3百ドルを奪う人もいます。
随分、遠回しになってしまいましたが。
もうお分かりのように、私たちの悩みや苦しみは、私たち自身の心が作り出した、云わば幻影だとは思えませんか?。自らの心の執着や確執から生まれた我執(がしゅう)から派生しているのです。第六識、即ち『意識(心の主たるもの)』と相応する、悪見(あくけん)=誤った見解に固執する心の働きの一つであります。*そういや、『意識』も仏教語ですね。覚えるとオモシロイでしょ。えーー?ってのが沢山あります。
ですから、貴方は貴方以外に何者でもなく、そんな誰にも掛け替えようのない、尊い命を持ってこの世に生まれ、(これが私の思う、座右の銘:天上天下唯我独尊の意味。) そして死なずに、飢えずに、また殺されもせずに今をこうして生きている。世界の国々を見渡しても、極めて治安国家たるこの日本において、ウジウジ悩んだり、シクシク泣いたり、ゴチャゴチャ考え込んだり。そんなことしてる自体が馬鹿馬鹿しいと思いませんか?。
靴が履けずに、裸足で歩く脚からバイ菌が入って死んでいく子供たちをご存知ですか?。
私たちの子供が、学校で当たり前のように摂取しているワクチンがなくて、バタバタと倒れていく子供たち、その屍に群がり飛び交うコバエ。そんな光景を貴方は目の当たりにしたことがありますか?
貴方の悩みや苦しみは、彼の子供たちの未来ある命よりも深刻ですか?
貴方の晒された立場は、彼の子供たちの状況より不幸なんだよと、
貴方が会社や家族に対する不平不満も、決して贅沢な事は云ってないんだよと。
そう、その子たちの円らな瞳を探りながら、果たして本心として言い切れるでしょうか?
『莫妄想(まくもうぞう)』という、言葉があります。
元は唐の無業禅師の言葉で、和尚は誰が何を尋ねても、いつも「莫妄想!」とだけ答えたそうです。「莫妄想」とはどんな意味でしょうか。妄想は現代語でもありますから、分かりますね。あの誇大妄想の妄想です。莫は? (バク)って苗字の方もいますが、「莫(なか)れ」とも読みますね。即ち、(妄想する莫れ!)と答えられてたんですね。
鎌倉時代に禅宗に帰依していた北条 時宗が、日蓮を佐渡に配流した同じ年、1274年に来襲した強大なモンゴル軍の対処に困窮し、中国から亡命的に招いた無学祖元へ、戦勝の智慧を求めた折にも示した言葉です。
「どちらが勝つか負けるか、家臣に巧い戦いぶりを見せようとか、敗退しては困るとか、損か得か?等に囚われ、自己の集中心を失くすようではいけない。そういった相対的欲望に囚われることが自体が妄想である。」と。
実はこれこそが、観音経の真の功徳なのです。続きを読む
2009年06月10日
冠省
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。
お待ちかねの皆さま、大変永らく待たせた致しました。申し訳御座居ません。
ようやく釈尊や無盡意菩薩にカーテンコールが聴こえたようです。拍手し過ぎで随分と手も痺れたでしょう。お疲れ様で御座居ます。アンコールとは到底、呼べぬほど引っ張りすぎですね(笑。
いよいよ観音経偈頌(げじゅ)=偈文(げもん)の和訳をご案内致しましょう。
皆さんが普段の勤行(おつとめ)で上げられるなら、前回ご紹介した長行(ちょうぎょうorごう):前文の長い経の部分。 は、省いて頂き、この偈文だけで充分で御座居ます。
私が今、毎日写経に励んでいるのもこの偈文部分を書いております。
これについても、この和訳が終わりましたら委細お伝えしたいと考えております。観音経偈文だけを単独で読誦されるなら、出来れば前に開経偈(かいきょうげ)、後ろに回向(えこう):天台で云う「法華成仏偈」を加えて戴くと更に宜しいかと。ではご一緒に進めて参りましょう。
【プロローグ】
前回の長行に対して、これからお話しする偈文は『詩』です。
大体同じような内容を、長行の理屈に対して詩で表現してあります。同じならもうイイんじゃねーの? と思われるかも知れませんが、当然ながら私たちは捏ねられた理屈よりも、直感的な詩の方が馴染みやすいですよね。CMで商品名を曲にするのもこの効果です。
「パンにはやっぱりネオソフト♪」って歌いながら、月曜の買出しん時にまんまと買っちゃいましたし(笑。そんな感じでスーパーで一人、例えロンリーな買い物中でもテンション高いままの法蓮ですが(日によっちゃあ踊ってるし(笑 あ、もし見つけて他人の振りしても無駄ですよ、追いかけて私から大声で声かけますから(爆 。)
兎に角、この観音経偈文もそういった意味合いで、韻文をさらに分かりやすく、親しみ易く説くためのものです。それ故に、多くの人に読まれるのでもありましょう。
まず、観音経偈文は通常、『世尊妙相具〜』から始まりますが、実は長行の最後の部分を付け足さないと、ちょっと変な感じがしないでもないのです。こーゆー事です。
世尊妙相具(せそんみょうそうぐ)と云うのは、世尊=釈尊なので、「釈尊さま、貴方は妙なる相(即ち、なんとも慈悲深いお顔)を、具えてらっしゃいますね。」と、いきなり始まるのです。
私たちはこれが、長行の続きですから(無盡意菩薩が話しかけている)と、事前に分かっておりますが、偈文しか知らない初めて目にした方には、誰が話してるのか? なんで話し出したのか? が、ピンと来ませんね。
ですから、前回シリーズ最後に「ここは偈文の予告ですよ。」とした、長行の最後の部分を思い出して頂くと、・・・
「爾時 無尽意菩薩。以偈問曰。」
(にーじー むーじんにーぼーさー。いーげーもんわつ。)
そのとき、無尽意菩薩が詩(偈頌:げじゅ)を以って質問した。
このようにありましたね。これで話しが繋がりました。
「無盡意菩薩が」「質問をした」その内容(偈頌)が、これから始まる偈文の冒頭部分です。その前に無盡意菩薩が、まぁ云わばお釈迦さまにヨイショしてるんですね。
良く学ぶ人は、良き師と巡り会えると同時に、教えられ上手、教えさせ上手でもありましょう。これは現代社会や仕事に従事する中においても大切な事であります。
どんな優れた上司も、やる気のない部下に手解きする程、面倒なことはありません。
なぜなら、人の上に立った事がある人なら分かりきった事ですが、人を指導する・育成すると云う事は、気の遠くなるほど根気のいる作業だからです。
例え更に上役の指図でも、そこは人と人。指導される側の元々の出来不出来にもよりますが、心が通わなければ面倒臭いに決まってます。
よく「ったく、教え方が悪ぃんだよ!」とか、「あんな教え方で分かるワケねーだろ!」って人がおりますが、仕事をいつまでも覚えられずに困るのは自分自身です。上司ではありません。
教える側は大抵、他の仕事と掛け持ちです。余程大きな会社で、研修システムに人員を配属できる余裕がなければ、教える側にとっては、『余分な』仕事に他なりません。自分の持ち時間を割いて、自分の仕事を後回しにしてでも指導しなければなりません。
教わる側の態度や覚えが悪ければ、イラつくのも当然です。
逆に一生懸命で、感謝の心を常に絶やさないような部下には、自分がサービス残業してでも教えてやろう、何とか伸ばしてやりたい!と云う、気持ちに駆られるのが人と云うものです。そこは流石に無盡意菩薩、多くの菩薩達を代表するだけあって、しかと抑えておりますね。
【観音経(偈文)和訳】
▼では改めて参りましょう。まずは、『問答編』から。
(せーそんみょうそうぐ がーこんじゅもんぴ ぶつしがーいんねん みょういーかんぜーおん)
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
「誠、ご慈悲溢れるお顔の釈尊さま。我は今、重ねて彼の(かの觀世音について、)質問をしとう御座います。」
「何ゆえの因縁にて(觀世音は)、佛の子たるものとして觀世音と名付けられたのでしょうか?」
*これって、前回の長行でも同じ質問をしていますね。ここでも繰り返します。
(ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに)
具足妙相尊 偈答無盡意
〜妙なる相を具えられた釈尊は、無盡意菩薩に対し、偈(詩)を以って、お答えになられた。〜
(にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょーほうしょ)
汝聴観音行 善応諸方所
「汝ら、観音の行を良く聴いてご覧なさい。」
「(万事自らの為に非ず、抜苦与楽なる悲願達成に特化されし、観音の行は、)善く諸々の方所(ほうしょ)に応ずるところにあり、」
「即ち觀世音は、苦しみ悩み悲しむ方々(ほうぼう)の人々のいる、この世の様々な場所へ、いちいち出向き、その都度に善処対応されておるからである。」
(ぐーぜいじんにょーかい りゃくこうふーしーぎー)
弘誓深如海 歴劫不思議
「(観音の願う)弘きその誓いは海の如く深く、何億劫年と果てしない時を歴(へ)だてても尽きることのない、不思議なものである。即ち、思議(しぎ)=人間の考えや思い⇒不)などは、遠く及びもしないほどである。」
(じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん)
侍多千億佛 発大清浄願
「(その観音が、)千億もの多くの佛たちに侍(つか)えて、大いなる清浄の願いを発したのだ。」
「清らかなる大願は即ち、《衆生無辺誓願度》であり、己を忘れて他人を救うがための行、それこそが忘己利他(もうこりた)である。従って、觀世音は一切の衆生を救済するまで、仏の座(如来)に安住することはないと云われる。」
(がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん)
我為汝略説 聞名及見身
「我は汝が為に概略を説法しようぞ。」
「(これが汝の問うた、因縁の始まりなる)観音の名を(音を)聞き、及び(観音の)その身体を見て(観て)、」
(しんねんふーくうか のうめつしょーうーく)
心念不空過 能滅諸有苦
「心に(観音を)念じ抱き、いたずらに空しく時を過ごさなければ、(自分が信じる因縁と、観音の誓願力が強く結びつき、)能く(よく)諸々に有ろう(人生における全ての)苦しみなど、ことごとく滅ぼしてくれよう。」
『功徳編』
1、(けーしーこうがいい すいらくだいかーきょう ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうち)
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
「仮に、人が有害な意を興し、炭坑のような大火の穴へ推して落とされても、彼の観音力を念じさえすれば、火の穴は変じて水が溢れん池と成るだろう。」
2、(わくひょうるこーかい りゅうごしょきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ)
或漂流巨海 龍魚諸難鬼 念彼観音力 波浪不能没
「或いは、巨大な海に漂い流され、龍魚(大蛇)や、餓鬼・夜叉・羅刹・赤や青の鬼たちの難に晒されても、彼の観音力を念じさえすれば、大荒れ波浪警報が発令されようとも、没することも能(あた)はず。(〜ことはない。)」
『功徳をどう受け止めるのか?』
*このたったの二つの功徳だけでも、現代人の常識的な知識やスキーマーでは、到底信じられない出来事でありましょう。
だってそうじゃないですか?、1の火難を例に挙げますと、今は見られなくなってピンと来ないかも知れませんが、炭坑とは石炭を掘るような深い坑道のこと。
そんな穴に誰かに突き落とされた上に、その中ではゴォーゴォーと火が吹いているですよ。1000%即死に決まってるじゃないですか?
いくらキックやってた私でも、反撃の間合いも取れないないでしょうね。今はメタボだし、黄金の左脚が上がらんし(笑。
勿論、頭に来てド発狂するでしょうが、「ワレ何さらすんじゃ!コラァァァァァ〜」とエコーしながら、空しく墜ちてくだけですね(笑。
次の水難にしても、既に漂流してそのままでも充分死ぬってな絶望感に駆られている時に、追い討ちをかけるように、鬼だの何だのウジャウジャ出てくるんですよ。
どうします? もう最悪もいいとこでしょ?
「あのぉ〜もう放っておいて結構ですから。間もなく死ぬと思いますんで。」って、云いたくなるでしょ?
こんな話し、以前の私なら到底信じられませんでした。
第一、皆目興味がないからお経すら学ぼうともしませんでしたしね。でも、少なくとも今、これを真剣に読まれてる(か、どーか分かりませんが(笑) そんな皆さんなら、「一体、何でそこまでの功徳が戴けるのだろう?」とか、「本当にそうならいいな。」「縋りたいな、信じてみたいな。」と思われる方も、きっといらっしゃる筈ですよね。
もうお分かりのように、前者のかつての私のような者には、例え観音経を読んだって功徳など戴けるワケはないのです。ここが運命の別れ目なのです。「本当なのか?」という時点で既に半分以上信じているのです。本当だったらと期待しているのです。
逆に日常の例えで云えば、「あの人、アタシの他に女がいるんじゃないかしら?」この時点で相当疑ってるワケです(笑。 といっても、自分以外に女がいる事を、当然決して期待しているワケではありません。大半の女性たちにとって、『浮気しない。』のが大原則で当たり前ですから、その彼女達の『当たり前』を破ったかも知れない、裏切りの疑惑を確かめる追求心は、男どもの想像を遥かに超越した凄まじいエネルギーを発揮します。
まさかあの、何かといやぁすぐ泣くような女が、そこまでしないだろうよ。とナメてかかると、とんでもないことになりのでご用心を(笑。
「もし、本当にいたらどうしてくれようか?」と既に目論んでもいます。その結果、例え真相が掴めなくとも、ひとたび疑惑の的となったら、それこそ何億劫年歴(へ)だとうとも、その記憶は削除されません。後ろめたさに駆られた貴方が、どこかへ連れてってあげた、美味しいモノをうんと食べさせてあげた、そんな事は遠慮なくボンボン忘れますが(笑。
ただ、尽未来際(じんみらいさい=永久)未解決事件、即ち疑惑ありのままです。ついでに時効という名の、生ぬるい特赦もヘッタクレも御座居ません。(爆。
話しを観音さまの功徳を信じようとする方に戻しますが、100%信じたいからこそ、さらに突き詰めようとするのです。その疑問を解こうとする行為、真意を確かめようとする過程、これが仏への道のり=仏道であり、即ち方便なのであります。
「ウソも方便」って日常語化してますが、『方便』とは仏教語なのです。
多くの仏教語がそうであるように、この『方便』も決して『ウソ』の中の一つではなく、長い日本文化の中で徐々に本来の意味が姿を変えて今に残っている言葉なのです。
これもまた今度、詳しくお話しする予定なので今回は割愛致しますが、兎に角、この『方便』に導かれていくと、果たしてどうなるでしょうか?
疑問の反対語は答えですね。そうです、答えがそこにあるのです。一人ひとりにあった、自分だけの答えが。それが『悟る』ということなのです。お経に書かれた功徳の多くは、この『方便』を通じて我々に『悟らせる』手段の一つなのです。
観音さまを信じようと決めた時から、一心に念じようとします。
だって、そう書かれてますから。その通りにすれば、しないとご利益は戴けないんだ。だったらやるしかないですよね、ここはただ素直に。信じてみようと。
一心とは前稿にも書きましたが、無我夢中のこと。恋は盲目と同じ。
親友がやめときなって言おうが、親が反対しようが、終いにゃぶっ飛ばされようが、「あの人だけは違うのよっ!」と思いたいですよね。「きっと愛してくれている≒救われる」そう信じたい、信じている。その気持ちです。
だから懸命になってるときほど、周囲からは冷ややかな色眼鏡で見られることもあるでしょう。
(どうせ、泣かされるのがオチだよ。)
(アンタのための思って云ってるんだよ!)とかって。
これは無神論者から見た、信徒たちも似たように見えます。私もそうでしたから。
しかし、一心にお経を読む、或いは真言を唱える。そう続けていると、例え刹那な一瞬でも、そこに主観も客観も存在しない無我の境地に至ることがあります。
これこそが一切皆空の世界、つまりは『涅槃』の世界なんだっ! かも知れないぞっ!と、分かること。即ち、認識できた≒自覚できた≒覚れた(悟れた)ということなのであります。
ぶっちゃけ、これが信仰の種明かしでもあります。
お経に残されている。ということは、お釈迦様自体がこの方便を利用して生涯、法を説いて来られた。ということなのです。しかし、マジックもそうでしょうが、驚きや賞賛に値した素晴らしいマジックも、種を知ってしまえば「ナンだ、そんなことか。」とつまらなくなってしまうものでありましょう。ねぇ?マジシャン高橋さん。
但し、種が分かっても昨日今日で真似出来るものでも御座居ません。
一応、そーゆーことだったんだ。という、程度でご理解して戴き、忘れても結構です。ただ、このように一心に毎日を神仏と、即ち己( が自身と向き合うことで、まるで本当に神仏からダイレクトに・・・
(はい、私自身はそう信じて疑っておりませんが、)下知されたかのように、真如の月の如くありのままの心模様が、自分の口を通して成すべきこと、興すべきこと、願うべきことなどがポンポン出て参ります。
しかも、全く無意識にです。
であるからして、思わず言葉にしたときは大抵、はたと驚きます。無意識ですから。それ以上に、自分が求めていた答えが得られたこと、考えが及ばなかったこと、それらがポンと見つかるのですから、神仏のご下知に違いないのです。
これが先ほどもお話しした、『不思議』=思議(人間の思考力など)に、(不可)及ばない、即ちここでいう観音力は『不可思議』だと云うことです。この気付き(下知)こそが、大きな功徳ではないかと思うのであります。
さて、まだ始まったばかりの感も御座居ますが、こちらの和訳も何度かに分けてお送りしたと思いますので、今回はこの辺にて切り上げさせていただきます。
本日もご訪問、誠に有難う御座いました。
感謝合掌
法蓮 百拝
〜編集後記〜
まずは芦屋の知己ことテルさん、そしてマジシャン高橋さん、このお二方に厚く御礼申し上げたい所存であります。
前稿『悪縁退散』のコメントにて、お二人からは非常に貴重且つ、ご自身の身辺に起きた大変大きな問題にも臆することなく、またこうしたWEB上において、デリケートなプライバシー部分にも迷うことなく発言して下さったこと。そんなお二人の温かなお心とお気遣い、さらに勇気を心底称え、深く感謝の意を表したいと思う次第で御座居ます。本当に有難う御座いました。
生まれつき全盲のピアニスト、『辻井伸行』さんが、今月7日にアメリカ・テキサス州フォートワースで開かれた、ピアニストの登竜門・「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で、並居る競合を抑え見事優勝(タイ)しましたね。少し彼の話しをさせて欲しいのです、今しばらくお付合い下されば有難く存じます。
本当に素晴らしいことです。
まだ若干二十歳の彼は、歓喜の優勝後に「両親をはじめ、サポートしてくれた皆さんに、この喜びの気持ちを伝えたい。」「オーディエンスにいらっしゃる方々のために懸命に弾きました。」と、少々照れるような口調で語った。まだまだ少年の面影が残るような、その表情とは裏腹に既に彼には威風堂々としたオーラを感じました。
彼が優勝したコンクールは概ね、4年に一度開かれる、云わばピアニストのオリンピック。米国の文化使節として活躍したピアニスト、バン・クライバーンの名を冠した名誉ある世界的国際コンクールです。
非常に難易度の高い、リストの曲を奏でた彼は、願い通りにオーディエンスを湧かせ「神業」と評価を得ました。何度も何度も「ブラボー」の歓声がわき起こりました。ネットでリアル応援していた父親の喜びもひとしおだったことでしょう。
石川遼クンにしてもそうですが、私の半分以下しかない歳の若い人たちが世界に羽ばたいていくのは本当に嬉しいですし、日本人もまだまだ捨てたモンじゃねーなって思いますね。
同時に自分ももっともっと精進しなければと、励みにもなります。我々大人たちが腐ってる場合じゃありませんね。「おんどれ、ナンボのもんじゃい!」とは、誰かさんの昔の口癖でしたが、本当に私たち大人が「ナンボの」人生を歩いてきたって、胸を張ってそう云えるのでしょうか。辻井伸行クンのように、オーディエンスに向かって堂々と云えますでしょうか。
彼は生まれつき目が見えません。
なのに彼は、「お客さんが感動してくれたのが一番嬉しい。障害者というより、一人のピアニストとして聴いてくれた手応えがあるので、それがとても嬉しいです。」とコメントしました。
まだ老眼は始まってませんが、(ってか私は多分、キックの後遺症もあって極度のど近眼ですので遅いかも知れませんが。)目が見える私がもし、あのリストの曲を彼と同じレベルで弾くには千年かかりそうです。
彼の父親は医師で、特に音楽家として恵まれた家庭環境という訳でもない。
ここが非常に興味深い部分ですが、彼がピアノに目覚めた端緒は2歳の頃、たまたま母親がハミングしたメロディーを、傍にあったピアノのおもちゃで遊んでいた彼が、正確無比に弾いたことに家族が驚き、ピアノを習わせることにしたことに始まるのです。
この、 『今日の風、なに色?』 著者であり彼の母親である、 『辻井いつ子さん』 は、自らのホームページでも冒頭に、「才能のない子なんて、いないのです。」と語っています。
全盲で生まれた我が子に、ただただ悲観せず、世界に名だたるピアニストに育て上げた、彼女の生き様もまた皆さんに深く感銘を与えるのはないでしょうか。
自分の子は才能なんてあるのかしら? ウチの子はどうしてダメなんだろう。 どうして、こんな障害を背負ってるんだろう。 そんな悩みを持つ、母なる方には是非ご覧になって頂きたいと思います。「わが子の才能をいかに引き出し、伸ばすか」について、あなたと一緒に考えたくてこのホームページを立ち上げました。と彼女は言ってくれています。彼女もまた、御姿を変えられた観音さまでありましょう。
私より5歳も歳上で、やけに美人だな・・と思ったら、元フリーアナウンサーでした。
このニュースを見ていた私は、「すごいなぁ・・この母親。やっぱり、男は家康でいうたら於大(おだい)みたいに、まずは母親で決まるんやな。」と、独り言を云うと、隣に居合わせた家内が、「こんな子供だったら、みんなこんな母親になれるのにね。」と云いました。
「アホか!オマエ、外で喋んなや。」と口止めしておきましたが、私がここで吐露してるのでバレバレですが(笑 仕方御座居ません。許しておくんなせぇ旦那さま。まだまだ家内も悟っておりませんもんで。しかし、そんな家内が居たからこそ、今の私の信仰があるのもまた事実で御座居ます。
私はそのとき、言外にこのように思ったのであります。
まず、たまたま遊びで弾いていた彼のおもちゃのピアノの旋律に、溢れん才能を見出したこと。信じてみようと思ったこと。これが一番。
次に本格的に習わせようにも、全盲の子供です。そこら辺の近所にあるピアノ教室じゃ教えてくれなかったかも知れません。探したでしょう。相談し祈願もしたでしょう。ご主人も協力と理解を求め、説得されたでしょう。相当苦労もあったと思います。
そして極め付けが是です。
せっかく待ちわびて生まれた我が子が全盲だったら、貴女ならどう受け止めますか? フツーは悲観的になってしまうでしょう。我が子に起きた悲劇は、自分ごとの悲劇。どうして、私には健全な子供が生まれなかったの? どうしてウチの子だけがこんな目に合わなきゃなんないの? と。悲劇のヒロインは貴女です。
考えて下さい。もし、彼の母親、辻井いつ子さんが、悲観と絶望に毎日明け暮れ、仕事から帰ってきた旦那にも文句ばっか云って、ギャンギャンギャンギャンとしょっちゅうヒス起こしていても、同じように彼はグングンと勝手に才能を伸ばして行ったと思いますか? そもそも、そんなイライラしてる人が、台所に立ちながら機嫌良くハミングしますか? やかましいからって、ピアノのおもちゃすら持たさないかもですね。
人は得てして、自分の不幸は人のせい、社会のせい、旦那のせい、子供のせいにしがちです。勿論、女性ばかりでありませんよ。男も妻のせい、上司のせい、会社のせい、終いにゃ国家のせいにだってするでしょう。
逆に自分の幸福は自分のせい、自分が頑張ってきたから、自分に才能があったから、自分がキレイだから、自分が賢いからと、人への感謝の気持ちを忘れがちです。今回の稿でお話しした、『気付き』についてもそうですね。自分で気付けたんだから、自分がかしこい。エライのは自分、アホなんはアンタら。ってね。ナンボのモンでもないっちゅうにね。自分がごとき。
そうではなく、見える見えない、感じた感じられないは一切関係なく、神仏が多くの人々に姿を変え、多くの人々の声を通して私たちを導いて下さっているのです。自分の不幸は、間違いなく自分のせいです。誰のせいでもありません。これが自業自得。
自分の幸福は人のせいです。ちょっぴり自分も頑張りました。そう褒めてやればいいのです。これが他業自得です。いいことがあったら、他業自得。悪いことは自業自得。
そう思ってれば反って楽ですよ。人のせいにするから頭に来るし、ぶっ殺してやろうと思うのです。歩道を歩いていて、青信号で車に引かれたなんて、ちょっとビミョーですが、でもボサっともしてたんでしょう。コンマ1%も引かれる可能性が、なくはないとこ歩いてんですから。我子が引かれたとしても、一生その運転手を怨み続けていては、間違いなく幸福にはなれないでしょう。
冒頭に辻井伸行クンが言った、「両親をはじめ、サポートしてくれた皆さんに、この喜びの気持ちを伝えたい。」この感謝の気持ち。彼ほどの才能を持ちながら、いえ、スポーツ選手でも、財界人でも、どんな業界でも才能のある人ほど、周囲への感謝の気持ちを絶やさないようにも思います。かつて私も、そこに気付いてからは事業も伸びました。
才能を伸ばしてゆくこと自体が、気付きと訓練の連続。如何ほどの才能も磨かなければ光りません。逆にいえば、こういった感謝の気持ちを持ち合わせて生きてゆくこと。それが神仏から与えられる、『気付き』の数や機会にも、きっと比例していくような気も致します。
さてさて皆さん、いかがでしょうか。
最後までお付合い下さり、有難う御座いました。
怱々
法蓮 百拝
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。
お待ちかねの皆さま、大変永らく待たせた致しました。申し訳御座居ません。
ようやく釈尊や無盡意菩薩にカーテンコールが聴こえたようです。拍手し過ぎで随分と手も痺れたでしょう。お疲れ様で御座居ます。アンコールとは到底、呼べぬほど引っ張りすぎですね(笑。
いよいよ観音経偈頌(げじゅ)=偈文(げもん)の和訳をご案内致しましょう。
皆さんが普段の勤行(おつとめ)で上げられるなら、前回ご紹介した長行(ちょうぎょうorごう):前文の長い経の部分。 は、省いて頂き、この偈文だけで充分で御座居ます。
私が今、毎日写経に励んでいるのもこの偈文部分を書いております。
