弘法大師
2008年03月04日
「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」
「弘法大師聖語撰抄 上巻」より(秘蔵宝鑰・序論)
如何に繊細な詩人の魂をもっていたかを証する、これはあまりにも有名な空海の言葉。
弘法大師言語録 〜空海の言葉〜
訳文は、「心、驕(おご)れる者は、己れの総べてが正しいと思い、知恵無き者は、正しくものを見ることが出来ない。 然るに何度も生れ変わりながら、何処より生れ来たかった自分であるかを知らず、生まれては必ず死んでいながら、死の意味を知ることが出来ない」
空海は、自らの死期を悟ったとき、五穀や水を断ち、悠然と死の世界(生前世界)へ入っていきながら、
砕けば、「人は何度生き死にを繰り返えそうとも、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない」という感じだろうか。
自分の死期を自ら悟ったとき、五穀や水を断ち、悠然と死の世界(生前世界)へ入って行った空海は、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのか、を知らないまま、輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を、空海自身も己の姿の中にも見出そうとしたのではないか。
仏門に入らずとも、天涯孤独であろうと、身内が死んだり親しい友人が死んだり、人は少なからず生前中に必ず死と向き合う。
そして死を間近に感じ、死と直面し、死とは? 生とは?何かを己に問う。
金を稼いで高次元なセキュリティーを講じても、交通事故には遭う。
どんなに高価なサプリや漢方を施しても、絶対に不老不死はあり得ない。
この世で唯一、確実なことは人は死ぬと云うことかも知れない。
だから、死ぬ気でなにかに取り組もう。
なにかに取り組むなら、死ぬ気でやろう。
どうせ、人生一度限り。
男の生き様は、死に様と同じ。
男にとって、最も大切な物は生きる姿勢であり生き様である。
言葉や行動は、それを補足するために後から付いて来る。
自分が死んだ時、葬式の規模ではない、どんな人が弔問に訪れ
そのうち何人の人が、本当の心の泪を流してくれるのか?
それはすなわち、世に人にどれだけ尽くしたかという事ではないか。
このブログのプロローグは、訪れてくれた人へのエールでもあり、自分自身も常に忘れぬための戒めでもある。
一度生死を彷徨った経験のある人間は、例えそれまで自殺願望者であったとしても、生まれ変われるという。
死ぬ気で物事に向き合うことは、成し得るか否かが、死ぬか生きるかに掛かっている。 一念が真剣勝負であり、魂を燃やす尽くす全力投球なのだ。
貴殿は、己が魂を己自身の起爆剤で、紅蓮の炎の如く燃やしたことがあるだろうか。例え、一念一瞬でもいい、自らの魂を極限まで高め、活き活きと羽ばたこう。
宇宙の生命に比べれば、人の一生など屁でもない。
大宇宙が完全なる悟りゆえの大日如来であるならば、我々人間一人ひとりは実に尊い小宇宙の塊だ。
ならば、地球上の生命の頂点に立つ人間も完全完璧であり、ゆえに自己中心的な生き方しか本来は出来ぬはず。だから、生きてるだけでも誰かを傷つけ、誰かを貶める。
貴方に相思相愛の相手が居ても、貴方に想いを寄せている者も居れば、まだ逢えずに幸せになれない誰かも居るのだ。
それを認識してこそ、人は仏陀の教えを乞い知ろうとするのではないか。
自分の座右の銘でもある、釈尊の「天上天下唯我独尊」は、自分独りが唯一無比の絶対価値ではなく、全ての人間はみな平等に尊いのだ。 と、自分なりに解釈している。
