歓喜天(聖天)
2012年01月09日
よく比較される、或いは混同される仏の慈悲と神の愛。
似ている部分もあれど、実は本質的に全く異なるものです。
元旦に公表しました、方針演説。
あの稿で公益事業について書きましたが、公益事業の定義のひとつに"不特定多数のための利益"とあります。
例えば、
家族を大切にする。妻や夫、子供を愛する。企業のトップであれば、社員の幸福や家庭円満を願う。そのために一生懸命仕事する。これらは利害関係にあるので慈悲ではなく、愛です。
よく、我が子のために命をも投げ出さん母を、観音様の慈悲に例えられますが、他人の子ではなく我が子であれば、慈悲ではなく愛でありましょう。
一神教の神の愛とは原則、これに近いものです。唯一の神と崇め、その他一切の神を拝むな。その約束を守れるなら、審判の日が訪れた時に救済してあげましょう。その他の人は知りませんよ。と云う条件付きであり、一種の契約宗教です。
対して仏の慈悲とは、
遍く一切衆生に及ぼされる普遍的なものです。自分と全く利害関係になくとも救いの手を差し伸べる。相手を擁護する義務とか社会的通念とか、或いは善意を施した事によって得よう、間接的であっても何かしらの利益すら一切求めないものであります。
私の公益事業によるビジョンでは、この"不特定多数の困窮したる人々に利益を施す。"と云う部分が、仏の慈悲と大変適合しているのであります。
余談ですが、
多神教であるはずの密教の神・聖天信仰もその特異性であるが故に、他の神を同時に祀ってはならないとされます。私自身も亦、平素から『愚者必救済 愚願必成就 唯一絶対神』と申しております。
お聖天様が一神教の神と違うのは、
愚者必救済・・・即ち、愚か者をも救われる
愚願必成就・・・即ち、愚かな願望をも叶う
この2カテゴリーの祈りに最大の力量を発揮されるのは、聖天様をおいて他にいらっしゃらぬ。そういう意味を以って、唯一絶対の神とされておるのです。
ところで震災から間もなく一年。
相変わらず私は百念仏追善供養を続けておりますが、被災で亡くなられた方に併せて毎日、病気・怪我・飢餓・事件・事故で亡くなられた方も供養しております。
要するにその日、亡くなられた世界中の方です。当然、その中には犯罪者もおれば死刑囚もおるわけです。或いは先祖供養に至っても亦然り。民を苦しめる愚かな権力者の先祖も供養します。
何故なら、本当に救うべき者は救い難き愚か者だからです。自らの仏性に気付かず、救いの道を知らぬまま我欲貪るものこそ、本来は救い導いてゆかねばなりません。それがこの世から犠牲となる弱者を救う唯一の手段であり、具現化するのが聖天信仰なのです。
一神教については、まだまだ勉強不足ではありますが、ふと素朴な疑問が湧きませんか?神と契約している人が、契約していない人(若しくは、他の神を信じる人)を救ってあげて下さいと、そう祈った時にその願いは聞き入れられるのか?と。もっと世界を巡って勉強していきたい所存であります。
お聖天様?は、大丈夫ですよ。
祈る人々の喜ぶ心を、最高の好物とされ歓ばれる神。それがお聖天様ですから。あなたがもし、あなたの知る人の幸福を祈り、それがあなたにとって心の底から最大の喜びとなる。
そうであるのなら、お聖天様は歓んでお聞き下さる事でしょう。それがお聖天様が神でありながら仏である。仏であるが故の、大聖大慈悲歓喜尊天であられます。
聖天信仰。
それは、人が喜んで歓んで一生を生きてゆける。
如何なる絶望の中にあっても、揺るぎない希望と成り得るのです。
それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。
全世界が核廃絶し兵器を捨て穏やかな日々が訪れますよう
全人類が共に尊み共に助けあい共に慈しみ合いますように
We have to do The Rapture Pure Land construction.
感謝合掌 北斗法蓮
似ている部分もあれど、実は本質的に全く異なるものです。
元旦に公表しました、方針演説。
あの稿で公益事業について書きましたが、公益事業の定義のひとつに"不特定多数のための利益"とあります。
例えば、
家族を大切にする。妻や夫、子供を愛する。企業のトップであれば、社員の幸福や家庭円満を願う。そのために一生懸命仕事する。これらは利害関係にあるので慈悲ではなく、愛です。
よく、我が子のために命をも投げ出さん母を、観音様の慈悲に例えられますが、他人の子ではなく我が子であれば、慈悲ではなく愛でありましょう。
一神教の神の愛とは原則、これに近いものです。唯一の神と崇め、その他一切の神を拝むな。その約束を守れるなら、審判の日が訪れた時に救済してあげましょう。その他の人は知りませんよ。と云う条件付きであり、一種の契約宗教です。
対して仏の慈悲とは、
遍く一切衆生に及ぼされる普遍的なものです。自分と全く利害関係になくとも救いの手を差し伸べる。相手を擁護する義務とか社会的通念とか、或いは善意を施した事によって得よう、間接的であっても何かしらの利益すら一切求めないものであります。
私の公益事業によるビジョンでは、この"不特定多数の困窮したる人々に利益を施す。"と云う部分が、仏の慈悲と大変適合しているのであります。
余談ですが、
多神教であるはずの密教の神・聖天信仰もその特異性であるが故に、他の神を同時に祀ってはならないとされます。私自身も亦、平素から『愚者必救済 愚願必成就 唯一絶対神』と申しております。
お聖天様が一神教の神と違うのは、
愚者必救済・・・即ち、愚か者をも救われる
愚願必成就・・・即ち、愚かな願望をも叶う
この2カテゴリーの祈りに最大の力量を発揮されるのは、聖天様をおいて他にいらっしゃらぬ。そういう意味を以って、唯一絶対の神とされておるのです。
ところで震災から間もなく一年。
相変わらず私は百念仏追善供養を続けておりますが、被災で亡くなられた方に併せて毎日、病気・怪我・飢餓・事件・事故で亡くなられた方も供養しております。
要するにその日、亡くなられた世界中の方です。当然、その中には犯罪者もおれば死刑囚もおるわけです。或いは先祖供養に至っても亦然り。民を苦しめる愚かな権力者の先祖も供養します。
何故なら、本当に救うべき者は救い難き愚か者だからです。自らの仏性に気付かず、救いの道を知らぬまま我欲貪るものこそ、本来は救い導いてゆかねばなりません。それがこの世から犠牲となる弱者を救う唯一の手段であり、具現化するのが聖天信仰なのです。
一神教については、まだまだ勉強不足ではありますが、ふと素朴な疑問が湧きませんか?神と契約している人が、契約していない人(若しくは、他の神を信じる人)を救ってあげて下さいと、そう祈った時にその願いは聞き入れられるのか?と。もっと世界を巡って勉強していきたい所存であります。
お聖天様?は、大丈夫ですよ。
祈る人々の喜ぶ心を、最高の好物とされ歓ばれる神。それがお聖天様ですから。あなたがもし、あなたの知る人の幸福を祈り、それがあなたにとって心の底から最大の喜びとなる。
そうであるのなら、お聖天様は歓んでお聞き下さる事でしょう。それがお聖天様が神でありながら仏である。仏であるが故の、大聖大慈悲歓喜尊天であられます。
聖天信仰。
それは、人が喜んで歓んで一生を生きてゆける。
如何なる絶望の中にあっても、揺るぎない希望と成り得るのです。
それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。
全世界が核廃絶し兵器を捨て穏やかな日々が訪れますよう
全人類が共に尊み共に助けあい共に慈しみ合いますように
We have to do The Rapture Pure Land construction.
感謝合掌 北斗法蓮
2011年11月06日

先月、吉野山聖天の記事#650の続き。
櫻本坊で出会った岩手の僧侶。
今回は、彼と話した聖天行者や寺院運営について少々。
浴油祈祷には、不純物のない清浄な油を要する。
そこへ諸々の香を混ぜてフツフツと炊き、香りだった油をお聖天さまのお像へと酌で注ぐ。
当然、この油はそんじょそこらのごま油と違い、とても高価である。彼の話しでは一週間で実質コスト2〜3万円かかるそうだ。
聖天行者の最も大変なこと。
それは、ひと度、浴油行を始めてしまえば辞められぬと云うこと。
先のコストも、祈祷依頼があろうがなかろうが続けねばならぬ。
彼が幾らの祈祷料を頂戴しているかまでは聞かなかったが、待乳聖天や妻沼聖天山を例に見ても、最安3千円の祈祷が最低七件以上なければ、やるだけ赤字である。
彼は云う。
「別座はしんどいんですけど、あれのおかげで生活が成り立っていますからね。」
別座とは、三大聖天の中では表立っては待乳山が唯一行っているものだが、一般の祈祷依頼はまとめて行うも、別座はその人だけで一座行う祈祷である。因みに、待乳山は一万円(通常、一週間3千円)。
「毎週、ヒヤヒヤしてますよ。今週は大丈夫かなぁって、、。」
そりゃそうだろう。浴油祈祷を唯一の収入財源としている彼なら、コンスタンスな依頼のあるなしが死活問題である。
私も以前、世界一の聖天行者になることが、世界一、多くの愚かなるものたちを導き、以って多くの民を救えるのだと豪語してきた。今もその気持ちは変わらないが、先に片づける問題もある。
それが、毎日修法を行う道場、或いは自坊の確保。それ以前に、浴油祈祷を修する前に、華水供(けすいく)を最低、千座行う必要もある。もっとそれ以前に、遊行先でも浴油供を行えるように、システムの構築又は、旅先へ運搬可能なコンパクトな浴油壇の考案である。
彼は、二日間吉野山に滞在し、そのまま高野山へ上ると云う。そんなに数日間留守にして、その間の浴油はどうするのか?
彼の場合は、同居している母親が簡単な所作が出来るので、帰宅してから数日分まとめて行う聖天行者もいるらしいと云う。生駒聖天、待乳山聖天、妻沼聖天とそれぞれには多くのお弟子さんたちもいる。住職が会合などで留守にしても問題はないかも知れないが、、だが確か、妻沼では浴油の出来るのは住職だけだったような気もするが、、どうしているのか。
それと今ひとつに、私の場合、浴油祈祷を始め祈祷や供養で金銭を授受するつもりがないこと。本来は、布施の中でも法施といい、堂々とお金を受け取っても然るべき行為なのだが、元々事業家である私の場合は、宗教色以外の部分で事業を興し収入財源を確保するつもりでいる。
語弊を招く書き方なので追記すれば、全く無料でやりますよとなると、彼も含め他の聖天寺院にも良からぬ影響を及ぼし兼ねぬ。なので、私は祈祷や供養を自身の生活や寺院運営の財源としてアテにしないと云うことである。例え、志を頂戴しても額面100%そのまま、その方のお名前で財団などを通じ法施を再度、世の中に還元するつもりでいる。
それより問題は、毎日どうやって浴油供を続けるかである。自坊を構えようが、私の遊行は一生続くであろう。元々歩き遍路から始まった坊主である限り。元より風来坊、一所不在の僧侶の本懐を貫く。救い求める声あらば、世界中どこへでも行く。何があっても現在日々続ける勤行供養のように、これだけは変わらぬ環境と心を持ち続けられるよう考案中である。
それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。
全世界核廃絶武装解除天下泰平
全人類共尊共助共慈共悲共愛
厭離穢土欣求密厳淨土悉地成就
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
2011年10月15日

愚かなるものたちへ
汝。愚かものこそ、この尊天を拝むがよい。
人よりも先んじたいのなら、尊天を拝むがよい。
世に名を挙げたいのなら、この尊天を拝むがよい。
己(おの)が正に凡夫の窮みである
愚かもののと悟れたのなら、この尊天を拝むがよい。
己が人生を、今のまま終えたくないのならば、ただ悪戯に時を過ごし、齢を重ねたくないのならば、この尊天の御名(みな)を唱えればよい。ただ、それだけである。
大聖歡喜天の和讃にあり、
【喩え貧しき輩(やから)にも、尊の名號(みょうごう)を唱えつつ、祈れば納受(のうじゅ)ましまして、忽(たちま)ち栄華(えいが)の印(しるし)あり】
【卑賤(ひせん)の職にあるものも高貴の地位を占め得なん その日の糧(かて)に悩む身も富貴の身とぞなり得なん 学問諸芸を望むとも智慧辯才(ちえべんさい)を求むるも 信に隨應(ずいおう)増しまして 世に其の名をば挙げうべし】
亦、大聖歓喜天使咒法経にあり、
【富貴無窮巳(ふうきむぐうい)】
栄華とは、栄耀栄華。
富貴とは、単に裕福のみならず地位高きもの。
その富貴が、窮め(きわめ)已む(やむ)ことが無いもの。
亦、学問や諸芸。智慧、弁才、名声。
それらを望むのならば、ただ尊天の御名(みな)を唱えればよい。
亦、大聖歓喜天使咒法経にあり、
【美女満衢庭(みにょまんぐうてい)】
衢庭(ぐうてい)とは、道の四辻(よつつじ)。
そこかしこに、美女が満ち溢れていると云う意。
男でそれを望まぬものがあろうか。
そんな状況が欲しくば、ただ尊天の御名(みな)を唱えればよい。
長生きをして世の変革、子孫成長を見届けたいのならば
大聖歡喜天の和讃にあり、
【信をおこして朝夕に 唯怠らず念じなば、命は亀鶴(きかく)の如くなり】ただ尊天の御名(みな)を唱えれば、亀や鶴ほど長生きできよう。
このように、大聖歡喜天の和讃やお経の中には、書き切れぬ驚くほどのご利益が記述されている。詳しくは過去記事タグ、お経ダウンロードにて。
亦、伝教大師最澄曰く、「六天講式」より
【そもそも我等、仏法を興隆して、衆生を利益せんとせども、志あっても力無し。仏像を造立し経巻を書写するに、儀あれども遂ぐるなし。このこと誰が人憐れみをなさんや。この念何時に伏するを得んや。唯だ本尊聖者を願い、貧を転じて福を与えるの術を施すべし。】
(如何に有り難い仏法を僧侶たちが受け持ち、仏教を興隆させて民衆に奉仕したいと思っても無力である。目に見える御利益をもって導く方便の力には及ぶまい。こういう時には人の助けを借りることも出来ないが、歓喜天を信仰して貧乏を転じて福を与える術を行うべきだ。)
即ち、「貧乏人でもこの神の名を聞けばたちまち裕福になり、卑しい地位の人間でも高い地位につけるであろう」と、最澄自らが尊天上様(お聖天さま)のご利益は、凡夫が計り知ることが出来ぬほど、現世利益の真髄である。と述べている。
何も難しいことはない。
在家ならば、お経を必死に覚える必要もない。
いや、寧ろ在家である必要すらなかろう。
ただ、尊天上様(お聖天さま)の御名(みな)を唱えればよい。
御名(みな)とは、真言である。真言とは仏そのものを表す天地宇宙のメッセージ。
謂わば、お聖天さま、即ち大日如来なる大宇宙と、自らの小宇宙を接続するアクセスコードであり、仏心を開くパスワードである。
お聖天さまの真言は諸々ある。
般若心経の最後の言葉も漢訳されていないように、真言は出来れば原語に近い発音で唱えるのがよい。主なものを以下に羅列する。
◆おん ふりーひ ぎゃく
◆おん ふりーひ ぎゃく うん すヴぁはー
◆おん ぎゃくぎゃく ふりーひ おん か うん はった
亦、生駒聖天前住職・松本実道師曰く
【お経や真言は、ただ数を余計に知っていると云うのが良いのではない。井戸は同じ処を深く掘れば、淨き水が溢れる如く。同じお経や真言を懸命にひたすら唱えるが良い。】
これには私も耳が痛かった。
仏門歩み始めし頃、ワケも分からず経を覚え、真言を覚えた。暗誦も多々出来るようになった。印契も多々組めるようになった。控えめに?自慢すれば人はスゴいと云う。悪い気はしない。
然し、もう随分と新しい経は読みはすれど覚えはしていない。今はただ、ひたすら聖天勤行を続ける毎日。最初はそれでいいと思う。あれもこれも知りたい、覚えたい。そんな思いがやがて己が歩むべき仏との仏縁を導くであろうから。
朝夕の勤行に、お聖天さまの真言を千遍ずつ唱える。
これだけで、一日二千遍。一ヶ月、六万遍。一年で七十三万遍。
勤行時以外にも、何か有難いことが起きる度に、感謝を込めて唱える。何か不安事がある度に、ご加護を祈り唱える。どちらもない時も独り言のように、ただ唱える。私と数を争うのでない。ご自身のリズムで好きなようにただ、ただ唱える。それで良い。
あれも足りぬ、これも足りぬと云うな。
今、与えられているものに手に入るものに感謝し満足せよ。
何事にも感謝し、有難く思う。
その心構えと自然な気持ちが仏道にはとても大事ではある。
だが、小欲知足だけを提唱する古臭い坊主の教えでは、経済国家に住する我々現代人は救われぬ。中国がどれだけ台頭してこようとも我が国、日本は未だ世界に名立たる経済国家である。
高品質な製品を生産し、高度なサービスを提供する。それを人々が求め、消費してこそ成り立つのが経済である。経済は人の欲望を以って支えられている。そして亦、経済があってこそ復興支援も社会福祉も有得るのだ。
ただ、真言を唱えるがよい。
尊天上様の御名(みな)を唱えるがよい。
まずは己の欲望を満たし、仏心に目覚めよ。
十分、満足せしめ賜えのなら、心の垢を削ぎ落とし世に尽くせ。
遍照金剛空海大師「般若心経秘鍵・秘蔵真言分」にあり、
【真言は不思議なり。頌に曰く、観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み即身に法如を証す。】
詩にいう。
真言というものは、実に不思議なものである。
本尊を観想しながら、真言を唱えたならば、根源的な無知の闇が除かれる。真言の僅か一字の中に、それぞれ千の理法が含まれる。そうして、この身のままで真理をさとることができるのである。
それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。
全世界核廃絶武装解除天下泰平
全人類共尊共助共慈密厳浄土成就
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
編集後記続きを読む
2011年10月02日


さて、Twitterでお知らせしましたように、九月晦日より吉野山に籠り、大峯山護持院のひとつ、櫻本坊における吉野聖天尊大祭に参列してまいりました。
そもそも、聖天像は秘仏とする寺院が九割以上。そして浴油祈祷自体、厳修される寺院が減少している中で、なんと!この櫻本坊では、秘仏開帳のみならず浴油祈祷まで観ることが出来るのです。
ご開帳と云う事だけは事前に知っておりましたが、まさか密教究極の秘法である浴油祈祷まで観れるとは、、、
更に、もっと驚いたのは、自分自身の手で杓にすくわれた油を雙身聖天像に注ぐことが出来る。
即ち、ご自身の手で浴油供を行い、目の前にいらっしゃる聖天尊に直接、願意を申立てることが出来ると云うことです。
これには本当に驚きました。真夜中の深山幽谷にも関わらず、本堂の中には、総勢百人以上いたでしょうか。
その中の二十人ほどが、修験道総本山らしく行者の方々。八名ほどの僧侶がご住職を囲み。私を含め、数名の他寺院の僧侶。それ以外、全て完全な在家若しくは一般参列者です。
行者さんや、私たちだけでなく、そんな一般参列者の方々も、ただ拝観出来るだけではなく、全員が全員、聖天様の御前に膝を付き、浴油供を体験出来るのです。
本当に驚きました。
訊くところによると、若い一般参列者の方々でも四年連続ですとか、熱心な方が多かったこと。
今まで、生駒聖天、待乳山聖天、妻沼聖天などで多くの信者にお会いしてきましたが、どこも共通しているのは、私が最年少なほど中高老年者が多かったのですが、
それに比べ、吉野聖天には若くして熱心な聖天信者、或いは強い興味を持つ若者が半数を占めるほどいた事にも驚きました。
若いと云うことは、それだけ未来が長いと云うこと。
思想・信仰の広がりや、自分自身は無論、他人や世間に与えていく影響も大きいと云うことでありましょう。
宿坊施設を備えた、櫻本坊はお風呂やトイレも改装したはがりか、とても綺麗で快適でした。
お風呂には、馬油のボディソープとシャンプーが。まるでどこかの温泉旅館のよう。
夜と朝に頂いた、お弁当のお接待も精進ではありますが、予測していたよりも決してケチ臭いものでなく、美味しくひもじくなく戴きました。
このような、年に一度の行事に参列させて頂いた奇跡に、ご縁に心から感謝致す次第で御座います。皆さんも、是非来年はご参列をオススメ致します。
今回の参詣で、私にとって最も大きな収穫となったのが、櫻本坊で佛縁賜りました、岩手盛岡の僧侶。
同じ高野山真言宗の出身であり、また同じ時期に四国歩き遍路をし、そして彼もまた初代として私寺建立を目指す聖天行者だったのです。
もう、話せば話すほど共通点や共通の知人がいたり、とにかく話してて独特な身振り手振りも相まって、面白いのですっかり彼を気に入ってしまいました。
彼もまた、私を気に入ってくれ、帰りは山門まで私を見送ってくれました。
これからもきっと彼とは、互いに訪ね合って論議を重ね、聖天様の奇しき御力を御借りして、一人でも多くの苦しみ悩む人々の力になっていきたい。そう心に誓いました。
まだまだ、パソコンの使えぬ環境ですので、携帯更新につき読みづらいところが御座いましたら、お詫び致します。
それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。
核廃絶 武装解除 世界泰平 全人類共尊共幸
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
2011年09月10日
◆五体投地
はい、そのままの勢いで五体投地に入ります。
健常者はなるべく五体投地しましょう。無論、足のご自由な方は坐したままで結構ですし、足腰の具合が良くないときは無理する必要はありません。特に勤行を終えて、つまり一時間以上正座したあとの五体投地はかなりキツイです。
無理すれば、私が得度したときのように足をぐねって腫れるほど傷めますので、決してご無理はしないで下さい。勤行を終えたあとの五体投地のコツは亦、いつかの稿で教示します。
*1
聖天さまの印契を結んだまま、上半身を投げ出すように額を床につけます。
『南無(なーもー)、、頭面節足帰命頂禮(ずめんせっそくきみょうちょうーらいー)、、一信一仰(いっしんいっこう)愚者必救済愚願必成就唯一絶対神、、』
*2
ここで上半身を起こします。
『自在神力(じざいじんりきー)大自在大聖大仁慈(だいじざいだいしょうだいじんじ)、、』
*3
右膝を立てると同時に、左足のつま先も立てます。
『歓喜雙身天王(かんぎそうしんてんのう)、、、』
*4
立ち上がり、両腕を真上に掲げ天空の山(雞羅山)の山頂をイメージします。
『雞羅山中(けいらせんちゅうー)、、、』
*5
印契を解き、広げた両手を胸に引き寄せながら、聖天さまを中心として両側に整然と並ぶ、九千八百にも及ぶ眷属の王たちを観想します。もう少し具体的に云えば、片側に四千九百の大鬼王が立ち並んでいる情景です。
更に云えば、それぞれが大鬼王。鬼たちの大王でありますから、その臣下には少なくとも百から千の鬼たちがいるわけです。そこまで観想出来ますと、その頂点に立つ聖天さまの威厳も必然的に深まるばかりでありましょう。
『九千八百諸大鬼王(きゅうせんはっぴゃくしょだいきおう)、、』
*6
云い終わると同時に、円滑に左膝を付き続く右膝も付いて
(ここで*3の真逆の所作で、先につま先を立てるとより座り易いです。)
(二度目、三度目が楽なものでつい、つま先を立てたまま上半身を投げ出したくなります。)
(が、、それはズルなので投げ出す際は、つま先を伸ばしましょうね。)
(右膝を付く際に、どうしても上半身がブレがちです。背筋を伸ばし腹筋を使いましょう。)
*7
ここで、*1の体勢に戻ります。もう一度、印を結びます。
『悉地成就(しっじじょうじゅ)』これを三遍。繰り返します。
*8
三遍目の*7で、額を床に付けた状態で、印を解いた両手を耳の横の高さ程度まで上げ、手の平を上に向けます。仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)、自分の額の前には既に、聖天さまの御足があると観想し恭しく押し頂きます。
『御清浄で、御清潔で、御高貴なる、御高潔なる、尊天上様の御足を押し頂く幸せに感謝致します。』
『我が身、我が心、我が命。それしか担保するものが御座いませんが、我が未来、我が使命、我が生きる道、我が生まれし意味、死ぬる意義。何もかも尊天上様にお任せし、お預けし、ただただひたすらに御縋りすることしか今は出来ません。』
『どこまでも果てなく愚俗の邪智なる我なれど、尊天上様のその大宇宙の如く、広き深き、我が父母祖父母を凌ぐ大いなるご慈悲の御心を以って我ら愚かなるものすら哀れみて賜いて。』
『未だ、私利私欲愛欲見え隠れする。我らの思い願い祈りも、まずはその丈のままに、まずは我ら望む時に、まずは我ら望むだけを、まずは我ら望む形で、、』
*具体的な願意は、次第の後半で述べてゆきますが、ここでも頭の中では上記の賛辞を述べつつイメージされると良いでしょう。
『叶え賜いつつ、尊き道へと導き賜るは。天地宇宙三千大千世界八十余億、神仏おわすともこの天尊上様だけのご誓願なるぞ、有難や。何卒本日も一日、貴命の程宜しくお願い申し上げます。』
はい、四回に渡ってお送り致しました、大聖歡喜天勤行次第・朝行でありますが、ここまで来ればほぼ願いは叶ったも同然なのです。え?読経もまだなのに?
