稲荷信仰
2008年04月01日
前回の巡礼の旅、(京都チャリンコ巡礼編)で、伏見稲荷を参拝したときの稿にも書いたが、あの時点では勉強不足だったものの、身体でふと観じた「お大師さんも稲荷山に修行に来たんやろうな〜」とか、『伏見稲荷と東寺=稲荷信仰と密教』の関わりは、想像上の話しではなく事実であることが、あの日以降の色々な調べで分かった。その全てを記事に起こすとまた膨大になってしまうので、今回はかいつまんでお話ししておきたい。
稲荷と密教との深い関わりは、空海の高弟、実慧(じちえ)が東寺(教王護国寺)造営の指揮を執ったころに始まるとされ、鞍馬山・愛宕山と並び修験者の集結する霊場であり、東寺密教僧の山林修行の実践現場として、また修験者の聖地でもあったため、多くの山林修行者で溢れていたという。(おぉ〜やはりそうだったか。)
実際、稲荷山には二十箇所以上の滝行場があり、修行場としても最適な条件も兼ね備えていたらしい。現在でも、滝行場はあるらしいが、主に神道の禊ぎのための行場であって、実際に修行をする人は減っているそうだ。(でも、ただ減ってるだけで、やれるんなら今度行ったら滝へ行こう!)
伏見稲荷で、分厚い祝詞全集を購入してきたことは書いたが、京都から戻って以来、朝の勤行時には神棚の前で稲荷祝詞、稲荷心経、稲荷秘文を付加えて唱えるようにした。それぞれの全文は、巻末に書いてあるので、ご自宅又はお近くにお稲荷さんに参拝されることがあれば、参考にしていただきたい。
日本人なら誰でも親しみのある、お稲荷さん。自分も信仰深い祖母と暮らしていた幼い頃から、お稲荷さんは、とても身近な存在だった。祖母の元を離れ、祖母が亡くなり大人になるにつれ、自分の信仰心もほんの去年まで、とんでもない深い眠りに就いていた・・・が、そこは突っ込まずに(笑。
さて本題。稲荷信仰と密教は、空海のもたらした純密が確立されて行く流れに、自然と絡み合うように折笠ねって行き、また飯綱信仰や荼吉尼信仰の関わりから、修験道も更に稲荷信仰と密接な関係を持っていく。
史実上では、伴信友(1773-1846)の「験の杉」によれば、空海が古来からの稲荷信仰に、荼吉尼信仰を附会し、荼吉尼法を行って狐神を稲荷と称して勧請したのが「稲荷=狐」図式の始まりと推断している。
荼吉尼天は別号、白晨狐王菩薩とも称し、巨大な白狐にまたがった女神の姿として表現されることで知られる。狐落としの祝詞・真言が神道ではなく、東寺系の文書に見られることからも、密教の影響が少なからず及ばされているといえよう。
全然知らなかったが、もっと驚いたことがある。
現在でも稲荷祭りにおいて、伏見稲荷大社から神輿が繰り出して、東寺に向かい東寺境内にある八幡宮の前で供物を受けて、その丑寅の方角(北東)にある、伏見稲荷大社御旅所に巡回するという、慣わしまで残っていることからも、正に真言密教と稲荷信仰は、千年を越える密接な関係が続いており、今でも稲荷神は東寺の守護神なのだそうだ。
しかも、真言密教と稲荷神との関係を、更に如実に表す伝説が東寺に伝わる「稲荷大明神流記」に記述されているらしい。超要約すると、『弘仁7年(816年)空海は、紀州の田辺で稲荷神の化身であるとする、異相の老翁に出会い、「汝には威徳がある。自ら悟りを求め修行し、他の者も悟りへと導くため努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか?」と、ある種オファーを受けたらしい。
これに対して空海は、「霊山(唐国)において、貴方を拝み交わした誓約は忘れてはいない。自分は密教を日本に伝え隆盛させたいという切なる願いがあり、神様には仏法の擁護をお願いしたい。ついては東寺にて国家鎮護のため真言密教を興すので、是非お立ち寄り下さい」と延べ、神の化身と称す老翁と空海は盟約を結んだとされる。