これについても、この和訳が終わりましたら委細お伝えしたいと考えております。観音経偈文だけを単独で読誦されるなら、出来れば前に開経偈(かいきょうげ)、後ろに回向(えこう):天台で云う「法華成仏偈」を加えて戴くと更に宜しいかと。ではご一緒に進めて参りましょう。
【プロローグ】
前回の長行に対して、これからお話しする偈文は『詩』です。
大体同じような内容を、長行の理屈に対して詩で表現してあります。同じならもうイイんじゃねーの? と思われるかも知れませんが、当然ながら私たちは捏ねられた理屈よりも、直感的な詩の方が馴染みやすいですよね。CMで商品名を曲にするのもこの効果です。
「パンにはやっぱりネオソフト♪」って歌いながら、月曜の買出しん時にまんまと買っちゃいましたし(笑。そんな感じでスーパーで一人、例えロンリーな買い物中でもテンション高いままの法蓮ですが(日によっちゃあ踊ってるし(笑 あ、もし見つけて他人の振りしても無駄ですよ、追いかけて私から大声で声かけますから(爆 。)
兎に角、この観音経偈文もそういった意味合いで、韻文をさらに分かりやすく、親しみ易く説くためのものです。それ故に、多くの人に読まれるのでもありましょう。
まず、観音経偈文は通常、『世尊妙相具〜』から始まりますが、実は長行の最後の部分を付け足さないと、ちょっと変な感じがしないでもないのです。こーゆー事です。
世尊妙相具(せそんみょうそうぐ)と云うのは、世尊=釈尊なので、「釈尊さま、貴方は妙なる相(即ち、なんとも慈悲深いお顔)を、具えてらっしゃいますね。」と、いきなり始まるのです。
私たちはこれが、長行の続きですから(無盡意菩薩が話しかけている)と、事前に分かっておりますが、偈文しか知らない初めて目にした方には、誰が話してるのか? なんで話し出したのか? が、ピンと来ませんね。
ですから、前回シリーズ最後に「ここは偈文の予告ですよ。」とした、長行の最後の部分を思い出して頂くと、・・・
「爾時 無尽意菩薩。以偈問曰。」
(にーじー むーじんにーぼーさー。いーげーもんわつ。)
そのとき、無尽意菩薩が詩(偈頌:げじゅ)を以って質問した。
このようにありましたね。これで話しが繋がりました。
「無盡意菩薩が」「質問をした」その内容(偈頌)が、これから始まる偈文の冒頭部分です。その前に無盡意菩薩が、まぁ云わばお釈迦さまにヨイショしてるんですね。
良く学ぶ人は、良き師と巡り会えると同時に、教えられ上手、教えさせ上手でもありましょう。これは現代社会や仕事に従事する中においても大切な事であります。
どんな優れた上司も、やる気のない部下に手解きする程、面倒なことはありません。
なぜなら、人の上に立った事がある人なら分かりきった事ですが、人を指導する・育成すると云う事は、気の遠くなるほど根気のいる作業だからです。
例え更に上役の指図でも、そこは人と人。指導される側の元々の出来不出来にもよりますが、心が通わなければ面倒臭いに決まってます。
よく「ったく、教え方が悪ぃんだよ!」とか、「あんな教え方で分かるワケねーだろ!」って人がおりますが、仕事をいつまでも覚えられずに困るのは自分自身です。上司ではありません。
教える側は大抵、他の仕事と掛け持ちです。余程大きな会社で、研修システムに人員を配属できる余裕がなければ、教える側にとっては、『余分な』仕事に他なりません。自分の持ち時間を割いて、自分の仕事を後回しにしてでも指導しなければなりません。
教わる側の態度や覚えが悪ければ、イラつくのも当然です。
逆に一生懸命で、感謝の心を常に絶やさないような部下には、自分がサービス残業してでも教えてやろう、何とか伸ばしてやりたい!と云う、気持ちに駆られるのが人と云うものです。そこは流石に無盡意菩薩、多くの菩薩達を代表するだけあって、しかと抑えておりますね。
【観音経(偈文)和訳】
▼では改めて参りましょう。まずは、『問答編』から。
(せーそんみょうそうぐ がーこんじゅもんぴ ぶつしがーいんねん みょういーかんぜーおん)
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
「誠、ご慈悲溢れるお顔の釈尊さま。我は今、重ねて彼の(かの觀世音について、)質問をしとう御座います。」
「何ゆえの因縁にて(觀世音は)、佛の子たるものとして觀世音と名付けられたのでしょうか?」
*これって、前回の長行でも同じ質問をしていますね。ここでも繰り返します。
(ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに)
具足妙相尊 偈答無盡意
〜妙なる相を具えられた釈尊は、無盡意菩薩に対し、偈(詩)を以って、お答えになられた。〜
(にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょーほうしょ)
汝聴観音行 善応諸方所
「汝ら、観音の行を良く聴いてご覧なさい。」
「(万事自らの為に非ず、抜苦与楽なる悲願達成に特化されし、観音の行は、)善く諸々の方所(ほうしょ)に応ずるところにあり、」
「即ち觀世音は、苦しみ悩み悲しむ方々(ほうぼう)の人々のいる、この世の様々な場所へ、いちいち出向き、その都度に善処対応されておるからである。」
(ぐーぜいじんにょーかい りゃくこうふーしーぎー)
弘誓深如海 歴劫不思議
「(観音の願う)弘きその誓いは海の如く深く、何億劫年と果てしない時を歴(へ)だてても尽きることのない、不思議なものである。即ち、思議(しぎ)=人間の考えや思い⇒不)などは、遠く及びもしないほどである。」
(じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん)
侍多千億佛 発大清浄願
「(その観音が、)千億もの多くの佛たちに侍(つか)えて、大いなる清浄の願いを発したのだ。」
「清らかなる大願は即ち、《衆生無辺誓願度》であり、己を忘れて他人を救うがための行、それこそが忘己利他(もうこりた)である。従って、觀世音は一切の衆生を救済するまで、仏の座(如来)に安住することはないと云われる。」
(がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん)
我為汝略説 聞名及見身
「我は汝が為に概略を説法しようぞ。」
「(これが汝の問うた、因縁の始まりなる)観音の名を(音を)聞き、及び(観音の)その身体を見て(観て)、」
(しんねんふーくうか のうめつしょーうーく)
心念不空過 能滅諸有苦
「心に(観音を)念じ抱き、いたずらに空しく時を過ごさなければ、(自分が信じる因縁と、観音の誓願力が強く結びつき、)能く(よく)諸々に有ろう(人生における全ての)苦しみなど、ことごとく滅ぼしてくれよう。」
『功徳編』
1、(けーしーこうがいい すいらくだいかーきょう ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうち)
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
「仮に、人が有害な意を興し、炭坑のような大火の穴へ推して落とされても、彼の観音力を念じさえすれば、火の穴は変じて水が溢れん池と成るだろう。」
2、(わくひょうるこーかい りゅうごしょきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ)
或漂流巨海 龍魚諸難鬼 念彼観音力 波浪不能没
「或いは、巨大な海に漂い流され、龍魚(大蛇)や、餓鬼・夜叉・羅刹・赤や青の鬼たちの難に晒されても、彼の観音力を念じさえすれば、大荒れ波浪警報が発令されようとも、没することも能(あた)はず。(〜ことはない。)」
『功徳をどう受け止めるのか?』
*このたったの二つの功徳だけでも、現代人の常識的な知識やスキーマーでは、到底信じられない出来事でありましょう。
だってそうじゃないですか?、1の火難を例に挙げますと、今は見られなくなってピンと来ないかも知れませんが、炭坑とは石炭を掘るような深い坑道のこと。
そんな穴に誰かに突き落とされた上に、その中ではゴォーゴォーと火が吹いているですよ。1000%即死に決まってるじゃないですか?
いくらキックやってた私でも、反撃の間合いも取れないないでしょうね。今はメタボだし、黄金の左脚が上がらんし(笑。
勿論、頭に来てド発狂するでしょうが、「ワレ何さらすんじゃ!コラァァァァァ〜」とエコーしながら、空しく墜ちてくだけですね(笑。
次の水難にしても、既に漂流してそのままでも充分死ぬってな絶望感に駆られている時に、追い討ちをかけるように、鬼だの何だのウジャウジャ出てくるんですよ。
どうします? もう最悪もいいとこでしょ?
「あのぉ〜もう放っておいて結構ですから。間もなく死ぬと思いますんで。」って、云いたくなるでしょ?
こんな話し、以前の私なら到底信じられませんでした。
第一、皆目興味がないからお経すら学ぼうともしませんでしたしね。でも、少なくとも今、これを真剣に読まれてる(か、どーか分かりませんが(笑) そんな皆さんなら、「一体、何でそこまでの功徳が戴けるのだろう?」とか、「本当にそうならいいな。」「縋りたいな、信じてみたいな。」と思われる方も、きっといらっしゃる筈ですよね。
もうお分かりのように、前者のかつての私のような者には、例え観音経を読んだって功徳など戴けるワケはないのです。ここが運命の別れ目なのです。「本当なのか?」という時点で既に半分以上信じているのです。本当だったらと期待しているのです。
逆に日常の例えで云えば、「あの人、アタシの他に女がいるんじゃないかしら?」この時点で相当疑ってるワケです(笑。 といっても、自分以外に女がいる事を、当然決して期待しているワケではありません。大半の女性たちにとって、『浮気しない。』のが大原則で当たり前ですから、その彼女達の『当たり前』を破ったかも知れない、裏切りの疑惑を確かめる追求心は、男どもの想像を遥かに超越した凄まじいエネルギーを発揮します。
まさかあの、何かといやぁすぐ泣くような女が、そこまでしないだろうよ。とナメてかかると、とんでもないことになりのでご用心を(笑。
「もし、本当にいたらどうしてくれようか?」と既に目論んでもいます。その結果、例え真相が掴めなくとも、ひとたび疑惑の的となったら、それこそ何億劫年歴(へ)だとうとも、その記憶は削除されません。後ろめたさに駆られた貴方が、どこかへ連れてってあげた、美味しいモノをうんと食べさせてあげた、そんな事は遠慮なくボンボン忘れますが(笑。
ただ、尽未来際(じんみらいさい=永久)未解決事件、即ち疑惑ありのままです。ついでに時効という名の、生ぬるい特赦もヘッタクレも御座居ません。(爆。
話しを観音さまの功徳を信じようとする方に戻しますが、100%信じたいからこそ、さらに突き詰めようとするのです。その疑問を解こうとする行為、真意を確かめようとする過程、これが仏への道のり=仏道であり、即ち方便なのであります。
「ウソも方便」って日常語化してますが、『方便』とは仏教語なのです。
多くの仏教語がそうであるように、この『方便』も決して『ウソ』の中の一つではなく、長い日本文化の中で徐々に本来の意味が姿を変えて今に残っている言葉なのです。
これもまた今度、詳しくお話しする予定なので今回は割愛致しますが、兎に角、この『方便』に導かれていくと、果たしてどうなるでしょうか?
疑問の反対語は答えですね。そうです、答えがそこにあるのです。一人ひとりにあった、自分だけの答えが。それが『悟る』ということなのです。お経に書かれた功徳の多くは、この『方便』を通じて我々に『悟らせる』手段の一つなのです。
観音さまを信じようと決めた時から、一心に念じようとします。
だって、そう書かれてますから。その通りにすれば、しないとご利益は戴けないんだ。だったらやるしかないですよね、ここはただ素直に。信じてみようと。
一心とは前稿にも書きましたが、無我夢中のこと。恋は盲目と同じ。
親友がやめときなって言おうが、親が反対しようが、終いにゃぶっ飛ばされようが、「あの人だけは違うのよっ!」と思いたいですよね。「きっと愛してくれている≒救われる」そう信じたい、信じている。その気持ちです。
だから懸命になってるときほど、周囲からは冷ややかな色眼鏡で見られることもあるでしょう。
(どうせ、泣かされるのがオチだよ。)
(アンタのための思って云ってるんだよ!)とかって。
これは無神論者から見た、信徒たちも似たように見えます。私もそうでしたから。
しかし、一心にお経を読む、或いは真言を唱える。そう続けていると、例え刹那な一瞬でも、そこに主観も客観も存在しない無我の境地に至ることがあります。
これこそが一切皆空の世界、つまりは『涅槃』の世界なんだっ! かも知れないぞっ!と、分かること。即ち、認識できた≒自覚できた≒覚れた(悟れた)ということなのであります。
ぶっちゃけ、これが信仰の種明かしでもあります。
お経に残されている。ということは、お釈迦様自体がこの方便を利用して生涯、法を説いて来られた。ということなのです。しかし、マジックもそうでしょうが、驚きや賞賛に値した素晴らしいマジックも、種を知ってしまえば「ナンだ、そんなことか。」とつまらなくなってしまうものでありましょう。ねぇ?マジシャン高橋さん。
但し、種が分かっても昨日今日で真似出来るものでも御座居ません。
一応、そーゆーことだったんだ。という、程度でご理解して戴き、忘れても結構です。ただ、このように一心に毎日を神仏と、即ち
(はい、私自身はそう信じて疑っておりませんが、)下知されたかのように、真如の月の如くありのままの心模様が、自分の口を通して成すべきこと、興すべきこと、願うべきことなどがポンポン出て参ります。
しかも、全く無意識にです。
であるからして、思わず言葉にしたときは大抵、はたと驚きます。無意識ですから。それ以上に、自分が求めていた答えが得られたこと、考えが及ばなかったこと、それらがポンと見つかるのですから、神仏のご下知に違いないのです。
これが先ほどもお話しした、『不思議』=思議(人間の思考力など)に、(不可)及ばない、即ちここでいう観音力は『不可思議』だと云うことです。この気付き(下知)こそが、大きな功徳ではないかと思うのであります。
さて、まだ始まったばかりの感も御座居ますが、こちらの和訳も何度かに分けてお送りしたと思いますので、今回はこの辺にて切り上げさせていただきます。
本日もご訪問、誠に有難う御座いました。
感謝合掌
法蓮 百拝
〜編集後記〜
まずは芦屋の知己ことテルさん、そしてマジシャン高橋さん、このお二方に厚く御礼申し上げたい所存であります。
前稿『悪縁退散』のコメントにて、お二人からは非常に貴重且つ、ご自身の身辺に起きた大変大きな問題にも臆することなく、またこうしたWEB上において、デリケートなプライバシー部分にも迷うことなく発言して下さったこと。そんなお二人の温かなお心とお気遣い、さらに勇気を心底称え、深く感謝の意を表したいと思う次第で御座居ます。本当に有難う御座いました。
本当に素晴らしいことです。
まだ若干二十歳の彼は、歓喜の優勝後に「両親をはじめ、サポートしてくれた皆さんに、この喜びの気持ちを伝えたい。」「オーディエンスにいらっしゃる方々のために懸命に弾きました。」と、少々照れるような口調で語った。まだまだ少年の面影が残るような、その表情とは裏腹に既に彼には威風堂々としたオーラを感じました。
彼が優勝したコンクールは概ね、4年に一度開かれる、云わばピアニストのオリンピック。米国の文化使節として活躍したピアニスト、バン・クライバーンの名を冠した名誉ある世界的国際コンクールです。
非常に難易度の高い、リストの曲を奏でた彼は、願い通りにオーディエンスを湧かせ「神業」と評価を得ました。何度も何度も「ブラボー」の歓声がわき起こりました。ネットでリアル応援していた父親の喜びもひとしおだったことでしょう。
石川遼クンにしてもそうですが、私の半分以下しかない歳の若い人たちが世界に羽ばたいていくのは本当に嬉しいですし、日本人もまだまだ捨てたモンじゃねーなって思いますね。
同時に自分ももっともっと精進しなければと、励みにもなります。我々大人たちが腐ってる場合じゃありませんね。「おんどれ、ナンボのもんじゃい!」とは、誰かさんの昔の口癖でしたが、本当に私たち大人が「ナンボの」人生を歩いてきたって、胸を張ってそう云えるのでしょうか。辻井伸行クンのように、オーディエンスに向かって堂々と云えますでしょうか。
彼は生まれつき目が見えません。
なのに彼は、「お客さんが感動してくれたのが一番嬉しい。障害者というより、一人のピアニストとして聴いてくれた手応えがあるので、それがとても嬉しいです。」とコメントしました。
まだ老眼は始まってませんが、(ってか私は多分、キックの後遺症もあって極度のど近眼ですので遅いかも知れませんが。)目が見える私がもし、あのリストの曲を彼と同じレベルで弾くには千年かかりそうです。
彼の父親は医師で、特に音楽家として恵まれた家庭環境という訳でもない。
ここが非常に興味深い部分ですが、彼がピアノに目覚めた端緒は2歳の頃、たまたま母親がハミングしたメロディーを、傍にあったピアノのおもちゃで遊んでいた彼が、正確無比に弾いたことに家族が驚き、ピアノを習わせることにしたことに始まるのです。
全盲で生まれた我が子に、ただただ悲観せず、世界に名だたるピアニストに育て上げた、彼女の生き様もまた皆さんに深く感銘を与えるのはないでしょうか。
自分の子は才能なんてあるのかしら? ウチの子はどうしてダメなんだろう。 どうして、こんな障害を背負ってるんだろう。 そんな悩みを持つ、母なる方には是非ご覧になって頂きたいと思います。「わが子の才能をいかに引き出し、伸ばすか」について、あなたと一緒に考えたくてこのホームページを立ち上げました。と彼女は言ってくれています。彼女もまた、御姿を変えられた観音さまでありましょう。
私より5歳も歳上で、やけに美人だな・・と思ったら、元フリーアナウンサーでした。
このニュースを見ていた私は、「すごいなぁ・・この母親。やっぱり、男は家康でいうたら於大(おだい)みたいに、まずは母親で決まるんやな。」と、独り言を云うと、隣に居合わせた家内が、「こんな子供だったら、みんなこんな母親になれるのにね。」と云いました。
「アホか!オマエ、外で喋んなや。」と口止めしておきましたが、私がここで吐露してるのでバレバレですが(笑 仕方御座居ません。許しておくんなせぇ旦那さま。まだまだ家内も悟っておりませんもんで。しかし、そんな家内が居たからこそ、今の私の信仰があるのもまた事実で御座居ます。
私はそのとき、言外にこのように思ったのであります。
まず、たまたま遊びで弾いていた彼のおもちゃのピアノの旋律に、溢れん才能を見出したこと。信じてみようと思ったこと。これが一番。
次に本格的に習わせようにも、全盲の子供です。そこら辺の近所にあるピアノ教室じゃ教えてくれなかったかも知れません。探したでしょう。相談し祈願もしたでしょう。ご主人も協力と理解を求め、説得されたでしょう。相当苦労もあったと思います。
そして極め付けが是です。
せっかく待ちわびて生まれた我が子が全盲だったら、貴女ならどう受け止めますか? フツーは悲観的になってしまうでしょう。我が子に起きた悲劇は、自分ごとの悲劇。どうして、私には健全な子供が生まれなかったの? どうしてウチの子だけがこんな目に合わなきゃなんないの? と。悲劇のヒロインは貴女です。
考えて下さい。もし、彼の母親、辻井いつ子さんが、悲観と絶望に毎日明け暮れ、仕事から帰ってきた旦那にも文句ばっか云って、ギャンギャンギャンギャンとしょっちゅうヒス起こしていても、同じように彼はグングンと勝手に才能を伸ばして行ったと思いますか? そもそも、そんなイライラしてる人が、台所に立ちながら機嫌良くハミングしますか? やかましいからって、ピアノのおもちゃすら持たさないかもですね。
人は得てして、自分の不幸は人のせい、社会のせい、旦那のせい、子供のせいにしがちです。勿論、女性ばかりでありませんよ。男も妻のせい、上司のせい、会社のせい、終いにゃ国家のせいにだってするでしょう。
逆に自分の幸福は自分のせい、自分が頑張ってきたから、自分に才能があったから、自分がキレイだから、自分が賢いからと、人への感謝の気持ちを忘れがちです。今回の稿でお話しした、『気付き』についてもそうですね。自分で気付けたんだから、自分がかしこい。エライのは自分、アホなんはアンタら。ってね。ナンボのモンでもないっちゅうにね。自分がごとき。
そうではなく、見える見えない、感じた感じられないは一切関係なく、神仏が多くの人々に姿を変え、多くの人々の声を通して私たちを導いて下さっているのです。自分の不幸は、間違いなく自分のせいです。誰のせいでもありません。これが自業自得。
自分の幸福は人のせいです。ちょっぴり自分も頑張りました。そう褒めてやればいいのです。これが他業自得です。いいことがあったら、他業自得。悪いことは自業自得。
そう思ってれば反って楽ですよ。人のせいにするから頭に来るし、ぶっ殺してやろうと思うのです。歩道を歩いていて、青信号で車に引かれたなんて、ちょっとビミョーですが、でもボサっともしてたんでしょう。コンマ1%も引かれる可能性が、なくはないとこ歩いてんですから。我子が引かれたとしても、一生その運転手を怨み続けていては、間違いなく幸福にはなれないでしょう。
冒頭に辻井伸行クンが言った、「両親をはじめ、サポートしてくれた皆さんに、この喜びの気持ちを伝えたい。」この感謝の気持ち。彼ほどの才能を持ちながら、いえ、スポーツ選手でも、財界人でも、どんな業界でも才能のある人ほど、周囲への感謝の気持ちを絶やさないようにも思います。かつて私も、そこに気付いてからは事業も伸びました。
才能を伸ばしてゆくこと自体が、気付きと訓練の連続。如何ほどの才能も磨かなければ光りません。逆にいえば、こういった感謝の気持ちを持ち合わせて生きてゆくこと。それが神仏から与えられる、『気付き』の数や機会にも、きっと比例していくような気も致します。
さてさて皆さん、いかがでしょうか。
最後までお付合い下さり、有難う御座いました。
怱々
法蓮 百拝
2009年05月10日
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、有難う御座います。この度のえにしに感謝致します。
さて、三回連続で上・中・下と、三分割でお届けして参りました、妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五 長行(観音経・全文)/和訳も、今回で最終回で御座います。上巻にて、随分と余計なことを喋りすぎましたので、上・中・下のバランスが非常に悪う御座いまして、要するに早い話しが、今回の下巻が最も長くなろうかと思います。悪しからずご了承下さいませ。
シーンは、観音さまが三十三ものお姿に変身して、私たちをお救い下さるという場面に入ります。 さて、ツベコベ云わずに、トットと参りましょう(笑。
シーン:6
三十三応身(おうじん)、而為説法(にいせっぽう)。
*誰が為に誰が身となって説く、観音三十三化身。
三十三という数字は、"すべて" を、意味します。観音さまが、救うべき相手にとって、より相応しい、より分かりやすい、より救われやすい、様々なお姿となって現れます。これを、"すべて" の身となり応じることから、三十三応身(おうじん)と云います。
坂東三十三観音、西国三十三観音を始め、全国各地に点在する三十三観音霊場や、三十三応身をまとめて禮拝する、三十三観音信仰もここに由来しているのでしょう。
この章は先に少々予習しておくと、後が飲み込み易いかと思います。それと観音経全文、特に長い長い長行(ちょうぎょう)=今回お伝えしている部分。を、暗誦するにも、ここは順に暗記してしまうことが必須です。
その際に以下のように、分けて覚えると非常にスムーズに憶えられると思います。またいつか、長行の暗誦については、細かくお伝えしたい次第で御座いますが、今回の三十三応身でのポイントは、『8つの属性と33の種類』。これを憶えてしまいましょう。
具体的に観音さまの三十三応身とは、お経に出てくる順番に
◆1、三種の聖身(しょうしん)=
1:仏身・2:辟支仏身(ひゃくしぶっしん)・3:声聞身(しょうもんしん)、の聖人たち。
◆2、六種の天身=
4:梵王身・5:帝釈身(たいしゃくしん)・6:自在天身・7:大自在天身・8:天大将軍身・9:毘沙門身、の天部の神たち。
◆3、五種の人身=
10:小王身・11:長者身・12:居士身・13:宰官身・14:婆羅門身、のフツーの人たち。
◆4、四種の衆身=
15:比丘身・16:比丘尼身・17:優婆塞身・18:優婆夷身、の坊さんや尼さんたち。
◆5、四種の婦女身=
19:長者婦女身・20:居士婦女身・21:宰官婦女身・22:婆羅門婦女身、の女性たち。
◆6、童男童女身=
23:童男身・24:童女身、の子供たち。
◆7、八部身=
25:天身・26:竜身・27:夜叉身・28:乾闥婆身(げんばつばしん)・29:阿修羅身(あしゅらしん)・30:迦樓羅身(かるらしん)・31:緊那羅身(きんならしん)・32:摩身羅伽身(まごらかしん)、の八部衆たち。
◆8、一身=33:執金剛身(しゅうこんごうしん)の金剛力士。
以上が三十三応身の全容です。暗誦にトライするときに、記憶が薄く詰まってしまっても、例えば、(最初は、◆1、三種の聖身からだったな・・聖身とは、聖人のことだから・・仏⇒辟支仏⇒声聞だったよな・・次が◆2、六種の天身。これは天部だから・・)と、思い返し易くなるかと思います。では、これらを軽く頭に入れておいて先に参りましょう。
さぁ、釈尊の説法に押されっ放しの無尽意菩薩ですが、ここにきて、聴衆を代表し二つ目の質問、観音さまの「身の働き」と、「口の働き」について、如何な(云何:いかんがした)ものでありましょうか。と、投げ掛けます。
ここでやっと二つ目です。釈尊、少々喋りすぎでありましょう(笑。この章で釈尊は、無盡意菩薩の問いに答え、観音さまが、生まれや育ち、性格も信ずるものも、それこそ千差万別の我々衆生一人ひとりにとって、最も分かりやすい、最も信じられる対象としてお姿を変えてまで、お救いいただけると説いていきます。
三十三とは、"すべて"。とお話ししましたね。"すべて"ですから、なにも一見、私たちにとって、救世主にしか見えない。分かりやすいお姿、とは限りませんよ。
もしかしたら、昨夜怒鳴りあってしまった恋人も、マジでウザイとしか思えない旦那さんも奥さんも、ぶっ殺してやろうかと思う嫌味な低能上司も、頼むから消えてくれと思うアイツもコイツも、皆、観音さまの化身で、何かしら貴方に訴えているのかも知れませんね。
「身の働き」
無尽意菩薩 白仏言。世尊。觀世音菩薩。云何遊此娑婆世界。
(むーじんにーぼーさー びゃくぶつごん。せーそん。かんぜーおんぼーさー。うんがーゆうしーしゃーばーせーかい。)
無尽意菩薩は、釈尊に謹んでお尋ね申し上げた。