そーです。お経も大事ですが、ここまでが非常に大事な部分なのです。お経は暗誦しさえすれば、朝出勤時間が忙しければ、車を運転しながらでも電車の中でも出来ます。然し、聖天さまや大日如来を観想しながら佛凡一如を目指すには、ある程度修練しても集中継続せねばなりません。
信じる心が宿れば、自然と精進の行動を起こします。
聖天さまをご自身の救いの神と信じたその瞬間から、如何なる願望成就の因子も既に聖天信者に心に芽生えるのです。
聖天さまの奇しき御力に触れるは、同じく奇しきえにしと胸に刻み、どうぞ皆さん、信火行炎消えぬようご精進下さいませ。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
はい、そのままの勢いで五体投地に入ります。
健常者はなるべく五体投地しましょう。無論、足のご自由な方は坐したままで結構ですし、足腰の具合が良くないときは無理する必要はありません。特に勤行を終えて、つまり一時間以上正座したあとの五体投地はかなりキツイです。
無理すれば、私が得度したときのように足をぐねって腫れるほど傷めますので、決してご無理はしないで下さい。勤行を終えたあとの五体投地のコツは亦、いつかの稿で教示します。
*1
聖天さまの印契を結んだまま、上半身を投げ出すように額を床につけます。
『南無(なーもー)、、頭面節足帰命頂禮(ずめんせっそくきみょうちょうーらいー)、、一信一仰(いっしんいっこう)愚者必救済愚願必成就唯一絶対神、、』
*2
ここで上半身を起こします。
『自在神力(じざいじんりきー)大自在大聖大仁慈(だいじざいだいしょうだいじんじ)、、』
*3
右膝を立てると同時に、左足のつま先も立てます。
『歓喜雙身天王(かんぎそうしんてんのう)、、、』
*4
立ち上がり、両腕を真上に掲げ天空の山(雞羅山)の山頂をイメージします。
『雞羅山中(けいらせんちゅうー)、、、』
*5
印契を解き、広げた両手を胸に引き寄せながら、聖天さまを中心として両側に整然と並ぶ、九千八百にも及ぶ眷属の王たちを観想します。もう少し具体的に云えば、片側に四千九百の大鬼王が立ち並んでいる情景です。
更に云えば、それぞれが大鬼王。鬼たちの大王でありますから、その臣下には少なくとも百から千の鬼たちがいるわけです。そこまで観想出来ますと、その頂点に立つ聖天さまの威厳も必然的に深まるばかりでありましょう。
『九千八百諸大鬼王(きゅうせんはっぴゃくしょだいきおう)、、』
*6
云い終わると同時に、円滑に左膝を付き続く右膝も付いて
(ここで*3の真逆の所作で、先につま先を立てるとより座り易いです。)
(二度目、三度目が楽なものでつい、つま先を立てたまま上半身を投げ出したくなります。)
(が、、それはズルなので投げ出す際は、つま先を伸ばしましょうね。)
(右膝を付く際に、どうしても上半身がブレがちです。背筋を伸ばし腹筋を使いましょう。)
*7
ここで、*1の体勢に戻ります。もう一度、印を結びます。
『悉地成就(しっじじょうじゅ)』これを三遍。繰り返します。
*8
三遍目の*7で、額を床に付けた状態で、印を解いた両手を耳の横の高さ程度まで上げ、手の平を上に向けます。仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)、自分の額の前には既に、聖天さまの御足があると観想し恭しく押し頂きます。
『御清浄で、御清潔で、御高貴なる、御高潔なる、尊天上様の御足を押し頂く幸せに感謝致します。』
『我が身、我が心、我が命。それしか担保するものが御座いませんが、我が未来、我が使命、我が生きる道、我が生まれし意味、死ぬる意義。何もかも尊天上様にお任せし、お預けし、ただただひたすらに御縋りすることしか今は出来ません。』
『どこまでも果てなく愚俗の邪智なる我なれど、尊天上様のその大宇宙の如く、広き深き、我が父母祖父母を凌ぐ大いなるご慈悲の御心を以って我ら愚かなるものすら哀れみて賜いて。』
『未だ、私利私欲愛欲見え隠れする。我らの思い願い祈りも、まずはその丈のままに、まずは我ら望む時に、まずは我ら望むだけを、まずは我ら望む形で、、』
*具体的な願意は、次第の後半で述べてゆきますが、ここでも頭の中では上記の賛辞を述べつつイメージされると良いでしょう。
『叶え賜いつつ、尊き道へと導き賜るは。天地宇宙三千大千世界八十余億、神仏おわすともこの天尊上様だけのご誓願なるぞ、有難や。何卒本日も一日、貴命の程宜しくお願い申し上げます。』
はい、四回に渡ってお送り致しました、大聖歡喜天勤行次第・朝行でありますが、ここまで来ればほぼ願いは叶ったも同然なのです。え?読経もまだなのに?
そーです。お経も大事ですが、ここまでが非常に大事な部分なのです。お経は暗誦しさえすれば、朝出勤時間が忙しければ、車を運転しながらでも電車の中でも出来ます。然し、聖天さまや大日如来を観想しながら佛凡一如を目指すには、ある程度修練しても集中継続せねばなりません。
信火内に燃えれば、行炎外に現る。
信じる心が宿れば、自然と精進の行動を起こします。
聖天さまをご自身の救いの神と信じたその瞬間から、如何なる願望成就の因子も既に聖天信者に心に芽生えるのです。
聖天さまの奇しき御力に触れるは、同じく奇しきえにしと胸に刻み、どうぞ皆さん、信火行炎消えぬようご精進下さいませ。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
前稿では、大日如来を観想し宣誓と淨化を致しました。いよいよご本尊、尊天上様(大聖歡喜天)を観想していきましょう。ここからは、千遍真言を終盤クライマックスとして勤行を終えるまで終始、大聖歡喜天を観想し続けます。
聖天勤行は長丁場です。
お供えから始めて既にここまでで、およそ二十分が経過しているでしょう。まだ読経はひとつも読んでいません。ここからが本番です。フルコーラスで一時間強、集中したまま聖天さまを観想し続けるのは容易ではないでしょう。
大日如来から最後の方便身・大聖歡喜天へ。
その為にも先の宣誓、淨化の行において大日如来を能く能く観想するのです。大日如来から聖天さまへ。スムース且つ自然に移行することで、「大日如来最後方便の身、観自在尊慈悲深重の尊体」が顕現されるのです。
最後の方便とは、これが最後。
大日如来の最後の切り札、最終兵器(究極の奥義)。これで救われなければ、もう後がない。即ち、他の神仏に見捨てられても必ずお救いになられる。これが聖天さまの"如何なる願いも叶う"と云われる所以です。
神仏の加持力を、パソコンや車に例えるのは些かどうかと思いますが、スペックで表すのであれば他の神仏が救えないものも救うのですから、最大最強のキャパシティと云えるでしょう。
梵我一如(佛凡一如≒仏と凡夫は一体なり)
完璧な和合と調和・富貴無窮巳(ふうきむぐうい)の財宝神であられる天地宇宙の中心・究極の仏として大慈悲心が発せられ、凡夫が行者として真心込めてこの天尊に向かうとき、無量の祈願が正に速疾に成就するのであります。
以上を踏まえて、さぁそれでは聖天さまを御呼びしましょう。
◆天部降神の儀
降神の儀とは、神(聖天さま)への崇敬の心を表し、行者に坐す仏殿(ご自宅であれば、仏間・仏壇・聖天壇)にお招きする招霊の儀式です。
降神の儀は、神道でも地鎮祭などでも行事となっていますが、王でもあられる聖天さまを、わざわざ御呼び立てすると云うのも、些か抵抗を感じられる方もいらっしゃるでしょう。
そこは密教・即身成仏ですから。
畏れながら天部におられる聖天さまを、御呼び立てしつつも自分自身もまた、天部へお迎えに上がる。そんな気持ちで空間を超越した次元で拝謁を果たす。
その境地が仏間と天部を見えない橋で繋ぎ、すぐ目の前の玉座に聖天さまが坐しておられる光景を目にすることが出来るのです。近くに感じれば感じるほど、ハッキリ見えれば見えるほど、勤行次第が進む中で祈願なりご相談なりの回答が顕著となってゆきます。
佛凡一如(ぶつぼんいちにょ)
前稿の宣誓で、大日如来は我らであり我らは仏の子、仏の弟子であると観想しました。そして、聖天さまはその大日如来の最後の方便身。
凡夫の中でも特別愚かものの私たちのために、最後の方便として顕現されたのです。大日如来は聖天さまであり、私たち凡夫もまた仏の仲間なのです。それが佛凡一如です。
さぁもう臆することなく、聖天さまと二度とない瞬間(とき)を共にしましょう。
『そもそも、歓喜尊天とは。諸神諸仏の父母一切衆生の根元にして、一礼一敬もその功徳の御力、我ら計り知ること、とてもとても能(あた)わずとは。』
『御仏の金言、諸神諸仏の捨て賜うよな、我ら愚願も一心に信じるものは、ただちに成就せしめるは、この天尊上様だけのご誓願なるぞ。有難や。』
『洵(まこと)に末代澆季(まつだいぎょうき)相應(そうおう)の尊天と申し奉るべく、豈(あに)信仰せざるべけんや。信じざるべけんや。』
*末代澆季とは、道徳心も人情も薄れた末世の意。お察しの通り、現代こそ聖天さまの救いが必要とされておるのです。モラルなき◎◎人と、世界に恥じぬ、後ろ指差されることなきよう、せめて仏教徒は仁慈に励み勤めましょう。
次に、聖天さまの印契を結び中指を額に当てたまま、大聖歓喜天雙身毘那夜迦法 所収のご真言を三遍唱えます。聖天さまが降神されるのを観想して下さい。
『ノウボビ ノウヨクキャ シャカシッチ ボキャシャタニャタオン ノウヨクキャ ノウヨクキャ ビノウヨクキャ タラヨクキャ ハリタラヨクキャ ショウギャカシッチ ショウギャカシッタ センジキャラ ソワカ、、』
次稿は、五体投地です。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
聖天勤行は長丁場です。
お供えから始めて既にここまでで、およそ二十分が経過しているでしょう。まだ読経はひとつも読んでいません。ここからが本番です。フルコーラスで一時間強、集中したまま聖天さまを観想し続けるのは容易ではないでしょう。
大日如来から最後の方便身・大聖歡喜天へ。
その為にも先の宣誓、淨化の行において大日如来を能く能く観想するのです。大日如来から聖天さまへ。スムース且つ自然に移行することで、「大日如来最後方便の身、観自在尊慈悲深重の尊体」が顕現されるのです。
最後の方便とは、これが最後。
大日如来の最後の切り札、最終兵器(究極の奥義)。これで救われなければ、もう後がない。即ち、他の神仏に見捨てられても必ずお救いになられる。これが聖天さまの"如何なる願いも叶う"と云われる所以です。
神仏の加持力を、パソコンや車に例えるのは些かどうかと思いますが、スペックで表すのであれば他の神仏が救えないものも救うのですから、最大最強のキャパシティと云えるでしょう。
梵我一如(佛凡一如≒仏と凡夫は一体なり)
完璧な和合と調和・富貴無窮巳(ふうきむぐうい)の財宝神であられる天地宇宙の中心・究極の仏として大慈悲心が発せられ、凡夫が行者として真心込めてこの天尊に向かうとき、無量の祈願が正に速疾に成就するのであります。
以上を踏まえて、さぁそれでは聖天さまを御呼びしましょう。
◆天部降神の儀
降神の儀とは、神(聖天さま)への崇敬の心を表し、行者に坐す仏殿(ご自宅であれば、仏間・仏壇・聖天壇)にお招きする招霊の儀式です。
降神の儀は、神道でも地鎮祭などでも行事となっていますが、王でもあられる聖天さまを、わざわざ御呼び立てすると云うのも、些か抵抗を感じられる方もいらっしゃるでしょう。
そこは密教・即身成仏ですから。
畏れながら天部におられる聖天さまを、御呼び立てしつつも自分自身もまた、天部へお迎えに上がる。そんな気持ちで空間を超越した次元で拝謁を果たす。
その境地が仏間と天部を見えない橋で繋ぎ、すぐ目の前の玉座に聖天さまが坐しておられる光景を目にすることが出来るのです。近くに感じれば感じるほど、ハッキリ見えれば見えるほど、勤行次第が進む中で祈願なりご相談なりの回答が顕著となってゆきます。
佛凡一如(ぶつぼんいちにょ)
前稿の宣誓で、大日如来は我らであり我らは仏の子、仏の弟子であると観想しました。そして、聖天さまはその大日如来の最後の方便身。
凡夫の中でも特別愚かものの私たちのために、最後の方便として顕現されたのです。大日如来は聖天さまであり、私たち凡夫もまた仏の仲間なのです。それが佛凡一如です。
さぁもう臆することなく、聖天さまと二度とない瞬間(とき)を共にしましょう。
『そもそも、歓喜尊天とは。諸神諸仏の父母一切衆生の根元にして、一礼一敬もその功徳の御力、我ら計り知ること、とてもとても能(あた)わずとは。』
『御仏の金言、諸神諸仏の捨て賜うよな、我ら愚願も一心に信じるものは、ただちに成就せしめるは、この天尊上様だけのご誓願なるぞ。有難や。』
『洵(まこと)に末代澆季(まつだいぎょうき)相應(そうおう)の尊天と申し奉るべく、豈(あに)信仰せざるべけんや。信じざるべけんや。』
*末代澆季とは、道徳心も人情も薄れた末世の意。お察しの通り、現代こそ聖天さまの救いが必要とされておるのです。モラルなき◎◎人と、世界に恥じぬ、後ろ指差されることなきよう、せめて仏教徒は仁慈に励み勤めましょう。
次に、聖天さまの印契を結び中指を額に当てたまま、大聖歓喜天雙身毘那夜迦法 所収のご真言を三遍唱えます。聖天さまが降神されるのを観想して下さい。
『ノウボビ ノウヨクキャ シャカシッチ ボキャシャタニャタオン ノウヨクキャ ノウヨクキャ ビノウヨクキャ タラヨクキャ ハリタラヨクキャ ショウギャカシッチ ショウギャカシッタ センジキャラ ソワカ、、』
次稿は、五体投地です。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2011年09月09日
前稿(ぜんこう)の続きです。
群馬人には、前稿が前橋(まえばし)に見えるかもですね。
そう思う私も、すっかり立派な群馬人なのでしょうか。でも、、(ボチボチもぉええやろ、、)そう思い始めた今日この頃です。
さて、前稿の"五恩への感謝"を終えると、五体投地の前にまだやる事があります。次は宣誓と淨化です。
◆宣誓(淨化)
ここでは終始、宇宙佛・大日如来を観想します。仏像や仏画があれば良いですが、なくとも絵葉書(東寺のものは迫力あり)やイラスト、切り抜きなどでも代用して構いません。阿字観行の出来る方は、毛筆した阿の字だけでもいいですね。また、九字護身法の出来る方はここに挿入されるといいでしょう。
お持ちであれば右手に金剛杵(こんごうしょ)、左手に金剛鈴を構えます。金剛杵について、私は師僧・小林阿闍梨からお譲り頂いた三鈷杵(さんこしょ)を使用しておりますが、独鈷杵(どっこしょ)でも、五鈷杵(ごこしょ)でも差し支えありません。
金剛鈴をゆっくり鳴らしつつ、金剛杵を高くかざし、次の文言を唱えながら順に、右肩、脳天、心臓へと当てていきます。
『大日如来よ、天地宇宙より我に御仏の御力を貸し与え給え』
『大日如来よ、天地宇宙より我に御仏の御智慧を貸し与え給え』
『大日如来よ、天地宇宙より我に御仏の御心を貸し与え給え』
次に、金剛杵で脳天から身体の中心をなぞるように淨めます。タイミング良く金剛鈴を鳴らし浄化していきましょう。
『我が煩悩のチャクラを浄化し給え、六根罪障一切清浄(ろっこんざいしょういっさいしょうじょう)×三遍』
『貪(むさぼ)りの心、瞋(いか)りの心、愚痴の心、三毒を洗い流し給え。』*百八つの煩悩の中で、この三毒が最も私たち凡夫を苦しめる要因となっているのですが、気にされる事はありません。誰しも持つものですし、煩悩のない坊さんにも未だ会った事はないのですから。
肝心なのは、その煩悩とどう付き合うかです。空海然り、親鸞然り、日蓮然り。日本の高僧は皆、非常に強い煩悩を抱えていたと思います。然し、世の中を良くしよう。人を救いたいと思う気持ちを行動に表すには、煩悩と云うエネルギーが必要なのです。私はこれを煩悩のレバレッジと呼んでいます。
その為にも三毒と云う、仏教語に集約してしてしまわず、ご自分なりに改めたいことを具体的に唱えてもいいのです。
例えば、ついついよくウソをついてしまいがちな人、見得っぱりな人、あれもコレも欲しい強欲な人、、などは、『偽りの心、まやかしの心、見得の心、誤魔化しの心、私利私欲の心、、洗い流し給え』と、云う風にです。
やがて不思議と小さな欲に囚われず、落ち着きを保てるようになり、今まで自分の望んでいた事が如何に小さなものなのか、生き様を正しく行きたくなります。仏の前に坐すと云うことは、自分自身と向き合う絶好の機会とも云えるのです。
次に、金剛鈴を置き、右手の金剛杵と左手で自分のへそを包むように気を集めていきます。大日如来は観想したままです。
『如来は大宇宙なり、さらば我も人も小宇宙なり』
『如来は我らなり、さらば我も人も如来の子なり』
次に、淨め集めた気を一気に頭上から淨化したばかりの全身に浴びせます。
『我が煩悩は小楽に非ず、小欲に非ず。我が煩悩は大欲大安楽なり、即ち御仏の大慈大悲菩提心なり。我が煩悩を淨化、転化、昇華させ、御仏の境地へと秘密荘厳心へと誘い給え。』
『我れ人ともに、一切衆生が救われんがため。』
『遍離一切私欲 請求一切衆生幸福 密厳国土悉地成就、、厭離穢土欣求密厳浄土。』
次に、金剛杵を大日如来を観想する対象物へと振りかざし、ご真言を七遍唱えます。
『アビラウンケン、アビラウンケン、アビラウンケン、、、』
最後に、解穢真言(ぐえしんごん)を七遍唱えながら、両手を胸から頭上へ向かい上げてゆき、真言に合わせて七遍、弾指(たんじ=指をはじき鳴らすこと)します。
解穢真言(ぐえしんごん)とは、特に穢れを嫌われる天部の神に対して必須のお淨めの儀です。
『オン クロダノウ ウン ジャク、オン クロダノウ ウン ジャク、オン クロダノウ ウン ジャク、、』
次回は、天部降神の儀です。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
群馬人には、前稿が前橋(まえばし)に見えるかもですね。
そう思う私も、すっかり立派な群馬人なのでしょうか。でも、、(ボチボチもぉええやろ、、)そう思い始めた今日この頃です。
さて、前稿の"五恩への感謝"を終えると、五体投地の前にまだやる事があります。次は宣誓と淨化です。
◆宣誓(淨化)
ここでは終始、宇宙佛・大日如来を観想します。仏像や仏画があれば良いですが、なくとも絵葉書(東寺のものは迫力あり)やイラスト、切り抜きなどでも代用して構いません。阿字観行の出来る方は、毛筆した阿の字だけでもいいですね。また、九字護身法の出来る方はここに挿入されるといいでしょう。
お持ちであれば右手に金剛杵(こんごうしょ)、左手に金剛鈴を構えます。金剛杵について、私は師僧・小林阿闍梨からお譲り頂いた三鈷杵(さんこしょ)を使用しておりますが、独鈷杵(どっこしょ)でも、五鈷杵(ごこしょ)でも差し支えありません。
金剛鈴をゆっくり鳴らしつつ、金剛杵を高くかざし、次の文言を唱えながら順に、右肩、脳天、心臓へと当てていきます。
『大日如来よ、天地宇宙より我に御仏の御力を貸し与え給え』
『大日如来よ、天地宇宙より我に御仏の御智慧を貸し与え給え』
『大日如来よ、天地宇宙より我に御仏の御心を貸し与え給え』
次に、金剛杵で脳天から身体の中心をなぞるように淨めます。タイミング良く金剛鈴を鳴らし浄化していきましょう。
『我が煩悩のチャクラを浄化し給え、六根罪障一切清浄(ろっこんざいしょういっさいしょうじょう)×三遍』
『貪(むさぼ)りの心、瞋(いか)りの心、愚痴の心、三毒を洗い流し給え。』*百八つの煩悩の中で、この三毒が最も私たち凡夫を苦しめる要因となっているのですが、気にされる事はありません。誰しも持つものですし、煩悩のない坊さんにも未だ会った事はないのですから。
肝心なのは、その煩悩とどう付き合うかです。空海然り、親鸞然り、日蓮然り。日本の高僧は皆、非常に強い煩悩を抱えていたと思います。然し、世の中を良くしよう。人を救いたいと思う気持ちを行動に表すには、煩悩と云うエネルギーが必要なのです。私はこれを煩悩のレバレッジと呼んでいます。
その為にも三毒と云う、仏教語に集約してしてしまわず、ご自分なりに改めたいことを具体的に唱えてもいいのです。
例えば、ついついよくウソをついてしまいがちな人、見得っぱりな人、あれもコレも欲しい強欲な人、、などは、『偽りの心、まやかしの心、見得の心、誤魔化しの心、私利私欲の心、、洗い流し給え』と、云う風にです。
やがて不思議と小さな欲に囚われず、落ち着きを保てるようになり、今まで自分の望んでいた事が如何に小さなものなのか、生き様を正しく行きたくなります。仏の前に坐すと云うことは、自分自身と向き合う絶好の機会とも云えるのです。
次に、金剛鈴を置き、右手の金剛杵と左手で自分のへそを包むように気を集めていきます。大日如来は観想したままです。
『如来は大宇宙なり、さらば我も人も小宇宙なり』
『如来は我らなり、さらば我も人も如来の子なり』
次に、淨め集めた気を一気に頭上から淨化したばかりの全身に浴びせます。
『我が煩悩は小楽に非ず、小欲に非ず。我が煩悩は大欲大安楽なり、即ち御仏の大慈大悲菩提心なり。我が煩悩を淨化、転化、昇華させ、御仏の境地へと秘密荘厳心へと誘い給え。』
『我れ人ともに、一切衆生が救われんがため。』