「君はこの世でただ一人、君こそはかけがえない」
幼い頃、父がまだ家にいるときに、便所に張ってあった父の言葉。
天上天下唯我独尊に通ずるものを、云わんとしていたのではないだろうか。
今日がつまらなかったと思う人間は、自分を大事にしていない証拠。
一生に一度しかない、今日と云う日を無駄にしたのは、誰のせいでもない自分なのだ。 それにいつまでも気付かねば、明日も明後日も他力本願にしか、楽しい日々は永遠にやってこない。
せっかく親に貰った自分の人生、一日でも楽しいことが多いほうが良くないか? 自分は欲張りなので一日たりとも、つまらない日があると頭に来てしょーがない(笑。
因果応報というが、この世において、ことの結果に思いも寄らぬ事はあり得ない。
全て天地自然における摂理であり、人生に想定外は本来ないのだ。
全てそれらは、己にとって思い寄らぬだけで、自己中心的な思想に頼らず遠くから見れば、万事はなるべくして成り立っている。
どんなことでも起こり得る。と、思っておけば、何が起きようとも全て受け入れられる心構えが出来る。
つまり、うぬ我自身も我が子、我が家我が社も全て客観的に突き放して見れば、どんなことが起きようと驚くに値しない、何ら動じることはないのだ。
「宇宙一切は完なり(この世はすべて完璧だから)
故に自分の信ずる対極にある事も真実」 斎藤 道山
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」
「弘法大師聖語撰抄 上巻」より(秘蔵宝鑰・序論)
如何に繊細な詩人の魂をもっていたかを証する、これはあまりにも有名な空海の言葉。
弘法大師言語録 〜空海の言葉〜
訳文は、「心、驕(おご)れる者は、己れの総べてが正しいと思い、知恵無き者は、正しくものを見ることが出来ない。 然るに何度も生れ変わりながら、何処より生れ来たかった自分であるかを知らず、生まれては必ず死んでいながら、死の意味を知ることが出来ない」
空海は、自らの死期を悟ったとき、五穀や水を断ち、悠然と死の世界(生前世界)へ入っていきながら、
砕けば、「人は何度生き死にを繰り返えそうとも、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない」という感じだろうか。
自分の死期を自ら悟ったとき、五穀や水を断ち、悠然と死の世界(生前世界)へ入って行った空海は、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのか、を知らないまま、輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を、空海自身も己の姿の中にも見出そうとしたのではないか。
仏門に入らずとも、天涯孤独であろうと、身内が死んだり親しい友人が死んだり、人は少なからず生前中に必ず死と向き合う。
そして死を間近に感じ、死と直面し、死とは? 生とは?何かを己に問う。
金を稼いで高次元なセキュリティーを講じても、交通事故には遭う。
どんなに高価なサプリや漢方を施しても、絶対に不老不死はあり得ない。
この世で唯一、確実なことは人は死ぬと云うことかも知れない。
だから、死ぬ気でなにかに取り組もう。
なにかに取り組むなら、死ぬ気でやろう。
どうせ、人生一度限り。
男の生き様は、死に様と同じ。
男にとって、最も大切な物は生きる姿勢であり生き様である。
言葉や行動は、それを補足するために後から付いて来る。
自分が死んだ時、葬式の規模ではない、どんな人が弔問に訪れ
そのうち何人の人が、本当の心の泪を流してくれるのか?