「世尊よ。觀世音菩薩は、どのようにして私たちの住む世界(耐え忍ぶ世界=忍土:にんど)に現れ(お遊びに給われ=遊行され)、」
「口の働き」
云何而為 衆生説法。方便之力。其事云何。
(うんがーにーいー しゅーじょうせっぽう。ほうべんしーりき。ごーじーうんがー。)
「どのようにして、人々の為に法をお説きになるのでしょうか。また、方便の力については如何(云何)なものでありましょうか。」
◆1、三種の聖身(しょうしん)
仏告 無尽意菩薩。善男子。若有国土 衆生応以 仏身得度者。
(ぶつごう むーじんにーぼーさー。ぜんなんしー。にゃくうーこくどー しゅーじょうおーいー ぶっしんとくどーしゃ。)
釈尊は無尽意菩薩に告げられた。
「善男子よ。もし、どこかの国の人々がいて(その人たちが)、応(まさ)に、仏さまの身をもって得度すべき者(仏さまが説けば救われる者)には、」
觀世音菩薩。即現仏身 而為説法。
(かんぜーおんぼーさー。そくげんぶっしん にーいーせっぽう。)
「觀世音菩薩は即ち、仏さまの身となって現れ、その者の為に法を説き(救い教え)、」
応以辟支仏身 得度者。即現辟支仏身 而為説法。
(おーいーひゃくしーぶっしん とくどーしゃ。そくげんひゃくしーぶっしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、辟支仏(びゃくしぶつ)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、師持たずして独自に、十二因縁の教えによって悟りを得た、縁覚(えんがく)・独覚(どくがく)と呼ばれる孤高の聖者たち。つまり、辟支仏の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以聲聞身 得度者。即現聲聞身 而為説法。
(おーいーしょうもんしん とくどーしゃ。そくげんしょうもんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、声門(しょうもん)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、「苦(く)・集(じつ)・滅(めつ)・道(どう)」なる、四つの真理、いわゆる四諦を学び悟ろうとする羅漢たち。つまり、声門の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆2、六種の天身
応以梵王身 得度者。即現梵王身 而為説法。
(おーいーぼんのうしんとくどーしゃ。そくげんぼんのうしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、梵王の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、六道界のうち、天上界の中の色界十八天。更にその中の三つの天からなる第一禅天の王であり、初禅最高位第三天・大梵天に住まわれる、淫欲や食欲なき清浄なる梵王の身となって現れ、煩悩を脱したいが者の為に法を説き、」
応以帝釈身 得度者。即現帝釈身 而為説法。
(おーいーたいしゃくしんとくどーしゃ。そくげんたいしゃくしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、帝釈(たいしゃく)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、同じく天上界の中の欲界六天、更にその中の第二天―三十三天。いわゆる、忉利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)山頂に住まわれし、『男はつらいよ』寅さん〜あの柴又帝釈天宜しく。善行を喜ばれる帝釈天の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以自在天身 得度者。即現自在天身 而為説法。
(おーいーじーざいてんしん とくどーしゃ。そくげんじーざいてんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、自在天の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、欲界第六天、いわゆる他化自在天に住まわれる魔王となり、先とは逆に悪行専科の自在天の身となって現れ、どーしよーもない者の為に法を説き、」
応以大自在天身 得度者。即現大自在天身 而為説法。
(おーいーだいじーざいてんしん とくどーしゃ。そくげんだいじーざいてんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、大自在天の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、色界十八天最上階、色究竟天(しきくきょうてん)に住まわれる、魔の首(かしら)大魔王なる大自在天の身となって現れ、極めてどーしよーもない者の為に法を説き、」
応以天大將軍身 得度者。即現天大將軍身 而為説法。
(おーいーてんだいしょうぐんしん とくどーしゃ。そくげんてんだいしょうぐんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、天大将軍の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、軍神なる天大将軍の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以毘沙門身 得度者。即現毘沙門身 而為説法。
(おーいーびしゃもんしん とくどーしゃ。そくげんびしゃもんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、毘沙門の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、法を良く聞き給う多聞天(たもんてん)の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆3、五種の人身
応以小王身 得度者。即現小王身 而為説法。
(おーいーしょうおうしん とくどーしゃ。そくげんしょうおうしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、小王の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、王の下の位に位置する支配者なる、例えるなら日常の人間の城主として、小王の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以長者身 得度者。即現長者身 而為説法。
(おーいーちょうじゃーしん とくどーしゃ。そくげんちょうじゃーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、長者の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、徳の有る富豪の姿として、長者の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以居士身 得度者。即現居士身 而為説法。
(おーいーこーじーしん とくどーしゃ。そくげんこーじーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、居士の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、在家のまま修行する男子仏教徒、居士の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以宰官身 得度者。即現宰官身 而為説法。
(おーいーさいかんしん とくどーしゃ。そくげんさいかんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、宰官の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、官史役人の姿として、宰官の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以婆羅門身 得度者。即現婆羅門身 而為説法。
(おーいーばらもんしん とくどーしゃ。そくげんばらもんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、婆羅門の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、四姓制度(カースト)の最上位、司祭階級者なる婆羅門の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆4、四種の衆身
応以比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷身 得度者。即現比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷身 而為説法。
(おーいーびく びくに うばそく うばいしん とくどーしゃ。そくげんびく びくに うばそく うばいしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、出家者の男女や、在家信者の男女、それぞれの身となって現れ、それらの者たちの為に法を説き、」
◆5、四種の婦女身
応以長者 居士 宰官 婆羅門婦女身 得度者。即現婦女身 而為説法。
(おーいーちょうじゃー こーじー さいかん ばらもんぶーにょーしんとくどーしゃ。そくげんぶーにょーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、(先述の)富豪や、在家修行者や、役人や、家柄の良い者など、それそぞれの妻や娘の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、それぞれの婦人、婦女の身となって現れ、その者たちの為に法を説き、」
◆6、童男童女身
応以童男童女身 得度者。即現童男童女身 而為説法。
(おーいーどうなんどうじょーしん とくどーしゃ。そくげんどうなんどうにょーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、童男童女の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、男の子や女の子の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆7、八部身
応以天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩羅伽 人非人等身 得度者。即皆現之 而為説法。
(おーいーてんりゅう やーしゃー げんだつばー あしゅらー かるなら きんなら まごらーかー にんぴーにんとうしんとくどーしゃ。そくかいげんしー にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、天人や、竜神や、鬼神の夜叉や、音楽神である乾闥婆(けんだつば)や、戦闘神である阿修羅や、竜をも食する獰猛(どうもn)な巨鳥獣である迦楼羅(かるら)や、半身半獣なるも美声の音楽家である緊那羅(きんなら)や、大蛇神なる摩喉羅伽(まごらか)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち皆、その者たちに相応しい様々な神や生き物として、人の身に非ず人の身をした身となって之に現れ、その者たちの為に法を説き、」
◆8、一身
応以執金剛身 得度者。即現執金剛身 而為説法。
(おーいーしゅうこんごうしん とくどーしゃ。そくげんしゅうこんごうしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、執金剛神(しゅうこんごうじん)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、金剛杵(こんごうしょ)を手にした、護法善神なる身となって現れ、その者の為に法を説かれる。」
無尽意。是觀世音菩薩。成就如是功徳。以種種形 遊諸国土度脱衆
生。
(むーじんにー。ぜーかんぜーおんぼーさー。じょうじゅーにょーぜーくーどく。いーしゅーじゅーぎょう ゆーしょーこくどーどーだつしゅーじょう。)
「無尽意よ。このように觀世音菩薩は功徳を成就され、ありとあらゆるお姿に化身されて、諸国を遊行しつつ、どこにでも忽ち現れて人々を悟りへとお導き下さるのだ。」
是故汝等。応等一心供養 觀世音菩薩。
(ぜーこーにょうとう。おうとういっしんくーよう かんぜーおんぼーさー。)
「・・であるからして、お前たちは応等(まさ)に、それこそ一心に、觀世音菩薩を供養しなさい。」
是觀世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中
(ぜーかんぜーおんぼーさーまーかーさ。おーふーいーきゅうなんしーちゅう)
「そうすれば必ず、觀世音菩薩は、どんな怖い目にあっても、突然降りかかる困難や難題にあっても、怖ろしさを取り除いて下さる。」
能施無畏。是故此娑婆世界。皆號之為 施無畏者。
(のうせーむーいー。ぜーこーしーしゃーばーせーかい。かいごうしーいー せーむーいーしゃ。)
「故に、世間の人々は皆、無畏(落ち着き)を、能く(よく)施して下さる方として、(観音様のことを)、施無畏者(安心を与えて下さる方)とも呼ばれるのである。」
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本日もご訪問、有難う御座います。この度のえにしに感謝致します。
さて、三回連続で上・中・下と、三分割でお届けして参りました、妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五 長行(観音経・全文)/和訳も、今回で最終回で御座います。上巻にて、随分と余計なことを喋りすぎましたので、上・中・下のバランスが非常に悪う御座いまして、要するに早い話しが、今回の下巻が最も長くなろうかと思います。悪しからずご了承下さいませ。
シーンは、観音さまが三十三ものお姿に変身して、私たちをお救い下さるという場面に入ります。 さて、ツベコベ云わずに、トットと参りましょう(笑。
シーン:6
三十三応身(おうじん)、而為説法(にいせっぽう)。
*誰が為に誰が身となって説く、観音三十三化身。
三十三という数字は、"すべて" を、意味します。観音さまが、救うべき相手にとって、より相応しい、より分かりやすい、より救われやすい、様々なお姿となって現れます。これを、"すべて" の身となり応じることから、三十三応身(おうじん)と云います。
坂東三十三観音、西国三十三観音を始め、全国各地に点在する三十三観音霊場や、三十三応身をまとめて禮拝する、三十三観音信仰もここに由来しているのでしょう。
この章は先に少々予習しておくと、後が飲み込み易いかと思います。それと観音経全文、特に長い長い長行(ちょうぎょう)=今回お伝えしている部分。を、暗誦するにも、ここは順に暗記してしまうことが必須です。
その際に以下のように、分けて覚えると非常にスムーズに憶えられると思います。またいつか、長行の暗誦については、細かくお伝えしたい次第で御座いますが、今回の三十三応身でのポイントは、『8つの属性と33の種類』。これを憶えてしまいましょう。
具体的に観音さまの三十三応身とは、お経に出てくる順番に
◆1、三種の聖身(しょうしん)=
1:仏身・2:辟支仏身(ひゃくしぶっしん)・3:声聞身(しょうもんしん)、の聖人たち。
◆2、六種の天身=
4:梵王身・5:帝釈身(たいしゃくしん)・6:自在天身・7:大自在天身・8:天大将軍身・9:毘沙門身、の天部の神たち。
◆3、五種の人身=
10:小王身・11:長者身・12:居士身・13:宰官身・14:婆羅門身、のフツーの人たち。
◆4、四種の衆身=
15:比丘身・16:比丘尼身・17:優婆塞身・18:優婆夷身、の坊さんや尼さんたち。
◆5、四種の婦女身=
19:長者婦女身・20:居士婦女身・21:宰官婦女身・22:婆羅門婦女身、の女性たち。
◆6、童男童女身=
23:童男身・24:童女身、の子供たち。
◆7、八部身=
25:天身・26:竜身・27:夜叉身・28:乾闥婆身(げんばつばしん)・29:阿修羅身(あしゅらしん)・30:迦樓羅身(かるらしん)・31:緊那羅身(きんならしん)・32:摩身羅伽身(まごらかしん)、の八部衆たち。
◆8、一身=33:執金剛身(しゅうこんごうしん)の金剛力士。
以上が三十三応身の全容です。暗誦にトライするときに、記憶が薄く詰まってしまっても、例えば、(最初は、◆1、三種の聖身からだったな・・聖身とは、聖人のことだから・・仏⇒辟支仏⇒声聞だったよな・・次が◆2、六種の天身。これは天部だから・・)と、思い返し易くなるかと思います。では、これらを軽く頭に入れておいて先に参りましょう。
さぁ、釈尊の説法に押されっ放しの無尽意菩薩ですが、ここにきて、聴衆を代表し二つ目の質問、観音さまの「身の働き」と、「口の働き」について、如何な(云何:いかんがした)ものでありましょうか。と、投げ掛けます。
ここでやっと二つ目です。釈尊、少々喋りすぎでありましょう(笑。この章で釈尊は、無盡意菩薩の問いに答え、観音さまが、生まれや育ち、性格も信ずるものも、それこそ千差万別の我々衆生一人ひとりにとって、最も分かりやすい、最も信じられる対象としてお姿を変えてまで、お救いいただけると説いていきます。
三十三とは、"すべて"。とお話ししましたね。"すべて"ですから、なにも一見、私たちにとって、救世主にしか見えない。分かりやすいお姿、とは限りませんよ。
もしかしたら、昨夜怒鳴りあってしまった恋人も、マジでウザイとしか思えない旦那さんも奥さんも、ぶっ殺してやろうかと思う嫌味な低能上司も、頼むから消えてくれと思うアイツもコイツも、皆、観音さまの化身で、何かしら貴方に訴えているのかも知れませんね。
「身の働き」
無尽意菩薩 白仏言。世尊。觀世音菩薩。云何遊此娑婆世界。
(むーじんにーぼーさー びゃくぶつごん。せーそん。かんぜーおんぼーさー。うんがーゆうしーしゃーばーせーかい。)
無尽意菩薩は、釈尊に謹んでお尋ね申し上げた。
「世尊よ。觀世音菩薩は、どのようにして私たちの住む世界(耐え忍ぶ世界=忍土:にんど)に現れ(お遊びに給われ=遊行され)、」
「口の働き」
云何而為 衆生説法。方便之力。其事云何。
(うんがーにーいー しゅーじょうせっぽう。ほうべんしーりき。ごーじーうんがー。)
「どのようにして、人々の為に法をお説きになるのでしょうか。また、方便の力については如何(云何)なものでありましょうか。」
◆1、三種の聖身(しょうしん)
仏告 無尽意菩薩。善男子。若有国土 衆生応以 仏身得度者。
(ぶつごう むーじんにーぼーさー。ぜんなんしー。にゃくうーこくどー しゅーじょうおーいー ぶっしんとくどーしゃ。)
釈尊は無尽意菩薩に告げられた。
「善男子よ。もし、どこかの国の人々がいて(その人たちが)、応(まさ)に、仏さまの身をもって得度すべき者(仏さまが説けば救われる者)には、」
觀世音菩薩。即現仏身 而為説法。
(かんぜーおんぼーさー。そくげんぶっしん にーいーせっぽう。)
「觀世音菩薩は即ち、仏さまの身となって現れ、その者の為に法を説き(救い教え)、」
応以辟支仏身 得度者。即現辟支仏身 而為説法。
(おーいーひゃくしーぶっしん とくどーしゃ。そくげんひゃくしーぶっしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、辟支仏(びゃくしぶつ)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、師持たずして独自に、十二因縁の教えによって悟りを得た、縁覚(えんがく)・独覚(どくがく)と呼ばれる孤高の聖者たち。つまり、辟支仏の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以聲聞身 得度者。即現聲聞身 而為説法。
(おーいーしょうもんしん とくどーしゃ。そくげんしょうもんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、声門(しょうもん)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、「苦(く)・集(じつ)・滅(めつ)・道(どう)」なる、四つの真理、いわゆる四諦を学び悟ろうとする羅漢たち。つまり、声門の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆2、六種の天身
応以梵王身 得度者。即現梵王身 而為説法。
(おーいーぼんのうしんとくどーしゃ。そくげんぼんのうしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、梵王の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、六道界のうち、天上界の中の色界十八天。更にその中の三つの天からなる第一禅天の王であり、初禅最高位第三天・大梵天に住まわれる、淫欲や食欲なき清浄なる梵王の身となって現れ、煩悩を脱したいが者の為に法を説き、」
応以帝釈身 得度者。即現帝釈身 而為説法。
(おーいーたいしゃくしんとくどーしゃ。そくげんたいしゃくしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、帝釈(たいしゃく)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、同じく天上界の中の欲界六天、更にその中の第二天―三十三天。いわゆる、忉利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)山頂に住まわれし、『男はつらいよ』寅さん〜あの柴又帝釈天宜しく。善行を喜ばれる帝釈天の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以自在天身 得度者。即現自在天身 而為説法。
(おーいーじーざいてんしん とくどーしゃ。そくげんじーざいてんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、自在天の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、欲界第六天、いわゆる他化自在天に住まわれる魔王となり、先とは逆に悪行専科の自在天の身となって現れ、どーしよーもない者の為に法を説き、」
応以大自在天身 得度者。即現大自在天身 而為説法。
(おーいーだいじーざいてんしん とくどーしゃ。そくげんだいじーざいてんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、大自在天の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、色界十八天最上階、色究竟天(しきくきょうてん)に住まわれる、魔の首(かしら)大魔王なる大自在天の身となって現れ、極めてどーしよーもない者の為に法を説き、」
応以天大將軍身 得度者。即現天大將軍身 而為説法。
(おーいーてんだいしょうぐんしん とくどーしゃ。そくげんてんだいしょうぐんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、天大将軍の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、軍神なる天大将軍の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以毘沙門身 得度者。即現毘沙門身 而為説法。
(おーいーびしゃもんしん とくどーしゃ。そくげんびしゃもんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、毘沙門の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、法を良く聞き給う多聞天(たもんてん)の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆3、五種の人身
応以小王身 得度者。即現小王身 而為説法。
(おーいーしょうおうしん とくどーしゃ。そくげんしょうおうしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、小王の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、王の下の位に位置する支配者なる、例えるなら日常の人間の城主として、小王の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以長者身 得度者。即現長者身 而為説法。
(おーいーちょうじゃーしん とくどーしゃ。そくげんちょうじゃーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、長者の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、徳の有る富豪の姿として、長者の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以居士身 得度者。即現居士身 而為説法。
(おーいーこーじーしん とくどーしゃ。そくげんこーじーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、居士の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、在家のまま修行する男子仏教徒、居士の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以宰官身 得度者。即現宰官身 而為説法。
(おーいーさいかんしん とくどーしゃ。そくげんさいかんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、宰官の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、官史役人の姿として、宰官の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
応以婆羅門身 得度者。即現婆羅門身 而為説法。