『遍離一切私欲 請求一切衆生幸福 密厳国土悉地成就、、厭離穢土欣求密厳浄土。』
次に、金剛杵を大日如来を観想する対象物へと振りかざし、ご真言を七遍唱えます。
『アビラウンケン、アビラウンケン、アビラウンケン、、、』
最後に、解穢真言(ぐえしんごん)を七遍唱えながら、両手を胸から頭上へ向かい上げてゆき、真言に合わせて七遍、弾指(たんじ=指をはじき鳴らすこと)します。
解穢真言(ぐえしんごん)とは、特に穢れを嫌われる天部の神に対して必須のお淨めの儀です。
『オン クロダノウ ウン ジャク、オン クロダノウ ウン ジャク、オン クロダノウ ウン ジャク、、』
次回は、天部降神の儀です。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2011年09月08日
フツー、人に会うにも「こんにちわ。」「お早う御座います。」「お元気でしたか?」と、たいがい挨拶する。日々朝晩、神仏と合い対する時もそれは全く同じこと。本日は大聖歡喜天宗の勤行次第の中で、冒頭の挨拶から五体投地までをご紹介致しましょう
我がご本尊は、宗名のまま大聖歡喜天であられます。神でありながら天部に留まり、仏として我々に大いなる仁慈の光を発せられ、願望成就の種子を常に蒔いておられます。
ちょっと大袈裟に聞こえるかも知れませんが、現実に拝謁しようのない、神への態度は平民が王に傅くように崇め祀るを観想して接すれば分かり良いのであります。だからこそ平素は、"大聖歡喜天"などと呼び捨てにすることならず、尊天上様若しくは大聖歡喜天様と御呼びしておるのです。
従って、王の御前に拝謁している平民なのだから言葉遣いは無論、勤行中にアクビをしたり居眠りするなど当然以ての外。スッ呆けて、すかしっ屁でもしようものなら大ごとです。神の御前ではウソは勿論、どんな言い訳も誤魔化しも通用しません。
とは云え、こちらとら凡夫(ぼんぶ)。
余談ですが、この凡夫にも幾つかランクが御座いまして、、平凡の凡と書きますから、フツーの人のように定義していおる事もありますが、フツーの人ってったって千差万別なワケであります。
詳しくは今回割愛致しますが、どの凡夫も、六道の中を行ったり来たりグルグルと輪廻するので、どの道そこから抜け出せなければランクが違えど凡夫に変わりないのであります。六道も上(四聖)に行かなければ、外れただけでは"外道"です。昔、ドーベルマン刑事が、「ど外道が!」と云ってましたね、アレです。
特に聖天信徒は、愚かものだからこそ尊天上様(大聖歡喜天)の稀有なる縁(えにし)に召されたのです。聖天信仰が深まれば深まるほど、自分の愚かを嫌と云うほど、『もぉ、ええっちゅうねん!ホンマ堪忍して下さいな。』これでもかと突きつけ露呈させられます。
徹底的に自覚させられる、即ち目覚めさせて下さる。そこも聖天信仰の独特で面白い部分であると私は捉えてますが。
だから、いつもいつも姿勢をシャンと正しておられるワケではありません。愚僧の場合、アクビをしそうになれば、子供の頃、母に教えられた技を使って制御します。舌の付け根の方を前歯でガチっと噛むと口は開きません。それでもバレてるんですがね、お経が途切れますから。
最悪は屁ですかね。やっぱり。実は私、ずっと朝めしを食う人間だったんですが、昨年の俗世の修行からあまりに朝が忙しかったせいで食べられず、それから一日二食の習慣がついてしまいました。そのため、朝めしを食ったら即排便と云う長年のセオリーも崩れてしまい、便意を催すタイミングが予測不可能となりました。
お寺で修行中は小便ごときでも、いちいち水行しないとですが、在家の皆さんはそんな事やってられないでしょうから、なるべく勤行前に排便を済ませておいた方がいいでしょう。なぜなら、、
勤行前にも、お茶やご飯をお供えしたりと色々と雑務があります。朝は特に、榊や神水や仏花の水を交換したり、お経も夜より若干長いので都合、一時間半ぐらいかかります。そんな準備の最中に、(アレ?、、やばいかな・・)と思う時は、先にトイレに行くようにするのですが、全然平気だったのに勤行中にヤバくなることがあります。
一旦始まってしまえば通常中断することが出来ないので、我慢すればするほどヤバさが増して行きます。マッハでお経や真言を読み上げても、ドンドン焦りも増して行きます。その内、一発目のすかしっ屁をこいてしまい、『も、、申し訳御座いません!』と詫びながら読経を続けます。本当の王なら、近くにいる近衛兵に首を叩き切られているかもですね。
本当に最悪なのはこれからで、肛門筋の我慢も限界に達すると、すかしっ屁をするつもりが、驚くほどの爆音と共に連続したエキゾーストのように連発するのです。こうなるともう、止めようがありません。『ほ、、本当に申し訳御座いません。』ただただ、平謝りするしかなく、そんな日は祈願など出来なくなります。やはり、勤行前に排便済ませた方が賢明ですね。
あまりに下らない話しで前置きが長くなり過ぎました。ここから本題です。お灯明をつけ、お線香を焚き、塗香(ずこう)を口の中、脳天、右肩、腹の順に着け身を淨めましょう。
実は、本当の挨拶は神水を交換するとき既に済んではいるんです。それが朝一番に、真正面から御傍に寄る瞬間ですので。でも、全ての準備と心を整え、坐した瞬間を勤行次第の中で改めて挨拶を致します。
尊天上様を正面にお迎えし、金剛合掌したままご挨拶するのですが、特に内容については決まりはありません。皆さんそれぞれ、挨拶を兼ねてその日一日の抱負などを御話されれば良いでしょう。
例えば、どこか遠出をされる日であれば、道中安全を。大切な商談や面談があればその円満成就を。但し、祈願は勤行の中で場面がありますから、ここではお願いすると云うよりも寧ろ、予定をお知らせする感じが良いでしょう。その結果報告と御礼については、晩行で行うようにします。
私の場合、特に何も予定がない日は以前お話ししたように、こんな感じになります。
大聖歡喜天勤行次第
◆ご挨拶
『尊天上様、お早う御座います。本日も五体満足、呑気にのんびり生き永らえさせて賜りました。有難う御座います。さらば、この命。この魂。尊天上様に導かれし、この仏心を以って、少しでも世の人のお役に立てれば幸いであります。本日も何卒宜しくお願い申し上げます。』
◆諸神諸仏への挨拶
次に私の場合ですが、今は脇佛として奉っている三面大黒天、愛染明王に。そして、高野山真言宗としての経緯から不動明王、弘法大師空海大阿闍梨、と続けてご挨拶をして行きます。
皆さんも、他の諸神諸仏を奉られている場合、仏像や掛け軸、仏画などがあれば、それぞれの仏様に向かいながら挨拶をして行きましょう。人間でもそっぽ向かれて挨拶されると、『オイ!誰に挨拶しとんねん?』となりますからね。
◆父母、ご先祖への挨拶
その他、もし仏壇にご先祖供養の位牌があるならご先祖様にも当然、挨拶を致します。私は父は15歳から、母は25歳から会っておりませんので父母への感謝と敬愛も込めて挨拶します。
◆五恩に感謝
壱、父母に感謝
感謝と云う部分では上と重複はするのですが、自分が生まれ至るまでの代々のご先祖、即ち父祖。更に大事に育ててくれた否かに関わらず、父母、祖父母への感謝。両親、そのまた両親と父母の縁があってこそ今の自分がいることを忘れてはなりません。どんなに辛いことがあっても強く生き抜くと云うことは、ご先祖様への恩返しではないでしょうか。
弐、諸人に感謝
これは人だけでなく、一切衆生と考えてもいいでしょう。動物にも癒されること、生きる勇気をもらうこともあります。増して食してもいる訳ですから、命も繋いで貰ってますね。
人に関しては、先の父母と同様に、三世(さんぜ)えにし賜れし諸人たちへ、今の自分を知ると同時に感謝すると云うことです。また人は知人、友人、血縁とは全く無関係な様々な人と人の繋がりによっても生かされている事を知りましょう。
例えば、白人列強国によって近代世界システムの名の下、我が国は戦国時代と江戸時代末期に二度、あわや植民地化され収奪の限りを尽くされかねない危機的状況を迎えています。
これについて、いつか書きたいと思っておる事が山ほどありますが、兎に角、そんな危機を乗り越えてくれた先人の叡智があったからこそ。そして、若き命を投げ出した戦没者の屍の上に構築された現代の日本だと、即ち今の自分だと、掘り下げて行けばどれだけ感謝しても決して足ることはありません。
或いは、全く知らない誰かが云った一言が、とった行動に因って自分が救われることも多々あり得るのです。ですからそう云う意味においては地球上、全ての人々に感謝です。
参、師に感謝
これは『人みな、わが師なり。』の精神では、諸人にも重なりますが、特に直接影響を受けた師として存在する方への感謝です。個人的には、生き様など見習いたいと思う尊敬する人も師であると考えます。
四、天地に感謝
天地宇宙、三千大千世界八十余億の神仏。密教では大宇宙の理を大日如来と定義しますが、この地球もご機嫌を損ねると人間など、ひとたまりもないことは我が国では特に周知の通りですね。東日本に続き、つい先日の台風12号で1700年の歴史を持つ世界遺産である、熊野那智大社が土砂崩れで、泥にのみ込まれた。市街地につながる車道は途中で崩落し、重機などを搬入できず復旧の目途は立たない。奈良、和歌山、、郷里近隣の馴染み深い町が災害を受ける痛みがようやく身に沁みました。
天災地変が起きずとも、人は生き物である以上、生老病死から逃れられません。私と密教を結びつけ、出家する機会を与えて下さった師僧、小林阿闍梨との仏縁となった映画マトリックスの中で、『こんな脆い身体では生きられない』と、エージェントスミスが云います。
その通り、私たちは非常に脆弱な身体を持つ生き物です。孫を見ていても、人ほど生まれて手のかかる、目を離せば死にかねない弱い生き物はないでしょう。健常者の大人ですら、不衛生な場所に監禁して食事を与えぬだけで簡単に死にます。
そんなに弱い生き物なのに、いつ天災が襲うやも知れぬのに、それでもわざわざ効率の良い殺戮兵器を造り続け、人と人が殺しあうことがこんにちも絶えません。これだけ文明と文化を積み重ねてもです。なぜでしょうか。仏教徒として平和活動は今後、私の大きなテーマとなっていきます。
五、国王に感謝
我が国には国王はいません。だからこれは、自分を取り巻く全ての社会と云うことです。社会とはナンでしょう?ミクロは家族です。マクロは国家を超えた世界と捉えるべきでしょう。
もはやグローバル化の波は、一市民である私たちが意味分かんないからいいや、では済まされない、即ち前述した国際的危機が切迫しているのです。個人的には第三の開国などとマスコミや一部政治家の呼称に反論する部分もありますが、、これも後日。
兎に角、家族さえ良ければいいでは、町内で孤立するでしょう。町内が平和でも市や県の行政に従わぬ訳には行きません。当然、国家の政策は大きく私たちの生活に影響してきますし、日本さえ良くても諸外国から反発や非難を浴びるでしょう。
だからこそ、今、かろうじて平和の均衡が保たれていることにも、社会全体に感謝をするべきでありましょう。自分自身の幸福は世界の幸福にある。世界の幸福なくして、一個人の真の幸福はないと考えてゆくべきではないでしょうか。
あぁ。ごめんなさい。
また長くなってしまいました。この先はまた。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
我がご本尊は、宗名のまま大聖歡喜天であられます。神でありながら天部に留まり、仏として我々に大いなる仁慈の光を発せられ、願望成就の種子を常に蒔いておられます。
ちょっと大袈裟に聞こえるかも知れませんが、現実に拝謁しようのない、神への態度は平民が王に傅くように崇め祀るを観想して接すれば分かり良いのであります。だからこそ平素は、"大聖歡喜天"などと呼び捨てにすることならず、尊天上様若しくは大聖歡喜天様と御呼びしておるのです。
従って、王の御前に拝謁している平民なのだから言葉遣いは無論、勤行中にアクビをしたり居眠りするなど当然以ての外。スッ呆けて、すかしっ屁でもしようものなら大ごとです。神の御前ではウソは勿論、どんな言い訳も誤魔化しも通用しません。
とは云え、こちらとら凡夫(ぼんぶ)。
余談ですが、この凡夫にも幾つかランクが御座いまして、、平凡の凡と書きますから、フツーの人のように定義していおる事もありますが、フツーの人ってったって千差万別なワケであります。
詳しくは今回割愛致しますが、どの凡夫も、六道の中を行ったり来たりグルグルと輪廻するので、どの道そこから抜け出せなければランクが違えど凡夫に変わりないのであります。六道も上(四聖)に行かなければ、外れただけでは"外道"です。昔、ドーベルマン刑事が、「ど外道が!」と云ってましたね、アレです。
特に聖天信徒は、愚かものだからこそ尊天上様(大聖歡喜天)の稀有なる縁(えにし)に召されたのです。聖天信仰が深まれば深まるほど、自分の愚かを嫌と云うほど、『もぉ、ええっちゅうねん!ホンマ堪忍して下さいな。』これでもかと突きつけ露呈させられます。
徹底的に自覚させられる、即ち目覚めさせて下さる。そこも聖天信仰の独特で面白い部分であると私は捉えてますが。
だから、いつもいつも姿勢をシャンと正しておられるワケではありません。愚僧の場合、アクビをしそうになれば、子供の頃、母に教えられた技を使って制御します。舌の付け根の方を前歯でガチっと噛むと口は開きません。それでもバレてるんですがね、お経が途切れますから。
最悪は屁ですかね。やっぱり。実は私、ずっと朝めしを食う人間だったんですが、昨年の俗世の修行からあまりに朝が忙しかったせいで食べられず、それから一日二食の習慣がついてしまいました。そのため、朝めしを食ったら即排便と云う長年のセオリーも崩れてしまい、便意を催すタイミングが予測不可能となりました。
お寺で修行中は小便ごときでも、いちいち水行しないとですが、在家の皆さんはそんな事やってられないでしょうから、なるべく勤行前に排便を済ませておいた方がいいでしょう。なぜなら、、
勤行前にも、お茶やご飯をお供えしたりと色々と雑務があります。朝は特に、榊や神水や仏花の水を交換したり、お経も夜より若干長いので都合、一時間半ぐらいかかります。そんな準備の最中に、(アレ?、、やばいかな・・)と思う時は、先にトイレに行くようにするのですが、全然平気だったのに勤行中にヤバくなることがあります。
一旦始まってしまえば通常中断することが出来ないので、我慢すればするほどヤバさが増して行きます。マッハでお経や真言を読み上げても、ドンドン焦りも増して行きます。その内、一発目のすかしっ屁をこいてしまい、『も、、申し訳御座いません!』と詫びながら読経を続けます。本当の王なら、近くにいる近衛兵に首を叩き切られているかもですね。
本当に最悪なのはこれからで、肛門筋の我慢も限界に達すると、すかしっ屁をするつもりが、驚くほどの爆音と共に連続したエキゾーストのように連発するのです。こうなるともう、止めようがありません。『ほ、、本当に申し訳御座いません。』ただただ、平謝りするしかなく、そんな日は祈願など出来なくなります。やはり、勤行前に排便済ませた方が賢明ですね。
あまりに下らない話しで前置きが長くなり過ぎました。ここから本題です。お灯明をつけ、お線香を焚き、塗香(ずこう)を口の中、脳天、右肩、腹の順に着け身を淨めましょう。
実は、本当の挨拶は神水を交換するとき既に済んではいるんです。それが朝一番に、真正面から御傍に寄る瞬間ですので。でも、全ての準備と心を整え、坐した瞬間を勤行次第の中で改めて挨拶を致します。
尊天上様を正面にお迎えし、金剛合掌したままご挨拶するのですが、特に内容については決まりはありません。皆さんそれぞれ、挨拶を兼ねてその日一日の抱負などを御話されれば良いでしょう。
例えば、どこか遠出をされる日であれば、道中安全を。大切な商談や面談があればその円満成就を。但し、祈願は勤行の中で場面がありますから、ここではお願いすると云うよりも寧ろ、予定をお知らせする感じが良いでしょう。その結果報告と御礼については、晩行で行うようにします。
私の場合、特に何も予定がない日は以前お話ししたように、こんな感じになります。
大聖歡喜天勤行次第
◆ご挨拶
『尊天上様、お早う御座います。本日も五体満足、呑気にのんびり生き永らえさせて賜りました。有難う御座います。さらば、この命。この魂。尊天上様に導かれし、この仏心を以って、少しでも世の人のお役に立てれば幸いであります。本日も何卒宜しくお願い申し上げます。』
◆諸神諸仏への挨拶
次に私の場合ですが、今は脇佛として奉っている三面大黒天、愛染明王に。そして、高野山真言宗としての経緯から不動明王、弘法大師空海大阿闍梨、と続けてご挨拶をして行きます。
皆さんも、他の諸神諸仏を奉られている場合、仏像や掛け軸、仏画などがあれば、それぞれの仏様に向かいながら挨拶をして行きましょう。人間でもそっぽ向かれて挨拶されると、『オイ!誰に挨拶しとんねん?』となりますからね。
◆父母、ご先祖への挨拶
その他、もし仏壇にご先祖供養の位牌があるならご先祖様にも当然、挨拶を致します。私は父は15歳から、母は25歳から会っておりませんので父母への感謝と敬愛も込めて挨拶します。
◆五恩に感謝
壱、父母に感謝
感謝と云う部分では上と重複はするのですが、自分が生まれ至るまでの代々のご先祖、即ち父祖。更に大事に育ててくれた否かに関わらず、父母、祖父母への感謝。両親、そのまた両親と父母の縁があってこそ今の自分がいることを忘れてはなりません。どんなに辛いことがあっても強く生き抜くと云うことは、ご先祖様への恩返しではないでしょうか。
弐、諸人に感謝
これは人だけでなく、一切衆生と考えてもいいでしょう。動物にも癒されること、生きる勇気をもらうこともあります。増して食してもいる訳ですから、命も繋いで貰ってますね。
人に関しては、先の父母と同様に、三世(さんぜ)えにし賜れし諸人たちへ、今の自分を知ると同時に感謝すると云うことです。また人は知人、友人、血縁とは全く無関係な様々な人と人の繋がりによっても生かされている事を知りましょう。
例えば、白人列強国によって近代世界システムの名の下、我が国は戦国時代と江戸時代末期に二度、あわや植民地化され収奪の限りを尽くされかねない危機的状況を迎えています。
これについて、いつか書きたいと思っておる事が山ほどありますが、兎に角、そんな危機を乗り越えてくれた先人の叡智があったからこそ。そして、若き命を投げ出した戦没者の屍の上に構築された現代の日本だと、即ち今の自分だと、掘り下げて行けばどれだけ感謝しても決して足ることはありません。
或いは、全く知らない誰かが云った一言が、とった行動に因って自分が救われることも多々あり得るのです。ですからそう云う意味においては地球上、全ての人々に感謝です。
参、師に感謝
これは『人みな、わが師なり。』の精神では、諸人にも重なりますが、特に直接影響を受けた師として存在する方への感謝です。個人的には、生き様など見習いたいと思う尊敬する人も師であると考えます。
四、天地に感謝
天地宇宙、三千大千世界八十余億の神仏。密教では大宇宙の理を大日如来と定義しますが、この地球もご機嫌を損ねると人間など、ひとたまりもないことは我が国では特に周知の通りですね。東日本に続き、つい先日の台風12号で1700年の歴史を持つ世界遺産である、熊野那智大社が土砂崩れで、泥にのみ込まれた。市街地につながる車道は途中で崩落し、重機などを搬入できず復旧の目途は立たない。奈良、和歌山、、郷里近隣の馴染み深い町が災害を受ける痛みがようやく身に沁みました。
天災地変が起きずとも、人は生き物である以上、生老病死から逃れられません。私と密教を結びつけ、出家する機会を与えて下さった師僧、小林阿闍梨との仏縁となった映画マトリックスの中で、『こんな脆い身体では生きられない』と、エージェントスミスが云います。
その通り、私たちは非常に脆弱な身体を持つ生き物です。孫を見ていても、人ほど生まれて手のかかる、目を離せば死にかねない弱い生き物はないでしょう。健常者の大人ですら、不衛生な場所に監禁して食事を与えぬだけで簡単に死にます。
そんなに弱い生き物なのに、いつ天災が襲うやも知れぬのに、それでもわざわざ効率の良い殺戮兵器を造り続け、人と人が殺しあうことがこんにちも絶えません。これだけ文明と文化を積み重ねてもです。なぜでしょうか。仏教徒として平和活動は今後、私の大きなテーマとなっていきます。
五、国王に感謝
我が国には国王はいません。だからこれは、自分を取り巻く全ての社会と云うことです。社会とはナンでしょう?ミクロは家族です。マクロは国家を超えた世界と捉えるべきでしょう。
もはやグローバル化の波は、一市民である私たちが意味分かんないからいいや、では済まされない、即ち前述した国際的危機が切迫しているのです。個人的には第三の開国などとマスコミや一部政治家の呼称に反論する部分もありますが、、これも後日。
兎に角、家族さえ良ければいいでは、町内で孤立するでしょう。町内が平和でも市や県の行政に従わぬ訳には行きません。当然、国家の政策は大きく私たちの生活に影響してきますし、日本さえ良くても諸外国から反発や非難を浴びるでしょう。