それはすなわち、世に人にどれだけ尽くしたかという事ではないか。
このブログのプロローグは、訪れてくれた人へのエールでもあり、自分自身も常に忘れぬための戒めでもある。
一度生死を彷徨った経験のある人間は、例えそれまで自殺願望者であったとしても、生まれ変われるという。
死ぬ気で物事に向き合うことは、成し得るか否かが、死ぬか生きるかに掛かっている。 一念が真剣勝負であり、魂を燃やす尽くす全力投球なのだ。
貴殿は、己が魂を己自身の起爆剤で、紅蓮の炎の如く燃やしたことがあるだろうか。例え、一念一瞬でもいい、自らの魂を極限まで高め、活き活きと羽ばたこう。
宇宙の生命に比べれば、人の一生など屁でもない。
大宇宙が完全なる悟りゆえの大日如来であるならば、我々人間一人ひとりは実に尊い小宇宙の塊だ。
ならば、地球上の生命の頂点に立つ人間も完全完璧であり、ゆえに自己中心的な生き方しか本来は出来ぬはず。だから、生きてるだけでも誰かを傷つけ、誰かを貶める。
貴方に相思相愛の相手が居ても、貴方に想いを寄せている者も居れば、まだ逢えずに幸せになれない誰かも居るのだ。
それを認識してこそ、人は仏陀の教えを乞い知ろうとするのではないか。
自分の座右の銘でもある、釈尊の「天上天下唯我独尊」は、自分独りが唯一無比の絶対価値ではなく、全ての人間はみな平等に尊いのだ。 と、自分なりに解釈している。
「君はこの世でただ一人、君こそはかけがえない」
幼い頃、父がまだ家にいるときに、便所に張ってあった父の言葉。
天上天下唯我独尊に通ずるものを、云わんとしていたのではないだろうか。
今日がつまらなかったと思う人間は、自分を大事にしていない証拠。
一生に一度しかない、今日と云う日を無駄にしたのは、誰のせいでもない自分なのだ。 それにいつまでも気付かねば、明日も明後日も他力本願にしか、楽しい日々は永遠にやってこない。
せっかく親に貰った自分の人生、一日でも楽しいことが多いほうが良くないか? 自分は欲張りなので一日たりとも、つまらない日があると頭に来てしょーがない(笑。
因果応報というが、この世において、ことの結果に思いも寄らぬ事はあり得ない。
全て天地自然における摂理であり、人生に想定外は本来ないのだ。
全てそれらは、己にとって思い寄らぬだけで、自己中心的な思想に頼らず遠くから見れば、万事はなるべくして成り立っている。
どんなことでも起こり得る。と、思っておけば、何が起きようとも全て受け入れられる心構えが出来る。
つまり、うぬ我自身も我が子、我が家我が社も全て客観的に突き放して見れば、どんなことが起きようと驚くに値しない、何ら動じることはないのだ。
「宇宙一切は完なり(この世はすべて完璧だから)
故に自分の信ずる対極にある事も真実」 斎藤 道山
2007年09月29日
ふとした事で調べたら、群馬県内に「日本一の大黒さま」と称される、その名も「大黒神社」があるではないですか。
かれこれ、15年もの長き間、群馬に住み着いているにも関わらず、全く知りませんでした。無関心とは恐ろしいものです。
〜由緒〜
第五十二代嵯峨天皇の勅命により、弘仁九年(819年)大納言藤原冬嗣卿と弘法大師が登嶽し、大国主神出雲大社の御分社として、関東の霊域に奉斉されたと伝えられており、関東の出雲として世に知られる。
妙義山 中之嶽神社
〒370-2621 群馬県甘楽郡下仁田町大字上小坂1248
TEL:0274-82-5671
さて、この大黒神社は白雲山、金洞山、金鶏山の三つの山からなる上毛三山と云われる、妙義山にありました。
ここへ行こうと思った、もう一つの理由は、鎖を使うような険しい登山道があったからです。ネット上で調べてみると、正に過酷な行を強いられる小豆島八十八ヶ所の遍路道のようです。これは、遍路へ旅立つ前の良い予行練習になると、勇んでまいりました。
国道18号線を軽井沢方面へ向かい、松井田の先を左に曲がります。
お天気が悪かったこの日は途中、近づいてくる妙義山は頂上付近がうっそうと雲がかかり、もしかして悪路な登山道が登れないかも知れないな・・と心配していました。