それから7年後の弘仁14年(823年)、つまり空海が東寺を賜った同年4月13日。老翁は、婦人二人と子供二人を伴って、約束通り東寺の南門に再びやって来た。大喜びした(・・かどうかは知らないが)空海は、一行を持成したあと、東寺の造営のため材木を切り出す山を稲荷山に定め、17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。これが今の稲荷社(伏見稲荷)であり、空海は神輿を作って伏見稲荷、東寺、御旅所をかかせて回らせたのである。』
とある。おや?と思ったであろうが、この爺さん(怒られるかな・・)と空海は、既に中国で会っていることが窺い知れるが、要するにこの爺さんはお稲荷さん(神様)の化身で、空海は当然、神仏意識として感得していた上での話しであって、別に爺さんでなくとも女でも子供でも、見える(観じる)人間には分かるのであろう。
東寺に伝わる伝説書なら疑いようが無いし、そこに平安における新興密教勢力と、秦(苛田)氏らの神道旧勢力の政治的利害関係が一致したとしても、歴史学的見解で見れば自然ですらあるか。
更に調べると、伏見稲荷大社は応仁の乱以後、15世紀後半の頃に、稲荷本願所愛染寺という真言系の寺院も建っており、明治期の廃仏毀釈までは神仏両方の稲荷信仰の聖地でもあったという。
本願所愛染寺の住職、天阿上人(1598-1674)は、真言密教の法に倣いながら神仏習合的な稲荷の行法を、体系化していった人物であり、中世から近世にかけて流行した、稲荷神の使いとしての狐=眷属信仰に深く関与している。また、愛染寺では狐落としの祈祷を行ったり、稲荷系シャーマンの養成も行っていたという。
当時の仏教的稲荷=荼吉尼天の修法が記述されている、天阿上人の著した「稲荷一流大事」の一部(パラトラパ雅製簡略版)を見ると、冒頭から大日如来真言 オン・バ・サラ・ダ・ド・バン 七難即滅、オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン 七福即生、 ダキニ本尊真言 オン・ギヤク・ソワカ、ダキニ・ギヤテイ・ギヤ・カ・ネイエイ・ソワカ・・ と続き、真言密教色が当然色濃く反映されているのが分かる。
が、後半には「千早ぶる 稲荷の宮のしるしには 我思うこと満つの社に 千早ぶる 豊のみ前に とのいして 我思うこと神も応えよ 遠けれど 召せばぞまいる召し給え 富草もたべ 家つとにせん」と、神道の祝詞に変わり、最後には稲荷心経を唱える。となっている。
ご真言と祝詞が、一つの経典・・とうか、祝詞というか、修法の中に融合されているのは、生まれた時から神と仏が別々として目の前で見てきた自分には、ちょっと不思議な感じがする。
個人的な神仏習合主義者といっておきながらも、神棚と仏壇は別々だし、唱えるのも別々に唱えている。これも自分の心の中の勝手な意識における、単なる必要のない拘り、囚われなのだろう。要らん要らんそんなもの。
『稲荷祝詞、稲荷心経、稲荷秘文』全文
▼*祝詞はハッキリ言って、漢読みのお経より読みづらいですが(笑
続きを読む
稲荷と密教との深い関わりは、空海の高弟、実慧(じちえ)が東寺(教王護国寺)造営の指揮を執ったころに始まるとされ、鞍馬山・愛宕山と並び修験者の集結する霊場であり、東寺密教僧の山林修行の実践現場として、また修験者の聖地でもあったため、多くの山林修行者で溢れていたという。(おぉ〜やはりそうだったか。)
実際、稲荷山には二十箇所以上の滝行場があり、修行場としても最適な条件も兼ね備えていたらしい。現在でも、滝行場はあるらしいが、主に神道の禊ぎのための行場であって、実際に修行をする人は減っているそうだ。(でも、ただ減ってるだけで、やれるんなら今度行ったら滝へ行こう!)