だからこそ、今、かろうじて平和の均衡が保たれていることにも、社会全体に感謝をするべきでありましょう。自分自身の幸福は世界の幸福にある。世界の幸福なくして、一個人の真の幸福はないと考えてゆくべきではないでしょうか。
あぁ。ごめんなさい。
また長くなってしまいました。この先はまた。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2011年03月01日
来る、三月十二日と十三日に
妻沼聖天において、浴油万日講が御座います。
◎三月十二日(土曜日)五座
九時、十時半、十二時、一時半、三時
◎三月十三日(日曜日)三座
九時半、十一時、二時
◎場所:
妻沼聖天山 歓喜院 本坊(*本殿とは違います)
◎講金
三千円(お札、福箕、宝団、弁当、 授与)
先般、取子さんのコメントにも御座いましたように、妻沼聖天は本坊と本殿が現在、道路を隔てて100m近く離れており、平素の参拝や祈祷などは本殿で行われておるのですが、実際、毎朝ご住職が浴油祈祷をするのは本坊であります。
本坊の存在自体、知らない方も多かろうと思いますが、この本坊が一般内拝出来るのは、表向き年に二度しか御座いません。
ですので是非、この御機会に本坊に鎮座される聖天様を心中近く感慨されてみては如何でしょうか。但し、ご開帳とは主旨が異なりますので、聖天様のご本尊を目の当たりにする事は出来ませんので悪しからず。
然し、ちょうど今日、おやまんも申しておりましたが、この本坊の普段閉ざされた扉の前で、ただ読経しておるだけでも、芳しい香の匂いが漂い、みるみる心が静かに淨らかに落ち着いてゆく。そんなご経験がある方は他にもいらっしゃるでしょう。
本坊の扉には、二つの開口部があります。やっとお賽銭を投げ込める程度の小さな小さな開口部です。私は本坊に参った時はいつも、お賽銭をそっとお預けしてから、後ろ向きに階段を下りて一番下で読経致します。
扉からすれば直線で2m以上。きっとご本尊がいらっしゃるお厨子は扉からもっと奥に鎮座しておるでしょう。それでも、そのたった二つの小さな穴から、まるで天空を舞う龍の如く踊り出でて、読経中の私を見下ろされているのでは?と思うほど、聖天様の存在感と同時に清淨なる結界を感じます。
私は別に妻沼の回しモンでもなんでもありませんのでw、大袈裟な話しはしておりません。まー兎に角でんな、そんなぐらいですから中に入られる機会は逃さん方が宜しいかと。
最後に一言、申し上げておきますが。
このような機会に限らず、平素の寺院への参拝の本当の要は、訪れたその場でご自身が肌身で感じられたことを大切に心に刻み、普段の生活や信仰、勤行に活かしてゆくと云うことであります。
アレ?・・もしかして神様仏様ってホントにいるのかな。
ここの仏様って、神様とも言われてるけど、何故なのかな。
目を閉じると静かだな、何だか心が少し落ち着けたかな。
あぁ・・昨日はあの人に悪い事したな。今日は謝ろうか・・。
そう云えば今日、あの人とあの人とあの人にも世話になったな。
考えてみれば、もしかしてこれが御蔭ってやつなんだろうか。
御礼・・してなかったな。今ここで代わりにさせてもらおう。
◎◎さんも、◎◎さんも有難う、本当は感謝してます。・・
そのような小さなきっかけから、神を感じ仏を感じ、そしてあなた方ご自身の中にも仏を感じ、またご家族一人ひとりにも、やがて他人は勿論、石ころや木々や花々や鳥や猫や生き物、自然の全てにも仏を感じられるようになります。仏教では、それらを一切衆生と表現致します。
密教の申すところの、如来は大宇宙であり、あなたご自身も亦、小宇宙なのであります。宇宙とは、ギリシャ語でコスモスであり、完璧な調和を保つ秩序のこと。対義語であるカオスとは、混沌や無秩序を表しますが所謂、その混沌をも内に含め、秩序と調和を求めようとするのが我々なのではないでしょうか。
即ち、コスモスとカオスは対をなしながらも、小宇宙があり大宇宙であり、大宇宙あっての小宇宙でもあり、どちらが欠けても亦、秩序の調和が保てないのであります。
同じく対義語で構成される、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい≒煩悩は即ち菩提である)と同様に、而二不二(ににふに)と申します。二つであって、而(しか)も二つではない。
と云う、何やよぉワケ分からん説明しか出来まへんw。でもオモロイでしょ。何となく。皆さんもその内、人様に上手に説明出来んでも、ご自身でそれが何でか?空とは何ぞや?っちゅうのが、徐々に分かってこられると更にオモロなりますよ。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2011年02月11日
大聖歡喜尊天和讃
(だいしょうかんぎそんでんわさん)
一、
帰命敬禮大自在 大聖歓喜雙身天
(きみょうちょうらい だいしょうかんぎそうじんてん)
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の本誓(みちかい)に
慈悲の御手(おんて)を垂れ給い
至らぬ智慧(ちえ)を楫(かじ)として
覚束(おぼつか)なくも現(うつし)世の
荒(あら)き浪風(なみかぜ)渡る身を 願いの岸に着け給え
二、
そもこの天(かみ)の本誓(みちかい)の
げに有り難くますますは 世の父母(ちちはは)が其の子らの
浮世を知らぬ我儘を 無理の願いと知りつつも
その智慧(ちえ)浅きを慰(あわ)れみて
願いを叶え給いつつ 導き給うにさも似たり
三、
もとより愚痴の我等故 願い求むる事毎に
己が力を計らざる 無理なることも多からん
然れども御胸(みむね)にかけられで 唯ひたすらに縋りなば
願いの儘を得させんと 誓わせ給うぞ有り難き
四、
凡(およ)そ此の世に示現(いで)ませる
諸仏菩薩の御心(みこころ)に 我等衆生の苦を抜きて
涅槃の岸に渡さんと 本誓(みちかい)あらぬはなけれども
納受まします願いには自ずと限り定まりて この天尊の如からず
五、
例えば宿業(しゅくごう)究(きわ)まりて
絶えなんとする玉の緒(お)を 繋ぎ止めんとする如き
難き願いに至りては 唯この天(かみ)を他(よそ)にして
如何なる神を祈るとも その本誓(みちかい)にあらざれば
験(しるし)のなきを如何(いか)にせん
六、
然れども独りこの天は 唯一筋に祈りなば
かかる難をも除け給う 増してや他の願望は
現世出世(げんせしゅっせ)の差別なく
祈る心のこの天に届かざりける例(ためし)なし
霊験(しるし)なかりし例(ためし)なし
七、
然らばこの天(かみ)畏(かしこ)くも
我に微妙(みみょう)の法ありて 世間に類なきところ
我に縋らぬものあらば 我は順世(じゅんせ)の法により
汝(なれ)が求むる願いをば 得させざる事なきなりと
我等がために説きませり
八、
斯(か)かる奇(く)しき御力(みちから)を
御身(おんみ)に備えましませば 我等が祈る願いをば
遂げさせ給わぬ事ぞなき 乳を求めて母を呼ぶ
嬰児(みどりご)の如ひたすらに
ただこの天(かみ)を念じなば
感応道交(かんのんどうこう)ましまして
九、
卑賤(ひせん)の職にあるものも
*不遇の境にあるものも⇒待乳山配布の記述は*印にて
高貴の地位を占め得なん その日の糧(かて)に悩む身も
富貴の身とぞなり得なん 学問諸芸を望むとも
智慧辯才(ちえべんさい)を求むるも
信に隨應(ずいおう)増しまして 世に其の名をば挙げうべし
十、
或いは病に悩むとき 家内の不和を嘆くとき
人の嫉みに泣かんとき 立つ期の道に惑うとき
火難盗難剣難に逢うもただただ念じなば
声に來應(らいおう)増しまして 総ての難を除け給う
十一、
常に念ずるその家は 我が子を思う親のごと
暫しの隙(すき*ひま)もたゆみなく
見霽(みはる)かしましましせば
邪(まが)つ鬼等の邪事(まがごと)も 窺い寄らん隙間なく
長閑けき春の日の如く いと安らげく過ごしえん
十二、
かく有難く慈悲深き 天(かみ)在(おわ)すとも
徳薄く 其の御名(みな)をつゆ聞かざらば
祈り縋らんすべもなしさるを 幸ある此の身かな
宿世(しゅくせ)如何なる善き縁(えにし)
この天(かみ)のため結びけん 天(かみ)の恵みを身に浴びて
十三、
天(かみ)のみ情け知るのみか 生みの親にもいや勝る
現當(げんとう)二世(にせ)の教主(おや)として
縋る幸をば知りにけり 辛き浮世を渡るにも
ただひたすらに この天(かみ)を杖と頼みてゆく身には
心に罹(かか)る雲もなし
十四、
人のこの世をいと易く 渡らんのみか其の上に
來たらん次のあの世にも またこの天(かみ)に迎えられ
天(かみ)の御手(おんて)に引かれつつ
二世(にせ)の悉地(しっち)を成就して
龍華(りゅうげ)の會場(にわ)に値遇(ちぐう)せん
あな有難や あな尊(とうと)
十五、
大自在尊觀世音(だいじざいそーんかんぜおーん)
雙身隨類度衆生(そうしんずいるいどーしゅーじょう)
感應道交難思議(かんのんどうこうなんしーぎー)
是故我禮歡喜天(ぜーこーがーらいかんぎーてん)
嬰児(みどりご)が母に縋らむ それのごと
是非をば捨てて 唯すがらむ
南無大聖歡喜雙身天王
南無大聖歡喜雙身天王
南無大聖歡喜雙身天王・・・repeat..
主に関東圏、待乳山聖天で詠われている
この大聖歡喜天尊和讃をご紹介するのは二度目です。
これからも何度か機会ある度にご紹介しようと思います。
何故ならば、人が本当の意味で仏教と出遭い、真に心に捉えられるには、人それぞれのタイミングっちゅうもんがあるからです。
私自身も全くの無神論者でした。
然し日本人は、生まれた時から仏教に囲まれて生きています。
子供の頃は近所の神社や寺で遊びましたし、悪戯もしましたw
世界的に見渡しても外人に聞いても日本は立派な仏教徒国。
日本語や日本の文化習慣に悉く溶け込んでいる仏教。
気付かんし、いちいち意識せんだけですわ。
身内が亡くなって何宗かもワケ分からんままに
過去帳見て初めて坊さん呼んで、ほんで仏壇買いに行って
以後、法要と墓参りが始まる。
そないせーへん、クリスチャン以外は全員仏教徒ですわ。
そやけど、単に亡くなった方やご先祖を祀るだけやなしに
何かもっと違うもの、仏教の奥底の本質に触れたくなったとき
そのときが、その人にとっての発菩提心なのです。
私はこの聖天和讃を初めて読んだとき、ギャラクティカファントムをまともに食らったぐらいのインスパイアを受けました。って、どんな衝撃か知らん人には皆目分からんでしょうがw
そんな私でも出家以前や、芦屋の知己テルさんに聖天さまをご縁賜ってない頃などに見ても、読み流していたかも知れまへん。今、これを読まれた方の中でも、シャーっと読んだ方もおれば、一語一句引っかかった心に染みこんだ方も居られるでしょう。
そんなモンやと思います。そやから、機会が合えばバチンと来るはずですさかい。ちょこちょこご紹介したいと。そない思うんですわ。ほな、本日はこの辺で。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
(だいしょうかんぎそんでんわさん)
一、
帰命敬禮大自在 大聖歓喜雙身天
(きみょうちょうらい だいしょうかんぎそうじんてん)
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の本誓(みちかい)に
慈悲の御手(おんて)を垂れ給い
至らぬ智慧(ちえ)を楫(かじ)として
覚束(おぼつか)なくも現(うつし)世の
荒(あら)き浪風(なみかぜ)渡る身を 願いの岸に着け給え
二、
そもこの天(かみ)の本誓(みちかい)の
げに有り難くますますは 世の父母(ちちはは)が其の子らの
浮世を知らぬ我儘を 無理の願いと知りつつも
その智慧(ちえ)浅きを慰(あわ)れみて
願いを叶え給いつつ 導き給うにさも似たり
三、
もとより愚痴の我等故 願い求むる事毎に
己が力を計らざる 無理なることも多からん
然れども御胸(みむね)にかけられで 唯ひたすらに縋りなば
願いの儘を得させんと 誓わせ給うぞ有り難き
四、
凡(およ)そ此の世に示現(いで)ませる
諸仏菩薩の御心(みこころ)に 我等衆生の苦を抜きて
涅槃の岸に渡さんと 本誓(みちかい)あらぬはなけれども
納受まします願いには自ずと限り定まりて この天尊の如からず
五、
例えば宿業(しゅくごう)究(きわ)まりて
絶えなんとする玉の緒(お)を 繋ぎ止めんとする如き
難き願いに至りては 唯この天(かみ)を他(よそ)にして
如何なる神を祈るとも その本誓(みちかい)にあらざれば
験(しるし)のなきを如何(いか)にせん
六、
然れども独りこの天は 唯一筋に祈りなば
かかる難をも除け給う 増してや他の願望は
現世出世(げんせしゅっせ)の差別なく
祈る心のこの天に届かざりける例(ためし)なし
霊験(しるし)なかりし例(ためし)なし
七、
然らばこの天(かみ)畏(かしこ)くも
我に微妙(みみょう)の法ありて 世間に類なきところ
我に縋らぬものあらば 我は順世(じゅんせ)の法により
汝(なれ)が求むる願いをば 得させざる事なきなりと
我等がために説きませり
八、
斯(か)かる奇(く)しき御力(みちから)を
御身(おんみ)に備えましませば 我等が祈る願いをば
遂げさせ給わぬ事ぞなき 乳を求めて母を呼ぶ
嬰児(みどりご)の如ひたすらに
ただこの天(かみ)を念じなば
感応道交(かんのんどうこう)ましまして
九、
卑賤(ひせん)の職にあるものも
*不遇の境にあるものも⇒待乳山配布の記述は*印にて
高貴の地位を占め得なん その日の糧(かて)に悩む身も
富貴の身とぞなり得なん 学問諸芸を望むとも
智慧辯才(ちえべんさい)を求むるも
信に隨應(ずいおう)増しまして 世に其の名をば挙げうべし
十、
或いは病に悩むとき 家内の不和を嘆くとき
人の嫉みに泣かんとき 立つ期の道に惑うとき
火難盗難剣難に逢うもただただ念じなば
声に來應(らいおう)増しまして 総ての難を除け給う
十一、
常に念ずるその家は 我が子を思う親のごと
暫しの隙(すき*ひま)もたゆみなく
見霽(みはる)かしましましせば
邪(まが)つ鬼等の邪事(まがごと)も 窺い寄らん隙間なく
長閑けき春の日の如く いと安らげく過ごしえん
十二、
かく有難く慈悲深き 天(かみ)在(おわ)すとも
徳薄く 其の御名(みな)をつゆ聞かざらば
祈り縋らんすべもなしさるを 幸ある此の身かな
宿世(しゅくせ)如何なる善き縁(えにし)
この天(かみ)のため結びけん 天(かみ)の恵みを身に浴びて
十三、
天(かみ)のみ情け知るのみか 生みの親にもいや勝る
現當(げんとう)二世(にせ)の教主(おや)として
縋る幸をば知りにけり 辛き浮世を渡るにも
ただひたすらに この天(かみ)を杖と頼みてゆく身には
心に罹(かか)る雲もなし
十四、
人のこの世をいと易く 渡らんのみか其の上に
來たらん次のあの世にも またこの天(かみ)に迎えられ
天(かみ)の御手(おんて)に引かれつつ
二世(にせ)の悉地(しっち)を成就して
龍華(りゅうげ)の會場(にわ)に値遇(ちぐう)せん
あな有難や あな尊(とうと)
十五、
大自在尊觀世音(だいじざいそーんかんぜおーん)
雙身隨類度衆生(そうしんずいるいどーしゅーじょう)
感應道交難思議(かんのんどうこうなんしーぎー)
是故我禮歡喜天(ぜーこーがーらいかんぎーてん)
嬰児(みどりご)が母に縋らむ それのごと
是非をば捨てて 唯すがらむ
南無大聖歡喜雙身天王
南無大聖歡喜雙身天王
南無大聖歡喜雙身天王・・・repeat..
主に関東圏、待乳山聖天で詠われている
この大聖歡喜天尊和讃をご紹介するのは二度目です。
これからも何度か機会ある度にご紹介しようと思います。
何故ならば、人が本当の意味で仏教と出遭い、真に心に捉えられるには、人それぞれのタイミングっちゅうもんがあるからです。
私自身も全くの無神論者でした。
然し日本人は、生まれた時から仏教に囲まれて生きています。
子供の頃は近所の神社や寺で遊びましたし、悪戯もしましたw
世界的に見渡しても外人に聞いても日本は立派な仏教徒国。
日本語や日本の文化習慣に悉く溶け込んでいる仏教。
気付かんし、いちいち意識せんだけですわ。
身内が亡くなって何宗かもワケ分からんままに
過去帳見て初めて坊さん呼んで、ほんで仏壇買いに行って
以後、法要と墓参りが始まる。
そないせーへん、クリスチャン以外は全員仏教徒ですわ。
そやけど、単に亡くなった方やご先祖を祀るだけやなしに
何かもっと違うもの、仏教の奥底の本質に触れたくなったとき
そのときが、その人にとっての発菩提心なのです。
私はこの聖天和讃を初めて読んだとき、ギャラクティカファントムをまともに食らったぐらいのインスパイアを受けました。って、どんな衝撃か知らん人には皆目分からんでしょうがw
そんな私でも出家以前や、芦屋の知己テルさんに聖天さまをご縁賜ってない頃などに見ても、読み流していたかも知れまへん。今、これを読まれた方の中でも、シャーっと読んだ方もおれば、一語一句引っかかった心に染みこんだ方も居られるでしょう。
そんなモンやと思います。そやから、機会が合えばバチンと来るはずですさかい。ちょこちょこご紹介したいと。そない思うんですわ。ほな、本日はこの辺で。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2011年02月09日
はい皆さん、こんにちわ。
北斗法蓮です。毎度おおきに。

今朝の我が家の庭。
この後、みるみる雪が解けてピーカン照りになりました。
今年の群馬南部は雪、これだけで終わりそうです。
さて今回は、取子さんにご縁賜りました
五宝寺(新義真言宗)群馬県館林市 に行って参りました。
同じ群馬県っちゅうても、栃木県と隣接する東の果て(館林市民の皆様ごめんなさいw)高崎からは55kmほどありました。
そやけど、出掛ける前に地図だけネットで見て、あとはテキトーにナビなしで行ったら、そない迷うような場所やおまへんでしたわ。館林には有名な、つつじヶ岡公園がありまして。

昨年五月に、公園の近くにある、
ぶんぶく茶釜の茂林寺も訪ねました。

位置的には、そこから北西。館林駅から市街地を抜け、もう少し北へ上ったところに、五宝寺はありました。

大変立派な寺門。
大きな松が等間隔に植栽され、
手入れも年間で百万近いのではないでしょうか。

山門をくぐると、両方の裏側に灰皿とベンチが。
四国歩き遍路のときは、これが嬉しかったですね。
さすが、歩きタバコは出来ませんから。
まー明け方宿を出て、まだ体力のある朝一は吸ってましたけど。

山門から本堂へ一直線、50mほどはあるだろうか
鐘楼も本堂も美しい。とても近代的に整備された感がある。
都内にある寺院のようだ。
駐車場は、この本堂を北と見て南側山門前と東側にもある。それに本堂の西には広大な霊園があり、そこにも10台ほど停められる。多くの檀家に支えられている寺院である。

南無大師遍照金剛と掲げられた本堂正面。
特注サイズか、新しく大きなアルミ引き戸が連なる。建築家でもあった私は、参詣時においてもついつい、建造物を仏教と異なる視線で捉えてしまいがちだ。
サッパリし過ぎの本堂前。
引き戸は閉ざされ、札所でもないから納経箱もなければ、ご本尊を示すような書き物も、増して御真言を促すものも何もない。
第一、ご本尊は本当に聖天さまなのか?
聖天寺院であっても、ご本尊が聖天さまとは限らない。あの西の聖天、生駒でさえご本尊は不動明王であるのだから。
私は、取り合えずご挨拶をして開経偈(かいきょうげ)から、般若心経〜観音経偈文を唱えた。初めての寺院で私は、必ず申し上げる文言がある。
それは神社でも同じだが、自分の名前(俗名から法名まで)と、現住所を告げ、初めてお参りさせて頂いた機会に感謝申し上げ、更には『ここへ参る方々、集う方々、この地に住まう方々に私以上の御加護御庇護賜ります事、重ねて厚く御礼申し上げます。』と述べる事にしている。
これは平素、出勤前に立ち寄る神社でも毎日申し上げている。自宅から離れた場所では当然、どこの誰だがキチンと告げた上でご挨拶とするのが礼儀であると思うのと、
更には、そこに古くから住まう方々が日参されておったり、何か行事ごとで集まったりと、寺や神社は地元民にとってはそういう存在であるのだから、またそのように普段、参ることのない方々ですらも、その地に鎮座する神仏には守られておるのだから、当然それらを含めて祈願とすることにしている。
さて然し、一人読経を唱えながらも、どうも尊天上様の存在を感じる事が出来ずにいた。それでも最後に、聖天さまのご真言とお大師さまの宝号を唱え一旦、本堂を離れた。
どうしたものか。
寺の由来や、現況を知りたいがどこにもそれらしき立て札も案内もない。誰もいない境内を散策してみることにした。

山門をくぐって、すぐ左脇にひっそりと佇んでいた小さなお堂まで戻り、近寄ってみるとそれが聖天宮であった。古代文字のようなヘンな続け文字で書いてあるから分からなかったが、よく観れば"聖天宮"と書かれているようだ。もっとよく観たら、左上に思いっきり勸喜天と書いてあったw。
お詫び申し上げ、改めてご真言を二十一遍唱えた。
格子の隙間から中を覗いて見る。全てではないにせよ、密教法具は揃っていそうには見えたが、どうも・・ナンと云うか覇気を感じない。ここで毎日浴油が行われているのか?