(おーいーばらもんしん とくどーしゃ。そくげんばらもんしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、婆羅門の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、四姓制度(カースト)の最上位、司祭階級者なる婆羅門の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆4、四種の衆身
応以比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷身 得度者。即現比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷身 而為説法。
(おーいーびく びくに うばそく うばいしん とくどーしゃ。そくげんびく びくに うばそく うばいしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、出家者の男女や、在家信者の男女、それぞれの身となって現れ、それらの者たちの為に法を説き、」
◆5、四種の婦女身
応以長者 居士 宰官 婆羅門婦女身 得度者。即現婦女身 而為説法。
(おーいーちょうじゃー こーじー さいかん ばらもんぶーにょーしんとくどーしゃ。そくげんぶーにょーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、(先述の)富豪や、在家修行者や、役人や、家柄の良い者など、それそぞれの妻や娘の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、それぞれの婦人、婦女の身となって現れ、その者たちの為に法を説き、」
◆6、童男童女身
応以童男童女身 得度者。即現童男童女身 而為説法。
(おーいーどうなんどうじょーしん とくどーしゃ。そくげんどうなんどうにょーしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、童男童女の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、男の子や女の子の身となって現れ、その者の為に法を説き、」
◆7、八部身
応以天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩羅伽 人非人等身 得度者。即皆現之 而為説法。
(おーいーてんりゅう やーしゃー げんだつばー あしゅらー かるなら きんなら まごらーかー にんぴーにんとうしんとくどーしゃ。そくかいげんしー にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、天人や、竜神や、鬼神の夜叉や、音楽神である乾闥婆(けんだつば)や、戦闘神である阿修羅や、竜をも食する獰猛(どうもn)な巨鳥獣である迦楼羅(かるら)や、半身半獣なるも美声の音楽家である緊那羅(きんなら)や、大蛇神なる摩喉羅伽(まごらか)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち皆、その者たちに相応しい様々な神や生き物として、人の身に非ず人の身をした身となって之に現れ、その者たちの為に法を説き、」
◆8、一身
応以執金剛身 得度者。即現執金剛身 而為説法。
(おーいーしゅうこんごうしん とくどーしゃ。そくげんしゅうこんごうしん にーいーせっぽう。)
「応(まさ)に、執金剛神(しゅうこんごうじん)の身をもって得度すべき者には、觀世音菩薩は即ち、金剛杵(こんごうしょ)を手にした、護法善神なる身となって現れ、その者の為に法を説かれる。」
無尽意。是觀世音菩薩。成就如是功徳。以種種形 遊諸国土度脱衆
生。
(むーじんにー。ぜーかんぜーおんぼーさー。じょうじゅーにょーぜーくーどく。いーしゅーじゅーぎょう ゆーしょーこくどーどーだつしゅーじょう。)
「無尽意よ。このように觀世音菩薩は功徳を成就され、ありとあらゆるお姿に化身されて、諸国を遊行しつつ、どこにでも忽ち現れて人々を悟りへとお導き下さるのだ。」
是故汝等。応等一心供養 觀世音菩薩。
(ぜーこーにょうとう。おうとういっしんくーよう かんぜーおんぼーさー。)
「・・であるからして、お前たちは応等(まさ)に、それこそ一心に、觀世音菩薩を供養しなさい。」
是觀世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中
(ぜーかんぜーおんぼーさーまーかーさ。おーふーいーきゅうなんしーちゅう)
「そうすれば必ず、觀世音菩薩は、どんな怖い目にあっても、突然降りかかる困難や難題にあっても、怖ろしさを取り除いて下さる。」
能施無畏。是故此娑婆世界。皆號之為 施無畏者。
(のうせーむーいー。ぜーこーしーしゃーばーせーかい。かいごうしーいー せーむーいーしゃ。)
「故に、世間の人々は皆、無畏(落ち着き)を、能く(よく)施して下さる方として、(観音様のことを)、施無畏者(安心を与えて下さる方)とも呼ばれるのである。」
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2009年05月06日
皆さん。こんにちわ。
さて、前回に続き、観音経和訳 中盤を、ご紹介したいと思います。ナンやかんやと、脱線しているとキリがありませんので、今回はいつものように、余計な話しをダラダラしゃべり出す前に一気に参りましょう(笑。
【妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五 長行(観音経・全文)/和訳(中)】
シーン3:
三毒の難(煩悩からの解脱)
三毒と申しますのは、一、貪(とん)むさぼりのこと。貪欲のドンです。 二、瞋(しん)いかりのこと。瞋恚(しんに)と云います。 三、痴(ち)おろかさのこと。これは普段でも口にする、愚癡(ぐち)のことですね。
これで三つの毒、三毒です。いずれも人の心に巣食う、まぁ心の毒と申しましょうか。それらを顕わしたものです。
私たち人間は、本当に多くの欲に我が身を浴しておりますが、特に仏教では、婬欲(いんよく:性欲)は渇愛(かつあい)ともいい、煩悩の中で最も強く苦しいものとしております。このシーンでいう、貪も性欲のことを顕わしております。
一、貪欲
若有衆生 多於婬欲。常念恭敬 觀世音菩薩。便得離欲。
(にゃくうーしゅーじょう たーおーいんよく。じょうねんくーぎょう かんぜーおんぼーさー。べんとくりーよく。)
「もし、人々の中に、性欲が強く悩む者がいて、抑えきれない婬欲が湧き上がったとしても、いつでも觀世音菩薩を念じて、恭(うやうや)しく、敬いさえすれば、便(すなわ)ち、独りでに婬欲が心を離れることが出来るだろう。」
二、瞋恚
若多瞋恚。常念恭敬 觀世音菩薩。便得離瞋。
(にゃくたーぐーちー。じょうねんくーぎょう かんぜーんぼーさー。べんとくりーちー。)
「もし、何かにつけて怨みや怒りを覚えることが多い者がいても、いつでも觀世音菩薩を念じて、恭(うやうや)しく、敬いさえすれば、便(すなわ)ち、瞋(いか)りが心を離れ、腹も立てずに済ますことが出来る。」
三、愚癡
若多愚癡。常念恭敬 觀世音菩薩。便得離癡。
(にゃくたーぐーちー。じょうねんくーぎょう かんぜーおんぼーさー。べんとくりーちー。)
「もし、愚かな考えばかりに捉われる者がいても、いつでも觀世音菩薩を念じて、恭(うやうや)しく、敬いさえすれば、便(すなわ)ち、それら愚な心の淵から離れることが出来る。」
無尽意。觀世音菩薩。有如是等 大威神力 多所饒益。是故衆生 常応心念。
(むーじんにー。かんぜーおんぼーさー。うーにょーぜーとう だいいーじんりき たーしょーにょうやく。ぜーこーしゅーじょう じょうおうしんねん。)
「無尽意よ。觀世音菩薩はこのように、大いなる灼(あら)たかな御力を持っていて、沢山の利益で囲んで下さることが多々ある。是(これ)故に、人々は常に応(まさ)に、心に觀世音を念ずるべきであろう。」
シーン4:
二求章(にぐしょう)
シーン2において、七難転じて七福とし、シーン3では、三毒転じて三徳と説いてきました。そうして福徳円満を得た人々が、今度は観音さまを一心に念じて、二つの願い(二求)をすると、どうなるのか? それを、子宝に恵まれる、という実例を通して表現されます。観音さまが子宝を授けてくれる仏尊としても、信仰されている理由はここにあったのですね。
但し、これらはあくまで方便です。表面的な顕わしに過ぎません。
例えば、「賢い子供が授かりますように!」と、願ったとします。そこで、「ハイ!賢い子供の一丁出来上がり!」「毎度おおきに!」 みたいなことにはならないのです。
では願いが叶わないのか? いえ、断じてそうではありません。
だったら古来から、観音信仰者が跡を絶たない理由がなくなります。あらゆる願いを叶えて下さるのが観音さまです。威神力に疑う余地などあるわけも御座いません。ただ、子供は生産品ではありません。信頼おけるメーカーからスペックを確認し、保証書まで携える車や家電品を買うのとは違いますね。
聖書などもそうですが、お経は語釈に顕わされた理釈を観てこそ、深い教えに触れられるのであると云われます。語釈、つまり言葉や文字で直感的に語られる解釈の向こう側に在る、本当の智慧です。
お経と違い、日常語に近い和讃は比較的、私たちには分かりやすいのではありますが、その和讃でも、語釈の向こう側に見える、理釈を鑑みつつ読み解くと、特に大聖歓喜天和讃などは、大変有難く観じるもので御座います。
私たち凡夫の浅墓な知恵では、なかなか域を越えることが出来ませんが、そろそろこの辺りから、(う〜〜ん。じゃあ、これはこういうことを云わんとしているのか?)などと、頭を柔軟に読み解いていけば如何でしょうか。脳の運動にもなろうかと思いますし、結構愉しいものであります。後ほど補足致します。では続きをどうぞ。
若有女人 設欲求男。禮拜供養觀世音菩薩。便生福徳 智慧之男。
(にゃくうーにょーにん せっちょくぐーなん。らいはいくーようかんぜーおんぼーさー。べんしょうふくとく ちーえーしーなん。)
「もし、婦人がいて、設し男の子を欲しいと願うものなら、觀世音菩薩を拝んで大事にすれば、便ち福徳智慧を備えた、大層利口な男の子を生むだろう。」
設欲求女。便生端正 有相之女。宿殖徳本 衆人愛敬。
(せっちょくぐーにょー。べんしょうたんじょう うーそうしーにょー。しゅくじきとくほん しゅーにんあいきょう。)
「もし、女の子を欲しいと願うものならば、便ち美しい顔立ちの女の子を生み、その子は本来から徳を持っているから、気立てよし器量よし。当然、万人に愛され敬われるだろう。」
無尽意。觀世音菩薩。有如是力。若有衆生。恭敬禮拜 觀世音菩薩。
(むーじんにー。かんぜーおんぼーさー。うーにょーぜーりき。にゃくうーしゅーじょう。くーぎょうらいはい かんぜーおんぼーさー。)
「無尽意よ。観世音菩薩にはこれほどの御力がある。誰でも観世音菩薩を恭(うやうや)しく、敬いさえするならば、」
福不唐捐。是故衆生。皆応受持 觀世音菩薩名號。
(ふくふーとうえん。ぜーこーしゅーじょう。かいおうじゅーじー かんぜーおんぼーさーみょうごう。)
「福を空しく捨てるということは決してない。だから皆、観世音菩薩の御名を心にしっかりと保ち、決して忘れないようにしなければいけなかろう。」
二求章:補足
如何でしたでしょうか。
賢い男の子。可愛くて愛される女の子。親なら誰しも願うはずでしょう。お腹を痛めない男は殊更、自分の子供が可愛いに越したことはないと思いますが、美男美女からもとんでもない不細工も産まれますし、トンビが鷹を産むことだってあります。期待してたって運悪く?チョー不細工な子供が産まれるかも知れません。
「オギャーッ!」「ぎゃぁぁあああっ!」(ヤダ!まさかの失敗!?激汗)と思っても、すぐさま作り直すことは出来ませんね(笑。
ここで顕わす二求の願いとは、男の子が「実相般若」。つまり、智慧を得る。女の子が慈悲を得る。この二つの願いを込めて禮拝、拝むということは、そのまま観音さまをお腹に宿す、即ち即身成仏するということであります。
子供に限らず何々を下さい!と切願するのではなく、観音さまの福徳智慧が自分の物となり得る。と、いうことで御座います。先の一節の中の「、福不唐捐(ふくふーとうえん)」は、(唐)=むなしい。(損)=捨てる。という意味から、福をむなしく捨てることは無い。⇒無駄にはならない。⇒福は必ず得られる。という解釈していきます。
しかし、こんなこと、釈経でも読まなきゃサッパリ分かるわけありませんね。でも、こうして人の書いたものでも理釈を解いていくと、読み解きクセがつき、段々自分でも解けて行けるようになったら? もう、しめたものですね。どうぞ、(ヒッヒッヒッ・・)と、独りほくそ笑んで下さい(笑。
シーン5:
前段のまとめ
ここまでで語られてきた、数々の功徳をさらに強調するかのように、雄大な恒河(ごうが):ガンジス河にさえ余ると例える、大勢の菩薩観世音菩薩を供養することによって得られる、人々への福徳の大きさが、釈尊と無盡意菩薩との問答による喩え話で締めくくられます。
無尽意。若有人受持 六十二億恆河沙菩薩名字。
(むーじんにー。にゃくうーにんじゅーじー ろくじゅうにーおくごうがーしゃーぼーさーにょうじ。)
「無尽意よ。もし、人がいて、恒河の六十二億もの砂をも越えよう、大勢の菩薩の御名を覚えこみ、、」
復尽形供養 飮食 衣服 臥具 医薬。於汝意云何。
(ぶーじんぎょうくーよう おんじき えーぶく がーぐー いーやく。おーにょーいーうんが。)
「復(また)、命尽くす限り、生涯に渡って、飲み物や食べ物、衣服、臥具(がぐ)など寝具、医薬を供養したならば、」
是善男子善女人 功徳多不。
(ぜーぜんなんしーぜんにょーにん くーどくたーふー。)
「お前はこれをどう思か。こうした信仰深い、男たちや女たちの功徳は多いだろうか。そうではないだろうか。」
無尽意言。甚多世尊。
(むーじんにーごん。)
無盡意菩薩は答えた。「無論、甚だ多かろうと存じます。世尊よ。」
仏言。若復有人受持 觀世音菩薩名號。
(ぶつごん。みゃくぶーうーにんじゅーじー かんぜーおんぼーさーみょうごう。)
すると、世尊は続けて言葉された。
「(なるほど。そう考えるのは当然であり、確かでもある。しかし・・)もし、復(また)人がいて、觀世音菩薩の御名を心に保ち、」
乃至一時 禮拜供養。是二人福 正等無異。
(ないしーいちじー らいはいくーよう。ぜーにーにんふく しょうとうむーいー。)
「例え一時(いっとき)でも、拝み大事にするならば、是ら(これら)「觀世音」と、一心に禮拝供養し縋る者と、先の両者二人の福は、正に同等であり差異は無いのだ。」
於百千万億劫 不可窮尽。
(おーひゃくせんまんおくこう ふーかーぐうじん。)
「(そのことからも伺え知る福は、)幾百幾千万億を越える時を経ても、到底語り窮め(きわめ)尽くせるものではない。」
無尽意。受持 觀世音菩薩名號。得如是無量無辺福徳之利。
(むーじんにー。じゅーじー かんぜーおんぼーさーみょうごう。とくにょーぜー むーりょうむーへん ふくとくしーりー。)
「無尽意よ。觀世音菩薩の御名を、いつも心に保つことが出来れば、このような量り知れない、限りない福徳の御利益をいただけるのだ。」
以上。【妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五 長行(観音経・全文)/和訳(下)】へと続く。
長行(ちょうぎょう)の前段が終了したところで、今回はお終いです。
次回は後段、シーン6:三十三応身 而為説法から、ご紹介致します。
本日も有難う御座いました。
皆さん銘々に、GWは愉しく過ごされましたか?
1000円渋滞スゴイですね〜。巻き込まれた方、運転ご苦労様でした。
成田で検疫のため、一時間も機内で待たされた方もお疲れ様でした。
亭主、女房、子供たち。皆さん、ご家族を大切にして下さいね。
愛を捧げてくれる恋人。支えてくれる友人を大切して下さいね。
そして親御さんは元より、お年寄りを大切にして下さいね。
今64歳以上の方々は、みな敗戦を経験されています。
そんな方たちが、命を賭けて日本を守ってくれたおかげで私たちがいます。
そんな方たちが、命を磨り減らして養ってくれたから、今の日本経済があります。
ゆめゆめ、それも忘れないようにいたしましょうね。
それではまた。
感謝合掌
法蓮 百拝
さて、前回に続き、観音経和訳 中盤を、ご紹介したいと思います。ナンやかんやと、脱線しているとキリがありませんので、今回はいつものように、余計な話しをダラダラしゃべり出す前に一気に参りましょう(笑。
【妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五 長行(観音経・全文)/和訳(中)】
シーン3:
三毒の難(煩悩からの解脱)
三毒と申しますのは、一、貪(とん)むさぼりのこと。貪欲のドンです。 二、瞋(しん)いかりのこと。瞋恚(しんに)と云います。 三、痴(ち)おろかさのこと。これは普段でも口にする、愚癡(ぐち)のことですね。
これで三つの毒、三毒です。いずれも人の心に巣食う、まぁ心の毒と申しましょうか。それらを顕わしたものです。
私たち人間は、本当に多くの欲に我が身を浴しておりますが、特に仏教では、婬欲(いんよく:性欲)は渇愛(かつあい)ともいい、煩悩の中で最も強く苦しいものとしております。このシーンでいう、貪も性欲のことを顕わしております。
一、貪欲
若有衆生 多於婬欲。常念恭敬 觀世音菩薩。便得離欲。
(にゃくうーしゅーじょう たーおーいんよく。じょうねんくーぎょう かんぜーおんぼーさー。べんとくりーよく。)
「もし、人々の中に、性欲が強く悩む者がいて、抑えきれない婬欲が湧き上がったとしても、いつでも觀世音菩薩を念じて、恭(うやうや)しく、敬いさえすれば、便(すなわ)ち、独りでに婬欲が心を離れることが出来るだろう。」
二、瞋恚
若多瞋恚。常念恭敬 觀世音菩薩。便得離瞋。
(にゃくたーぐーちー。じょうねんくーぎょう かんぜーんぼーさー。べんとくりーちー。)
「もし、何かにつけて怨みや怒りを覚えることが多い者がいても、いつでも觀世音菩薩を念じて、恭(うやうや)しく、敬いさえすれば、便(すなわ)ち、瞋(いか)りが心を離れ、腹も立てずに済ますことが出来る。」
三、愚癡
若多愚癡。常念恭敬 觀世音菩薩。便得離癡。
(にゃくたーぐーちー。じょうねんくーぎょう かんぜーおんぼーさー。べんとくりーちー。)
「もし、愚かな考えばかりに捉われる者がいても、いつでも觀世音菩薩を念じて、恭(うやうや)しく、敬いさえすれば、便(すなわ)ち、それら愚な心の淵から離れることが出来る。」
無尽意。觀世音菩薩。有如是等 大威神力 多所饒益。是故衆生 常応心念。
(むーじんにー。かんぜーおんぼーさー。うーにょーぜーとう だいいーじんりき たーしょーにょうやく。ぜーこーしゅーじょう じょうおうしんねん。)
「無尽意よ。觀世音菩薩はこのように、大いなる灼(あら)たかな御力を持っていて、沢山の利益で囲んで下さることが多々ある。是(これ)故に、人々は常に応(まさ)に、心に觀世音を念ずるべきであろう。」
シーン4:
二求章(にぐしょう)
シーン2において、七難転じて七福とし、シーン3では、三毒転じて三徳と説いてきました。そうして福徳円満を得た人々が、今度は観音さまを一心に念じて、二つの願い(二求)をすると、どうなるのか? それを、子宝に恵まれる、という実例を通して表現されます。観音さまが子宝を授けてくれる仏尊としても、信仰されている理由はここにあったのですね。
但し、これらはあくまで方便です。表面的な顕わしに過ぎません。
例えば、「賢い子供が授かりますように!」と、願ったとします。そこで、「ハイ!賢い子供の一丁出来上がり!」「毎度おおきに!」 みたいなことにはならないのです。
では願いが叶わないのか? いえ、断じてそうではありません。
だったら古来から、観音信仰者が跡を絶たない理由がなくなります。あらゆる願いを叶えて下さるのが観音さまです。威神力に疑う余地などあるわけも御座いません。ただ、子供は生産品ではありません。信頼おけるメーカーからスペックを確認し、保証書まで携える車や家電品を買うのとは違いますね。
聖書などもそうですが、お経は語釈に顕わされた理釈を観てこそ、深い教えに触れられるのであると云われます。語釈、つまり言葉や文字で直感的に語られる解釈の向こう側に在る、本当の智慧です。
お経と違い、日常語に近い和讃は比較的、私たちには分かりやすいのではありますが、その和讃でも、語釈の向こう側に見える、理釈を鑑みつつ読み解くと、特に大聖歓喜天和讃などは、大変有難く観じるもので御座います。
私たち凡夫の浅墓な知恵では、なかなか域を越えることが出来ませんが、そろそろこの辺りから、(う〜〜ん。じゃあ、これはこういうことを云わんとしているのか?)などと、頭を柔軟に読み解いていけば如何でしょうか。脳の運動にもなろうかと思いますし、結構愉しいものであります。後ほど補足致します。では続きをどうぞ。
若有女人 設欲求男。禮拜供養觀世音菩薩。便生福徳 智慧之男。
(にゃくうーにょーにん せっちょくぐーなん。らいはいくーようかんぜーおんぼーさー。べんしょうふくとく ちーえーしーなん。)
「もし、婦人がいて、設し男の子を欲しいと願うものなら、觀世音菩薩を拝んで大事にすれば、便ち福徳智慧を備えた、大層利口な男の子を生むだろう。」
設欲求女。便生端正 有相之女。宿殖徳本 衆人愛敬。
(せっちょくぐーにょー。べんしょうたんじょう うーそうしーにょー。しゅくじきとくほん しゅーにんあいきょう。)
「もし、女の子を欲しいと願うものならば、便ち美しい顔立ちの女の子を生み、その子は本来から徳を持っているから、気立てよし器量よし。当然、万人に愛され敬われるだろう。」
無尽意。觀世音菩薩。有如是力。若有衆生。恭敬禮拜 觀世音菩薩。
(むーじんにー。かんぜーおんぼーさー。うーにょーぜーりき。にゃくうーしゅーじょう。くーぎょうらいはい かんぜーおんぼーさー。)
「無尽意よ。観世音菩薩にはこれほどの御力がある。誰でも観世音菩薩を恭(うやうや)しく、敬いさえするならば、」
福不唐捐。是故衆生。皆応受持 觀世音菩薩名號。
(ふくふーとうえん。ぜーこーしゅーじょう。かいおうじゅーじー かんぜーおんぼーさーみょうごう。)
「福を空しく捨てるということは決してない。だから皆、観世音菩薩の御名を心にしっかりと保ち、決して忘れないようにしなければいけなかろう。」
二求章:補足
如何でしたでしょうか。
賢い男の子。可愛くて愛される女の子。親なら誰しも願うはずでしょう。お腹を痛めない男は殊更、自分の子供が可愛いに越したことはないと思いますが、美男美女からもとんでもない不細工も産まれますし、トンビが鷹を産むことだってあります。期待してたって運悪く?チョー不細工な子供が産まれるかも知れません。
「オギャーッ!」「ぎゃぁぁあああっ!」(ヤダ!まさかの失敗!?激汗)と思っても、すぐさま作り直すことは出来ませんね(笑。
ここで顕わす二求の願いとは、男の子が「実相般若」。つまり、智慧を得る。女の子が慈悲を得る。この二つの願いを込めて禮拝、拝むということは、そのまま観音さまをお腹に宿す、即ち即身成仏するということであります。
子供に限らず何々を下さい!と切願するのではなく、観音さまの福徳智慧が自分の物となり得る。と、いうことで御座います。先の一節の中の「、福不唐捐(ふくふーとうえん)」は、(唐)=むなしい。(損)=捨てる。という意味から、福をむなしく捨てることは無い。⇒無駄にはならない。⇒福は必ず得られる。という解釈していきます。
しかし、こんなこと、釈経でも読まなきゃサッパリ分かるわけありませんね。でも、こうして人の書いたものでも理釈を解いていくと、読み解きクセがつき、段々自分でも解けて行けるようになったら? もう、しめたものですね。どうぞ、(ヒッヒッヒッ・・)と、独りほくそ笑んで下さい(笑。
シーン5:
前段のまとめ
ここまでで語られてきた、数々の功徳をさらに強調するかのように、雄大な恒河(ごうが):ガンジス河にさえ余ると例える、大勢の菩薩観世音菩薩を供養することによって得られる、人々への福徳の大きさが、釈尊と無盡意菩薩との問答による喩え話で締めくくられます。
無尽意。若有人受持 六十二億恆河沙菩薩名字。
(むーじんにー。にゃくうーにんじゅーじー ろくじゅうにーおくごうがーしゃーぼーさーにょうじ。)
「無尽意よ。もし、人がいて、恒河の六十二億もの砂をも越えよう、大勢の菩薩の御名を覚えこみ、、」
復尽形供養 飮食 衣服 臥具 医薬。於汝意云何。
(ぶーじんぎょうくーよう おんじき えーぶく がーぐー いーやく。おーにょーいーうんが。)
「復(また)、命尽くす限り、生涯に渡って、飲み物や食べ物、衣服、臥具(がぐ)など寝具、医薬を供養したならば、」
是善男子善女人 功徳多不。
(ぜーぜんなんしーぜんにょーにん くーどくたーふー。)
「お前はこれをどう思か。こうした信仰深い、男たちや女たちの功徳は多いだろうか。そうではないだろうか。」
無尽意言。甚多世尊。
(むーじんにーごん。)
無盡意菩薩は答えた。「無論、甚だ多かろうと存じます。世尊よ。」
仏言。若復有人受持 觀世音菩薩名號。
(ぶつごん。みゃくぶーうーにんじゅーじー かんぜーおんぼーさーみょうごう。)
すると、世尊は続けて言葉された。
「(なるほど。そう考えるのは当然であり、確かでもある。しかし・・)もし、復(また)人がいて、觀世音菩薩の御名を心に保ち、」
乃至一時 禮拜供養。是二人福 正等無異。
(ないしーいちじー らいはいくーよう。ぜーにーにんふく しょうとうむーいー。)
「例え一時(いっとき)でも、拝み大事にするならば、是ら(これら)「觀世音」と、一心に禮拝供養し縋る者と、先の両者二人の福は、正に同等であり差異は無いのだ。」
於百千万億劫 不可窮尽。
(おーひゃくせんまんおくこう ふーかーぐうじん。)
「(そのことからも伺え知る福は、)幾百幾千万億を越える時を経ても、到底語り窮め(きわめ)尽くせるものではない。」
無尽意。受持 觀世音菩薩名號。得如是無量無辺福徳之利。
(むーじんにー。じゅーじー かんぜーおんぼーさーみょうごう。とくにょーぜー むーりょうむーへん ふくとくしーりー。)
「無尽意よ。觀世音菩薩の御名を、いつも心に保つことが出来れば、このような量り知れない、限りない福徳の御利益をいただけるのだ。」
以上。【妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五 長行(観音経・全文)/和訳(下)】へと続く。
長行(ちょうぎょう)の前段が終了したところで、今回はお終いです。
次回は後段、シーン6:三十三応身 而為説法から、ご紹介致します。
本日も有難う御座いました。
皆さん銘々に、GWは愉しく過ごされましたか?