18号から行くと、手前に妙義神社がありましたが、とりあえず先にある大黒神社を目指しました。
歩いても妙義神社と大黒神社は行き来できるそうで、ハイキングコースにもなっていました。車道で約5キロぐらいの道のりです。更に登っていくと、どんどん、雲や霧も濃くなってきます。
大黒神社の駐車場に着くと、他府県ナンバーの乗用車にバスもチラホラと。奥にあったトイレで用を済ませ、振り向くと妙義山を背に神社の境内には、巨大な黄金色の大黒様が見えました。妙義山にかかる雲は流れが速く、大黒さまごと霊気に包まれているようでした。

この駐車場から、車道を戻る形で400メートルほど歩くと、「石門めぐり」と云われる登山口がありました。が、しかし先日の台風9号の影響で土砂崩れを起こしたらしく、その旨の書かれた立看板があって、封鎖されていました。実は、出発前に下仁田郡ローカルのサイトで、警告があったのですが、週末なので役所や観光案内に問合せられず、来るだけ来てみましたがやはりダメでした。残念です。

本来は、この石門めぐりをして山を1時間以上歩いて、上から大黒神社へ辿り着くルートを選んだのですが、登山練習を諦め仕方なしに、大黒神社へ戻りました。
「日本一の大黒さま」は、間近で見るより駐車場から遠目で見たときの方が、大きく見えました。傍だと、高崎の白衣観音像の方が大きいですね。でも、大黒さまはとても大らかなお顔をされていました。

大黒神社本殿から、左手に急な石段があり、数えて約147段。その上が中之嶽神社だそうです。石段の上り口には、不動明王さまが鎮座しておられました。

石段を登りきると、社があり右手が「見晴台」と呼ばれる登山道のルートなのですが、ここも残念ながら閉鎖されていました。
右へ行くと、「轟岩」と書かれた案内がありましたが、今回の目的から外れてしまうので次回の機会にと、大黒神社をあとにして帰りに妙義神社へ立ち寄りました。
妙義神社の駐車場は道の駅になっていましたが、その建物の裏側が台風の影響か、大きく削り取られて道の駅ごと、50メートルほど下へ落下しそうな勢いでした。
早く補修工事しないと非常に危険に見えましたが、中ではフツーにおばさん達が働いてました。大丈夫なのでしょうか・・・
妙義神社も結構な勾配を登って、社に辿り着くと更に上にある本社へも
台風の影響で通行止めとなっており、代わりに 旧宮様御殿(現在は社務所)を参拝するようにとの立て札がありました。こちらも残念でした。
かれこれ、15年もの長き間、群馬に住み着いているにも関わらず、全く知りませんでした。無関心とは恐ろしいものです。
〜由緒〜
第五十二代嵯峨天皇の勅命により、弘仁九年(819年)大納言藤原冬嗣卿と弘法大師が登嶽し、大国主神出雲大社の御分社として、関東の霊域に奉斉されたと伝えられており、関東の出雲として世に知られる。
妙義山 中之嶽神社
〒370-2621 群馬県甘楽郡下仁田町大字上小坂1248
TEL:0274-82-5671
さて、この大黒神社は白雲山、金洞山、金鶏山の三つの山からなる上毛三山と云われる、妙義山にありました。
ここへ行こうと思った、もう一つの理由は、鎖を使うような険しい登山道があったからです。ネット上で調べてみると、正に過酷な行を強いられる小豆島八十八ヶ所の遍路道のようです。これは、遍路へ旅立つ前の良い予行練習になると、勇んでまいりました。
国道18号線を軽井沢方面へ向かい、松井田の先を左に曲がります。
お天気が悪かったこの日は途中、近づいてくる妙義山は頂上付近がうっそうと雲がかかり、もしかして悪路な登山道が登れないかも知れないな・・と心配していました。
18号から行くと、手前に妙義神社がありましたが、とりあえず先にある大黒神社を目指しました。
歩いても妙義神社と大黒神社は行き来できるそうで、ハイキングコースにもなっていました。車道で約5キロぐらいの道のりです。更に登っていくと、どんどん、雲や霧も濃くなってきます。