どうしても確かめたい。
境内には寺務所もない。東隣続きに住職のご自宅がありそうだ。本堂横の門塀を開けようとしても施錠されている。今度は駐車場へ回り込み正面攻撃。
続きを読む
北斗法蓮です。毎度おおきに。

今朝の我が家の庭。
この後、みるみる雪が解けてピーカン照りになりました。
今年の群馬南部は雪、これだけで終わりそうです。
さて今回は、取子さんにご縁賜りました
五宝寺(新義真言宗)群馬県館林市 に行って参りました。
同じ群馬県っちゅうても、栃木県と隣接する東の果て(館林市民の皆様ごめんなさいw)高崎からは55kmほどありました。
そやけど、出掛ける前に地図だけネットで見て、あとはテキトーにナビなしで行ったら、そない迷うような場所やおまへんでしたわ。館林には有名な、つつじヶ岡公園がありまして。
昨年五月に、公園の近くにある、
ぶんぶく茶釜の茂林寺も訪ねました。
位置的には、そこから北西。館林駅から市街地を抜け、もう少し北へ上ったところに、五宝寺はありました。
大変立派な寺門。
大きな松が等間隔に植栽され、
手入れも年間で百万近いのではないでしょうか。
山門をくぐると、両方の裏側に灰皿とベンチが。
四国歩き遍路のときは、これが嬉しかったですね。
さすが、歩きタバコは出来ませんから。
まー明け方宿を出て、まだ体力のある朝一は吸ってましたけど。
山門から本堂へ一直線、50mほどはあるだろうか
鐘楼も本堂も美しい。とても近代的に整備された感がある。
都内にある寺院のようだ。
駐車場は、この本堂を北と見て南側山門前と東側にもある。それに本堂の西には広大な霊園があり、そこにも10台ほど停められる。多くの檀家に支えられている寺院である。
南無大師遍照金剛と掲げられた本堂正面。
特注サイズか、新しく大きなアルミ引き戸が連なる。建築家でもあった私は、参詣時においてもついつい、建造物を仏教と異なる視線で捉えてしまいがちだ。
サッパリし過ぎの本堂前。
引き戸は閉ざされ、札所でもないから納経箱もなければ、ご本尊を示すような書き物も、増して御真言を促すものも何もない。
第一、ご本尊は本当に聖天さまなのか?
聖天寺院であっても、ご本尊が聖天さまとは限らない。あの西の聖天、生駒でさえご本尊は不動明王であるのだから。
私は、取り合えずご挨拶をして開経偈(かいきょうげ)から、般若心経〜観音経偈文を唱えた。初めての寺院で私は、必ず申し上げる文言がある。
それは神社でも同じだが、自分の名前(俗名から法名まで)と、現住所を告げ、初めてお参りさせて頂いた機会に感謝申し上げ、更には『ここへ参る方々、集う方々、この地に住まう方々に私以上の御加護御庇護賜ります事、重ねて厚く御礼申し上げます。』と述べる事にしている。
これは平素、出勤前に立ち寄る神社でも毎日申し上げている。自宅から離れた場所では当然、どこの誰だがキチンと告げた上でご挨拶とするのが礼儀であると思うのと、
更には、そこに古くから住まう方々が日参されておったり、何か行事ごとで集まったりと、寺や神社は地元民にとってはそういう存在であるのだから、またそのように普段、参ることのない方々ですらも、その地に鎮座する神仏には守られておるのだから、当然それらを含めて祈願とすることにしている。
さて然し、一人読経を唱えながらも、どうも尊天上様の存在を感じる事が出来ずにいた。それでも最後に、聖天さまのご真言とお大師さまの宝号を唱え一旦、本堂を離れた。
どうしたものか。
寺の由来や、現況を知りたいがどこにもそれらしき立て札も案内もない。誰もいない境内を散策してみることにした。
山門をくぐって、すぐ左脇にひっそりと佇んでいた小さなお堂まで戻り、近寄ってみるとそれが聖天宮であった。古代文字のようなヘンな続け文字で書いてあるから分からなかったが、よく観れば"聖天宮"と書かれているようだ。もっとよく観たら、左上に思いっきり勸喜天と書いてあったw。
お詫び申し上げ、改めてご真言を二十一遍唱えた。
格子の隙間から中を覗いて見る。全てではないにせよ、密教法具は揃っていそうには見えたが、どうも・・ナンと云うか覇気を感じない。ここで毎日浴油が行われているのか?
どうしても確かめたい。
境内には寺務所もない。東隣続きに住職のご自宅がありそうだ。本堂横の門塀を開けようとしても施錠されている。今度は駐車場へ回り込み正面攻撃。
続きを読む
2011年01月19日
南無帰命頂禮大悲尊
(なーむきみょうちょうらい)
大聖大悲歓喜雙身天王
(だいしょうだいひーかんぎーそうしんてんのう....)
...の誓わせ給う言(こと)の葉を
告(もう)すも畏(かしこ)き事なれど
聊(いささ)か此(ここ)に教化(きょうげ)して
衆生(しゅじょう)に聞かせまいらせん
夫(それ)天尊(てんそん)と言(もう)するは
和光利物(わこうりもつ)の表示にて隨類(ずいるい)
應現(おうげん)ましまして 陰陽和合(いんようわごう)
の元(もと)ぞかし 萬像(まんぞう)これより
生長(せいちょう)し金胎両部(こんたいりょうぶ)の教主たり
外(ほか)には忿怒(ふんぬ)の御姿(みすがた)も
内(うち)には慈悲(じひ)の御心(みこころ)ぞ
故に衆生の苦を抜きて
普(あまね)く與樂(よらく)の薩�券(さった)なり
功徳(くどく)の高きは天に比し
利益(りやく)の厚きは地に等し
十方(じゅっぽう)に周遍(しゅうへん)ましまして
衆生を守らせ給うなり
福徳才智(ふくとくさいち)かつはまた
延命敬愛(えんめいけいあい)その外(ほか)に
降魔調伏(ごうまちょうぶく)除病(じょびょう)等
願いに任せ垂れ給う
例え貧しき輩(やから)にも
尊の名號(みょうごう)を唱えつつ
祈れば納受(のうじゅ)ましまして
忽(たちま)ち栄華(えいが)の印(しるし)あり
卑賤(ひせん)の身にも信じなば
高貴の官に昇るべし 信に應(おう)じて隨應(ずいおう)し
天下に名をもあぐるなり
元より愚俗(ぐぞく)の邪智(じゃち)なれば
尊天これを慰(あわ)れみて 救い玉(たま)うぞ御誓願
故に諸願を成就し 常に念ずるその家は
災難千里に除きつつ 悪魔万里に退けて
七寶(しちほう)家に満ちぬべし
此(こ)の天を信ずる輩(ともがら)は
晝夜(ちゅうや)擁護(ようご)したまいて
樂しみ心に叶えつつ 憂きこと常になかるべし
或いは宿業(しゅくごう)つつまりて
既に命葉(めいよう)危うきに 一心不乱に念ずれば
忽(たちま)ちその難のがるべし
増してや祈る願望はいかでか空しかるべきぞ
これ天尊の御悲願なり
深き化益(けやく)の海よりも
廣き恵みの功徳をば 秘めて演(のべ)ずば
此(こ)の尊の尊き教えにもどるなり(←背くなり)
信をおこして朝夕に 唯怠らず念じなば
命は亀鶴(きかく)の如くなり
あな尊きや その徳を演(のぶ)るに
言葉も及ばねど 聊(いささ)か功徳を讃じつつ
大悲の光をあらわして 我れ人共に現未来(げんみらい)
二世(にせ)の悉地(しつじ)を成就し
一度(ひとたび)唱うを縁として
龍華(りゅうげ)の会場(にわ)に値遇(ちぐう)せん
あな有り難や あな尊と
大自在尊観世音(だいじざいそーんかんぜおん)
雙身隨類度衆生(そうしんずいるいどしゅじょう)
感應道交難思議(かんのんどうこうなんしーぎ)
是故我禮歓喜天(ぜーこーがーらいかんぎーてん)
嬰児(みどりご)が母にすがらむそれの如(ごと)
是非をば捨てて 唯すがらむ
南無大聖大悲歓喜雙身天王 (三遍)
(なーむだいしょうだいひーかんぎーそうしんてんのう)
*1・願文(がんもん)
願わくば上来(じょうらい)誦持(じゅじ)する所の
功徳を以て護持(ごじ)*2・某甲(むこう)
並びに家族一同 身心堅固(しんじんけんご)
家内安全 交通安全 息災延命 病魔降伏 無病安樂 諸難消除
殊(こと)には家業、事業、生業繁栄 志業達成
いちいち心願、諸願、大願、愚願すらも一切合切成就せしめるは
この天尊だけの御誓願なるぞ 有り難や
皆々の思い願い祈り満ち満ちて 如意円満ならしめ給え
*3・願意随意
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
はい以上になります。
ま大体ここまです。
いかがでしたか?この和讃。
主に生駒聖天で用いられているものを
多少ヴァージョンアップして晩行に唱えております。
今度また、関東(主に待乳山聖天)の和讃(朝行)もご紹介しますが
私はこの和讃を初めて読んだとき、孫正義さんが初めてマイクロチップを見て、抱いて寝るほど大感動したのに負けず劣らぬ深い感銘を受けました。
是非皆さんも能く能く味わってみて下さい。見えてくるものがきっとあると思います。能くお話ししますよね、お経も人の言葉も真意は語釈にではなく、理釈にあると。
本来はこの和讃の前に幾つものお経を読み、和讃の後に、普禮真言(ふらいしんごん)や祈願文、拍掌(はくしょう)←要するに拍手 三禮(さんらい)などが続いて五体投地(ごたいとうち)にて勤行を終えます。
今回は勤行次第の中の和讃だけを抜粋してご紹介致しました。
このように、先に細切れでご紹介した上で、後ほど勤行次第を書いて例えば、"和讃"と云う語句をこのページへリンクさせれば、ご興味頂いた方は読まれるでしょう。
また、ツィッターなどからのアクセスで、全く仏教にご興味ない方でも読み易いよう、敢えて振り仮名を多用致しました。
*解説
*1・願文
この願文自体は声を出して読む所でなく
まーサブタイトルみたいなモンです。
*2・某甲(むこう)
弟子某甲(でしむこう)....とかって聞いたことがある人もいらっしゃるでしょう。これは、"仏陀の弟子たる私(たち)は..."と云う意味です。
ですので某甲とは、唱えている自分自身を指しているのですが、自宅などで一人読経する際などは、この某甲(むこう)を読まずに、ご自身の本名を唱えます。もし、旧姓があればその名、戒名を持っていればその名、法名も持っているならその名も全てここで唱えます。
ですから某甲とは、寺院などで複数の方と同時に合唱する時に、みんな自分の名を言い出すとテンでバラバラになって調和が取れなくなるので、その為に用います。
*3・願意随意
ここは、ご自身のお願い事などを申し上げる部分です。
随意ですから別にスルーしても構いません。
でも願い事をせずに神仏の前に座する人は少ないでしょう。
ただ、聖天さまの御力は次々と貴方の願いを叶えてゆくでしょう。
そうして行くと徐々に、成就への感謝を延べる事が増えて
段々とお願いと感謝の割合が逆転して行きます。
人によっては感謝しか出来ない日々も続くでしょう。でも私達の欲望は際限なく、また新しいお願いが始まる人もいます。或いは最初から大きなお願いした人は、何年経ってもお願いばかりしてるかも知れません。
始めは自分や家族事ばかりを祈っていても、やがて身近な者たち以外の、普く世界のもっともっと大きな願いを持てるようになります。それこそが聖天信仰の功徳ではないでしょうか。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
〜編集後記〜
続きを読む
(なーむきみょうちょうらい)
大聖大悲歓喜雙身天王
(だいしょうだいひーかんぎーそうしんてんのう....)
...の誓わせ給う言(こと)の葉を
告(もう)すも畏(かしこ)き事なれど
聊(いささ)か此(ここ)に教化(きょうげ)して
衆生(しゅじょう)に聞かせまいらせん
夫(それ)天尊(てんそん)と言(もう)するは
和光利物(わこうりもつ)の表示にて隨類(ずいるい)
應現(おうげん)ましまして 陰陽和合(いんようわごう)
の元(もと)ぞかし 萬像(まんぞう)これより
生長(せいちょう)し金胎両部(こんたいりょうぶ)の教主たり
外(ほか)には忿怒(ふんぬ)の御姿(みすがた)も
内(うち)には慈悲(じひ)の御心(みこころ)ぞ
故に衆生の苦を抜きて
普(あまね)く與樂(よらく)の薩�券(さった)なり
功徳(くどく)の高きは天に比し
利益(りやく)の厚きは地に等し
十方(じゅっぽう)に周遍(しゅうへん)ましまして
衆生を守らせ給うなり
福徳才智(ふくとくさいち)かつはまた
延命敬愛(えんめいけいあい)その外(ほか)に
降魔調伏(ごうまちょうぶく)除病(じょびょう)等
願いに任せ垂れ給う
例え貧しき輩(やから)にも
尊の名號(みょうごう)を唱えつつ
祈れば納受(のうじゅ)ましまして
忽(たちま)ち栄華(えいが)の印(しるし)あり
卑賤(ひせん)の身にも信じなば
高貴の官に昇るべし 信に應(おう)じて隨應(ずいおう)し
天下に名をもあぐるなり
元より愚俗(ぐぞく)の邪智(じゃち)なれば
尊天これを慰(あわ)れみて 救い玉(たま)うぞ御誓願
故に諸願を成就し 常に念ずるその家は
災難千里に除きつつ 悪魔万里に退けて
七寶(しちほう)家に満ちぬべし
此(こ)の天を信ずる輩(ともがら)は
晝夜(ちゅうや)擁護(ようご)したまいて
樂しみ心に叶えつつ 憂きこと常になかるべし
或いは宿業(しゅくごう)つつまりて
既に命葉(めいよう)危うきに 一心不乱に念ずれば
忽(たちま)ちその難のがるべし
増してや祈る願望はいかでか空しかるべきぞ
これ天尊の御悲願なり
深き化益(けやく)の海よりも
廣き恵みの功徳をば 秘めて演(のべ)ずば
此(こ)の尊の尊き教えにもどるなり(←背くなり)
信をおこして朝夕に 唯怠らず念じなば
命は亀鶴(きかく)の如くなり
あな尊きや その徳を演(のぶ)るに
言葉も及ばねど 聊(いささ)か功徳を讃じつつ
大悲の光をあらわして 我れ人共に現未来(げんみらい)
二世(にせ)の悉地(しつじ)を成就し
一度(ひとたび)唱うを縁として
龍華(りゅうげ)の会場(にわ)に値遇(ちぐう)せん
あな有り難や あな尊と
大自在尊観世音(だいじざいそーんかんぜおん)
雙身隨類度衆生(そうしんずいるいどしゅじょう)
感應道交難思議(かんのんどうこうなんしーぎ)
是故我禮歓喜天(ぜーこーがーらいかんぎーてん)
嬰児(みどりご)が母にすがらむそれの如(ごと)
是非をば捨てて 唯すがらむ
南無大聖大悲歓喜雙身天王 (三遍)
(なーむだいしょうだいひーかんぎーそうしんてんのう)
*1・願文(がんもん)
願わくば上来(じょうらい)誦持(じゅじ)する所の
功徳を以て護持(ごじ)*2・某甲(むこう)
並びに家族一同 身心堅固(しんじんけんご)
家内安全 交通安全 息災延命 病魔降伏 無病安樂 諸難消除
殊(こと)には家業、事業、生業繁栄 志業達成
いちいち心願、諸願、大願、愚願すらも一切合切成就せしめるは
この天尊だけの御誓願なるぞ 有り難や
皆々の思い願い祈り満ち満ちて 如意円満ならしめ給え
*3・願意随意
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
はい以上になります。
ま大体ここまです。
いかがでしたか?この和讃。
主に生駒聖天で用いられているものを
多少ヴァージョンアップして晩行に唱えております。
今度また、関東(主に待乳山聖天)の和讃(朝行)もご紹介しますが
私はこの和讃を初めて読んだとき、孫正義さんが初めてマイクロチップを見て、抱いて寝るほど大感動したのに負けず劣らぬ深い感銘を受けました。
是非皆さんも能く能く味わってみて下さい。見えてくるものがきっとあると思います。能くお話ししますよね、お経も人の言葉も真意は語釈にではなく、理釈にあると。
本来はこの和讃の前に幾つものお経を読み、和讃の後に、普禮真言(ふらいしんごん)や祈願文、拍掌(はくしょう)←要するに拍手 三禮(さんらい)などが続いて五体投地(ごたいとうち)にて勤行を終えます。
今回は勤行次第の中の和讃だけを抜粋してご紹介致しました。
このように、先に細切れでご紹介した上で、後ほど勤行次第を書いて例えば、"和讃"と云う語句をこのページへリンクさせれば、ご興味頂いた方は読まれるでしょう。
また、ツィッターなどからのアクセスで、全く仏教にご興味ない方でも読み易いよう、敢えて振り仮名を多用致しました。
*解説
*1・願文
この願文自体は声を出して読む所でなく
まーサブタイトルみたいなモンです。
*2・某甲(むこう)
弟子某甲(でしむこう)....とかって聞いたことがある人もいらっしゃるでしょう。これは、"仏陀の弟子たる私(たち)は..."と云う意味です。
ですので某甲とは、唱えている自分自身を指しているのですが、自宅などで一人読経する際などは、この某甲(むこう)を読まずに、ご自身の本名を唱えます。もし、旧姓があればその名、戒名を持っていればその名、法名も持っているならその名も全てここで唱えます。
ですから某甲とは、寺院などで複数の方と同時に合唱する時に、みんな自分の名を言い出すとテンでバラバラになって調和が取れなくなるので、その為に用います。
*3・願意随意
ここは、ご自身のお願い事などを申し上げる部分です。
随意ですから別にスルーしても構いません。
でも願い事をせずに神仏の前に座する人は少ないでしょう。
ただ、聖天さまの御力は次々と貴方の願いを叶えてゆくでしょう。
そうして行くと徐々に、成就への感謝を延べる事が増えて
段々とお願いと感謝の割合が逆転して行きます。
人によっては感謝しか出来ない日々も続くでしょう。でも私達の欲望は際限なく、また新しいお願いが始まる人もいます。或いは最初から大きなお願いした人は、何年経ってもお願いばかりしてるかも知れません。
始めは自分や家族事ばかりを祈っていても、やがて身近な者たち以外の、普く世界のもっともっと大きな願いを持てるようになります。それこそが聖天信仰の功徳ではないでしょうか。
本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
〜編集後記〜
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2011年01月06日
皆さん周知の如く、私は愚か者であります。
四十歳の頃、ふと生き方と世の中に疑問を感じ、そのまま神仏に導かれ芦屋の知己、テルさんのお陰で聖天さまと稀有なるご縁を賜り、その先に己の生きる道を見つけ今に至ります。
徐々に・・徐々にでは御座いますが、この五年間と云うもの。随分と変わった自分を感じております。少なくとも、この私が自分自身を愚かだと自覚し、生き方を変えようと日々精進努力する中で、それ以前と比べますと、私によって傷付けられる人が、"確実に"減ったと云う事実が御座います。
世に蔓延る愚か者たちによって、そうでない者たちが、ある時は迷惑をかけられ、邪魔され、阻害され、搾取され、脅され、或いは騙され、泣かされ、貶され、損をさせら、罪を着せられ、責任以上の責任を負わされ、ただ利用され感謝もされずに捨てられます。
時に理不尽とも云えるそれらの愚か者たちの行為によって、そうでない者たちが今度は、愚かなる者たちへ変貌を遂げてしまいます。全員が全員ではないですよ。自分は人にはすまいと誓う、尊い方も勿論いらっしゃるでしょう。
然し、多くの人は誰しも損をしたくないと云う願望がありますから、人生経験を学習して損をさせられたりしたら、少なくとも必要以上に人を信用しなくもなるやも知れません。それだけでも、本当なら良縁を結べたであろう相手とでも、猜疑心が先に立ったり中々信頼関係を結べなくもなったりする要因ともなるでしょう。
それらは全て、私のような愚かなる者たちの仕業なのです。然し、そんな私などでも今はお陰様で、自分が愚かなのだと日々懇々と自覚出来る。その意識さえあれば、それだけでも自分の言動や行動に注意を払う。今までのように闇雲に人様へ責任の所在を求めたりもしないようにもなります。
実はね。
始めはそれが嫌で嫌で嫌でした。なんせアレでっしゃろ?ホラ、今まで自分を信じて、今までの自分を全肯定して認めて生きてきたワケですから。それを全否定に近いほど否定する。いや、そうせざるを得んほど、日々ガンガン悟らせられます。
ヘタすると単に自己嫌悪に陥るだけかも知れませんし、もっとヘタすると途中で馬鹿馬鹿しくなって開き直って更に悪化するかも知れまへんな。唯一、聖天信仰に留意すべき点があるとすればここでんな。ま、愚かもんだけに限ることでっけど。
然し、愚か者にもたった一つ利点があるとすれば、それはそうでないものよりも煩悩が強い分、仏の道に目覚めさえすればレバレッジがフルに効力を発揮する。と云うことに尽きますやろ。それはFXの比などではなく、もっともっと超越したものであります。
煩悩即菩提。
煩悩は、すなわち菩提であると。これも密教の根幹であります。前にも書きましたが、良い意味で弘法大師も非常に煩悩の強いお方やったんちゃうかと私はそない思います。
愚かなる者たちをも救い給う。
それが聖天信仰であります。
親鸞の説く、"悪人をも救われる"
とは、似て異なるものでっせ。
分かりやすく云えば、
愚か者が救われれば、必然的にそうでないものは救われる。
と云うことです。
"救う"と云う、言葉の使い方にやや語弊があるやも知れませんね。
要は、愚か者が人を傷つけることに少なくとも抵抗を感じるだけの自覚さえ持てるだけでも、その人間が関わる人生は全然違う結果となるでしょう。
愚かもんは元来、自我が強いですから、自分は自分で救えるのです。ホンマはね。自分だけやと十分。でも大悲大慈の大義を抱けば、そんなちっぽけな救いでは物足りんちゅうか、もっと多くの人々を救うには、己の能力など鼻くそにも役に立たんと自覚するわけであります。そこで尊天上様の奇しき御力をお借りするのであります。
救われるべきものが救われるのは本来当然であります。
然し、愚か者が蔓延る限り、人に親切で思いやりのある人でも、誰からも慕われるような人でも、必ずしも良い人生を歩めるとは限らないでしょう。
ニュースでも誰かが殺されて、周囲の人間のインタビューを聞いても、「あんな人は死んで当然だよ」なんて寧ろ聞かないでしょう。親族にすれば、殺されるのは納得がいく訳ない人の方が殺されたりしてませんか。私はそう感じとります。
これからの私の涅槃まで続く、聖天信仰伝道の旅。
我に続く愚かなる者たちを救い、大慈大悲に目覚めさせ、
以って多くの困窮したる飢えたる悩みたる人々を救い給う。
そんな聖天さまのお手伝いをさせて頂きたく、日々神仏と向き合い、僅かに眼を離せばすぐさま懈怠しがちな己の中の己を磨き上げるため、精進して参ります。
名声が欲しいのではない、賞賛されたいのでもない、自分のためでも家族のためでも特定の誰かのためでもない。自他平等利益。天下は天下のものでありますから。私は私の選んだ道をひたすら歩くだけであります。
本日もご愛読誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
伯耆丘鵜衣紋さん!