伏見稲荷で、分厚い祝詞全集を購入してきたことは書いたが、京都から戻って以来、朝の勤行時には神棚の前で稲荷祝詞、稲荷心経、稲荷秘文を付加えて唱えるようにした。それぞれの全文は、巻末に書いてあるので、ご自宅又はお近くにお稲荷さんに参拝されることがあれば、参考にしていただきたい。
日本人なら誰でも親しみのある、お稲荷さん。自分も信仰深い祖母と暮らしていた幼い頃から、お稲荷さんは、とても身近な存在だった。祖母の元を離れ、祖母が亡くなり大人になるにつれ、自分の信仰心もほんの去年まで、とんでもない深い眠りに就いていた・・・が、そこは突っ込まずに(笑。
さて本題。稲荷信仰と密教は、空海のもたらした純密が確立されて行く流れに、自然と絡み合うように折笠ねって行き、また飯綱信仰や荼吉尼信仰の関わりから、修験道も更に稲荷信仰と密接な関係を持っていく。
史実上では、伴信友(1773-1846)の「験の杉」によれば、空海が古来からの稲荷信仰に、荼吉尼信仰を附会し、荼吉尼法を行って狐神を稲荷と称して勧請したのが「稲荷=狐」図式の始まりと推断している。
荼吉尼天は別号、白晨狐王菩薩とも称し、巨大な白狐にまたがった女神の姿として表現されることで知られる。狐落としの祝詞・真言が神道ではなく、東寺系の文書に見られることからも、密教の影響が少なからず及ばされているといえよう。
全然知らなかったが、もっと驚いたことがある。
現在でも稲荷祭りにおいて、伏見稲荷大社から神輿が繰り出して、東寺に向かい東寺境内にある八幡宮の前で供物を受けて、その丑寅の方角(北東)にある、伏見稲荷大社御旅所に巡回するという、慣わしまで残っていることからも、正に真言密教と稲荷信仰は、千年を越える密接な関係が続いており、今でも稲荷神は東寺の守護神なのだそうだ。
しかも、真言密教と稲荷神との関係を、更に如実に表す伝説が東寺に伝わる「稲荷大明神流記」に記述されているらしい。超要約すると、『弘仁7年(816年)空海は、紀州の田辺で稲荷神の化身であるとする、異相の老翁に出会い、「汝には威徳がある。自ら悟りを求め修行し、他の者も悟りへと導くため努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか?」と、ある種オファーを受けたらしい。
これに対して空海は、「霊山(唐国)において、貴方を拝み交わした誓約は忘れてはいない。自分は密教を日本に伝え隆盛させたいという切なる願いがあり、神様には仏法の擁護をお願いしたい。ついては東寺にて国家鎮護のため真言密教を興すので、是非お立ち寄り下さい」と延べ、神の化身と称す老翁と空海は盟約を結んだとされる。
それから7年後の弘仁14年(823年)、つまり空海が東寺を賜った同年4月13日。老翁は、婦人二人と子供二人を伴って、約束通り東寺の南門に再びやって来た。大喜びした(・・かどうかは知らないが)空海は、一行を持成したあと、東寺の造営のため材木を切り出す山を稲荷山に定め、17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。これが今の稲荷社(伏見稲荷)であり、空海は神輿を作って伏見稲荷、東寺、御旅所をかかせて回らせたのである。』
とある。おや?と思ったであろうが、この爺さん(怒られるかな・・)と空海は、既に中国で会っていることが窺い知れるが、要するにこの爺さんはお稲荷さん(神様)の化身で、空海は当然、神仏意識として感得していた上での話しであって、別に爺さんでなくとも女でも子供でも、見える(観じる)人間には分かるのであろう。
東寺に伝わる伝説書なら疑いようが無いし、そこに平安における新興密教勢力と、秦(苛田)氏らの神道旧勢力の政治的利害関係が一致したとしても、歴史学的見解で見れば自然ですらあるか。
更に調べると、伏見稲荷大社は応仁の乱以後、15世紀後半の頃に、稲荷本願所愛染寺という真言系の寺院も建っており、明治期の廃仏毀釈までは神仏両方の稲荷信仰の聖地でもあったという。
本願所愛染寺の住職、天阿上人(1598-1674)は、真言密教の法に倣いながら神仏習合的な稲荷の行法を、体系化していった人物であり、中世から近世にかけて流行した、稲荷神の使いとしての狐=眷属信仰に深く関与している。また、愛染寺では狐落としの祈祷を行ったり、稲荷系シャーマンの養成も行っていたという。
当時の仏教的稲荷=荼吉尼天の修法が記述されている、天阿上人の著した「稲荷一流大事」の一部(パラトラパ雅製簡略版)を見ると、冒頭から大日如来真言 オン・バ・サラ・ダ・ド・バン 七難即滅、オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン 七福即生、 ダキニ本尊真言 オン・ギヤク・ソワカ、ダキニ・ギヤテイ・ギヤ・カ・ネイエイ・ソワカ・・ と続き、真言密教色が当然色濃く反映されているのが分かる。
が、後半には「千早ぶる 稲荷の宮のしるしには 我思うこと満つの社に 千早ぶる 豊のみ前に とのいして 我思うこと神も応えよ 遠けれど 召せばぞまいる召し給え 富草もたべ 家つとにせん」と、神道の祝詞に変わり、最後には稲荷心経を唱える。となっている。
ご真言と祝詞が、一つの経典・・とうか、祝詞というか、修法の中に融合されているのは、生まれた時から神と仏が別々として目の前で見てきた自分には、ちょっと不思議な感じがする。
個人的な神仏習合主義者といっておきながらも、神棚と仏壇は別々だし、唱えるのも別々に唱えている。これも自分の心の中の勝手な意識における、単なる必要のない拘り、囚われなのだろう。要らん要らんそんなもの。
『稲荷祝詞、稲荷心経、稲荷秘文』全文
▼*祝詞はハッキリ言って、漢読みのお経より読みづらいですが(笑
続きを読む



