大黒神社の駐車場に着くと、他府県ナンバーの乗用車にバスもチラホラと。奥にあったトイレで用を済ませ、振り向くと妙義山を背に神社の境内には、巨大な黄金色の大黒様が見えました。妙義山にかかる雲は流れが速く、大黒さまごと霊気に包まれているようでした。
この駐車場から、車道を戻る形で400メートルほど歩くと、「石門めぐり」と云われる登山口がありました。が、しかし先日の台風9号の影響で土砂崩れを起こしたらしく、その旨の書かれた立看板があって、封鎖されていました。実は、出発前に下仁田郡ローカルのサイトで、警告があったのですが、週末なので役所や観光案内に問合せられず、来るだけ来てみましたがやはりダメでした。残念です。
本来は、この石門めぐりをして山を1時間以上歩いて、上から大黒神社へ辿り着くルートを選んだのですが、登山練習を諦め仕方なしに、大黒神社へ戻りました。
「日本一の大黒さま」は、間近で見るより駐車場から遠目で見たときの方が、大きく見えました。傍だと、高崎の白衣観音像の方が大きいですね。でも、大黒さまはとても大らかなお顔をされていました。
大黒神社本殿から、左手に急な石段があり、数えて約147段。その上が中之嶽神社だそうです。石段の上り口には、不動明王さまが鎮座しておられました。
石段を登りきると、社があり右手が「見晴台」と呼ばれる登山道のルートなのですが、ここも残念ながら閉鎖されていました。
右へ行くと、「轟岩」と書かれた案内がありましたが、今回の目的から外れてしまうので次回の機会にと、大黒神社をあとにして帰りに妙義神社へ立ち寄りました。
妙義神社の駐車場は道の駅になっていましたが、その建物の裏側が台風の影響か、大きく削り取られて道の駅ごと、50メートルほど下へ落下しそうな勢いでした。
早く補修工事しないと非常に危険に見えましたが、中ではフツーにおばさん達が働いてました。大丈夫なのでしょうか・・・
妙義神社も結構な勾配を登って、社に辿り着くと更に上にある本社へも
台風の影響で通行止めとなっており、代わりに 旧宮様御殿(現在は社務所)を参拝するようにとの立て札がありました。こちらも残念でした。
2007年08月19日
虚空蔵求聞持法とは、十三仏の中で三十三回忌を司り
広大無辺の福徳・知恵の功徳を蔵する菩薩。
また、寅年生まれ十二支守り本尊でもある
虚空蔵菩薩(梵名アーカーシャガルバ)のご真言
(ナゥボゥアカシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ)
を100万回唱えると、様々なご利益、功徳が得られると云われているものです。
簡単に一言で、100万回といいますが
まさに苦行に他なりません。
冷たい滝に打たれるとか、断食するとか
そんな修行に比べると、ただ唱えるだけの方が
相当に楽に感じますが、どっこいそんな事はありません。
単純計算しても、一日1万回唱えても100日。
2万回でも50日。1000回なら約一年毎日続けなくてはなりません。
(ナゥボゥアカシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ)
ただでさえ、舌をかみそうなこの長いご真言を
先達者たちは、驚異的な速さで読み上げます。
愚僧も10万回を目前に随分慣れてはきましたが
始めは相当時間がかかりました。
今でも、1000回を連続して唱えるのは
かなり気力を必要とします。
その内、分かってくるというか体感しますが
右脳で唱えてると、速度は驚異的に速まります。
慣れれば左脳でも、早く唱えることは出来ますが
右脳の比ではありません。
うまく右脳につながっているとき、
全く無意識でも、すごい速さで唱えられますが
突然、自分の意識とは無関係に、プラグが外れたように左脳へ
いってしまうと、どもったり、詰まったり、スピードも落ちてきます。
それほど、右脳の力は未知の潜在能力を秘めていそうです。