私、まだ一度も達磨祭り行ったことないんですよ。
でも五霊神社が今年から達磨は預からないと云うんで
処理に困ってまして。。今夜、行きますかね〜
音羽さん!
え?いきなりホルモン?
なかなかオツでんな〜了解〜
四十歳の頃、ふと生き方と世の中に疑問を感じ、そのまま神仏に導かれ芦屋の知己、テルさんのお陰で聖天さまと稀有なるご縁を賜り、その先に己の生きる道を見つけ今に至ります。
徐々に・・徐々にでは御座いますが、この五年間と云うもの。随分と変わった自分を感じております。少なくとも、この私が自分自身を愚かだと自覚し、生き方を変えようと日々精進努力する中で、それ以前と比べますと、私によって傷付けられる人が、"確実に"減ったと云う事実が御座います。
世に蔓延る愚か者たちによって、そうでない者たちが、ある時は迷惑をかけられ、邪魔され、阻害され、搾取され、脅され、或いは騙され、泣かされ、貶され、損をさせら、罪を着せられ、責任以上の責任を負わされ、ただ利用され感謝もされずに捨てられます。
時に理不尽とも云えるそれらの愚か者たちの行為によって、そうでない者たちが今度は、愚かなる者たちへ変貌を遂げてしまいます。全員が全員ではないですよ。自分は人にはすまいと誓う、尊い方も勿論いらっしゃるでしょう。
然し、多くの人は誰しも損をしたくないと云う願望がありますから、人生経験を学習して損をさせられたりしたら、少なくとも必要以上に人を信用しなくもなるやも知れません。それだけでも、本当なら良縁を結べたであろう相手とでも、猜疑心が先に立ったり中々信頼関係を結べなくもなったりする要因ともなるでしょう。
それらは全て、私のような愚かなる者たちの仕業なのです。然し、そんな私などでも今はお陰様で、自分が愚かなのだと日々懇々と自覚出来る。その意識さえあれば、それだけでも自分の言動や行動に注意を払う。今までのように闇雲に人様へ責任の所在を求めたりもしないようにもなります。
実はね。
始めはそれが嫌で嫌で嫌でした。なんせアレでっしゃろ?ホラ、今まで自分を信じて、今までの自分を全肯定して認めて生きてきたワケですから。それを全否定に近いほど否定する。いや、そうせざるを得んほど、日々ガンガン悟らせられます。
ヘタすると単に自己嫌悪に陥るだけかも知れませんし、もっとヘタすると途中で馬鹿馬鹿しくなって開き直って更に悪化するかも知れまへんな。唯一、聖天信仰に留意すべき点があるとすればここでんな。ま、愚かもんだけに限ることでっけど。
然し、愚か者にもたった一つ利点があるとすれば、それはそうでないものよりも煩悩が強い分、仏の道に目覚めさえすればレバレッジがフルに効力を発揮する。と云うことに尽きますやろ。それはFXの比などではなく、もっともっと超越したものであります。
煩悩即菩提。
煩悩は、すなわち菩提であると。これも密教の根幹であります。前にも書きましたが、良い意味で弘法大師も非常に煩悩の強いお方やったんちゃうかと私はそない思います。
愚かなる者たちをも救い給う。
それが聖天信仰であります。
親鸞の説く、"悪人をも救われる"
とは、似て異なるものでっせ。
分かりやすく云えば、
愚か者が救われれば、必然的にそうでないものは救われる。
と云うことです。
"救う"と云う、言葉の使い方にやや語弊があるやも知れませんね。
要は、愚か者が人を傷つけることに少なくとも抵抗を感じるだけの自覚さえ持てるだけでも、その人間が関わる人生は全然違う結果となるでしょう。
愚かもんは元来、自我が強いですから、自分は自分で救えるのです。ホンマはね。自分だけやと十分。でも大悲大慈の大義を抱けば、そんなちっぽけな救いでは物足りんちゅうか、もっと多くの人々を救うには、己の能力など鼻くそにも役に立たんと自覚するわけであります。そこで尊天上様の奇しき御力をお借りするのであります。
救われるべきものが救われるのは本来当然であります。
然し、愚か者が蔓延る限り、人に親切で思いやりのある人でも、誰からも慕われるような人でも、必ずしも良い人生を歩めるとは限らないでしょう。
ニュースでも誰かが殺されて、周囲の人間のインタビューを聞いても、「あんな人は死んで当然だよ」なんて寧ろ聞かないでしょう。親族にすれば、殺されるのは納得がいく訳ない人の方が殺されたりしてませんか。私はそう感じとります。
これからの私の涅槃まで続く、聖天信仰伝道の旅。
我に続く愚かなる者たちを救い、大慈大悲に目覚めさせ、
以って多くの困窮したる飢えたる悩みたる人々を救い給う。
そんな聖天さまのお手伝いをさせて頂きたく、日々神仏と向き合い、僅かに眼を離せばすぐさま懈怠しがちな己の中の己を磨き上げるため、精進して参ります。
名声が欲しいのではない、賞賛されたいのでもない、自分のためでも家族のためでも特定の誰かのためでもない。自他平等利益。天下は天下のものでありますから。私は私の選んだ道をひたすら歩くだけであります。
本日もご愛読誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
伯耆丘鵜衣紋さん!
私、まだ一度も達磨祭り行ったことないんですよ。
でも五霊神社が今年から達磨は預からないと云うんで
処理に困ってまして。。今夜、行きますかね〜
音羽さん!
え?いきなりホルモン?
なかなかオツでんな〜了解〜
2010年12月09日
先日、立て続けにゴールド免許が疵付いた。
運転中の携帯電話と、スピード違反。
これ以前はいつ検挙されたか忘れたほど
久しぶりに交通違反切符を切られた。
当然か?半年ほど前までは専業主夫だった私は
今のように車を毎日長時間乗ることもなかった。
フツーはこう思うだろう。
「チッ、運が悪ぃな」「こんなとこに隠れやがって」
然しこれも今の私にとっては、
実は、聖天さまの功徳のように思えるのである。
「ただのこじ付けだろ」
そう思う人もいるだろう。
私も五年前までは無神論者だった。
なんでもかんでも有り難い、お陰さまだと云う人の気が知れなかった。ふざけんな。神だの仏だのいるものか、全ては己でケツを拭いて生きてきたからだった。
だが確かに今は、思い返してみるとこう思える。
多忙極まる毎日の中で、ついついスピードも出しがちだった。
携帯で難しい話をしていて、曲がるべき道を間違って
急にハンドルを切って車線変更をしたりもしていた。
おまけに睡眠不足で反対車線までレーンを食み出していたり
用もないのにスタンドへ入ろうとしたりするほど居眠り運転。
このままでは近い内に大きな事故をするかも知れない・・
そう思っていた矢先の交通違反だった。
スピード違反と云っても、かつてのように●●●Kmなんて出してない。見通しの良い40km制限のところで、62kmでつかまった。
それでも62kmもありゃ十分、殺傷力はある。
居眠りしてて子供やお年寄りをはねたりしたらドエライことだ。
以来、スピードも出しようの無い女房のオンボロぼろSUVに乗り
携帯電話も控えるか、停止するようにしている。
これで良かったんだと。素直にそう思う。
それではまた。
本日もご愛読誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
運転中の携帯電話と、スピード違反。
これ以前はいつ検挙されたか忘れたほど
久しぶりに交通違反切符を切られた。
当然か?半年ほど前までは専業主夫だった私は
今のように車を毎日長時間乗ることもなかった。
フツーはこう思うだろう。
「チッ、運が悪ぃな」「こんなとこに隠れやがって」
然しこれも今の私にとっては、
実は、聖天さまの功徳のように思えるのである。
「ただのこじ付けだろ」
そう思う人もいるだろう。
私も五年前までは無神論者だった。
なんでもかんでも有り難い、お陰さまだと云う人の気が知れなかった。ふざけんな。神だの仏だのいるものか、全ては己でケツを拭いて生きてきたからだった。
だが確かに今は、思い返してみるとこう思える。
多忙極まる毎日の中で、ついついスピードも出しがちだった。
携帯で難しい話をしていて、曲がるべき道を間違って
急にハンドルを切って車線変更をしたりもしていた。
おまけに睡眠不足で反対車線までレーンを食み出していたり
用もないのにスタンドへ入ろうとしたりするほど居眠り運転。
このままでは近い内に大きな事故をするかも知れない・・
そう思っていた矢先の交通違反だった。
スピード違反と云っても、かつてのように●●●Kmなんて出してない。見通しの良い40km制限のところで、62kmでつかまった。
それでも62kmもありゃ十分、殺傷力はある。
居眠りしてて子供やお年寄りをはねたりしたらドエライことだ。
以来、スピードも出しようの無い女房のオンボロぼろSUVに乗り
携帯電話も控えるか、停止するようにしている。
これで良かったんだと。素直にそう思う。
それではまた。
本日もご愛読誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2010年12月08日
『そもそも歓喜尊天とは、諸神諸仏の父母一切衆生の根源にして、一礼一敬もその功徳の力、計り知ること我ら愚かなる者たち能(あた)わずとは。仏の金言、諸神諸仏の捨て給う我らの愚願すらも、一心に信ずる者はただちに成就せしめるは、この尊天上様だけの奇しき御力、誠稀有なるご誓願なり有難や尊きや・・』
皆さん、こんにちわ。
ご無沙汰しとります。北斗法蓮です。
先の一節は愚僧が勤行時、五体投地前に唱えるものであります。途中、現在ではフツー使うことのない、"能(あた)わず" と 云う単語が出て参りましたが、これは簡単に申せば、"〜出来ない" と云う意味であります。
つまり、私ら(私だけ?)愚かなるものには、尊天上様(聖天さま)の大功徳は、その莫大な御利益を計り知ることなど出来ない
と。まーそんな意味であります。実際は、計り知るどころか憶測も想定も一切出来ないほどなのであります。
私は三日前から本日にかけて、それを身を持って知ることになりました。是非ともそれを皆さんにお伝えしたいと。そんな思いで筆を取りました。ただ、上手く文字で伝えられますかどうか。おやまんのように気心知れた相手にならば、少々解り辛くとも言葉足りずとも、ふんふん大体そーゆーことねと、心で補ってもらえるのですが。
こんにちまで、先の前置きと申しますか読経前にこの一節を唱え続けては参りましたが、正直、今日の今日まではこんな風に考えておりました。
きっと言葉のアヤなのであろう。尊天上様の御力を決して疑うワケではないが、それほどまでに多大なご利益を授けて下さるのだろう、兎に角、一心に信心して行こうと。
待乳山聖天・平田住職も仰るように、聖天さまのご利益は実際に受けた人しか解りかねる・・その意味がようやく分かりました。
思うに聖天さまのご利益と云うのは、大きく分けて二通りあるのだと思いました。その一つは単純明快、願えば叶うと云うもの。どんな神も仏も、パワーストーンやパワースポットですら謳う、ありがっちゃ〜ありがちな御利益。ただ、聖天さまがそれらと明らかに一線を画すところに聖天信仰の真の意義が隠されております。
例として聖天和讃にある別の一節。
『世の父母がその子らの、浮世を知らぬ我儘を無理な願いと知りつつも、願いを叶え給いつつ、導き給うにさも似たり・・』
『元より愚痴の我ら故、願い求める事毎に己の力を計らざる、無理なる事も多からん。然れども御胸にかけられて唯ひたすらに縋りなば、願いのままを得させんと我らがために説きませり・・』
他にもまだまだ沢山ありますが、これらに共通するのは、我儘な願いも無理な願いも、他の諸神諸仏ならば吐いて捨てられるような愚願すらも、要するにどんな願いでも叶えてやろうと云う聖天さまの云わば、大慈悲の御心を謡った和讃であります。
いずれにしてもここまでなら、ご利益の多かれ少なかれ、他で叶わぬでも聖天さまなら叶うと云った、要するに自分自身がお願いする、自分自身でこーなりたい、こーしたい、この問題を解決したい等といった願いですから叶えばその瞬間に分かることですし、それが成就した喜びも、そこまでに至るプロセスで変化もするでしょう。要するに準備も予想も想定も出来るワケです。
これらとは対照的に、願ってもいないこと。自分では全く予測のつかないご利益が起こるのです。願ってもないんやったら叶わんでもええんちゃうの?いやいや、そーやないんです。そもそも願うっちゅうのは、どんな願いであろうと欲望の一種なんです。
人助けも人のために祈るのも欲望です。自分ごとの小さな欲か、世界平和の大きな欲か、いわゆる大欲か小欲かとの違いだけです。大体、自分ごとで願うのは困っている状況に陥っているか、はたまた私のように欲張りなんかどっちかでしょ。必ず理由や原因が存在すると思います。
だからフツー、何か問題が起きたり、自分や周囲では解決出来そうにないほど困ったり、心身困憊してどーにもならんで信仰する人も多かろうと思います。然しこの数日起こったことが、正に聖天信仰の真骨頂だと実感したのは、それら窮地に陥る問題が未然に防げたと云う事実です。
もっと具体的に云うと、災い転じて・・っちゅうことに似てますかね。私は今、身分や過去を伏せて、ビジネス界と云う俗世に身を置き修行しとりますが、あるクレームからトラブルが発生し危うく大きな契約も破棄か?と云う危機的状況に切迫しました。
兎に角、そのトラブルを解決せねばと、心砕き奔走した結果、別の問題が新たに発生しました。ところが、その問題と云うのが実は最初のトラブルよりももっともっと大きな火種を抱えており、最初のクレームがもし無かったら、あとでドエライことに発展していたであろう問題だと発覚したのです。
要するに現時点でクレームにもならず、傍目にはスムースに進行しているように見えた契約も、このまま時間が経過し随時履行に着手して行けば、想像するだけでもゾッとするほど、大変な問題に膨れ上がっていたであろうと分かったのです。
人生は何が起きるか正直分かりません。有り得んことが起きるのが人生。有り得んと思うこと自体、有り得んのです。今私が仏道を歩いてること自体、摩訶不思議です。
人の知恵など所詮、学校や親から習ったこと、遊んで覚えたこと、社会で学んだこと、本読んだりや講習聴いたり、見る聞く書く話すの繰り返しから、スキルアップしてきたこと、その程度です。全部を予測出来ないですし、シュミレーションを繰り返しても、その通りになるとは限りません。
いやホンマ、聖天さまを信仰してて良かったと。心の底から思いましたです。人の知恵など遠く及ばん範囲にまで御加護御庇護頂いておると、ホンマ実感しました。これこそが聖天さまの真の御力なんでしょうな。願うことを叶えてやるぐらいは当たり前やと。
オマエらは智慧足りずにアホやから、願うことばかり叶えてやっとっても、他に問題が起きたらまた願い事が増える一方やし、ワシも敵わんわいと。大きな問題に発展する前に小さな問題で解決させとけば、スキルも必然上がるやろうと。尊天上様がそない仰っているような気がしました。
ほな本日はこの辺で。本年もあとわずか。
私の44歳と云う人生もあと一週間。
一日、一日を精一杯目一杯、生きていきたいと思います。
皆さん、お風邪など召されぬようご自愛下さいね。
伯耆丘鵜衣紋さん、毎度おおきに有難う御座います。
釈尊成道会で夜を徹した座禅行ご苦労さまです。
すごいでんな。徹夜で座禅は。
徹マン(徹夜でマントラ行)はしたことありますが
座禅のがキツいでしょうね。今の私なら間違いなく寝ます(笑)
先日、皆さんもご存知の音羽さんからメールを頂きました。
現在、四国八十八ヶ所遍路を巡礼中だそうです。
どうか事故無き怪我無き病無き、無事の結願満行を
一同心より祈念しとります。
それではまた。
本日もご愛読誠に有難う御座いました。
願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2010年11月05日
皆さん、ご無沙汰しております。
北斗法蓮です。お元気でしたでしょうか?
随分と秋も深まり、冷え込む日も増えて参りましたね。
既に、ツィッターでもお伝えしましたように、去る11月1日、妻沼聖天さまの朝参りに参列してきました。本日はその日の模様などを書きたいと思います。
当日前夜、いつものように午後10時ごろ帰宅して、お供えを済ませたあと、知らぬ間にソファで寝入ってしまいました。
深夜零時半ごろ、慌てて起きて炊飯器のスイッチを入れ沐浴し、炊き立てのご飯をお供えして勤行。午前3時には家を出ました。
ちょうど台風が関東へ最大接近していた日で、余裕をもって出発したのですが、妻沼聖天さま迄の道のり、およそ40kmのあいだ、終始豪雨に見舞われました。
ワイパー全開でも、皆目、前がほとんど見えないほどの雨。深夜ですから道路は空いていたのですが、結局、妻沼に到着したのは午前4時45分。朝参りの定刻までギリギリでした。
そんな豪雨の中でも、仮本殿へ向かうと下駄箱に雨傘がズラリ。ザッと数えただけでも30本ほどありました。さすがは聖天信者の皆さんだな・・・そう思いながら、いそいそと遠慮がちに(初めての参列なのでいちおー。)中へ入りました。
ズラズラと人が正座している。どこへ座ろうかと・・・見ると、聖天さまのお厨子のど真ん前が空いてるではないですか。お焼香と塗香が置いてある台。当然そこが中央で、その奥にお厨子があるのですが、そこからほぼ真っ直ぐに壁まで隙間が空いておったので、自分はそこへ場所をいただきました。
はっ・・もしかして、こういう行動が態度デカイと思われる要因なのでしょうかw。出家してからというもの、元よりデカイ態度を多少は自粛してきたつもりなんですが。どこへ行っても何をしてても、古株のように思われるのが常でしたので。
まーそんなことはどーでもいいんですが。ただ、真正面に陣取れたことを聖天さまに感謝申し上げ、塗香で心身を淨め袈裟を着け身を整えておりますと、「初めての方ですか?」と行者さまに問われ、そう答えると次第書と一緒に紙を一枚渡され、「ここに氏名、住所を書いてください」と云われました。
その紙は普段、祈祷申し込みに際し使用しているものと同じものでしたが、とりあえず氏名・住所を書きやすいから流用しているのだろうと勝手に思い、サッと書いて渡しました。あとで分かったのですが、朝参りの際に祈祷も同時に申し込む方もいらっしゃるようで、帰りに御札を持って帰っている方も見受けられました。
自分的には兎に角、この"次第書"がいただきたくて仕方なかったものですから、念願の次第書を手にして大喜びでした。実は、妻沼聖天には、生駒聖天や待乳山聖天のように信徒用の勤行次第と申しますか、要するにそのお寺独自の経本というものが存在しません。
唯一、この次第書だけが妻沼聖天オリジナルの経本と云えばそうなのです。然し、これは非売品であり、朝参りに参列したものだけがいただけるといふ・・・そう、ある意味、超レアもんなんですwふっふっふっ。(それがどーしたw)
無論、同じ宗派である高野山真言宗の僧侶と名乗れば、裏技を使うまでもなくもっと簡単に頂けたのでしょうが、あくまで皆さんと同じ立場に拘る私は、皆さんと同じ通常ルートでようやく入手したと云うことです。
さてさて内陣には、お顔を拝見したことのある、行者さまが二人。更に女性一人、男性一人、お顔は見えませんでしたが、地響きのように力強く大太鼓を叩く方が一人。合計5人の行者さまと我々が待つ所へ、ご住職さまがご入場。朝参りが始まりました。
結論から云うと、最後のご住職の法話まで入れて、およそ全部で一時間ほどの朝参りでした。読んだお経は、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(要するに観音経全文)、続いて般若心経の二つでした。
ただ、どちらも超スローペースで読誦(どくじゅ)するのと、般若心経は三巻読み上げるので、結構な時間がかかりました。法話自体はおそらく、ものの5分あったかなかったかぐらいだったと思います。
浴油祈祷を依頼するときも、観音経(偈文だけですが)読み上げますが、あの時はかなりのハイペースでした。自分の感覚では、かつて経験した江東区の深川不動尊のそれよりも、更に早い読経に感じました。
然し、自分も普段、まー時間に追われているのも御座いますが、相当なハイペースで読経しておりますので、そのせいか、超スローペースで読まれると、反って次の言葉が出てきにくく、とっくに暗誦している観音経全文にも関わらず、時折、(次、ナンだっけな?)みたいなカミカミの状態でした。(だったら、次第書チャンと見ながら読めよw)
ご住職の法話は、弘法大師の著作、『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』の一節に関する、まー理訳と申しますか、解説のようなお話しでした。見開き1ページのコピーを渡されてね。「前回の続きですが・・」と始められたので、ずっと通っている方々の中にはメモを取っている、熱心な女性信者の方が隣におられました。
然しまーよくあるっちゃあ、良くある法話。伯耆丘鵜衣紋さんもご存知の、少林山の座禅会でもこういった、お経の意味や仏教に関するネタが多いですね。確かにご住職の口から直接に解説を聞けると云うのは、勉強の場としては最適でしょうし、きっと長年やっているとネタ切れになるのも分からなくはないですが・・
自分的には、法話と云うよりももっと時事や今、困っている人たちへの具体的な救済方法なども合わせて皆さんとお話していきたいと思いますね。せっかく通われていて、顔も名前も分かった人たちが集まっているのですから、もっと意見を交換したりしてね。イロイロやっていきたいと思っております。
それでは本日はこのへんで。
次回、いつ書けるか分かりませんが、妻沼聖天における次第書の内容や、浴油祈祷で新たに分かったことも含めてお伝えしていきたいと思っております。
・・実は1日の朝参りの日も、そのままスーツに着替え、また夜遅くまでビジネス界に身を投じての修行でした。この修行の終焉が見える日まで、更新もままならぬと思いますが、どうか皆さん、これから一層寒くなって参りますので、お風邪など召さぬようご自愛下さいませ。既に本日一名、風邪を引きましたと読者の方からメールいただいたばかりですしw。自己管理、気をつけて下さいね。ではでは、さよーなら。
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
北斗法蓮です。お元気でしたでしょうか?