1000円渋滞スゴイですね〜。巻き込まれた方、運転ご苦労様でした。
成田で検疫のため、一時間も機内で待たされた方もお疲れ様でした。
亭主、女房、子供たち。皆さん、ご家族を大切にして下さいね。
愛を捧げてくれる恋人。支えてくれる友人を大切して下さいね。
そして親御さんは元より、お年寄りを大切にして下さいね。
今64歳以上の方々は、みな敗戦を経験されています。
そんな方たちが、命を賭けて日本を守ってくれたおかげで私たちがいます。
そんな方たちが、命を磨り減らして養ってくれたから、今の日本経済があります。
ゆめゆめ、それも忘れないようにいたしましょうね。
それではまた。
感謝合掌
法蓮 百拝
2009年05月05日
皆さん。こんにちわ。
『観音経和訳にあたり』
妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五。所謂、観音経は聖天信徒に限らず、般若心経の次ぐらいに宗派問わず、広く人々に読誦されております。自分は秩父三十四観音霊場の巡礼にて、経本を買って観音経を初めて目にし、やがて聖天さまとのご縁を頂き、現在では毎朝晩の勤行で日々お唱えさせて頂いております。
兎も角、観音さまと云えば、お地蔵さんと並び、仏教や信仰にご興味のない方ですら、日本人ならばどなたでもご存知なほど、最もポピュラーな仏さまでありましょう。
ひと言に観音さまと云っても、六観音を始め、そりゃあもう、ありとあらゆる容姿、お名前を持つ観音さまがいらっしゃり、自分のようなIQではハッキリ申し上げて憶えきれません。今回は、そんな多面的な観音さまの中でも、特に代表選手的なプレーンなお経、(観音経)を、全文意訳対比でご紹介したいと思います。
和訳の本は沢山売られておりますし、分かり難い和訳の掲載された経本は幾つも見てきました。こうして今まで度々、お経をWEB上にアップしたりさせて頂いておりますが、経本を持っていない方でも、いちいち本を買わなくとも、WEBページならば、簡単にコピーして印刷することも出来ます。
まずは、偶然アクセスされたとしても、それを取っ掛かりに、お経を読んでみようか・・とさえ、思って頂ければ、大変本望なのであります。そしてそれ以上に深く知りたくなったら、ときどきお経を読んでみたくなったら、本を買ったり経本を求めても良いと思うのであります。
なぜなら、理趣経と同じく観音経も、ただ唱えるだけでも大変功徳のあるお経だからです。お経はただ持っていも(持経)、読んだりしても(誦経)、写したりしても(写経)、それぞれ御利益があると云われています。そうは云われても、読んでも聞いても書いても、何言ってんのかサッパリ分からないのが、日本におけるお経です。
何で仏教が伝来してから千年以上も経つというのに、全部和訳されないのでしょうか。キリスト教が戦国時代から、こんなに受け入れら続けているのは何故でしょか。仏教が伝来した、中国や朝鮮、インドなど。比較的、文化も肌の色も近いというのに、遥かに異文化の宣教師たちの教義が、庶民にとって分かりやすかったからではないでしょうか。いつまで漢訳のまま読ませる気なのでしょうか。まぁそんなことをグダグダ云ってもしょーがないですし、一応意味が分からなくても御利益がある。とはされておりますが・・。
でもどうせ同じ読むなら、少しでも意味が分かれば、なお有り難味が増すと思うのです。いや、確かに増します。また以前に、『お経を暗誦しよう!(お経の覚え方・暗記方法)観音経偈文 』ってテーマを書きましたが、憶える際にも意味が分かった方が、遥かに憶えやすくなるのは間違いありません。
思い返せば自分自身が、二年前に仏教や密教に日々傾倒していったころ、毎日片っ端から仏教関連の本を読んだり、色んなサイトを閲覧したりしていました。そんなとき、「おぅっ!これは使える!」「あぁっ!そうなんや!」と、思えるサイトに出会えたとき、とても嬉しかったものです。
お経でも唱えてみよっかなって思ってみた人は、大抵、短い般若心経から入るでしょうけど、絶対に真っ先に観音経から入る人がいないとは限りません。ですから、そんな人たちにでも少しでも分かり易く、また親しみやすい和訳に仕上げたいと思う次第で御座います。
開稿当初から読んで下さっている、有難い有難い読者の方々へ。
先に侘び入れておきます。「オイオイ!理趣釈経は一体、どうなっとるんじゃい?」ハハァッ!も・もーし訳御座いません(切腹。しかし聞いて下さい。密教の真髄であり、密教色の非常に濃い理趣経よりも、どうしても先に、急いで観音経を和訳する必要がある。と思ったのです。
なぜなら、それほどまでに、観音経は大変情緒的即応的な内容である。と判ったからです。これほどあからさまなほどに、即物的な御利益の説かれたお経は他にありません。ですから皆さんに、一日も速くお伝えしたいのです。なにぶん勉強不足のため、こんな思いだけが先走り、お役に立てる形にならないかも知れません。しかし頑張ります。どうか勝手に頑張らせて下さい。
『そもそも観音経って?』
私たちがメジャーに読誦している、観音経と呼ばれるものは、406年に鳩摩羅什(くまらじゅう)という、なんだか人間ではないような名前の、しかし、あの玄奘三蔵(げんじょう さんぞう)と並び、二大訳経僧(お経の翻訳家)として称される、偉い偉いお坊さんが訳した、「妙法蓮華経」八巻二十八品ものの、二十五番目に当たるお経を、独立したように扱っているのです。その前後にも、286年に『正法華経』(竺法護訳)、601年の『添品妙法蓮華経』(闍那崛多・達磨笈多共訳)が現存する、三つの法華経であります。天台宗、日蓮宗の根本経典であり、諸経の王とも云われます。勿論、自分が爪先ほど籍を置く(笑 真言宗でもよく読誦されます。
『観音経の概略と構成』
観音経は難しいとされる法華経の中でも、云わばスタンダード版。易しい普及版ということで、普通=「普門品(ふもんぼん)」と呼ばれているのであります。全体を大別しますと、「長行(じょうごう)」と、「偈頌(げじゅ)」に分かれます。長行とは、前半の散文体の文章を、偈頌とは、前半の大意を韻文(いんぶん)=詩にして後半、歌い上げているものです。
よく表現される、偈文(げもん)とは、一定の文字数に制限するなどして、詩のような体裁にして書かれた文章のことを言います。ですから功徳(大意)部分は、偈文とも云われます。
前半の散文体は、さらに前編後編に分けられます。どちらも問答式になっていて、前編が観音さまの御名(みな)を称えることの功徳について。後編が観音さまの活躍ぶりが綴られています。これらを大体、上・中・下と三分割してお伝えしたいと思います。
メインキャストは、釈尊(お釈迦様)と、無盡意(むじんい)菩薩です。というより、ほとんど釈尊の独壇場です。無尽意菩薩?あまり聞いたことがありませんね。画像の彼です。良くお顔が分かりません。特徴のない菩薩は皆同じに見えます。三十日秘仏の二十一日仏だそうです。
三十日秘仏ってナンですか?すいません。今回そこまで説明している時間がありません。リンクからお勉強して下さい。画像も左リンクの、都内巡礼・下谷七福神巡りでお邪魔した、台東区の空飛ぶお不動様 正寶院(しょうぼういん)から借景です。
因みにここの『仏様の世界』や『やさしい仏教入門』などのコンテンツは、大抵何を検索しててもヒットするくらい充実しています。かつては二〜三時間平気で読みふけることが出来るほど、とても参考になる内容です。このブログを読み終わったら是非、アクセスして見て下さい。恐れ入りますが途中下車は出来ません(笑。
拝啓。ご住職様。いつも有難う御座います。頂いたお札は未だ大切にお祀りしておりますよ。陳謝合掌。
『観音さま人気の秘密』
瀬戸内寂聴:著の、『愛と救いの観音経』では、なぜ私たちに観音さまが馴染み親しむのか。その理由を五つに分けて語られています。
第一に、仏様は男でも女でもない中性とされながらも、観音さまの持つ、その女性的な美しさと母性愛の優しさ。この二つに人間は無条件に惹かれるとされています。
『日本霊異記』や、『今昔物語集』にも、観音さまの美しさに淫欲を抱いた男の話が出てくるそうですが、そういえば、かの聖天さまも、十一面観音さまの妖艶さに惹かれ、仏教に帰依したと前々回書きましたね。
また、田中治郎 /菊村紀彦 著の、『面白いほどよくわかる親鸞』では、自らの性欲の強さに悩み苦しみ続ける親鸞聖人に、六角堂に篭った95日目に夢の中に救世観音がこれまた美しい女性となって現れ、添い遂げ宥めてやろうと云われ、その後に親鸞は若く健康的で美しい妻、恵信尼(えしんに)と出逢ったと伝えられています。
ちょっと脱線:宜しいでしょうか?
自分にとって親鸞聖人は、遍照金剛空海様に続き、大好きな僧侶の一人であります。その著書、『愚禿鈔』(ぐとくしょう)に見られるように、自らを愚禿、つまり愚かな禿(はげ)と称し、また非僧非俗(ひそうひぞく=僧に非ず俗に非ず)と称し、僧侶でも俗人でもない生き方を貫きました。非難覚悟で仏教界のタブーである、「肉食妻帯(にくじきさいたい)」を公然と破ったのにも、表向きは仏道を精進し戒律を守っているかのように振る舞い、その実、妾を囲っていたような高僧に比べ、よほど親鸞聖人の正直な、己の心と向き合った勇気に感服致します。
男を巧くコントロール出来ずに、イライラカリカリされている、(*注:貴女が悪いという意味ではありません。貴女の美容に悪いのですよ。)私は一番、幸せになりたい!と願う、恋人や夫を持つ女性読者の皆さーん!。お待たせしましたー。元、カリスマ?モテモテ恋愛セミナー講師がぶっちゃけマスよー。
イケイケであったり、複雑ぶっている男ほど、実は非常に単純なものであります。 「女は男の胃袋をつかめ!!」 とも云われます。自分も三十代あたりまではそうでした。しかし、料理を遥かに凌駕する男心を掴む必勝の方法は、ズバリ!男を(観音さまのように)「心ごと抱(いだ)く」ことであります。
そうでなくとも、今般軟弱化していく男たちを甘やかせと云っているのではありません。女性だけが譲歩するべきだとも云っておりません。あくまで、御自身のため。貴女の幸せのための提言で御座います。
そうそう、たまたま見つけた、真宗の僧侶らしき方のHPに、非常に興味深い記述がありましたので少々引用させて頂きますと、
『居直りと言われるかもしれないが、表向き独身を取り繕いながら、実は妾を囲う坊主に比べれば、恥ずかしながらも、入籍して正妻を持つ方が、大変である。どう大変かは、坊主も一般人も変わるところはない。私を例に取れば、日々、愚妻に締めつけられている。「部屋を散らかすな」、「後片付けをしろ」、「犬の散歩に行け」、「犬の餌を作れ」、「まじめに働け」、「好き嫌いを言うな」、「早く寝ろ」、「早く起きろ」、「食べたいものがあるなら買ってこい」、「クリーニング屋へ行ってこい」、等々、並べ始めればキリがない。(滂沱の涙)』引用元:最低山極悪寺 珍宝院釈法伝
いや〜スゴイ。見事によく在りがちなパターンでは御座いましょうが、それだけに余りにリアルで、失礼と思いつつ思わず読みながら、「ぎゃははははっ」と、声を出して爆笑してしまいました。他にも女房殿に散々と云われている方はいらっしゃるのではないでしょうか。
例えば、「日曜大工ぐらいしろ」、「車を洗え」、「便座のフタを閉めろ」、「小便をこぼすな」、「早く風呂に入れ」、「早くウンコをしろ」、「臭いウンコはするな」、「臭い屁をこぐな」、「ゴミを捨てて来い」、「もっと稼げ」・・本当にキリがありませんね(笑。
これなどは正に、慈愛ではなく、母親の都合で子供をぞんざいに振り回すような扱いですね。いえいえ、世の肩身の狭い亭主殿の味方をしようってんじゃありません。ただ、これではお互いに不満が堪る一方です。先の真宗の僧侶などは、女房を「妻と云う名の魔物」とまで称していらっしゃる。まぁ半分以上、お笑いでまとめようとされているとは存じ上げますが、自分の選んだ相手を卑下することは、自分をも同程度以下に卑下することになりかねないと思います。
兎に角、このままでは男たちは益々萎縮していくでしょう。やはり男は奮い立たなければなりません。分かっているのです。本当は。男は。生命体として女性に勝てないことを。認めたくないだけなのです。所詮、男は母なる女性から生まれし産物。決してマザコンでなくとも、母なる慈愛に男は安堵せずには居られません。
また、そうしてやることで、バリバリ仕事もし、家事や子育ても喜んで手伝ってくれるでしょう。一度お試しアレ。但し、自分から聞いたとは口外しないで下さい。なにがどうなっても責任は持てません(笑。
同様に男性もまた、女性を観音さまだと思えれば、合掌するほどにリスペクトする気持ちも芽生えるのではないでしょうか。
どちらも難しいですか?そうですね〜。・・でもホラッ!世界のイチローも云ってるじゃないですか。「小さな一歩の積み重ねでしか、決して遠くへは行けない。」と。違うか?(笑。男と女というものは、仏教より難しいかもですね。しかし、仏教的生き方や心の捉え方次第では、随分と男も女も幸せに暮らしていけるはずだと思うのは、自分だけでしょうか。「当たり前の反対法則」など、実は仏教を活かし、男も女も幸福に暮らせる手立ては幾らでもあるのです。いつかそんなテーマでも書いてみたいと思います。
話しが随分と逸れました。観音様の人気理由の二番目に、親しみがあげられておりました。そのお姿は、威厳の強すぎる如来でもなく、怖い形相の明王でもなく、最も人也した菩薩のお姿であると。
菩薩とは、悟りを求め修行する人々との意味合いも含みますから、私たち凡夫が、どんなに頑張っても如来にはなれなくとも、菩薩行を懸命に積めば菩薩になれるかも知れない。手が届くかも知れない目標、生きる指標でもあるわけですね。
第三の理由に、観音さまは母性のシンボルであるとしています。第一の理由と被ってる気がしますが、私たちが幼い頃、甘えなついた母親の母性愛。イタズラをして少々叱られたことがあろうが、父にこっ酷く怒られたときに、そっと慰めてくれたり、半分ズル休みで学校を休んだとき、普段より優しく看病してくれて、一生休んでおきたいと思ったり、ときに励まし自信を付けてくれたり、悔しいときは一緒に泣いてくれたりと、自分はそんな母の優しさが、今でも克明に記憶に残されています。男には良く分かりませんが見ている限りでも、母にとって子が幾つになろうが子は子のままのようです。
仏教の戒律において、色欲を人の煩悩の中で取分け最も苦しむ根源とし、江戸時代であれば、よくて島流し・破門。悪ければ極刑獄門と、特に厳しく女犯(にょぼん)の罪を戒めてきました。しかし、「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う觀世音」近松門左衛門 /祐田善雄 著:『曽根崎心中/冥途の飛脚』
からも読み取れるように、古人たちにも観音さまは如何に親しまれていたのかも分かります。先ほどの親鸞聖人の逸話が今に語り継がれるのも、女犯の罪さえ許して下さる、観音さまのご慈愛と優しさに、性欲に苦しむ私たち凡夫が救われたからでありましょう。
第四の理由として、"現世利益(げんせりやく)と、抜苦与楽(ばっくよらく)"と、書かれています。言い切ってしまえば、観音経の中には、およそ私たち人間が想像し得る幸福の全ては、観音さまさえ信じれば、全て与えられる。と書かれています。ことごとくの不幸も苦しみも、一切救って下さると説かれております。全くなんとも頼もしい限りの観音さまの威神力です。
卑しいかな、つまらないかな。・・そう思いつつも、果てしなく現世利益を求めてしまうのが私たち凡夫であります。勿論、生きているうち。出来れば、そうなるべく早く。願いが叶いますように。そう祈らざるを得ない私たちの切なる思いを、叶えて下さるのが観音さまですから、有難い有難い。としか、いいようがありません。
最後に第五の理由が、"観音の威神力の応験(おうげん)"です。応験とは、応じる験(しるし)ですから、あからさまな御利益の体験談みたいなものでしょうか。それが実に速く、さらに保証までされているというのです。
猛烈な法華経信者である日蓮聖人は、現実に観音さまの霊験を体験された一人として、こんな事件があったそうです。鏑矢光和 著:『竜の口法難の一日』では、文永八(1271)年九月十二日、既成仏教をこき下ろすとして、幕府に捕らわれた日蓮聖人は、鎌倉竜の口の処刑場において、依智三郎直重が今にも斬首しようとした瞬間、暴風雨が起こり篝火は消え、刀が鍔元から三つに折れてしまい、尚且つ使者が早馬で駆けつけ、処刑中止命令まで下されたそうです。
観音経の偈文にあります、「惑遭王難苦 臨形欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊・・」。和訳しますと、「或いは、王難の苦に遭い、処刑の場に立たされ、今正に命が終わろうとしても、彼の観音の力を念ずれば、刀が次々段々に壊れることだろう。」を、正に自らの命を以って応験された最たる実例といえるでしょう。
全三十三巻ある、『今昔物語集』の第十六巻:本朝付仏法は、全篇が観音さまの霊験譚なる様々な実例で埋められているそうです。今昔物語が成立したのは平安末期以降とされています。その当時の人々が、如何に率直に観音さまを信じ、霊験に浴していたかが分かるそうです。良い事も悪いことも、正しいことも誤ったことも、即座に手に入る情報の波に揉みくちゃにされながら暮らす私たち現代人にとって、何が本当で何がそうでないのか。なかなか見極めるのは困難です。
聖天さまの功徳にせよ、微塵も疑ってはいけないともいいます。だから純粋に信じたい。でも違っていたらどうしょう。信じたいんだから、確証をくれとさえ要求してしまいます。しかし、私たちの周りに飛び交う情報は全て本当に必要なのでしょうか。ときには大らかに遮断してしまい、何も確証のなかった当時の人々のように、心から純粋に観音さまのご霊験を信じてみるのも、反って気が楽になるような気がします。
さぁ、例の如く随分と前置きが長くなって申し訳御座いませんでしたが、いよいよ、
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『観音経和訳にあたり』
妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五。所謂、観音経は聖天信徒に限らず、般若心経の次ぐらいに宗派問わず、広く人々に読誦されております。自分は秩父三十四観音霊場の巡礼にて、経本を買って観音経を初めて目にし、やがて聖天さまとのご縁を頂き、現在では毎朝晩の勤行で日々お唱えさせて頂いております。
兎も角、観音さまと云えば、お地蔵さんと並び、仏教や信仰にご興味のない方ですら、日本人ならばどなたでもご存知なほど、最もポピュラーな仏さまでありましょう。
ひと言に観音さまと云っても、六観音を始め、そりゃあもう、ありとあらゆる容姿、お名前を持つ観音さまがいらっしゃり、自分のようなIQではハッキリ申し上げて憶えきれません。今回は、そんな多面的な観音さまの中でも、特に代表選手的なプレーンなお経、(観音経)を、全文意訳対比でご紹介したいと思います。
和訳の本は沢山売られておりますし、分かり難い和訳の掲載された経本は幾つも見てきました。こうして今まで度々、お経をWEB上にアップしたりさせて頂いておりますが、経本を持っていない方でも、いちいち本を買わなくとも、WEBページならば、簡単にコピーして印刷することも出来ます。
まずは、偶然アクセスされたとしても、それを取っ掛かりに、お経を読んでみようか・・とさえ、思って頂ければ、大変本望なのであります。そしてそれ以上に深く知りたくなったら、ときどきお経を読んでみたくなったら、本を買ったり経本を求めても良いと思うのであります。
なぜなら、理趣経と同じく観音経も、ただ唱えるだけでも大変功徳のあるお経だからです。お経はただ持っていも(持経)、読んだりしても(誦経)、写したりしても(写経)、それぞれ御利益があると云われています。そうは云われても、読んでも聞いても書いても、何言ってんのかサッパリ分からないのが、日本におけるお経です。
何で仏教が伝来してから千年以上も経つというのに、全部和訳されないのでしょうか。キリスト教が戦国時代から、こんなに受け入れら続けているのは何故でしょか。仏教が伝来した、中国や朝鮮、インドなど。比較的、文化も肌の色も近いというのに、遥かに異文化の宣教師たちの教義が、庶民にとって分かりやすかったからではないでしょうか。いつまで漢訳のまま読ませる気なのでしょうか。まぁそんなことをグダグダ云ってもしょーがないですし、一応意味が分からなくても御利益がある。とはされておりますが・・。
でもどうせ同じ読むなら、少しでも意味が分かれば、なお有り難味が増すと思うのです。いや、確かに増します。また以前に、『お経を暗誦しよう!(お経の覚え方・暗記方法)観音経偈文 』ってテーマを書きましたが、憶える際にも意味が分かった方が、遥かに憶えやすくなるのは間違いありません。
思い返せば自分自身が、二年前に仏教や密教に日々傾倒していったころ、毎日片っ端から仏教関連の本を読んだり、色んなサイトを閲覧したりしていました。そんなとき、「おぅっ!これは使える!」「あぁっ!そうなんや!」と、思えるサイトに出会えたとき、とても嬉しかったものです。
お経でも唱えてみよっかなって思ってみた人は、大抵、短い般若心経から入るでしょうけど、絶対に真っ先に観音経から入る人がいないとは限りません。ですから、そんな人たちにでも少しでも分かり易く、また親しみやすい和訳に仕上げたいと思う次第で御座います。
開稿当初から読んで下さっている、有難い有難い読者の方々へ。
先に侘び入れておきます。「オイオイ!理趣釈経は一体、どうなっとるんじゃい?」ハハァッ!も・もーし訳御座いません(切腹。しかし聞いて下さい。密教の真髄であり、密教色の非常に濃い理趣経よりも、どうしても先に、急いで観音経を和訳する必要がある。と思ったのです。
なぜなら、それほどまでに、観音経は大変情緒的即応的な内容である。と判ったからです。これほどあからさまなほどに、即物的な御利益の説かれたお経は他にありません。ですから皆さんに、一日も速くお伝えしたいのです。なにぶん勉強不足のため、こんな思いだけが先走り、お役に立てる形にならないかも知れません。しかし頑張ります。どうか勝手に頑張らせて下さい。
『そもそも観音経って?』
私たちがメジャーに読誦している、観音経と呼ばれるものは、406年に鳩摩羅什(くまらじゅう)という、なんだか人間ではないような名前の、しかし、あの玄奘三蔵(げんじょう さんぞう)と並び、二大訳経僧(お経の翻訳家)として称される、偉い偉いお坊さんが訳した、「妙法蓮華経」八巻二十八品ものの、二十五番目に当たるお経を、独立したように扱っているのです。その前後にも、286年に『正法華経』(竺法護訳)、601年の『添品妙法蓮華経』(闍那崛多・達磨笈多共訳)が現存する、三つの法華経であります。天台宗、日蓮宗の根本経典であり、諸経の王とも云われます。勿論、自分が爪先ほど籍を置く(笑 真言宗でもよく読誦されます。
『観音経の概略と構成』
観音経は難しいとされる法華経の中でも、云わばスタンダード版。易しい普及版ということで、普通=「普門品(ふもんぼん)」と呼ばれているのであります。全体を大別しますと、「長行(じょうごう)」と、「偈頌(げじゅ)」に分かれます。長行とは、前半の散文体の文章を、偈頌とは、前半の大意を韻文(いんぶん)=詩にして後半、歌い上げているものです。
よく表現される、偈文(げもん)とは、一定の文字数に制限するなどして、詩のような体裁にして書かれた文章のことを言います。ですから功徳(大意)部分は、偈文とも云われます。
前半の散文体は、さらに前編後編に分けられます。どちらも問答式になっていて、前編が観音さまの御名(みな)を称えることの功徳について。後編が観音さまの活躍ぶりが綴られています。これらを大体、上・中・下と三分割してお伝えしたいと思います。
メインキャストは、釈尊(お釈迦様)と、無盡意(むじんい)菩薩です。というより、ほとんど釈尊の独壇場です。無尽意菩薩?あまり聞いたことがありませんね。画像の彼です。良くお顔が分かりません。特徴のない菩薩は皆同じに見えます。三十日秘仏の二十一日仏だそうです。三十日秘仏ってナンですか?すいません。今回そこまで説明している時間がありません。リンクからお勉強して下さい。画像も左リンクの、都内巡礼・下谷七福神巡りでお邪魔した、台東区の空飛ぶお不動様 正寶院(しょうぼういん)から借景です。
因みにここの『仏様の世界』や『やさしい仏教入門』などのコンテンツは、大抵何を検索しててもヒットするくらい充実しています。かつては二〜三時間平気で読みふけることが出来るほど、とても参考になる内容です。このブログを読み終わったら是非、アクセスして見て下さい。恐れ入りますが途中下車は出来ません(笑。
拝啓。ご住職様。いつも有難う御座います。頂いたお札は未だ大切にお祀りしておりますよ。陳謝合掌。
『観音さま人気の秘密』
第一に、仏様は男でも女でもない中性とされながらも、観音さまの持つ、その女性的な美しさと母性愛の優しさ。この二つに人間は無条件に惹かれるとされています。
『日本霊異記』や、『今昔物語集』にも、観音さまの美しさに淫欲を抱いた男の話が出てくるそうですが、そういえば、かの聖天さまも、十一面観音さまの妖艶さに惹かれ、仏教に帰依したと前々回書きましたね。
ちょっと脱線:宜しいでしょうか?