虚空蔵菩薩の「虚空」とは無量の意で、お大師様のご誓願にも
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん。」とあります。
言葉を砕くとこういう意味です。
「虚空が尽きるまで、迷える衆生が尽きるまで、さとり(衆生を救う行)の尽きるまで、永遠に仏に祈りつづけたい。空、衆生、さとりが尽きれば、わたくしの願いも尽きるであろう。」
砕いても私のような愚憎には難しいですね。
さらに難しい専門的な記述によれば、
虚空蔵菩薩の経典と信仰 虚空蔵菩薩の信仰は虚空蔵求聞持法が
8世紀初め頃伝えられてから盛んに信仰されたそうです。
虚空蔵求聞持法は虚空蔵菩薩を念じて記憶力を得るもので、空海の
「三教指帰(さんきょうしいき)」に、この真言百万編を誦すれば大変な
暗記力を得られるとあり、空海もこの修法をされました。
智慧や暗記力ばかりか、あらゆる財宝を得られる功徳、所願成就の功徳が
あるとされ、日蓮は12才の時「日本第一の智者となさしめ給へ」と
21日間願掛けされて虚空蔵菩薩様から宝珠を頂かれました。
とあります。
広大無辺の福徳・知恵の功徳を蔵する菩薩。
また、寅年生まれ十二支守り本尊でもある
虚空蔵菩薩(梵名アーカーシャガルバ)のご真言
(ナゥボゥアカシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ)
を100万回唱えると、様々なご利益、功徳が得られると云われているものです。
簡単に一言で、100万回といいますが
まさに苦行に他なりません。
冷たい滝に打たれるとか、断食するとか
そんな修行に比べると、ただ唱えるだけの方が
相当に楽に感じますが、どっこいそんな事はありません。
単純計算しても、一日1万回唱えても100日。
2万回でも50日。1000回なら約一年毎日続けなくてはなりません。
(ナゥボゥアカシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ)
ただでさえ、舌をかみそうなこの長いご真言を
先達者たちは、驚異的な速さで読み上げます。
愚僧も10万回を目前に随分慣れてはきましたが
始めは相当時間がかかりました。
今でも、1000回を連続して唱えるのは
かなり気力を必要とします。
その内、分かってくるというか体感しますが
右脳で唱えてると、速度は驚異的に速まります。
慣れれば左脳でも、早く唱えることは出来ますが
右脳の比ではありません。
うまく右脳につながっているとき、
全く無意識でも、すごい速さで唱えられますが
突然、自分の意識とは無関係に、プラグが外れたように左脳へ
いってしまうと、どもったり、詰まったり、スピードも落ちてきます。
それほど、右脳の力は未知の潜在能力を秘めていそうです。
虚空蔵菩薩の「虚空」とは無量の意で、お大師様のご誓願にも
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん。」とあります。
言葉を砕くとこういう意味です。
「虚空が尽きるまで、迷える衆生が尽きるまで、さとり(衆生を救う行)の尽きるまで、永遠に仏に祈りつづけたい。空、衆生、さとりが尽きれば、わたくしの願いも尽きるであろう。」
砕いても私のような愚憎には難しいですね。
さらに難しい専門的な記述によれば、
虚空蔵菩薩の経典と信仰 虚空蔵菩薩の信仰は虚空蔵求聞持法が
8世紀初め頃伝えられてから盛んに信仰されたそうです。
虚空蔵求聞持法は虚空蔵菩薩を念じて記憶力を得るもので、空海の
「三教指帰(さんきょうしいき)」に、この真言百万編を誦すれば大変な
暗記力を得られるとあり、空海もこの修法をされました。
智慧や暗記力ばかりか、あらゆる財宝を得られる功徳、所願成就の功徳が
あるとされ、日蓮は12才の時「日本第一の智者となさしめ給へ」と
21日間願掛けされて虚空蔵菩薩様から宝珠を頂かれました。
とあります。



