随分と秋も深まり、冷え込む日も増えて参りましたね。
既に、ツィッターでもお伝えしましたように、去る11月1日、妻沼聖天さまの朝参りに参列してきました。本日はその日の模様などを書きたいと思います。
当日前夜、いつものように午後10時ごろ帰宅して、お供えを済ませたあと、知らぬ間にソファで寝入ってしまいました。
深夜零時半ごろ、慌てて起きて炊飯器のスイッチを入れ沐浴し、炊き立てのご飯をお供えして勤行。午前3時には家を出ました。
ちょうど台風が関東へ最大接近していた日で、余裕をもって出発したのですが、妻沼聖天さま迄の道のり、およそ40kmのあいだ、終始豪雨に見舞われました。
ワイパー全開でも、皆目、前がほとんど見えないほどの雨。深夜ですから道路は空いていたのですが、結局、妻沼に到着したのは午前4時45分。朝参りの定刻までギリギリでした。
そんな豪雨の中でも、仮本殿へ向かうと下駄箱に雨傘がズラリ。ザッと数えただけでも30本ほどありました。さすがは聖天信者の皆さんだな・・・そう思いながら、いそいそと遠慮がちに(初めての参列なのでいちおー。)中へ入りました。
ズラズラと人が正座している。どこへ座ろうかと・・・見ると、聖天さまのお厨子のど真ん前が空いてるではないですか。お焼香と塗香が置いてある台。当然そこが中央で、その奥にお厨子があるのですが、そこからほぼ真っ直ぐに壁まで隙間が空いておったので、自分はそこへ場所をいただきました。
はっ・・もしかして、こういう行動が態度デカイと思われる要因なのでしょうかw。出家してからというもの、元よりデカイ態度を多少は自粛してきたつもりなんですが。どこへ行っても何をしてても、古株のように思われるのが常でしたので。
まーそんなことはどーでもいいんですが。ただ、真正面に陣取れたことを聖天さまに感謝申し上げ、塗香で心身を淨め袈裟を着け身を整えておりますと、「初めての方ですか?」と行者さまに問われ、そう答えると次第書と一緒に紙を一枚渡され、「ここに氏名、住所を書いてください」と云われました。
その紙は普段、祈祷申し込みに際し使用しているものと同じものでしたが、とりあえず氏名・住所を書きやすいから流用しているのだろうと勝手に思い、サッと書いて渡しました。あとで分かったのですが、朝参りの際に祈祷も同時に申し込む方もいらっしゃるようで、帰りに御札を持って帰っている方も見受けられました。
自分的には兎に角、この"次第書"がいただきたくて仕方なかったものですから、念願の次第書を手にして大喜びでした。実は、妻沼聖天には、生駒聖天や待乳山聖天のように信徒用の勤行次第と申しますか、要するにそのお寺独自の経本というものが存在しません。
唯一、この次第書だけが妻沼聖天オリジナルの経本と云えばそうなのです。然し、これは非売品であり、朝参りに参列したものだけがいただけるといふ・・・そう、ある意味、超レアもんなんですwふっふっふっ。(それがどーしたw)
無論、同じ宗派である高野山真言宗の僧侶と名乗れば、裏技を使うまでもなくもっと簡単に頂けたのでしょうが、あくまで皆さんと同じ立場に拘る私は、皆さんと同じ通常ルートでようやく入手したと云うことです。
さてさて内陣には、お顔を拝見したことのある、行者さまが二人。更に女性一人、男性一人、お顔は見えませんでしたが、地響きのように力強く大太鼓を叩く方が一人。合計5人の行者さまと我々が待つ所へ、ご住職さまがご入場。朝参りが始まりました。
結論から云うと、最後のご住職の法話まで入れて、およそ全部で一時間ほどの朝参りでした。読んだお経は、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(要するに観音経全文)、続いて般若心経の二つでした。
ただ、どちらも超スローペースで読誦(どくじゅ)するのと、般若心経は三巻読み上げるので、結構な時間がかかりました。法話自体はおそらく、ものの5分あったかなかったかぐらいだったと思います。
浴油祈祷を依頼するときも、観音経(偈文だけですが)読み上げますが、あの時はかなりのハイペースでした。自分の感覚では、かつて経験した江東区の深川不動尊のそれよりも、更に早い読経に感じました。
然し、自分も普段、まー時間に追われているのも御座いますが、相当なハイペースで読経しておりますので、そのせいか、超スローペースで読まれると、反って次の言葉が出てきにくく、とっくに暗誦している観音経全文にも関わらず、時折、(次、ナンだっけな?)みたいなカミカミの状態でした。(だったら、次第書チャンと見ながら読めよw)
ご住職の法話は、弘法大師の著作、『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』の一節に関する、まー理訳と申しますか、解説のようなお話しでした。見開き1ページのコピーを渡されてね。「前回の続きですが・・」と始められたので、ずっと通っている方々の中にはメモを取っている、熱心な女性信者の方が隣におられました。
然しまーよくあるっちゃあ、良くある法話。伯耆丘鵜衣紋さんもご存知の、少林山の座禅会でもこういった、お経の意味や仏教に関するネタが多いですね。確かにご住職の口から直接に解説を聞けると云うのは、勉強の場としては最適でしょうし、きっと長年やっているとネタ切れになるのも分からなくはないですが・・
自分的には、法話と云うよりももっと時事や今、困っている人たちへの具体的な救済方法なども合わせて皆さんとお話していきたいと思いますね。せっかく通われていて、顔も名前も分かった人たちが集まっているのですから、もっと意見を交換したりしてね。イロイロやっていきたいと思っております。
それでは本日はこのへんで。
次回、いつ書けるか分かりませんが、妻沼聖天における次第書の内容や、浴油祈祷で新たに分かったことも含めてお伝えしていきたいと思っております。
・・実は1日の朝参りの日も、そのままスーツに着替え、また夜遅くまでビジネス界に身を投じての修行でした。この修行の終焉が見える日まで、更新もままならぬと思いますが、どうか皆さん、これから一層寒くなって参りますので、お風邪など召さぬようご自愛下さいませ。既に本日一名、風邪を引きましたと読者の方からメールいただいたばかりですしw。自己管理、気をつけて下さいね。ではでは、さよーなら。
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2010年08月24日
妻沼聖天(歓喜院)のご本殿には、御厨子に聖天像が納められて
おりますが、行者さまが毎日浴油祈祷を厳修されるのは、本院です。
本院と本殿は、地図を見れば分かるように
道路を挟んで150mほど離れた場所に位置しております。
(文末にリンクがあります。)
妻沼聖天の浴油祈祷は、生駒聖天や待乳山聖天のそれと違い
行者さまが目の前で祈祷してくれるのが最大の特徴です。
その上で大きなお札を戴けて、翌朝から浴油祈祷に入られます。
日本三大聖天寺院と呼ばれる各寺院では、
浴油祈祷をお願いすると・・・
生駒聖天では、
その場で御札を頂き、あとはお任せします。
期間は確か、過去記事に書いたと思いますが・・
三日、五日、七日、一ヶ月、永年だったと思います。
待乳山聖天では、
期間は一週間のみでそれ以降、浴油祈祷が済んでから
御札を頂きに上がります。宅配でお願いすることも出来ます。
ちなみに待乳山聖天では、御札か御守りかを選べます。
妻沼聖天では、
期間は、一日、三日、七日、一ヶ月ですが
その場で祈祷して下さるとのことで本殿へ上がり、待つこと数分。
特に祈祷時間を設けられていないので、
重なっていたりすれば更に待つことになるかも知れません。
待機している間に般若心経と、裏にご真言などが書かれた紙を
渡されます。この紙は祈祷後に折りたたんで御守りになります。
心経を渡されたと云うことは、一緒に読経出来ると云う事です。他に観音経偈文も読みました。待っている間、冷房がガンガンに効きすぎて寒いくらいでした。が、・・一緒に読経している間にまるで冷房が切れたか?のように暑くなり顔面滝の汗でした。
読経すると大抵暑くはなりますが、このときは常軌を逸してました。
それは一重に、妻沼聖天さまの行者さまの行力から滲み出たオーラだと感じました。渾身の祈祷は結界から始まり、護身法、和太鼓を終始お一人で叩きながらの読経、何もかもそれはそれは素晴らしいものでした。この方なら必ず叶う。私はそう確信致しました。
例え、密教の真髄奥義、秘法中の秘法である霊験あらたかな浴油祈祷であっても、行者さまの行力と仏さまの法力とアナタ様の信ずる心、叶えて欲しいと願う心が三位一体とならなければ弱力してしまいます。
如何に聖天さまが優れたご霊験をお持ちであろうと、それを行ずる行者もまた、常に心身清淨に保ち精進を重ねられている方でなければ適うものではありません。
故に、全国に聖天寺院があろうとも、(それ自体も少ないですし、それだけ聖天行者と云うのは激務なんですね。)本当に願いの叶うお寺が少ないのも事実です。ですから、皆さんが願いを叶えるには寺院選び、行者選びも重要となってくるわけであります。
余談ですが、私は時間が出来次第、全国の聖天寺院を訪ね歩き、自分で目で確かめたものを皆さんへお伝えしたいと思っております。聖天さまを信仰してみたいが近くにいいお寺がないものか?と探されている方もいらっしゃるでしょう。そんな方々へお力になれればと思います。
今回の妻沼聖天もそうでしたが、私は敢えて僧侶だと云うことも、私のそういった目的も明かさずに訪ねております。その方が皆さんにとっても生の取り組む姿勢がお伝え出来るものかと思っております。増して妻沼聖天は、私と同門の宗派ー高野山真言宗でしたしねw。明かせば話しは早かったかもですが。
戻しますが、そういった点で妻沼聖天では、一人黙々と家に帰って拝む前に、こうして行者さまと然も、聖天さまのお像の御前で、正に入我我入を目の当たりにする空間を共にすると云うのは、極めて貴重な体験となるものと思います。
その感覚、その臨場感、その澄んだ霊気こそを自宅へ持ち帰り、日々のお勤めに活かされると更に、早く祈りが通ずるものでしょう。
もし、関東ご近辺の方でしたら、是非一度
妻沼聖天さまをお参りされることをお奨め致します。
妻沼聖天ホームページはこちらです。
本日もご訪問おおきに、
ご愛読有難う御座いました。
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2010年07月28日
今日は嬉しい知らせが入りました。
かつてこのブログでも、『大聖歓喜天利生記』と称し、幾度か執筆も重ねて下さった、マジシャン高橋司さん。
結論からお伝えすると、彼の抱えていた様々な難問題が好機好転の波が一気に押し寄せて来たかの如く、ことごとくほぼ全てクリアーになったと云うことでした。彼は彼らしく事細かに報告してくれましたが、プライバシーも配慮し逐一ここで内容を書くわけには参りません。
が然し、仮に彼の承諾を得られたとしても、とても書ききれないほどなのです。私は以前から彼の問題を存じ上げておりましたが、何もご存じない皆さんに、斯く斯く然々でこの問題はあーなってこーなって、その問題もこーなってそーなって、あれもこれもこんな状態だったのが、キレイさっぱり片付きました。
としか書けないほど、難題山積だったものが落ち着いたようです。彼は海外も飛び回る某一流企業の営業部長さんでしたが、会社在籍も悩みに悩んでいた問題の一つでしたが、穏便に退職叶ったようで、晴れて念願のプロマジシャンに転向したそうです。
彼がメールに添付してくれた写真。そこに写っていた彼の表情は髪型も変えて雰囲気もタレントさんそのもので、何よりも本当に清々しく、とてもいい笑顔でした。
写真をブログへ転送しようとしましたが、何故か再生できずで非常に残念ですが。。それほどいい笑顔でしたよ。彼の写真はチャリティーマジックショーなどで何枚もピクスに上げてあるのでご存知の方も多いでしょうけど、あれでしょ?そう思うでしょ?
そう、彼は私と違ってとても愛嬌のあると云うか、ぶっちゃけ可愛い顔してんですよねw。悪いことしても怒られない系と云うか、愛されキャラなんですね。きっと。私は善いことしてても、なんか怪しいとか云われそうだしw。
それが彼のこれからのタレント人生の中でも、とても活かされてくるでしょうし、先日おやまんにも似たようなことを云いましたが、それは彼の天から与えられた徳性なんでしょうね。
その徳性を見極め存分に活かして、自分の出来る範囲で世に人に尽くし、世の人の役に立つ。それこそ菩薩行でんな。ナンも後進国に寄付するだけが善行やないですからね。
彼は感謝してくれました。
これも霊験あらたかな聖天さまのおかげ、その聖天さまとの稀有なる縁(えにし)を結べた端緒となった私のおかげと。そんな私も芦屋の知己、テルさんのおかげで今の信仰があります。
何度も云いますが、私は聖天信仰に至らなければ、恐らく既に仏教徒をやめているかも知れません。出家しようが今の時代、還俗するのなんぞワケないことですから。
待乳山聖天の平田ご住職の言葉が今、改めて思い浮かびます。
『ここは最後に来る寺ですから・・』。
この言葉の意味は、どの神もどの仏にも見放され、どうにもこうにも救われない人が最後にたどり着く寺(神様)、、、
と云う意味だけではなく、きっと聖天さまをひとたび信じたのなら、自分にとって聖天さまが最も或いは唯一、自分自身を託せる投げ出せる神だと確信出来たのなら、それ以後、信仰を留める途絶えることなく、生涯信心してゆくことに疑問を持たなくなる。
そんな風に近頃思えるようになって参りました。
高橋司さん、本当に良かったですね。また貴方の笑顔が見れて何よりでした。日本には勿論、世界中にもまだまだ聖天さまに救われるべき、聖天さまにしか救えない人々がいっぱいいます。
私には何にもありません。
人の心を癒す霊力もありません。悩みを相談されて真摯に聴いてあげられても、お釈迦さまのように一人ひとりに応じた、分かり易い比喩で悟らせることも出来ません。
救って下さるのは私ではなく、あくまで聖天さまです。
その為に御縋りするのも私ではなく、腑に落ちられたご自身です。
私の役目は一人でも多くの困窮したる人々が、どうにもならない問題を抱えた人々が、私から直接でなくても間接的にでもアクセスはどうでもいいから、どんな繋がり関わりでも構わないから、聖天さまの御足を押し頂く端緒となり、結果、その人たちが救われること。そのために働かせて戴くこと。それが私の役目でもあります。
語弊のないように申し加えますが、仏教は増して密教は一神教ではなく、多神教です。然しながら、聖天さまにしか救われない人たちがいる。と云う表現をさせて頂くこと自体に、聖天信仰の特殊性があると云ってもいいでしょう。
この辺りは以前頂いた、けいさんの質疑回答にも繋がっていきますのでまた追々お話しさせて貰います。然しながら入我我入と共に、この点は中々言葉や文字では真意が伝えられないんですねぇ。
だから平田現住職も前住職の意向通り、御利益を得た方しか大聖歓喜天使呪法経は読ませない・・と云うスタンスをお取りになっているやも知れません。それでも誤解を恐れず何とか皆さんにお伝えしてゆく、それもまた食み出しモンの私の役目でありましょう。
この功徳を以って、遍く一切に及ぼし
愚かなる我と我ら有情と皆共に仏道を成じ
願わくば愚願すら叶え給えつつ尊き道へと導きたまわん
頭面接足帰命禮(ずめんせっそくきみょうらい)
愚者必救済 愚願必成就 唯一絶対神
南無大自在大聖大悲歓喜雙身天王
本日もご訪問おおきに、
ご愛読有難う御座いました。
感謝合掌
北斗 法蓮 百拝
2010年05月30日
ご存知のように私は今、毎日三座の勤行を努めております。
私には聖天さまが中心佛ですから、すべての座において、
聖天さまのご真言を、それぞれ千遍ずつお唱えしております。
聖天さまのご真言っちゅうのは通常、
『おん・きり・ぎゃく・うん・そわか』で宜しいんでっけど
これは本来、単身像の聖天さまに捧げるご真言でおます。
単身っちゅうのは、お姿がお一人っちゅうことです。
インド本国では所謂ガネーシャでんな。今でも大変信仰の厚い
大人気の神様の一人ですが、ガネーシャの場合は圧倒的に単身
像です。
多面多臂(ためんたひ=顔や手がようけある)の像はあっても、
聖天さまがお二人並ぶ、或いは抱擁し合う雙身(そうしん)像は、
我が国独自に発展したものか、それとも本国ではもう流行らんの
か。いずれにしても、あんまり現在のインドではお見かけ致しま
へん。
我が国においては、聖天さまのお名前を本来は
大自在大聖大悲歓喜雙身天王さまと申します。
(だいじざいだいしょうだいひかんぎそうしんてんのう)
エライ長いお名前でんな。そやさかい、御呼びし易いように亦、
親しみと尊厳を込めて間の文字をとって、聖天さま、歓喜天さま
と御呼びします。
このように、ご本名を"雙身"と申しますことからも、我が国では
雙身像の聖天さまが多く祀られてる風に推測されます。
ほとんどが秘仏なので、お姿を拝謁することは出来まへんけどね。

余談ですがこの写真は、妻沼聖天さまの正門入り口にある、古い
案内標識で、聖天さまはこの標識にあるように、(しょうてん)
ではなく、(しょうでん)と濁って発音します。
歓喜天も(かんき)やなしに、(かんぎ)です。
特に歓喜は、"〜に歓喜する"っちゅう言葉がありますからつい、
(かんき)と発音してしまいがちですけどね。
まーどっちでもいいんですが・・・いや、ええことあれへんか。
すんません、聖天さまw。
ご本尊に雙身像を観想してお祀りする場合、ご真言は
『おん・ぎゃくぎゃく・きり・おん・か・うん・はった』。
我が家では、ずっと単身像の聖天さまをお祀りして参りましたが、
先日、ひょんな事からもう一体(と表現してええのか?どうか)
祭壇にお越しになられたのです。
まるで娘が嫁に行ったように、申し合わせたように
花嫁衣裳の撮影日の夜、婿と娘と家内と四人で食事した後に
・・・です。
あ・・ひと言だけ申しあげときますが、
聖天さまの御仏像は、聖天行者でない限り通常、在家ではお祀り
せん方がええと云われてます。
これについては、何度か過去記事に書かせてもぉたと思いますが、
我が家の聖天像は、親指の爪ぐらいの小さな小さな御仏像です。
これくらいやったら、私のような愚僧でもお祀りしきれるかなと。
ついでに申し上げときますと、二体とも買い求めたのではおまへん。
お金出して対価として、物品を受け取るんは結縁とは思いまへんので。
新たにお越しになられた聖天像も、先のものより更にやや背丈が
小さく、丁度夫婦(めおと)のように並ばれてます。そやから、
この聖天像は御后(おきさき)さまでんな。
ご成婚、誠におめでとう御座います。と、お迎えさせて貰いました。
前置きが、どエライ長ぉなりましたが、そんなこんなで
我が家の聖天さまがご成婚なされて、雙身像となり申したので、
お唱えするご真言も、雙身像に対するものの方がええと思いまして。
今までは、三座とも『おん・きり・ぎゃく・うん・そわか』
でしたが、その日以来、夕刻の二座目だけ『おん・ぎゃくぎゃ
く・きり・おん・か・うん・はった』と、お唱えしとります。
なんで二座目だけやねん?
いえ。あのぉ〜・・・な・長いんでw。
単身用ですと、概ね千遍で10分ぐらい。
百遍で1分なんですが、雙身用ですと百遍が2分30秒。
即ち、千遍で25分かかります。
単に長さで云えば、虚空蔵求聞持法・百万遍を厳修した際に
散々唱えておりました、虚空蔵菩薩のご真言『のう・ぼう・あき
ゃしゃ・ぎゃらばや・おん・ありきゃ・まり・ぼり・そわか』の
方が、よほどメッチャ長いんですが、あの時は右脳で唱えておっ
たので、どんな真言も類を見ない最速でした。
が、まだまだ聖天さまの雙身像のご真言は、左脳を抜け切らず
そこまでの速度が全然出せまへん。
あの時はそれこそ、何時間もぶっ通しで延々唱えておりましたが、
今は勤行中とはいえ、たった25分間に千遍唱えるのも、ひぃー
ひぃー云いながらやっとります。
今思い返すと、よぉやったなぁ〜百万遍。・。そない思います。
それでは今回はこの辺で。毎度おおきに。
本日もご訪問、ご愛読誠に有難う御座いました。
天地宇宙、全世界万民平等平和幸福
共存共栄共生共愛共支共助 悉知成就
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
〜編集後記〜
続きを読む
私には聖天さまが中心佛ですから、すべての座において、
聖天さまのご真言を、それぞれ千遍ずつお唱えしております。
聖天さまのご真言っちゅうのは通常、
『おん・きり・ぎゃく・うん・そわか』で宜しいんでっけど
これは本来、単身像の聖天さまに捧げるご真言でおます。
単身っちゅうのは、お姿がお一人っちゅうことです。
インド本国では所謂ガネーシャでんな。今でも大変信仰の厚い
大人気の神様の一人ですが、ガネーシャの場合は圧倒的に単身
像です。
多面多臂(ためんたひ=顔や手がようけある)の像はあっても、
聖天さまがお二人並ぶ、或いは抱擁し合う雙身(そうしん)像は、
我が国独自に発展したものか、それとも本国ではもう流行らんの
か。いずれにしても、あんまり現在のインドではお見かけ致しま
へん。
我が国においては、聖天さまのお名前を本来は
大自在大聖大悲歓喜雙身天王さまと申します。
(だいじざいだいしょうだいひかんぎそうしんてんのう)
エライ長いお名前でんな。そやさかい、御呼びし易いように亦、
親しみと尊厳を込めて間の文字をとって、聖天さま、歓喜天さま
と御呼びします。
このように、ご本名を"雙身"と申しますことからも、我が国では
雙身像の聖天さまが多く祀られてる風に推測されます。
ほとんどが秘仏なので、お姿を拝謁することは出来まへんけどね。
余談ですがこの写真は、妻沼聖天さまの正門入り口にある、古い
案内標識で、聖天さまはこの標識にあるように、(しょうてん)
ではなく、(しょうでん)と濁って発音します。
歓喜天も(かんき)やなしに、(かんぎ)です。
特に歓喜は、"〜に歓喜する"っちゅう言葉がありますからつい、
(かんき)と発音してしまいがちですけどね。
まーどっちでもいいんですが・・・いや、ええことあれへんか。
すんません、聖天さまw。
ご本尊に雙身像を観想してお祀りする場合、ご真言は
『おん・ぎゃくぎゃく・きり・おん・か・うん・はった』。
我が家では、ずっと単身像の聖天さまをお祀りして参りましたが、
先日、ひょんな事からもう一体(と表現してええのか?どうか)
祭壇にお越しになられたのです。
まるで娘が嫁に行ったように、申し合わせたように
花嫁衣裳の撮影日の夜、婿と娘と家内と四人で食事した後に
・・・です。
あ・・ひと言だけ申しあげときますが、
聖天さまの御仏像は、聖天行者でない限り通常、在家ではお祀り
せん方がええと云われてます。
これについては、何度か過去記事に書かせてもぉたと思いますが、
我が家の聖天像は、親指の爪ぐらいの小さな小さな御仏像です。
これくらいやったら、私のような愚僧でもお祀りしきれるかなと。
ついでに申し上げときますと、二体とも買い求めたのではおまへん。
お金出して対価として、物品を受け取るんは結縁とは思いまへんので。
新たにお越しになられた聖天像も、先のものより更にやや背丈が
小さく、丁度夫婦(めおと)のように並ばれてます。そやから、
この聖天像は御后(おきさき)さまでんな。
ご成婚、誠におめでとう御座います。と、お迎えさせて貰いました。
前置きが、どエライ長ぉなりましたが、そんなこんなで
我が家の聖天さまがご成婚なされて、雙身像となり申したので、
お唱えするご真言も、雙身像に対するものの方がええと思いまして。
今までは、三座とも『おん・きり・ぎゃく・うん・そわか』
でしたが、その日以来、夕刻の二座目だけ『おん・ぎゃくぎゃ
く・きり・おん・か・うん・はった』と、お唱えしとります。
なんで二座目だけやねん?