自分にとって親鸞聖人は、遍照金剛空海様に続き、大好きな僧侶の一人であります。その著書、『愚禿鈔』(ぐとくしょう)に見られるように、自らを愚禿、つまり愚かな禿(はげ)と称し、また非僧非俗(ひそうひぞく=僧に非ず俗に非ず)と称し、僧侶でも俗人でもない生き方を貫きました。非難覚悟で仏教界のタブーである、「肉食妻帯(にくじきさいたい)」を公然と破ったのにも、表向きは仏道を精進し戒律を守っているかのように振る舞い、その実、妾を囲っていたような高僧に比べ、よほど親鸞聖人の正直な、己の心と向き合った勇気に感服致します。
男を巧くコントロール出来ずに、イライラカリカリされている、(*注:貴女が悪いという意味ではありません。貴女の美容に悪いのですよ。)私は一番、幸せになりたい!と願う、恋人や夫を持つ女性読者の皆さーん!。お待たせしましたー。元、カリスマ?モテモテ恋愛セミナー講師がぶっちゃけマスよー。
イケイケであったり、複雑ぶっている男ほど、実は非常に単純なものであります。 「女は男の胃袋をつかめ!!」 とも云われます。自分も三十代あたりまではそうでした。しかし、料理を遥かに凌駕する男心を掴む必勝の方法は、ズバリ!男を(観音さまのように)「心ごと抱(いだ)く」ことであります。
そうでなくとも、今般軟弱化していく男たちを甘やかせと云っているのではありません。女性だけが譲歩するべきだとも云っておりません。あくまで、御自身のため。貴女の幸せのための提言で御座います。
そうそう、たまたま見つけた、真宗の僧侶らしき方のHPに、非常に興味深い記述がありましたので少々引用させて頂きますと、
『居直りと言われるかもしれないが、表向き独身を取り繕いながら、実は妾を囲う坊主に比べれば、恥ずかしながらも、入籍して正妻を持つ方が、大変である。どう大変かは、坊主も一般人も変わるところはない。私を例に取れば、日々、愚妻に締めつけられている。「部屋を散らかすな」、「後片付けをしろ」、「犬の散歩に行け」、「犬の餌を作れ」、「まじめに働け」、「好き嫌いを言うな」、「早く寝ろ」、「早く起きろ」、「食べたいものがあるなら買ってこい」、「クリーニング屋へ行ってこい」、等々、並べ始めればキリがない。(滂沱の涙)』引用元:最低山極悪寺 珍宝院釈法伝
いや〜スゴイ。見事によく在りがちなパターンでは御座いましょうが、それだけに余りにリアルで、失礼と思いつつ思わず読みながら、「ぎゃははははっ」と、声を出して爆笑してしまいました。他にも女房殿に散々と云われている方はいらっしゃるのではないでしょうか。
例えば、「日曜大工ぐらいしろ」、「車を洗え」、「便座のフタを閉めろ」、「小便をこぼすな」、「早く風呂に入れ」、「早くウンコをしろ」、「臭いウンコはするな」、「臭い屁をこぐな」、「ゴミを捨てて来い」、「もっと稼げ」・・本当にキリがありませんね(笑。
これなどは正に、慈愛ではなく、母親の都合で子供をぞんざいに振り回すような扱いですね。いえいえ、世の肩身の狭い亭主殿の味方をしようってんじゃありません。ただ、これではお互いに不満が堪る一方です。先の真宗の僧侶などは、女房を「妻と云う名の魔物」とまで称していらっしゃる。まぁ半分以上、お笑いでまとめようとされているとは存じ上げますが、自分の選んだ相手を卑下することは、自分をも同程度以下に卑下することになりかねないと思います。
兎に角、このままでは男たちは益々萎縮していくでしょう。やはり男は奮い立たなければなりません。分かっているのです。本当は。男は。生命体として女性に勝てないことを。認めたくないだけなのです。所詮、男は母なる女性から生まれし産物。決してマザコンでなくとも、母なる慈愛に男は安堵せずには居られません。
また、そうしてやることで、バリバリ仕事もし、家事や子育ても喜んで手伝ってくれるでしょう。一度お試しアレ。但し、自分から聞いたとは口外しないで下さい。なにがどうなっても責任は持てません(笑。
同様に男性もまた、女性を観音さまだと思えれば、合掌するほどにリスペクトする気持ちも芽生えるのではないでしょうか。
どちらも難しいですか?そうですね〜。・・でもホラッ!世界のイチローも云ってるじゃないですか。「小さな一歩の積み重ねでしか、決して遠くへは行けない。」と。違うか?(笑。男と女というものは、仏教より難しいかもですね。しかし、仏教的生き方や心の捉え方次第では、随分と男も女も幸せに暮らしていけるはずだと思うのは、自分だけでしょうか。「当たり前の反対法則」など、実は仏教を活かし、男も女も幸福に暮らせる手立ては幾らでもあるのです。いつかそんなテーマでも書いてみたいと思います。
話しが随分と逸れました。観音様の人気理由の二番目に、親しみがあげられておりました。そのお姿は、威厳の強すぎる如来でもなく、怖い形相の明王でもなく、最も人也した菩薩のお姿であると。
菩薩とは、悟りを求め修行する人々との意味合いも含みますから、私たち凡夫が、どんなに頑張っても如来にはなれなくとも、菩薩行を懸命に積めば菩薩になれるかも知れない。手が届くかも知れない目標、生きる指標でもあるわけですね。
第三の理由に、観音さまは母性のシンボルであるとしています。第一の理由と被ってる気がしますが、私たちが幼い頃、甘えなついた母親の母性愛。イタズラをして少々叱られたことがあろうが、父にこっ酷く怒られたときに、そっと慰めてくれたり、半分ズル休みで学校を休んだとき、普段より優しく看病してくれて、一生休んでおきたいと思ったり、ときに励まし自信を付けてくれたり、悔しいときは一緒に泣いてくれたりと、自分はそんな母の優しさが、今でも克明に記憶に残されています。男には良く分かりませんが見ている限りでも、母にとって子が幾つになろうが子は子のままのようです。
仏教の戒律において、色欲を人の煩悩の中で取分け最も苦しむ根源とし、江戸時代であれば、よくて島流し・破門。悪ければ極刑獄門と、特に厳しく女犯(にょぼん)の罪を戒めてきました。しかし、「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う觀世音」近松門左衛門 /祐田善雄 著:『曽根崎心中/冥途の飛脚』
第四の理由として、"現世利益(げんせりやく)と、抜苦与楽(ばっくよらく)"と、書かれています。言い切ってしまえば、観音経の中には、およそ私たち人間が想像し得る幸福の全ては、観音さまさえ信じれば、全て与えられる。と書かれています。ことごとくの不幸も苦しみも、一切救って下さると説かれております。全くなんとも頼もしい限りの観音さまの威神力です。
卑しいかな、つまらないかな。・・そう思いつつも、果てしなく現世利益を求めてしまうのが私たち凡夫であります。勿論、生きているうち。出来れば、そうなるべく早く。願いが叶いますように。そう祈らざるを得ない私たちの切なる思いを、叶えて下さるのが観音さまですから、有難い有難い。としか、いいようがありません。
最後に第五の理由が、"観音の威神力の応験(おうげん)"です。応験とは、応じる験(しるし)ですから、あからさまな御利益の体験談みたいなものでしょうか。それが実に速く、さらに保証までされているというのです。
猛烈な法華経信者である日蓮聖人は、現実に観音さまの霊験を体験された一人として、こんな事件があったそうです。鏑矢光和 著:『竜の口法難の一日』では、文永八(1271)年九月十二日、既成仏教をこき下ろすとして、幕府に捕らわれた日蓮聖人は、鎌倉竜の口の処刑場において、依智三郎直重が今にも斬首しようとした瞬間、暴風雨が起こり篝火は消え、刀が鍔元から三つに折れてしまい、尚且つ使者が早馬で駆けつけ、処刑中止命令まで下されたそうです。
全三十三巻ある、『今昔物語集』の第十六巻:本朝付仏法は、全篇が観音さまの霊験譚なる様々な実例で埋められているそうです。今昔物語が成立したのは平安末期以降とされています。その当時の人々が、如何に率直に観音さまを信じ、霊験に浴していたかが分かるそうです。良い事も悪いことも、正しいことも誤ったことも、即座に手に入る情報の波に揉みくちゃにされながら暮らす私たち現代人にとって、何が本当で何がそうでないのか。なかなか見極めるのは困難です。
聖天さまの功徳にせよ、微塵も疑ってはいけないともいいます。だから純粋に信じたい。でも違っていたらどうしょう。信じたいんだから、確証をくれとさえ要求してしまいます。しかし、私たちの周りに飛び交う情報は全て本当に必要なのでしょうか。ときには大らかに遮断してしまい、何も確証のなかった当時の人々のように、心から純粋に観音さまのご霊験を信じてみるのも、反って気が楽になるような気がします。
さぁ、例の如く随分と前置きが長くなって申し訳御座いませんでしたが、いよいよ、
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2008年12月16日
お経を唱えることをフツー、『読誦』(どくじゅ)又は『読経』(どきょうorどくきょう)という。
いずれも『読』という字を用いているので、『読む』ことが基本となる。つまり、声を出す出さないに関わらず、
経本を『見ながら』読む。これが正式な作法でもある。一般的には声を出して読むことと解されている。毎朝晩の勤行=お勤めそのものも読経である。
熱心な信徒の多い、聖天さまの祀られる生駒山宝山寺や待乳山本龍院では、『静かにお参りして下さい』との注意書きがあり、
傍迷惑にならぬよう、みな一様に黙々と微かな小声や心の中でお経を読んでいる。
因みにこれは、『看経』(かんきん)と云い、黙読のことである。お経の『経』を『きん』と発音するのは、唐の読み方だそうで、主に禅宗で使われている。
声を出してお経を読むのは、『諷経』(ふぎんorふきょう)や、『諷誦』(ふじゅ)と云い、特にお経を
読む趣旨などを述べる文章を読むことも諷誦という。願文(がんもん)や表白(ひょうびゃく)のように趣旨を述べる文を諷誦文ともいう。
そこでお経を諳(そら)んじて読むこと=暗誦(あんしょう)することを、『誦経』(ずきょう)という。
諳んじるにはいうまでもなく、暗記してしまうこと。お経を暗記するといえば、連想されるのは虚空蔵求聞持法である。
弘法大師空海、お大師さまも若き日の著書、「三教指帰」の中にも「爰有一沙門。呈余虚空蔵求聞持法。其経説。若人依法。誦此真言百万遍。即得一切教法文義暗記」
(一沙門より虚空蔵求聞持法を授かる。法に依って此の真言百万遍を誦すれば、一切の教法の文義を暗記する事を得る。)とあり、
善無畏訳「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」の中には、「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」
(お経を一度見聞きする事が有ればお経の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無い。)ともある。
ともあれ今回はお経を暗誦、暗記することが良いか悪いか、正式な作法か否かなどその是非を問わず、お経を暗誦(暗唱)する方法をお伝えしたい。
お経を暗記、暗誦するメリットとしては、なんといってもいつでもどこでもお勤め・読経が出来るという点である。
歩き遍路や巡礼に行かれた方ならご経験がおありであろう。懺悔文から開経偈〜般若心経〜回向まで、これに十三佛真言まで
所謂真言宗の仏前勤行作法の一連を覚えてしまえば、いちいちお勤め時に見なくても済む。
自分も歩き遍路の途中で100グラムでも軽くしたかったため、八十八ヶ所遍路用の経本を自宅へ送り返した経験がある。
各寺院のご本尊のご真言は、本堂前に書かれてあることが多いし、十三佛真言ぐらいは覚えてしまえば大抵のご本尊はその中にある。
とにかく般若心経だけでもまずは覚えておくと、神社でも唱えることが出来るので敢えて巡礼に出向いたときでなくとも、
偶然どこでもぶらりと立ち寄った寺院寺社で唱えることが出来る。うっかり経本を忘れてしまった時でも唱えられるのは強みであろう。
ただ一つ、ご注意戴きたいのは、最初は必ずお経を『読む』ことから始めて戴きたい。まぁまさか、お経をCDなどの音声から聞いて
カラオケのように文字を見ずして覚えてしまう人はいないであろうが、後述するお経の功徳には、ただお経を唱えるよりも意味を理解
した方がより功徳が戴けるからであり、更にいえば意味を理解し深めて行った方がより暗誦も早くスムーズに覚えられる。
自分も最初に覚えた般若心経は、その意味を読み解き、更には写経を繰り返し、何度も書いて唱えて理解を深めいった結果、暗誦できた経験がある。
意味を鑑みる際に、基本的にお経は漢文を音読みで発音して読むので耳で聴くのは音読み、それを部分的に訓読みに直して理解すると分かりやすい。
音読みとは日本へ輸入された時系列順にいうと、「呉音(ごおん)」、「漢音(かんおん)」、「唐音(とうおん)」のことである。
理趣経のときに少々お話ししたが、殆んどのお経や今に残る仏教用語は呉音で発音される。理趣経などお経によって、又は禅宗など宗派によって漢音で読むこともある。
まぁしかし、漢字検定をやるんじゃないんだし、いちいちどれが呉音だの漢音だ、唐音だのって分かる必要はない。
現代の日本でもそのまま通用する音読みは幾つもある。例えば「行」という文字一つとっても、修行(しゅぎょう)、行者(ぎょうじゃ)=呉音。
旅行(りょこう)、行軍(こうぐん)=漢音。行燈(あんどん)、行脚(あんぎゃ)=唐音。などである。
こう見ると、二字熟語の全てが音読みではないが二字熟語を沢山知ってる人は、お経も理解し易いかも知れない。
あとは熟語になっていない部分を訓読みで理解していけば、解説書を読まずとも大体はお経を解きほぐして行けるのではないであろうか。
般若心経から始めた自分が今、暗誦できるお経は
1、般若心経
2、佛説摩訶迦羅大黒天神経
3、佛説明王陀羅尼愛染経
4、観音経偈文
5、大聖歓喜天使咒法経偈文
お経以外に、祝詞系で覚えたのは
6、稲荷祝詞
7、龍神祝詞
8、天津祝詞
短いものだと他には、舎利禮文、弥陀讃、理趣経百字の偈
歓喜天和讃(生駒、待乳山各々)、仏前勤行次第(高野山真言宗)など。
この内、皆さんに暗誦をオススメしたのは、まずは入門編として般若心経。そして観音経偈文であろうか。
般若心経の268文字(真言宗では冒頭に仏説を入れるため)に対して、観音経偈文が598文字、大聖歓喜天使咒法経偈文は515文字(内、梵字が42文字)。
大体、般若心経の倍ぐらいの文字数。理屈で言えば、般若心経を二つ分覚える気になれば出来る。この理屈で行けばどんな長いお経も覚えられる筈。
『お経を覚えるのに技術は要らない』
では具体的にどうやってお経を覚えるのか?お経を覚えるのに特別な技術や努力は要らない。勿論、年齢も関係ない。覚えようとする必要もない。
自分の経験からしか皆さんへお伝え出来ないが、自分の場合は最初の般若心経のときだけ、覚えようと努力した。
一生懸命意味を解きほぐしていったり、何も見ずに一語一句間違えずに写経を書き続けて行ったりした。けれど、次に覚えた
佛説摩訶迦羅大黒天神経からは、敢えて努力らしい努力はしていない。早い話し気がついたら見ずにお経が唱えられるようになっていた。
このことからも、お経を覚えるのに一番大事なのは、『能く読誦すべし』。これに尽きるといえよう。毎日毎日、心を込めてお経を挙げさせていただく。
身も蓋もないかも知れないが、これが正直最も暗誦への早道なのである。皆さんも毎日読んでいるとある事に気付かれまいか。
例えば経本の左端、ページの最後の文を読みながら、もう次のページの冒頭が勝手に口に出てくるので急いでめくる必要がないことを。
このモードに入ってくると、そのお経の暗誦までもう一歩というところまで来ている証拠である。
『お経を覚える五つのステップ』
1、毎日ひたすら能く読誦する
2、振り仮名を読まずに漢字を読む
3、行数を頭にイメージし、文字を見ずにページをめくる
4、覚えにくい部分があれば繰り返す
5、人に聞いて貰い、卒業試験を受ける
先の次のページの冒頭が自然と口に出てくるようになれば、ステップ2の、振り仮名
を出来るだけ見ないように、漢字を見てお経を読んでいく。
それが出来る様になると同時ぐらいに、お経をほぼ諳(そら)んじられるようになっているから、今何行目を唱えているかをイメージする。これがステップ3。
この行数をイメージするのは結構有効的である。自分が観音経偈文を覚えるときに、朝は待乳山聖天さまの勤行次第、夜は生駒山聖天さまの
勤行次第を読んでいたら、どうも観音経を覚える際に突っかかるので何故かと思ったら、待乳山と生駒山の経本では同じ観音経でも、文字の大きさから
行数が違うので、ページ数に誤差が生じてイメージしにくかったのである。そこで、面倒だったが観音経だけは朝も夜も待乳山の経本に統一すると、
イメージもしやすくなってすぐに覚えられた。在家の方でそんな何冊も経本を持つ人はいらっしゃらないであろうが、自分が一番読みやすいもので統一された方が覚えやすかろうと思う。
行数と同時に全体をビジュアル的にを覚えてしまうと、諳んじてお経を唱えながら、
(今、何行目だな・・)(あと一行で次のページだな・・)(ん、今のは上から三つ目の文だな・・)
と自分である程度、間違っていないかどうか確認出来るようになる。
ステップ4は、どうしても覚え難い部分ってのは人によってあるかも知れない。自分もそんなときは、かつてピアノを弾いていたときの練習法を利用し、
その部分だけを繰り返し重複して唱えてみる。大事なのは、苦手な部分を繰り返した後は、その前後部分も取り込み、徐々に範囲を広げて全体像を
イメージ的に捉えて行くこと。これをやっておかないと全体が繋がらなくなる。例えば、六行目が苦手ならそこを繰り返し、次に五行目から七行目まで唱えるというやり方である。
最後のステップ5は、自信がついたら卒業試験のつもりでお経を暗誦し、人に聞いてもらう。
自分だけだと、見てはいけないのでお経が間違ってるから合ってるか照合しようがない。誰も聞いて貰える人が居なければ携帯電話のICレコーダーにでも録音して自己採点しよう。
この5ステップ以外にも、和讃を読んでみるだけでも、大体の意味が飲み込めるので暗誦に大いに役に立つことと思う。
『観音経偈文の覚えるコツ』
598文字の観音経偈文は、覚えてしまうと日本各地にある観音巡礼時には勿論、日々の勤行にもとても役に立つので是非覚えちゃいましょう。
そうは申しても、暗記力に自信がないとか、なんかコツはないのかとか、
云われる方の為に、観音経をより覚えやすいよう、五つのパートに分割してみた。
貴方のお持ちの経本が同じように分割されてなくても関係ないのでご安心を。
まずは全文を見てみよう。全て実際の読経の際に発音する振り仮名を振ってあるので参考に。
覚えよう!観音経!
みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんげ だいにじゅうご (げもん)
『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈 第二十五(観音経偈文)』
*1
せーそんみょうそうぐ がーこんじゅもんぴ ぶつしがーいんねん
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁
みょういかんぜおん ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに
名為観世音 具足妙曹尊 偈答無盡意
にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょほうしょ ぐーぜいじんにょかい
汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海
りゃくこうふーしーぎー じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん
歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん しんねんふーくうか
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過
のうめつしょーうーく けーしーこうがいい すいらくだいかきょう
能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑
*2
ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうち わくひょうるこーかい りゅうごしょきーなん
念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸難鬼
ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ わくざいしゅみーぶー いーにんしょーすいだー
念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峯 為人所推堕
ねんぴーかんのんりき にょにちこーくうじゅう わくひーあくにんちく だーらくこんごうせん
念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山
ねんぴーかんのんりき ふのうそんいちもう わくちーおんぞくねう かくしゅーとうかがい
念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害
ねんぴーかんのんりき げんそくきーじしん わくそうおうなんく りんぎょうよくじゅじゅう
念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終
ねんぴーかんのんりき とうじんだんだんね わくしゅーきんかーさー しゅそくひーちゅーかい
念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被柱械
ねんぴーかんのんりき しゃくねんとくげだつ じゅうそしょどくやく しょーよくがいしんじゃ
念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者
ねんぴーかんのんりき げんじゃくおほんひん わくぐーあくらーせつ どくりゅうしょきとう
念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等
ねんぴーかんのんりき じーしつぷーかんがい にゃくあくじゅいねう りーげーそうかーふ
念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖
ねんぴーかんのんりき じっそうむーへんほう がんじゃぎゅうふくかつ けーどくえんかーねん
念彼観音力 疾走無邊方 玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃
ねんびーかんのんりき じんしょうじえーこ うんらいくーせいでん ごうばくじゅだいうー
念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 降雹濡大雨
ねんぴーかんのんりき おうじとくしょうさん しゅじょうひーこんにゃく むりょうくひつしん
念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身
*3
かんのんみょうちーりき のうくーせーけんくー ぐーそくじんつうりき こうしゅうちほうべん
観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 廣修智方便
じつぽうしょーこくど むせつふーげんしん しゅじゅしょーあくしゅー じーごくきーちくしょう
十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生
しょうろうびょうしーく いぜんしつりょうめつ しんかんしょうじょうかん こうだいちーえーかん
生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観
ひーかんぎゅうじかん じょうがんじょうせんごう むーくーしょうじょうこう えーにちはーしょあん
悲観及慈観 浄願常譫仰 無垢清浄光 慧日破諸闇
のうぶくさいふうか ふーみょうしょうせーけん ひーたいかいらいしん じーいーみょうだいうん
能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲
じゅんかんろほうう めつじょぼんのうえん じょうじょきょうかんじょ ふーいぐんじんちゅう
濡甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中
*4
ねんぴーかんのんりき しゅうおんしつたいさん みょうおんかんぜおん ぼんのんかいちょうおん
念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音
しょうひーせーけんのん ぜーこーしゅーじょうねん ねんねんもつしょうぎ かんぜおんじょうしょう
勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖
おーくーのうしーやく のういーさーえーこ ぐいつさいくーどく じーげんじーしゅーじょう
於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生
ふくじゅかいむーりょう ぜーこーおうちょうらい
福聚海無量 是故応頂礼
*5
にじじじぼさつ そくじゅうざーきー ぜんびゃくぶつごん せーそん にゃくうしゅじょう
爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生
もんぜかんぜおんぼさつぼん じーざいしーごう ふーもんじーげん じんつうりきしゃ
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者
とうちぜにん くーどくふーしょう ぶつせつぜー ふーもんぼんじしゅうちゅう はちまんしーせんしゅうじょう
当知是人 功徳不少佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生
かいほつむー とうどう あーのくたらさんみゃくさんぼーだいしん
皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
以上。
お経を毎日、一生懸命読誦している方、たまに目を瞑っていただくと
手前の文が出てくると、自然に次の文も出てくるのがお分かりになるであろう。
それがどんどん段階的に接続して行ければ、最終的に最後まで暗誦できるようになる。
そうゆう点でいうと、この観音経のネックは、『念彼観音力』(ねんぴーかんのんりき)で始まる、*2のパートである。
正にここをどう制するか?ここに重点を置けば、あとの部分は他のお経と然程変わらず毎日の読経で覚えられる。
なぜなら、お経の難しいというか、覚え難い部分と云うのは、『念彼観音力』のように、何度も何度も重複して出てくる、
同じ言葉、又はよく似たパートが頭の中でこんがらかるからである。反って*2パート以外のバラバラになっている部分の方がスムーズに覚えやすい。
そういった意味で、*2のパートが『念彼観音力』で常に始まるように並べてある。
般若心経でも、『依般若波羅蜜多故』という言葉が二度出てくる。
このあとに続く文が、『心無礙』が先で『得阿耨多羅三藐三菩提』が後である。
これが集中力が欠けたりしていると、(あれ?いまどっちだったか?)と分からなくなる。
やけに早く終わったりすると、『心無礙』の部分をすっ飛ばして、『得阿耨多羅三藐三菩提』から唱えてることもある。
従って、この観音経偈文もうろ覚えの内は、この『念彼観音力』が連続12回も出てくるので、その後がどこまで行ったか分からなくなる。
しかし例えば、『念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸難鬼』の部分を例にすると、『火坑変成池』(かーきょーへんじょうち)
さえ出てくると、あとの『或漂流巨海 龍魚諸難鬼』(わくひょうりゅうこーかい りゅーごーしょーきーなん)は出てくる。
つまり、『念彼観音力』の次の言葉だけを順番に覚えてしまえばいいわけである。
そこで、次のように何か紙にでも、『念彼観音力』の次の言葉を書いてみよう。
この際に、特に漢字でなくとも『発音』してしまうことが目的なので、冒頭部分だけをひらがなで書き出しても良い。
1、火坑変成池 2、波浪不能没 3、如日虚空住 4、不能損一毛
1、かーきょー 2、はーのー 3、にょーにち 4、ふーのー
5、咸即起慈心 6、刀尋段段壊 7、釈然得解脱 8、還著於本人
5、げんそく 6、とーじん 7、しゃくねん 8、げんじゃく
9、時悉不敢害 10、疾走無邊方 11、尋聲自回去 12、応時得消散
9、じーしつ 10、じっそう 11、じんしょう 12、おうーじー
この順番が頭に入ってしまえば、もう観音経偈文は制覇目前!