いえ。あのぉ〜・・・な・長いんでw。
単身用ですと、概ね千遍で10分ぐらい。
百遍で1分なんですが、雙身用ですと百遍が2分30秒。
即ち、千遍で25分かかります。
単に長さで云えば、虚空蔵求聞持法・百万遍を厳修した際に
散々唱えておりました、虚空蔵菩薩のご真言『のう・ぼう・あき
ゃしゃ・ぎゃらばや・おん・ありきゃ・まり・ぼり・そわか』の
方が、よほどメッチャ長いんですが、あの時は右脳で唱えておっ
たので、どんな真言も類を見ない最速でした。
が、まだまだ聖天さまの雙身像のご真言は、左脳を抜け切らず
そこまでの速度が全然出せまへん。
あの時はそれこそ、何時間もぶっ通しで延々唱えておりましたが、
今は勤行中とはいえ、たった25分間に千遍唱えるのも、ひぃー
ひぃー云いながらやっとります。
今思い返すと、よぉやったなぁ〜百万遍。・。そない思います。
それでは今回はこの辺で。毎度おおきに。
本日もご訪問、ご愛読誠に有難う御座いました。
天地宇宙、全世界万民平等平和幸福
共存共栄共生共愛共支共助 悉知成就
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
〜編集後記〜
続きを読む
2010年04月13日
ハトさん、初めまして。
皆さん、ご無沙汰しとります。
ご機嫌麗しゅう。私が北斗法蓮でおます。
さて表題の記事は、どエライ前に下書きしとったもんです。
今回、ハトさんが体調芳しくなく参詣に参れないとの事ですんでええ機会やと思いまして、ハトさんへの手紙っちゅうお返事も含めて書いてみたいと思います。
実は斯く云う私も、三月の上旬から持病の腰痛が酷ぉて2〜3週間、皆目動けん日が続きました。医者行って注射バスバス打っても薬飲んでも、ど〜にもこ〜にもなりまへん。
今までは横んなりさえすれば痛みも和らぎ、マイコルセットとマイ松葉杖で何とか仕事も出来たんですが、今回は寝返りも出来んぐらい酷ぅおもした。
こりゃ健常者であることの感謝の念を忘れて、ロクすっぽ運動もせんと文句ばっかり云うとるんで、聖天さまがお灸くれはったんやと。そない思い、反省して自重しとりました。
漸く四月に入り何とか治まり、やっぱ歩かんとアカン!思ぉて、なうでお伝えしましたが二千階段を登りに行ったら・・そのせいかどうか分かりまへんが、またここ数日激痛が走り難儀しとります。
まーまー、私の話はどーでもええんですけど、そんな訳で私も全然お参りに行けてまへん。そやけど毎日、キッチリ三座のお勤めは努めあげさして貰ぉてます。
その辺りのお話しをさして貰ぉたら、少しはハトさんのご参考になるかいなと。ま、そんな感じで今回は読んで戴けたら幸いでおます。
前以ってハトさんにはまず、ご安心頂きたいのですが・・
"お参りに行かんと願意は叶えられん" っちゅうことはおまへん。
ので、
"何とか体調のええ時だけでも家で拝みたい"
そのお気持ちだけで十分、尊天上様に思いは届きます。
更に私も本日よりご一緒に体調回復の祈願さして戴きますのでね。
そら日参っちゅうて、毎日キッチリ生駒の宝山寺や浅草の待乳山本龍院など、聖天さまを正しく祀られておる寺院への参詣が出来るに越したことはおまへんが、全国そこら中に欲油祈祷を毎日厳修しとる寺院はほとんどあらへんのが現状です。
増してご体調が優れんっちゅうことでしたら、致し方ないことです。健康であるにも感謝もせず、日参しとるからっちゅうて、どヒマに任せて他にな〜〜んも尊天上様の喜ばれることをしとらん人の、或いは私利私欲まみれる願意を優先的に叶えられるほど、聖天さまの目は曇っておられまへん。
では肝心の拝み方ですけど。
初めてコメント戴いた方やし、ハトさんがどの程度の勤行次第をご存知か分かりまへんので、今回は大まかにお話しさして貰いますね。
【自宅で聖天さまを祀る方法】
1、尊天上様(聖天さま)を安置する
これは"拝む対象として"と云うことです。お札やお守りで十分です。本地佛である十一面観音さまでも構いまへん。
お仏像は聖天さまに限り、在家が所持するものではなく、僧侶であっても正しく祀れなければ、お堂ごと閉鎖するぐらいですのでお求めになるのはやめときまひょう。
これを所謂、偶像支配と称する人もいてますが、教会にあるマリア像や十字架のイエス像に跪くのと同じで、何かしら拝む対象物があった方が人間分かり易いですから。
但し、仏像にせよ御札にせよ、目に見えるそのものに霊能力がある訳もなく、方便として目に見えるものを通してその向こうに聖天さまとの御心を通じ合わせんとあきまへん。即身成仏⇒入我我入でんな。
これを感応同行(かんのんどうこう)と申します。御札などは要するにそこへ至る為のただのツールですが、踏んづけたりブン投げたりしてええ訳もおまへんけどね。本物の御札や開眼された仏像には、行者の念が篭められておりますんでね。まーそないな事やる人おらんと思いまっけどw。
場所は神棚、仏壇がもし既にあれば、そこには何かしら祀られておる筈ですので、そこは避けて下さい。要はそれを家と例えたら、聖天さまは他の神仏と同居させたらアカンっちゅうことです。
今後も聖天信仰を続けられるなら、なるべくは中心佛として場の中央且つ別格(座を高くするとか)に扱うように安置して下さい。
2、聖天さまを供養する⇒六波羅蜜道(ろっぱらみつどう)を行う
まず、供養とは何か?っちゅうと、お墓参り行ったり法事したり所謂、先祖供養だけが供養ではおまへん。"大切に尊ぶ"っちゅうことですから、家族を大事にしてはる人は家族を供養してることになりますし、尊敬してる師に従えてる人が師を尊ぶのも同じです。
尊天上様は尋常ではない功徳を私たちにお授け下さいますが、例えば貴方が人間から言葉で言い表せぬような、とても御礼し尽くせないような親切や恩を受けたらどないしまっか?
能く、"足向けて寝れまへんわぁ〜"とか云いますよね?まーそれい近いっちゅうか、想像しうる何十倍何百倍も尊ぶべき神仏と心得るっちゅうことです。
分かり易ぅ云うと、"正に崇拝に念を以って王様に平伏す"・・ような感覚で接するっちゅうことでんな。日常の挨拶は無論云うまでもなく、報告相談日々の感謝から、食事の際は絶対に自分が先に食べたりせんとかね。相手を超尊敬する人や大事な人と思えば自然にそう接することが出来るんやないでしょうかね。
それが供養です。
次に六波羅蜜道ですが・・
京都チャリンコ巡礼でご紹介した、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)っちゅうのが京都におましたね。あのお寺名の由来でもおます。"ろくはらみつ"、"ろっぱらみつ"。まー読み方はどっちでも構いまへん、細かいことは気にせんと。
これは六度の行(ろくどのぎょう)と申しまして、キッチリ説明したら長ぉなりますが簡単に云うと、仏教では人が死ぬと生前の業(ごう)に応じて十界に行くと考えられております。因みに仏教で云う、"度"とは回数ではなく"道"と考えると分かり易いです。四度加行も四つの道です。
この内、生きとる人間にも適用されるんが六道っちゅうて、六つの迷いの世界です。人は鬼にもなれば仏にもなる、表裏一体の揺れ動く心模様を表してるんですね。
六道についてもいつぞや書かせて貰ぉたと思いますけど・・ちょっとリンクしよう思うたけど見つかりまへんw ご興味あれば探して見て下さい。
なんせ、その六道に陥った人を救う手立てが、六道の行っちゅうことです。これは悟りの世界へ行く六つの道ですから早い話し、誰かてこの六波羅蜜道をゆくことによって仏になれるのでありまして、即ちそれはそのまま"菩薩行(ぼさつぎょう)"っちゅうことになります。
色々書きましたがなんも難しいことはおまへん。
きっとなんやそうか?それでええんかい?
そんなんとっくに知っとるっちゅうねん!
そう云うと思いますよw。
ほな具体的にどないすんねん?
はい、こないしたらええんです。
六波羅蜜道の行い方(菩薩行)
↓
壱、布施(ふせ)の徳
どないする?⇒朝、一番のお水と茶湯を供える
何が菩薩行?⇒物惜しみする心を払拭し、感謝の心で社会に尽くす道をゆく行。
弐、持戒(じかい)の徳
どないする?⇒塗香を手や首、右肩、腹に塗って淨める。
何が菩薩行?⇒悪事を控え善意を施すために励む道をゆく行。
参、忍辱(にんにく)の徳
どないする?⇒お花を供える

特に聖天さまには"華水供(けすいく)"が良いとされる。
難しいことはない、能くある対の花瓶の他に聖天さまだけに供える美しいお花をガラス皿などに浮かべてお供えすれば良い。これが在家でも毎日出来る、聖天さまが最も喜ばれる供養。
何が菩薩行?⇒怒りやすい人の心を静める道をゆく行。
四、精進(しょうじん)の徳
どないする?⇒お線香を焚く
何が菩薩行?⇒怠け心を忙殺する道をゆく行。
五、禅定(ぜんじょう)の徳
どないする?⇒御飯を供える
何が菩薩行?⇒散り散りに為り易い心をまとめ安定させる道をゆく行。
六、知恵の徳
どないする?⇒お灯明を供える
何が菩薩行?⇒愚かなる暗き心を愛の知恵で明るく灯す道をゆく行。
ま、こんな感じです。
お仏壇が既にある人なら全部やってるようなことでしょ?
菩薩行、六つの道をゆくことを顕しておるんが、それぞれのお供えっちゅうことでんな。
ただ、多くの人がやってる同じことでも、お仏壇の前に座したとき、"自分は六度の行を行っているんや"、"これはご供養であり菩薩行なんや、立派に努めんと。" とまー、こない理解してそない踏まえて臨むのと、ただチーンと鐘鳴らしてだけとは全然ちゃいますからね。
更に云えば、他の諸神諸仏と混合して御祀りしとる場合特に、お金が足らんでお供えもんが少ししか買えんかったり、たまたまキレイなお花が安かったり、美味しそうな茶菓子を見つけたり、そんな時でも構しまへんから、聖天さまにだけは、"最優先的"にお供えしてあげましょう。
そんな小さな日々の供養の積み重ねが、"お慕い申し上げております。" "とても大切に思っております。" 即ち、大事に思ぉてます=供養しております。っちゅうことに繋がっていきます。
人を真に愛する気持ちがあれば誰でも出来ます。
いつも、どこでも、どんなときでも、いつまでも・・
Always love you,ever forever no matter what・・・っちゅうことです。
お供えの他には毎日、出来れば朝晩の二座。
無理ならば朝だけとか、ハトさんのように御身体が優れなければ勿論、体調の良いときだけでも構いまへんから、読経するのが良いでしょう。
お経を読むのも辛いなら、ただ聖天さまの御真言を一心にベッドの中でも唱えるだけでも構いまへん。どんなお経を読めばいいのか?その辺も全然分からへん、っちゅうことでしたらまたコメント戴ければと思います。
それでは今回はこの辺で。毎度おおきに。
本日もご訪問、ご愛読誠に有難う御座いました。
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
天地宇宙、全世界万民平等平和幸福
共存共栄共生共愛共支共助 悉知成就
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皆さん、ご無沙汰しとります。
ご機嫌麗しゅう。私が北斗法蓮でおます。
さて表題の記事は、どエライ前に下書きしとったもんです。
今回、ハトさんが体調芳しくなく参詣に参れないとの事ですんでええ機会やと思いまして、ハトさんへの手紙っちゅうお返事も含めて書いてみたいと思います。
実は斯く云う私も、三月の上旬から持病の腰痛が酷ぉて2〜3週間、皆目動けん日が続きました。医者行って注射バスバス打っても薬飲んでも、ど〜にもこ〜にもなりまへん。
今までは横んなりさえすれば痛みも和らぎ、マイコルセットとマイ松葉杖で何とか仕事も出来たんですが、今回は寝返りも出来んぐらい酷ぅおもした。
こりゃ健常者であることの感謝の念を忘れて、ロクすっぽ運動もせんと文句ばっかり云うとるんで、聖天さまがお灸くれはったんやと。そない思い、反省して自重しとりました。
漸く四月に入り何とか治まり、やっぱ歩かんとアカン!思ぉて、なうでお伝えしましたが二千階段を登りに行ったら・・そのせいかどうか分かりまへんが、またここ数日激痛が走り難儀しとります。
まーまー、私の話はどーでもええんですけど、そんな訳で私も全然お参りに行けてまへん。そやけど毎日、キッチリ三座のお勤めは努めあげさして貰ぉてます。
その辺りのお話しをさして貰ぉたら、少しはハトさんのご参考になるかいなと。ま、そんな感じで今回は読んで戴けたら幸いでおます。
前以ってハトさんにはまず、ご安心頂きたいのですが・・
"お参りに行かんと願意は叶えられん" っちゅうことはおまへん。
ので、
"何とか体調のええ時だけでも家で拝みたい"
そのお気持ちだけで十分、尊天上様に思いは届きます。
更に私も本日よりご一緒に体調回復の祈願さして戴きますのでね。
そら日参っちゅうて、毎日キッチリ生駒の宝山寺や浅草の待乳山本龍院など、聖天さまを正しく祀られておる寺院への参詣が出来るに越したことはおまへんが、全国そこら中に欲油祈祷を毎日厳修しとる寺院はほとんどあらへんのが現状です。
増してご体調が優れんっちゅうことでしたら、致し方ないことです。健康であるにも感謝もせず、日参しとるからっちゅうて、どヒマに任せて他にな〜〜んも尊天上様の喜ばれることをしとらん人の、或いは私利私欲まみれる願意を優先的に叶えられるほど、聖天さまの目は曇っておられまへん。
では肝心の拝み方ですけど。
初めてコメント戴いた方やし、ハトさんがどの程度の勤行次第をご存知か分かりまへんので、今回は大まかにお話しさして貰いますね。
【自宅で聖天さまを祀る方法】
1、尊天上様(聖天さま)を安置する
これは"拝む対象として"と云うことです。お札やお守りで十分です。本地佛である十一面観音さまでも構いまへん。
お仏像は聖天さまに限り、在家が所持するものではなく、僧侶であっても正しく祀れなければ、お堂ごと閉鎖するぐらいですのでお求めになるのはやめときまひょう。
これを所謂、偶像支配と称する人もいてますが、教会にあるマリア像や十字架のイエス像に跪くのと同じで、何かしら拝む対象物があった方が人間分かり易いですから。
但し、仏像にせよ御札にせよ、目に見えるそのものに霊能力がある訳もなく、方便として目に見えるものを通してその向こうに聖天さまとの御心を通じ合わせんとあきまへん。即身成仏⇒入我我入でんな。
これを感応同行(かんのんどうこう)と申します。御札などは要するにそこへ至る為のただのツールですが、踏んづけたりブン投げたりしてええ訳もおまへんけどね。本物の御札や開眼された仏像には、行者の念が篭められておりますんでね。まーそないな事やる人おらんと思いまっけどw。
場所は神棚、仏壇がもし既にあれば、そこには何かしら祀られておる筈ですので、そこは避けて下さい。要はそれを家と例えたら、聖天さまは他の神仏と同居させたらアカンっちゅうことです。
今後も聖天信仰を続けられるなら、なるべくは中心佛として場の中央且つ別格(座を高くするとか)に扱うように安置して下さい。
2、聖天さまを供養する⇒六波羅蜜道(ろっぱらみつどう)を行う
まず、供養とは何か?っちゅうと、お墓参り行ったり法事したり所謂、先祖供養だけが供養ではおまへん。"大切に尊ぶ"っちゅうことですから、家族を大事にしてはる人は家族を供養してることになりますし、尊敬してる師に従えてる人が師を尊ぶのも同じです。
尊天上様は尋常ではない功徳を私たちにお授け下さいますが、例えば貴方が人間から言葉で言い表せぬような、とても御礼し尽くせないような親切や恩を受けたらどないしまっか?
能く、"足向けて寝れまへんわぁ〜"とか云いますよね?まーそれい近いっちゅうか、想像しうる何十倍何百倍も尊ぶべき神仏と心得るっちゅうことです。
分かり易ぅ云うと、"正に崇拝に念を以って王様に平伏す"・・ような感覚で接するっちゅうことでんな。日常の挨拶は無論云うまでもなく、報告相談日々の感謝から、食事の際は絶対に自分が先に食べたりせんとかね。相手を超尊敬する人や大事な人と思えば自然にそう接することが出来るんやないでしょうかね。
それが供養です。
次に六波羅蜜道ですが・・
京都チャリンコ巡礼でご紹介した、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)っちゅうのが京都におましたね。あのお寺名の由来でもおます。"ろくはらみつ"、"ろっぱらみつ"。まー読み方はどっちでも構いまへん、細かいことは気にせんと。
これは六度の行(ろくどのぎょう)と申しまして、キッチリ説明したら長ぉなりますが簡単に云うと、仏教では人が死ぬと生前の業(ごう)に応じて十界に行くと考えられております。因みに仏教で云う、"度"とは回数ではなく"道"と考えると分かり易いです。四度加行も四つの道です。
この内、生きとる人間にも適用されるんが六道っちゅうて、六つの迷いの世界です。人は鬼にもなれば仏にもなる、表裏一体の揺れ動く心模様を表してるんですね。
六道についてもいつぞや書かせて貰ぉたと思いますけど・・ちょっとリンクしよう思うたけど見つかりまへんw ご興味あれば探して見て下さい。
なんせ、その六道に陥った人を救う手立てが、六道の行っちゅうことです。これは悟りの世界へ行く六つの道ですから早い話し、誰かてこの六波羅蜜道をゆくことによって仏になれるのでありまして、即ちそれはそのまま"菩薩行(ぼさつぎょう)"っちゅうことになります。
色々書きましたがなんも難しいことはおまへん。
きっとなんやそうか?それでええんかい?
そんなんとっくに知っとるっちゅうねん!
そう云うと思いますよw。
ほな具体的にどないすんねん?
はい、こないしたらええんです。
六波羅蜜道の行い方(菩薩行)
↓
壱、布施(ふせ)の徳
どないする?⇒朝、一番のお水と茶湯を供える
何が菩薩行?⇒物惜しみする心を払拭し、感謝の心で社会に尽くす道をゆく行。
弐、持戒(じかい)の徳
どないする?⇒塗香を手や首、右肩、腹に塗って淨める。
何が菩薩行?⇒悪事を控え善意を施すために励む道をゆく行。
参、忍辱(にんにく)の徳
どないする?⇒お花を供える
特に聖天さまには"華水供(けすいく)"が良いとされる。
難しいことはない、能くある対の花瓶の他に聖天さまだけに供える美しいお花をガラス皿などに浮かべてお供えすれば良い。これが在家でも毎日出来る、聖天さまが最も喜ばれる供養。
何が菩薩行?⇒怒りやすい人の心を静める道をゆく行。
四、精進(しょうじん)の徳
どないする?⇒お線香を焚く
何が菩薩行?⇒怠け心を忙殺する道をゆく行。
五、禅定(ぜんじょう)の徳
どないする?⇒御飯を供える
何が菩薩行?⇒散り散りに為り易い心をまとめ安定させる道をゆく行。
六、知恵の徳
どないする?⇒お灯明を供える
何が菩薩行?⇒愚かなる暗き心を愛の知恵で明るく灯す道をゆく行。
ま、こんな感じです。
お仏壇が既にある人なら全部やってるようなことでしょ?
菩薩行、六つの道をゆくことを顕しておるんが、それぞれのお供えっちゅうことでんな。
ただ、多くの人がやってる同じことでも、お仏壇の前に座したとき、"自分は六度の行を行っているんや"、"これはご供養であり菩薩行なんや、立派に努めんと。" とまー、こない理解してそない踏まえて臨むのと、ただチーンと鐘鳴らしてだけとは全然ちゃいますからね。
更に云えば、他の諸神諸仏と混合して御祀りしとる場合特に、お金が足らんでお供えもんが少ししか買えんかったり、たまたまキレイなお花が安かったり、美味しそうな茶菓子を見つけたり、そんな時でも構しまへんから、聖天さまにだけは、"最優先的"にお供えしてあげましょう。
そんな小さな日々の供養の積み重ねが、"お慕い申し上げております。" "とても大切に思っております。" 即ち、大事に思ぉてます=供養しております。っちゅうことに繋がっていきます。
人を真に愛する気持ちがあれば誰でも出来ます。
いつも、どこでも、どんなときでも、いつまでも・・
Always love you,ever forever no matter what・・・っちゅうことです。
お供えの他には毎日、出来れば朝晩の二座。
無理ならば朝だけとか、ハトさんのように御身体が優れなければ勿論、体調の良いときだけでも構いまへんから、読経するのが良いでしょう。
お経を読むのも辛いなら、ただ聖天さまの御真言を一心にベッドの中でも唱えるだけでも構いまへん。どんなお経を読めばいいのか?その辺も全然分からへん、っちゅうことでしたらまたコメント戴ければと思います。
それでは今回はこの辺で。毎度おおきに。
本日もご訪問、ご愛読誠に有難う御座いました。
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
天地宇宙、全世界万民平等平和幸福
共存共栄共生共愛共支共助 悉知成就
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