ここをスラスラ唱えるようになると、ぐっと自信もついてくるのではなかろうか。
最後の難関は、*3を挟んで*4のパートでもう一度、『念彼観音力』が最後に出てくる。この最後の、『念彼観音力』に続くのが、
『衆怨悉退散』(しゅーおん・・)。最後に(しゅーおん)と覚えてしまおう。
ここまで来ればゴール間近。観音経偈文は観音さまの功徳がいっぱい詰まった有り難いお経。心を込めてフィナーレまで唱えてみよう。
長くなってしまったので、お約束したお経の功徳についてはまた次回にて。
皆さんの積まれた功徳が、廻りまわって多くの方々に幸せが回向されますように。
感謝合掌
法蓮 百拝
いずれも『読』という字を用いているので、『読む』ことが基本となる。つまり、声を出す出さないに関わらず、
経本を『見ながら』読む。これが正式な作法でもある。一般的には声を出して読むことと解されている。毎朝晩の勤行=お勤めそのものも読経である。
熱心な信徒の多い、聖天さまの祀られる生駒山宝山寺や待乳山本龍院では、『静かにお参りして下さい』との注意書きがあり、
傍迷惑にならぬよう、みな一様に黙々と微かな小声や心の中でお経を読んでいる。
因みにこれは、『看経』(かんきん)と云い、黙読のことである。お経の『経』を『きん』と発音するのは、唐の読み方だそうで、主に禅宗で使われている。
声を出してお経を読むのは、『諷経』(ふぎんorふきょう)や、『諷誦』(ふじゅ)と云い、特にお経を
読む趣旨などを述べる文章を読むことも諷誦という。願文(がんもん)や表白(ひょうびゃく)のように趣旨を述べる文を諷誦文ともいう。
そこでお経を諳(そら)んじて読むこと=暗誦(あんしょう)することを、『誦経』(ずきょう)という。
諳んじるにはいうまでもなく、暗記してしまうこと。お経を暗記するといえば、連想されるのは虚空蔵求聞持法である。
弘法大師空海、お大師さまも若き日の著書、「三教指帰」の中にも「爰有一沙門。呈余虚空蔵求聞持法。其経説。若人依法。誦此真言百万遍。即得一切教法文義暗記」
(一沙門より虚空蔵求聞持法を授かる。法に依って此の真言百万遍を誦すれば、一切の教法の文義を暗記する事を得る。)とあり、
善無畏訳「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」の中には、「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」
(お経を一度見聞きする事が有ればお経の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無い。)ともある。
ともあれ今回はお経を暗誦、暗記することが良いか悪いか、正式な作法か否かなどその是非を問わず、お経を暗誦(暗唱)する方法をお伝えしたい。
お経を暗記、暗誦するメリットとしては、なんといってもいつでもどこでもお勤め・読経が出来るという点である。
歩き遍路や巡礼に行かれた方ならご経験がおありであろう。懺悔文から開経偈〜般若心経〜回向まで、これに十三佛真言まで
所謂真言宗の仏前勤行作法の一連を覚えてしまえば、いちいちお勤め時に見なくても済む。
自分も歩き遍路の途中で100グラムでも軽くしたかったため、八十八ヶ所遍路用の経本を自宅へ送り返した経験がある。
各寺院のご本尊のご真言は、本堂前に書かれてあることが多いし、十三佛真言ぐらいは覚えてしまえば大抵のご本尊はその中にある。
とにかく般若心経だけでもまずは覚えておくと、神社でも唱えることが出来るので敢えて巡礼に出向いたときでなくとも、
偶然どこでもぶらりと立ち寄った寺院寺社で唱えることが出来る。うっかり経本を忘れてしまった時でも唱えられるのは強みであろう。
ただ一つ、ご注意戴きたいのは、最初は必ずお経を『読む』ことから始めて戴きたい。まぁまさか、お経をCDなどの音声から聞いて
カラオケのように文字を見ずして覚えてしまう人はいないであろうが、後述するお経の功徳には、ただお経を唱えるよりも意味を理解
した方がより功徳が戴けるからであり、更にいえば意味を理解し深めて行った方がより暗誦も早くスムーズに覚えられる。
自分も最初に覚えた般若心経は、その意味を読み解き、更には写経を繰り返し、何度も書いて唱えて理解を深めいった結果、暗誦できた経験がある。
意味を鑑みる際に、基本的にお経は漢文を音読みで発音して読むので耳で聴くのは音読み、それを部分的に訓読みに直して理解すると分かりやすい。
音読みとは日本へ輸入された時系列順にいうと、「呉音(ごおん)」、「漢音(かんおん)」、「唐音(とうおん)」のことである。
理趣経のときに少々お話ししたが、殆んどのお経や今に残る仏教用語は呉音で発音される。理趣経などお経によって、又は禅宗など宗派によって漢音で読むこともある。
まぁしかし、漢字検定をやるんじゃないんだし、いちいちどれが呉音だの漢音だ、唐音だのって分かる必要はない。
現代の日本でもそのまま通用する音読みは幾つもある。例えば「行」という文字一つとっても、修行(しゅぎょう)、行者(ぎょうじゃ)=呉音。
旅行(りょこう)、行軍(こうぐん)=漢音。行燈(あんどん)、行脚(あんぎゃ)=唐音。などである。
こう見ると、二字熟語の全てが音読みではないが二字熟語を沢山知ってる人は、お経も理解し易いかも知れない。
あとは熟語になっていない部分を訓読みで理解していけば、解説書を読まずとも大体はお経を解きほぐして行けるのではないであろうか。
般若心経から始めた自分が今、暗誦できるお経は
1、般若心経
2、佛説摩訶迦羅大黒天神経
3、佛説明王陀羅尼愛染経
4、観音経偈文
5、大聖歓喜天使咒法経偈文
お経以外に、祝詞系で覚えたのは
6、稲荷祝詞
7、龍神祝詞
8、天津祝詞
短いものだと他には、舎利禮文、弥陀讃、理趣経百字の偈
歓喜天和讃(生駒、待乳山各々)、仏前勤行次第(高野山真言宗)など。
この内、皆さんに暗誦をオススメしたのは、まずは入門編として般若心経。そして観音経偈文であろうか。
般若心経の268文字(真言宗では冒頭に仏説を入れるため)に対して、観音経偈文が598文字、大聖歓喜天使咒法経偈文は515文字(内、梵字が42文字)。
大体、般若心経の倍ぐらいの文字数。理屈で言えば、般若心経を二つ分覚える気になれば出来る。この理屈で行けばどんな長いお経も覚えられる筈。
『お経を覚えるのに技術は要らない』
では具体的にどうやってお経を覚えるのか?お経を覚えるのに特別な技術や努力は要らない。勿論、年齢も関係ない。覚えようとする必要もない。
自分の経験からしか皆さんへお伝え出来ないが、自分の場合は最初の般若心経のときだけ、覚えようと努力した。
一生懸命意味を解きほぐしていったり、何も見ずに一語一句間違えずに写経を書き続けて行ったりした。けれど、次に覚えた
佛説摩訶迦羅大黒天神経からは、敢えて努力らしい努力はしていない。早い話し気がついたら見ずにお経が唱えられるようになっていた。
このことからも、お経を覚えるのに一番大事なのは、『能く読誦すべし』。これに尽きるといえよう。毎日毎日、心を込めてお経を挙げさせていただく。
身も蓋もないかも知れないが、これが正直最も暗誦への早道なのである。皆さんも毎日読んでいるとある事に気付かれまいか。
例えば経本の左端、ページの最後の文を読みながら、もう次のページの冒頭が勝手に口に出てくるので急いでめくる必要がないことを。
このモードに入ってくると、そのお経の暗誦までもう一歩というところまで来ている証拠である。
『お経を覚える五つのステップ』
1、毎日ひたすら能く読誦する
2、振り仮名を読まずに漢字を読む
3、行数を頭にイメージし、文字を見ずにページをめくる
4、覚えにくい部分があれば繰り返す
5、人に聞いて貰い、卒業試験を受ける
先の次のページの冒頭が自然と口に出てくるようになれば、ステップ2の、振り仮名
を出来るだけ見ないように、漢字を見てお経を読んでいく。
それが出来る様になると同時ぐらいに、お経をほぼ諳(そら)んじられるようになっているから、今何行目を唱えているかをイメージする。これがステップ3。
この行数をイメージするのは結構有効的である。自分が観音経偈文を覚えるときに、朝は待乳山聖天さまの勤行次第、夜は生駒山聖天さまの
勤行次第を読んでいたら、どうも観音経を覚える際に突っかかるので何故かと思ったら、待乳山と生駒山の経本では同じ観音経でも、文字の大きさから
行数が違うので、ページ数に誤差が生じてイメージしにくかったのである。そこで、面倒だったが観音経だけは朝も夜も待乳山の経本に統一すると、
イメージもしやすくなってすぐに覚えられた。在家の方でそんな何冊も経本を持つ人はいらっしゃらないであろうが、自分が一番読みやすいもので統一された方が覚えやすかろうと思う。
行数と同時に全体をビジュアル的にを覚えてしまうと、諳んじてお経を唱えながら、
(今、何行目だな・・)(あと一行で次のページだな・・)(ん、今のは上から三つ目の文だな・・)
と自分である程度、間違っていないかどうか確認出来るようになる。
ステップ4は、どうしても覚え難い部分ってのは人によってあるかも知れない。自分もそんなときは、かつてピアノを弾いていたときの練習法を利用し、
その部分だけを繰り返し重複して唱えてみる。大事なのは、苦手な部分を繰り返した後は、その前後部分も取り込み、徐々に範囲を広げて全体像を
イメージ的に捉えて行くこと。これをやっておかないと全体が繋がらなくなる。例えば、六行目が苦手ならそこを繰り返し、次に五行目から七行目まで唱えるというやり方である。
最後のステップ5は、自信がついたら卒業試験のつもりでお経を暗誦し、人に聞いてもらう。
自分だけだと、見てはいけないのでお経が間違ってるから合ってるか照合しようがない。誰も聞いて貰える人が居なければ携帯電話のICレコーダーにでも録音して自己採点しよう。
この5ステップ以外にも、和讃を読んでみるだけでも、大体の意味が飲み込めるので暗誦に大いに役に立つことと思う。
『観音経偈文の覚えるコツ』
598文字の観音経偈文は、覚えてしまうと日本各地にある観音巡礼時には勿論、日々の勤行にもとても役に立つので是非覚えちゃいましょう。
そうは申しても、暗記力に自信がないとか、なんかコツはないのかとか、
云われる方の為に、観音経をより覚えやすいよう、五つのパートに分割してみた。
貴方のお持ちの経本が同じように分割されてなくても関係ないのでご安心を。
まずは全文を見てみよう。全て実際の読経の際に発音する振り仮名を振ってあるので参考に。
覚えよう!観音経!
みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんげ だいにじゅうご (げもん)
『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈 第二十五(観音経偈文)』
*1
せーそんみょうそうぐ がーこんじゅもんぴ ぶつしがーいんねん
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁
みょういかんぜおん ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに
名為観世音 具足妙曹尊 偈答無盡意
にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょほうしょ ぐーぜいじんにょかい
汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海
りゃくこうふーしーぎー じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん
歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん しんねんふーくうか
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過
のうめつしょーうーく けーしーこうがいい すいらくだいかきょう
能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑
*2
ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうち わくひょうるこーかい りゅうごしょきーなん
念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸難鬼
ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ わくざいしゅみーぶー いーにんしょーすいだー
念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峯 為人所推堕
ねんぴーかんのんりき にょにちこーくうじゅう わくひーあくにんちく だーらくこんごうせん
念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山
ねんぴーかんのんりき ふのうそんいちもう わくちーおんぞくねう かくしゅーとうかがい
念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害
ねんぴーかんのんりき げんそくきーじしん わくそうおうなんく りんぎょうよくじゅじゅう
念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終
ねんぴーかんのんりき とうじんだんだんね わくしゅーきんかーさー しゅそくひーちゅーかい
念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被柱械
ねんぴーかんのんりき しゃくねんとくげだつ じゅうそしょどくやく しょーよくがいしんじゃ
念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者
ねんぴーかんのんりき げんじゃくおほんひん わくぐーあくらーせつ どくりゅうしょきとう
念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等
ねんぴーかんのんりき じーしつぷーかんがい にゃくあくじゅいねう りーげーそうかーふ
念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖
ねんぴーかんのんりき じっそうむーへんほう がんじゃぎゅうふくかつ けーどくえんかーねん
念彼観音力 疾走無邊方 玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃
ねんびーかんのんりき じんしょうじえーこ うんらいくーせいでん ごうばくじゅだいうー
念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 降雹濡大雨
ねんぴーかんのんりき おうじとくしょうさん しゅじょうひーこんにゃく むりょうくひつしん
念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身
*3
かんのんみょうちーりき のうくーせーけんくー ぐーそくじんつうりき こうしゅうちほうべん
観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 廣修智方便
じつぽうしょーこくど むせつふーげんしん しゅじゅしょーあくしゅー じーごくきーちくしょう
十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生
しょうろうびょうしーく いぜんしつりょうめつ しんかんしょうじょうかん こうだいちーえーかん
生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観
ひーかんぎゅうじかん じょうがんじょうせんごう むーくーしょうじょうこう えーにちはーしょあん
悲観及慈観 浄願常譫仰 無垢清浄光 慧日破諸闇
のうぶくさいふうか ふーみょうしょうせーけん ひーたいかいらいしん じーいーみょうだいうん
能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲
じゅんかんろほうう めつじょぼんのうえん じょうじょきょうかんじょ ふーいぐんじんちゅう
濡甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中
*4
ねんぴーかんのんりき しゅうおんしつたいさん みょうおんかんぜおん ぼんのんかいちょうおん
念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音
しょうひーせーけんのん ぜーこーしゅーじょうねん ねんねんもつしょうぎ かんぜおんじょうしょう
勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖
おーくーのうしーやく のういーさーえーこ ぐいつさいくーどく じーげんじーしゅーじょう
於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生
ふくじゅかいむーりょう ぜーこーおうちょうらい
福聚海無量 是故応頂礼
*5
にじじじぼさつ そくじゅうざーきー ぜんびゃくぶつごん せーそん にゃくうしゅじょう
爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生
もんぜかんぜおんぼさつぼん じーざいしーごう ふーもんじーげん じんつうりきしゃ
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者
とうちぜにん くーどくふーしょう ぶつせつぜー ふーもんぼんじしゅうちゅう はちまんしーせんしゅうじょう
当知是人 功徳不少佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生
かいほつむー とうどう あーのくたらさんみゃくさんぼーだいしん
皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
以上。
お経を毎日、一生懸命読誦している方、たまに目を瞑っていただくと
手前の文が出てくると、自然に次の文も出てくるのがお分かりになるであろう。
それがどんどん段階的に接続して行ければ、最終的に最後まで暗誦できるようになる。
そうゆう点でいうと、この観音経のネックは、『念彼観音力』(ねんぴーかんのんりき)で始まる、*2のパートである。
正にここをどう制するか?ここに重点を置けば、あとの部分は他のお経と然程変わらず毎日の読経で覚えられる。
なぜなら、お経の難しいというか、覚え難い部分と云うのは、『念彼観音力』のように、何度も何度も重複して出てくる、
同じ言葉、又はよく似たパートが頭の中でこんがらかるからである。反って*2パート以外のバラバラになっている部分の方がスムーズに覚えやすい。
そういった意味で、*2のパートが『念彼観音力』で常に始まるように並べてある。
般若心経でも、『依般若波羅蜜多故』という言葉が二度出てくる。
このあとに続く文が、『心無礙』が先で『得阿耨多羅三藐三菩提』が後である。
これが集中力が欠けたりしていると、(あれ?いまどっちだったか?)と分からなくなる。
やけに早く終わったりすると、『心無礙』の部分をすっ飛ばして、『得阿耨多羅三藐三菩提』から唱えてることもある。
従って、この観音経偈文もうろ覚えの内は、この『念彼観音力』が連続12回も出てくるので、その後がどこまで行ったか分からなくなる。
しかし例えば、『念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸難鬼』の部分を例にすると、『火坑変成池』(かーきょーへんじょうち)
さえ出てくると、あとの『或漂流巨海 龍魚諸難鬼』(わくひょうりゅうこーかい りゅーごーしょーきーなん)は出てくる。
つまり、『念彼観音力』の次の言葉だけを順番に覚えてしまえばいいわけである。
そこで、次のように何か紙にでも、『念彼観音力』の次の言葉を書いてみよう。
この際に、特に漢字でなくとも『発音』してしまうことが目的なので、冒頭部分だけをひらがなで書き出しても良い。
1、火坑変成池 2、波浪不能没 3、如日虚空住 4、不能損一毛
1、かーきょー 2、はーのー 3、にょーにち 4、ふーのー
5、咸即起慈心 6、刀尋段段壊 7、釈然得解脱 8、還著於本人
5、げんそく 6、とーじん 7、しゃくねん 8、げんじゃく
9、時悉不敢害 10、疾走無邊方 11、尋聲自回去 12、応時得消散
9、じーしつ 10、じっそう 11、じんしょう 12、おうーじー
この順番が頭に入ってしまえば、もう観音経偈文は制覇目前!
ここをスラスラ唱えるようになると、ぐっと自信もついてくるのではなかろうか。
最後の難関は、*3を挟んで*4のパートでもう一度、『念彼観音力』が最後に出てくる。この最後の、『念彼観音力』に続くのが、
『衆怨悉退散』(しゅーおん・・)。最後に(しゅーおん)と覚えてしまおう。
ここまで来ればゴール間近。観音経偈文は観音さまの功徳がいっぱい詰まった有り難いお経。心を込めてフィナーレまで唱えてみよう。
長くなってしまったので、お約束したお経の功徳についてはまた次回にて。
皆さんの積まれた功徳が、廻りまわって多くの方々に幸せが回向されますように。
感謝合掌
法蓮 百拝
2008年07月30日
◆火急のお知らせ◆
日程が差し迫ってからのお知らせになってしまい、誠に唐突ですが本山修験宗・三重院(群馬県利根郡みなかみ町下津4061(旧月夜野町))での滝修行が8月5日から11日までの一週間に渡って行なわれます。
三重院は非常に修験道らしく、滝修行や山伏修行などの体験修行を常時行なっています。過去記事を読まれている方はご存知のように、愚僧も火渡りなど修行させていただき、同い年の副住職には非常に懇意にして戴いております。

*上記画像は、三重院HPより拝借。陳謝。
三重院での体験修行メニューは通常、マントラ修行を含む二泊三日からの受付で、滝修行のみは受け付けていないのですが、今回は特別に滝修行のみでもOK。しかも、日帰りも可能です。日々の雑務に忙殺されている方、心の平穏を取り戻し自分を見つめなおしたい方、是非、真夏の滝修行に出掛けて下さい。滝初体験の方、クソ暑い(すいません)真夏の今が絶好のチャンスです!!絶対、最高に気持ちいいと思いますよ!愚僧も出来れば、参加するつもりですので読者の方ともお会いできれば尚、最高ですね!詳しくは『滝修行体験』まで。問合せ、お申し込みはこちらまで。
◆23日 目黒大圓寺にて◆
先日、我家のご本尊、三面大黒天様のご供養に目黒大圓寺で六十日に一度行なわれる、甲子護摩法要(きのえね)に出向いてきた。何度か過去記事に書いているので詳細は省くが、この日も小ぢんまりした狭い本堂の中は、熱心な信者さんたち四十人ほどがギューギュー詰めに座り込んでおり、着いたときは既に足の踏み場もないほどだった。甲子法要は一日に三度修されるが、一番始めの10時の会が最も混雑するらしい。
「今日は大変お暑いので、いつもは帰りにお渡しするうちわを先に用意していますから、どうぞご利用になってそのままお持ち帰り下さい」と、僧侶がマイクで案内していた。この日の都内の気温は30度を軽く越しており、待っている間でも卒倒しそうなのに、これから密集するこの堂内でボンボン護摩が焚かれるのだ。しかも、もう他に空いているスペースがなかったので、自分はご住職の座られる真後ろに座り込んだから、始まると想像以上の灼熱地獄だった(笑。しかし、最も暑いのは護摩を焚かれているご住職ご本人なのだから贅沢なんぞ云えない。
前にも書いたが、ここのご住職は一切手抜きなしの護摩法要で有名。もう随分お年を召しているはずだが、鬼気迫るその修法はいつもながら感服する。およそ一時間半の護摩が終わり、そのあとの法話の中で、信仰や祈りは心の杖だとおっしゃっていた。荒んだご時世の現代にこそ、澄んだ信仰心をもつこと。心の杖が必要なのではないかと説かれていた。自分もそう思う。
本年6月8日、秋葉原の通り魔殺傷事件の記憶が薄れぬ間に、同月22日は大阪駅で、今月22日に八王子駅ビルで、そして28日は平塚でと、全国で動機なき無差別通り魔殺傷事件が横行している。異常とも云える今の日本。人が人を殺めるのに理由など存在し得るはずもないが、そのほとんどは、「誰でも良かった」「ムシャクシャしていた」など、もはや正常な理性など持ち合わせているとは思えない。毎日の勤行では、戦災、被災、病気を含め、事件事故で亡くなられた、まだまだ生きたかった! 全ての方々のご冥福を心よりお祈り申し上げている。
されども今般、毎日のようにそんな信じ難いニュースが流れる。全く関係のない人々を傷つけることに何の躊躇いも持たないほど、心を病んでしまった人たち。決して彼ら被疑者の肩を持つわけではない。大罪を犯してしまったことに変わりはないが、そんな人たちだって人を殺すために生まれてきたのではない。人を殺すために生きてきたのではない。防犯を強化したって何したって、こういった心無き人種がなぜ派生してくるのか?その根幹に目を向けていかないと、いつ、どこで、誰が犠牲者となるのか、それを防ぐことは出来ないと思う。それに怯えて生きていくなど嘆かわしいではないか。既にそんな不安に駆られて一人で出歩けなくなっている人もいる。何とかしなくちゃいけない。人を殺したい衝動に駆られる前に、誰も話す相手がいなければ、遠慮なく自分にメール下さい。役に立てるか分からない、それが正しいのかも分からない。でも話しは聴いてやれる。メールはプロフィールのメールアイコンからどうぞ。
十句観音経はご存知だろうか。
ご住職が医者にさじを投げられた、重病患者を持つご家族が、全員で一心に十句観音経を唱え続けたところ、奇跡的な回復が得られた話しをされていた。真の信心をもって(延命)十句観音経を唱えると、病気が治ったり苦しみが消えたりするご利益あると云われている、とても短いお経だ。般若心経が最も短いと云われるが、実は理趣経百字の偈など、短いお経は沢山ある。
祈りは家族の心を一つにする。思いは必ず通じるのだと近頃実感することが多い。そもそも神仏への思いや祈りは、自分以外の他人様への気持ちが優先されて、功徳が得られると云われる。いい機会なのでご紹介しよう。短いとはいえ、どんなお経にしろ、様々な功徳が凝縮されているので、お経を始めたい方や一度読んでみようかなと思う方には最適かも知れない。
延命十句観音経(えんめいじっくかんのんきょう)
観世音(かんぜーおん)南無佛(なーむーぶつ)与佛有因(よーぶつうーいん)与佛有縁(よーぶつうーえん)佛法僧縁(ぶっぽうそうえん)常楽我浄(じょうらくがーじょう)朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)暮念観世音(ぼーねんかんぜーおん)念念従心起(ねんねんじゅうしんきー)念念不離心(ねんねんふーりーしん)
たったこれだけ。短いでしょ? 和訳もあるが、意味なんて覚えなくてもいい。これだけのお経でも繰り返し唱えていると、雑念が取り払われ、少なくとも唱えている間だけでも心は洗われる気がするから、お経とは実に不思議なものなんだと思う。特にご病気の方が身内にいらっしゃる方は、是非ご家族一緒になって唱えてみられたら如何であろう。信じるも信じないも自分次第である。医療の進歩は確かに目覚しいものがあるが、最先端治療を受けるにはそれなりの治療費も必要だ。必ずしも最高の治療が受けられ、最高の医師に出会えるとは限らない。理屈や理論では計り知れない、神仏のご加護に縋るのも心に杖を持つ、一つの手段ではなかろうか。
実は、このブログの(元)読者で今、お友達といおうか、つい先日お会いしたときは、自分の推進する救済事業に協賛もして頂いたので、もう同志と呼ぶべきか。某一流企業の部長であり、マネジメントやマーケティングに長けた彼の賛同は、なんと心強いものか。正に鬼に金棒。救済事業の進捗詳細については、また折りを見て皆さんにも是非ご報告差し上げたい。
そんな彼のお父上が、今月14日に心臓の大手術を受けられた。これは勿論、彼の承諾を得て記事にするのだが、手術自体も大成功に終わり、それからほぼ毎日彼から送られてくる術後経過報告には、当分無理だろうと云われていた食事が、二日後から取れるようになったり、六日後には予定より数日早くICUを出て一般病棟へ移り、8日目には普通食を食べ、10日目にはペースメーカー以外の機器がすべて外れ、2キロも自力で歩かれたりと、とんとん拍子で奇跡的な回復の兆しを見せ続け、懸念されていた合併症と脳梗塞も回避され、ついになんと、たった三週間に満たない今週末に退院が決まったそうなのだ。
彼は元々白蛇信仰者であったが、(今もそれは変わりないが)自分と接するようになって、待乳山聖天様へも熱心に参詣を続けるようになった。そんな折りに、お父上が手術することとなり、更に祈りは深刻化していったであろう。自分も力及ばずながらも、お父上の手術開始日から、日々無事な家庭への帰還を祈り続けていた。目黒大圓寺のご住職に十句観音経の話しを聴いてからは、思い出したようにそれも日々の勤行に加えて祈った。それを勿論、彼にも伝えた。無論、彼も彼の家族も熱心に祈り続けたであろう。今回の奇跡の生還とも言える、お父上の素晴らしい回復は、愚僧の祈りなどより何よりも、彼自身の厚い信仰心とご家族の祈りが神仏に通じた賜物であるに違いない。祈りは本当に通じるのだと痛感した出来事だった。神仏への感謝の念が絶えません。本当に有難う御座いました。
◆26日 待乳山聖天様 参詣帰り◆
隅田川花火大会の当日、丁度、毎週土曜日の参詣日と重なってしまい、混雑を避けるためにいつもよりも早めに東京へ向かったが、既に上野駅でも浴衣姿の女のコたちとすれ違いだし、浅草へ向かうメトロ銀座線の車内も浴衣のカップルで賑わい出していた。浴衣は風情があっていい。自分も何着か作ったのがあって、一昨年までは良く着ていた。別にお祭りや花火に行くまでも無く、どーせ夏しか着れらんねんし、今着んかったらいつ着んねん?と、ほぼ毎日浴衣でウロチョロしていた。自分の会社や店にも浴衣で行っていた(笑。あ、自分だけじゃないよ、近所でお祭りや花火大会があるときは、従業員も全員、浴衣か甚兵衛を着てもいいとしていた。
さてさて、聖天様への参詣を済ませ、恐らく河川敷には入れないだろうと思いつつも、隅田川公園へ供養のために行って見た。公園へと続く沿道には、沢山のテキヤが店を並べ、しのぎを削り出している。案の定、先週よりも更にガッチリとフェンスで張り巡らされ、隅田川公園は金網デスマッチ状態になっている。あちこちで場所取りも始まっている。仕方ないので、公園の隅にある、戦災慰霊碑の前で読経した。いつものようにこの場所で読経しながらも、ふと思った。大空襲で受けた多大な被害と失った多くの命、その中にはきっと功徳を積まれた方や、人様に善根を施された方もたくさんいらしたであろう。その悲しみの大きさに比べて、この慰霊碑はあまりにも小さすぎると。
自分も最近まで、あまり詳しくなかったのだが、東京大空襲についての悲惨さを少々皆さんにも知っていただきたいので、掻い摘んで書かせて欲しい。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日に行なわれた。それまでも前年の1944年11月から106回に及ぶ空襲を受けているが、この大空襲以前はかつて日本軍が中国で行った無差別爆撃に対して、非人道的だという感情を抱いていた、ヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により始められ、当初は軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイント攻撃であったが、思わしい効果が上がらなかったため、翌年に。「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けた、猛将カーチス・E・ルメイ少将が指揮を執ることとなり、大規模な無差別攻撃を立案したのも実行させたのも彼である。このあとの名古屋・大阪大空襲、そして広島・長崎の原爆と40万人の民間人の命が奪われている。その多くはお年寄りや女性、子供たちであるが、最終命令を出したのは大統領たちの選択である。
手始めに彼が狙ったのが銀座、有楽町地区であり、現在は会社員で溢れる有楽町駅付近は死体の山で溢れたという。続けざまに町工場が立ち並ぶ下町の市街地と、そこに生活する市民そのものを攻撃対象とした。つまり当時、最も賑わいを見せた10万人以上が暮らす、隅田川を挟む深川、浅草、本所(墨田区の一部)などが標的となった。
焼夷弾の開発にも余念がなかった。あれは日本家屋を効率的に燃やすために開発された専用爆弾なのだ。日本家屋を実際に作り、何度も何度も綿密な実験を繰り返し満を持して投下したのだ。空中分解したクラスター弾は、一件一件の家の屋根瓦を突き破り、畳の上で飛散してゼリー状の引火したガソリンを撒き散らす。襖も布団もひとたまりもない。300機のB29から投下されたナパームは32万発。尋常でない業火は鉄筋コンクリート造りの病院や学校に逃げ込んだ人たちをも、まるで生きている炎の滝か竜のように人々を飲み込み続けたと云う。
戦果をあげるため手段を選ばぬ彼は、敢えて対空砲火や風圧のリスクをパイロットに与えるのも躊躇せず、少しでも多くの焼夷弾を積み込むため、わざわざB29の燃料を減らし、パイロットの反対を押し切りギリギリ低空飛行を厳命したという。事実、想定外の広範囲に被害が及んだのは、パイロットが予想を上回る火災旋風によって起こった乱気流によって、操縦不能となり目標地区の手前で投下したのも原因とされている。その結果、荒川周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで、火災は広った。亀戸駅の上り坂にも数百の黒コゲの死体の山が築かれた。
3月10日と云えば、春間近とはいえまだ寒い。
生き死にをかけた状況でなければ、冗談にも飛び込めない冷たさだ。隅田川に逃げ込んだ人たちの中には、寒さに耐え切れず死んでいった人たちも多かったろう。人の上から焼けた人が落ちてくる。タイタニックのパニックの比ではない。負ぶった幼い子供のおかげで、背中が焼けずに済んだり、凍える水に濡れずに済んだりして生き残った母親。子供を守ろうとして逆に生かされた方もいる。病院から患者を引き連れて戦火から逃れようと命を失った看護婦もいた。最も安全だと信じられていた防空壕に逃げ込んだ人々が、反って猛火にさらされて死んだ。
関東大震災(1923年)を徹底検証したアメリカ軍は、木造住宅が密集する東京下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめそこを攻撃目標とした。そのため関東大震災と東京大空襲の被害地域が重なっていることは偶然ではない。現在、85歳以上の東京下町に暮らすお年寄りは、二度に渡る恐ろしい被災戦災を乗り越えていらっしゃる。待乳山聖天様に参詣するとき、たまに寄る浅草駅前商店街のマックには、他の街のマックとは違い、沢山のお年寄りがいつも集っている。彼らもまた、戦火を潜り抜けた人たちなのであろう。
そんな彼らが生き残ってくれたからこそ、日本を支えてきてくれたからこそ、今の私たちが生きている。そんな私たちと、戦災で亡くなられた方たちと、一体どれほどの人としての価値が違ったんであろうか。まだまだ死にたくなかった、もっともっと色んなことがしたかった、夢や希望があった、そんな彼らに報いるためにも、私たちは夢を抱いて胸を張って生きていかねばならないと思う。希望も絶望も同じ、「望む」と書く。同じ望むなら、未来に希望を持つという人と人を紡ぎあって望んで生きたいと思う。
〜編集後記〜
まとめが書きで長くなりました。急いで書き上げましたので、誤字脱字ご勘弁下さい。
明日から、義理の両親が動けるうちに(笑 PLの花火大会(正確には教祖祭)を見せてやろうと、親孝行がてら二泊三日で大阪旅行です。2日は両親を連れて、生駒の聖天さまも参ります。暑さも本腰を見せて来ました。皆さんもどうぞお風邪など召さぬよう、御身ご自愛下さいませ。
感謝合掌
法蓮 百拝
虚空蔵求聞持法 現在、六十七万遍なり
日程が差し迫ってからのお知らせになってしまい、誠に唐突ですが本山修験宗・三重院(群馬県利根郡みなかみ町下津4061(旧月夜野町))での滝修行が8月5日から11日までの一週間に渡って行なわれます。
三重院は非常に修験道らしく、滝修行や山伏修行などの体験修行を常時行なっています。過去記事を読まれている方はご存知のように、愚僧も火渡りなど修行させていただき、同い年の副住職には非常に懇意にして戴いております。

*上記画像は、三重院HPより拝借。陳謝。
三重院での体験修行メニューは通常、マントラ修行を含む二泊三日からの受付で、滝修行のみは受け付けていないのですが、今回は特別に滝修行のみでもOK。しかも、日帰りも可能です。日々の雑務に忙殺されている方、心の平穏を取り戻し自分を見つめなおしたい方、是非、真夏の滝修行に出掛けて下さい。滝初体験の方、クソ暑い(すいません)真夏の今が絶好のチャンスです!!絶対、最高に気持ちいいと思いますよ!愚僧も出来れば、参加するつもりですので読者の方ともお会いできれば尚、最高ですね!詳しくは『滝修行体験』まで。問合せ、お申し込みはこちらまで。
◆23日 目黒大圓寺にて◆
先日、我家のご本尊、三面大黒天様のご供養に目黒大圓寺で六十日に一度行なわれる、甲子護摩法要(きのえね)に出向いてきた。何度か過去記事に書いているので詳細は省くが、この日も小ぢんまりした狭い本堂の中は、熱心な信者さんたち四十人ほどがギューギュー詰めに座り込んでおり、着いたときは既に足の踏み場もないほどだった。甲子法要は一日に三度修されるが、一番始めの10時の会が最も混雑するらしい。
「今日は大変お暑いので、いつもは帰りにお渡しするうちわを先に用意していますから、どうぞご利用になってそのままお持ち帰り下さい」と、僧侶がマイクで案内していた。この日の都内の気温は30度を軽く越しており、待っている間でも卒倒しそうなのに、これから密集するこの堂内でボンボン護摩が焚かれるのだ。しかも、もう他に空いているスペースがなかったので、自分はご住職の座られる真後ろに座り込んだから、始まると想像以上の灼熱地獄だった(笑。しかし、最も暑いのは護摩を焚かれているご住職ご本人なのだから贅沢なんぞ云えない。前にも書いたが、ここのご住職は一切手抜きなしの護摩法要で有名。もう随分お年を召しているはずだが、鬼気迫るその修法はいつもながら感服する。およそ一時間半の護摩が終わり、そのあとの法話の中で、信仰や祈りは心の杖だとおっしゃっていた。荒んだご時世の現代にこそ、澄んだ信仰心をもつこと。心の杖が必要なのではないかと説かれていた。自分もそう思う。
本年6月8日、秋葉原の通り魔殺傷事件の記憶が薄れぬ間に、同月22日は大阪駅で、今月22日に八王子駅ビルで、そして28日は平塚でと、全国で動機なき無差別通り魔殺傷事件が横行している。異常とも云える今の日本。人が人を殺めるのに理由など存在し得るはずもないが、そのほとんどは、「誰でも良かった」「ムシャクシャしていた」など、もはや正常な理性など持ち合わせているとは思えない。毎日の勤行では、戦災、被災、病気を含め、事件事故で亡くなられた、まだまだ生きたかった! 全ての方々のご冥福を心よりお祈り申し上げている。
されども今般、毎日のようにそんな信じ難いニュースが流れる。全く関係のない人々を傷つけることに何の躊躇いも持たないほど、心を病んでしまった人たち。決して彼ら被疑者の肩を持つわけではない。大罪を犯してしまったことに変わりはないが、そんな人たちだって人を殺すために生まれてきたのではない。人を殺すために生きてきたのではない。防犯を強化したって何したって、こういった心無き人種がなぜ派生してくるのか?その根幹に目を向けていかないと、いつ、どこで、誰が犠牲者となるのか、それを防ぐことは出来ないと思う。それに怯えて生きていくなど嘆かわしいではないか。既にそんな不安に駆られて一人で出歩けなくなっている人もいる。何とかしなくちゃいけない。人を殺したい衝動に駆られる前に、誰も話す相手がいなければ、遠慮なく自分にメール下さい。役に立てるか分からない、それが正しいのかも分からない。でも話しは聴いてやれる。メールはプロフィールのメールアイコンからどうぞ。
十句観音経はご存知だろうか。
ご住職が医者にさじを投げられた、重病患者を持つご家族が、全員で一心に十句観音経を唱え続けたところ、奇跡的な回復が得られた話しをされていた。真の信心をもって(延命)十句観音経を唱えると、病気が治ったり苦しみが消えたりするご利益あると云われている、とても短いお経だ。般若心経が最も短いと云われるが、実は理趣経百字の偈など、短いお経は沢山ある。
祈りは家族の心を一つにする。思いは必ず通じるのだと近頃実感することが多い。そもそも神仏への思いや祈りは、自分以外の他人様への気持ちが優先されて、功徳が得られると云われる。いい機会なのでご紹介しよう。短いとはいえ、どんなお経にしろ、様々な功徳が凝縮されているので、お経を始めたい方や一度読んでみようかなと思う方には最適かも知れない。
延命十句観音経(えんめいじっくかんのんきょう)
観世音(かんぜーおん)南無佛(なーむーぶつ)与佛有因(よーぶつうーいん)与佛有縁(よーぶつうーえん)佛法僧縁(ぶっぽうそうえん)常楽我浄(じょうらくがーじょう)朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)暮念観世音(ぼーねんかんぜーおん)念念従心起(ねんねんじゅうしんきー)念念不離心(ねんねんふーりーしん)
たったこれだけ。短いでしょ? 和訳もあるが、意味なんて覚えなくてもいい。これだけのお経でも繰り返し唱えていると、雑念が取り払われ、少なくとも唱えている間だけでも心は洗われる気がするから、お経とは実に不思議なものなんだと思う。特にご病気の方が身内にいらっしゃる方は、是非ご家族一緒になって唱えてみられたら如何であろう。信じるも信じないも自分次第である。医療の進歩は確かに目覚しいものがあるが、最先端治療を受けるにはそれなりの治療費も必要だ。必ずしも最高の治療が受けられ、最高の医師に出会えるとは限らない。理屈や理論では計り知れない、神仏のご加護に縋るのも心に杖を持つ、一つの手段ではなかろうか。
実は、このブログの(元)読者で今、お友達といおうか、つい先日お会いしたときは、自分の推進する救済事業に協賛もして頂いたので、もう同志と呼ぶべきか。某一流企業の部長であり、マネジメントやマーケティングに長けた彼の賛同は、なんと心強いものか。正に鬼に金棒。救済事業の進捗詳細については、また折りを見て皆さんにも是非ご報告差し上げたい。
そんな彼のお父上が、今月14日に心臓の大手術を受けられた。これは勿論、彼の承諾を得て記事にするのだが、手術自体も大成功に終わり、それからほぼ毎日彼から送られてくる術後経過報告には、当分無理だろうと云われていた食事が、二日後から取れるようになったり、六日後には予定より数日早くICUを出て一般病棟へ移り、8日目には普通食を食べ、10日目にはペースメーカー以外の機器がすべて外れ、2キロも自力で歩かれたりと、とんとん拍子で奇跡的な回復の兆しを見せ続け、懸念されていた合併症と脳梗塞も回避され、ついになんと、たった三週間に満たない今週末に退院が決まったそうなのだ。
彼は元々白蛇信仰者であったが、(今もそれは変わりないが)自分と接するようになって、待乳山聖天様へも熱心に参詣を続けるようになった。そんな折りに、お父上が手術することとなり、更に祈りは深刻化していったであろう。自分も力及ばずながらも、お父上の手術開始日から、日々無事な家庭への帰還を祈り続けていた。目黒大圓寺のご住職に十句観音経の話しを聴いてからは、思い出したようにそれも日々の勤行に加えて祈った。それを勿論、彼にも伝えた。無論、彼も彼の家族も熱心に祈り続けたであろう。今回の奇跡の生還とも言える、お父上の素晴らしい回復は、愚僧の祈りなどより何よりも、彼自身の厚い信仰心とご家族の祈りが神仏に通じた賜物であるに違いない。祈りは本当に通じるのだと痛感した出来事だった。神仏への感謝の念が絶えません。本当に有難う御座いました。
◆26日 待乳山聖天様 参詣帰り◆
隅田川花火大会の当日、丁度、毎週土曜日の参詣日と重なってしまい、混雑を避けるためにいつもよりも早めに東京へ向かったが、既に上野駅でも浴衣姿の女のコたちとすれ違いだし、浅草へ向かうメトロ銀座線の車内も浴衣のカップルで賑わい出していた。浴衣は風情があっていい。自分も何着か作ったのがあって、一昨年までは良く着ていた。別にお祭りや花火に行くまでも無く、どーせ夏しか着れらんねんし、今着んかったらいつ着んねん?と、ほぼ毎日浴衣でウロチョロしていた。自分の会社や店にも浴衣で行っていた(笑。あ、自分だけじゃないよ、近所でお祭りや花火大会があるときは、従業員も全員、浴衣か甚兵衛を着てもいいとしていた。
さてさて、聖天様への参詣を済ませ、恐らく河川敷には入れないだろうと思いつつも、隅田川公園へ供養のために行って見た。公園へと続く沿道には、沢山のテキヤが店を並べ、しのぎを削り出している。案の定、先週よりも更にガッチリとフェンスで張り巡らされ、隅田川公園は金網デスマッチ状態になっている。あちこちで場所取りも始まっている。仕方ないので、公園の隅にある、戦災慰霊碑の前で読経した。いつものようにこの場所で読経しながらも、ふと思った。大空襲で受けた多大な被害と失った多くの命、その中にはきっと功徳を積まれた方や、人様に善根を施された方もたくさんいらしたであろう。その悲しみの大きさに比べて、この慰霊碑はあまりにも小さすぎると。
自分も最近まで、あまり詳しくなかったのだが、東京大空襲についての悲惨さを少々皆さんにも知っていただきたいので、掻い摘んで書かせて欲しい。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日に行なわれた。それまでも前年の1944年11月から106回に及ぶ空襲を受けているが、この大空襲以前はかつて日本軍が中国で行った無差別爆撃に対して、非人道的だという感情を抱いていた、ヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により始められ、当初は軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイント攻撃であったが、思わしい効果が上がらなかったため、翌年に。「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けた、猛将カーチス・E・ルメイ少将が指揮を執ることとなり、大規模な無差別攻撃を立案したのも実行させたのも彼である。このあとの名古屋・大阪大空襲、そして広島・長崎の原爆と40万人の民間人の命が奪われている。その多くはお年寄りや女性、子供たちであるが、最終命令を出したのは大統領たちの選択である。手始めに彼が狙ったのが銀座、有楽町地区であり、現在は会社員で溢れる有楽町駅付近は死体の山で溢れたという。続けざまに町工場が立ち並ぶ下町の市街地と、そこに生活する市民そのものを攻撃対象とした。つまり当時、最も賑わいを見せた10万人以上が暮らす、隅田川を挟む深川、浅草、本所(墨田区の一部)などが標的となった。
焼夷弾の開発にも余念がなかった。あれは日本家屋を効率的に燃やすために開発された専用爆弾なのだ。日本家屋を実際に作り、何度も何度も綿密な実験を繰り返し満を持して投下したのだ。空中分解したクラスター弾は、一件一件の家の屋根瓦を突き破り、畳の上で飛散してゼリー状の引火したガソリンを撒き散らす。襖も布団もひとたまりもない。300機のB29から投下されたナパームは32万発。尋常でない業火は鉄筋コンクリート造りの病院や学校に逃げ込んだ人たちをも、まるで生きている炎の滝か竜のように人々を飲み込み続けたと云う。
戦果をあげるため手段を選ばぬ彼は、敢えて対空砲火や風圧のリスクをパイロットに与えるのも躊躇せず、少しでも多くの焼夷弾を積み込むため、わざわざB29の燃料を減らし、パイロットの反対を押し切りギリギリ低空飛行を厳命したという。事実、想定外の広範囲に被害が及んだのは、パイロットが予想を上回る火災旋風によって起こった乱気流によって、操縦不能となり目標地区の手前で投下したのも原因とされている。その結果、荒川周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで、火災は広った。亀戸駅の上り坂にも数百の黒コゲの死体の山が築かれた。
3月10日と云えば、春間近とはいえまだ寒い。
生き死にをかけた状況でなければ、冗談にも飛び込めない冷たさだ。隅田川に逃げ込んだ人たちの中には、寒さに耐え切れず死んでいった人たちも多かったろう。人の上から焼けた人が落ちてくる。タイタニックのパニックの比ではない。負ぶった幼い子供のおかげで、背中が焼けずに済んだり、凍える水に濡れずに済んだりして生き残った母親。子供を守ろうとして逆に生かされた方もいる。病院から患者を引き連れて戦火から逃れようと命を失った看護婦もいた。最も安全だと信じられていた防空壕に逃げ込んだ人々が、反って猛火にさらされて死んだ。
関東大震災(1923年)を徹底検証したアメリカ軍は、木造住宅が密集する東京下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめそこを攻撃目標とした。そのため関東大震災と東京大空襲の被害地域が重なっていることは偶然ではない。現在、85歳以上の東京下町に暮らすお年寄りは、二度に渡る恐ろしい被災戦災を乗り越えていらっしゃる。待乳山聖天様に参詣するとき、たまに寄る浅草駅前商店街のマックには、他の街のマックとは違い、沢山のお年寄りがいつも集っている。彼らもまた、戦火を潜り抜けた人たちなのであろう。
そんな彼らが生き残ってくれたからこそ、日本を支えてきてくれたからこそ、今の私たちが生きている。そんな私たちと、戦災で亡くなられた方たちと、一体どれほどの人としての価値が違ったんであろうか。まだまだ死にたくなかった、もっともっと色んなことがしたかった、夢や希望があった、そんな彼らに報いるためにも、私たちは夢を抱いて胸を張って生きていかねばならないと思う。希望も絶望も同じ、「望む」と書く。同じ望むなら、未来に希望を持つという人と人を紡ぎあって望んで生きたいと思う。
〜編集後記〜
まとめが書きで長くなりました。急いで書き上げましたので、誤字脱字ご勘弁下さい。
明日から、義理の両親が動けるうちに(笑 PLの花火大会(正確には教祖祭)を見せてやろうと、親孝行がてら二泊三日で大阪旅行です。2日は両親を連れて、生駒の聖天さまも参ります。暑さも本腰を見せて来ました。皆さんもどうぞお風邪など召さぬよう、御身ご自愛下さいませ。
感謝合掌
法蓮 百拝
虚空蔵求聞持法 現在、六十七万遍なり



















