京都
2009年12月21日
はいはい
確かに20日は、わて京都に居りましたで。
えーえー
間違いないあれしまへん。一人でしたよ。
決して、舞妓は〜ん♪とは、遊んでまへんえ。
祇園どころか、先斗町すら行かんと
ソッコー日帰りしたんやし。
エライ?えらい?
めっちゃえらいワシw
ったく・・ほんに
疑り深いお方が居てはるさかいねぇ〜(爆
おやまん
ナンか云うたってやぁw

私が京都に立ち寄ると
いつも買い求めるもののひとつに、
"酔香(えひか)" が、おます。
これは匂い香、懐中香と云って
いにしえ源氏の時代より、男の嗜みとして殿方らが
自ら合わせた香りを、衣に炷(た)きしめておったそうな。
源氏物語・若紫には、こう書かれております。
《源氏の君のお袖の追い風が、ひとしお妙に匂い渡りますので》
《奥に隠れている人々も、何となく胸を躍らせている様子です》
う〜〜ん・・
お袖に、君(きみ)・・、追い風・・
ひとしお・・匂い渡らせる・・
言葉のひとつひとつからしてもぉ・・
シビれまんなぁ〜妖艶でw
あ、そーいや私。
昔、光源氏みたいって云われましたわ。
なんでやろ?
諸星に似てへんことは確か。
あれよか男前w あ、その光源氏とちゃう?(爆
(あぁこれヤバいかなぁ・・また怒るかのぉ・・w)
まーまーそんなことを今更、狙っておるのではなくて
発心してから一切、それまで毎日着けておった香水止めたんで。
あの頃は、チェストの上の飾り棚に
そらもー、ズラズラと世界中の香水を並べて
その日の気分や、その日に会う◎◎◎の雰囲気に
帳尻合わせてとかって・・やってましたからね。
作務衣着るようになってからでんな。
こーゆー香りを好むようになったんは。
どの道あれでんがな、どうしても毎日勤行しとるんで
お線香や、塗香(ずこう)の匂いが体に付きまっしゃろ?
そやからこーゆー香りのが違和感のぉて自然に調和するんですわ。
発心する前は元より、
私にとって身に着ける香りとは、そーでんなぁ〜・・
幾つぐらいやろ?
多分、小学校ん頃から大切な必須アイテムでした。
今のように、そこ等辺の薬局やホームセンターでも
ブランドもんの香水が、簡単に手に入る時代とちゃいます。
今は誰でも知っとるアラミスですら、
当時、大阪梅田の阪急百貨店のオンリーショップに
わざわざ行かんと、手に入らんかったんです。
無論、今のようにタスカニーもデヴィンもオールウエィズもなく、
900すらありまへん。オールドタイプのアレだけでした。
ませてましたね。思いっきり。
女性用の香水も、そんとき流行ってるモンは
ほとんど香りだけで当ててましたなぁ。利き香水?w
因みに私、
女性用の香りで弱いんが、パウダー系ですねん。
これはナンか理由は分かれへんけど、
なんせクラクラするんですわ。猫のまたたびのようにw
そやからもし、
私とお遭いするような機会がありましたら
女性の方は、パウダー系はご遠慮下さい。
ぶっ倒れますんでw
話し戻して、
この、"酔香(えひか)" は、同志社大学の傍
京都御所西にある、山田松香木店のもの。
ここのが、ええ香りするんが多いでっせ。
香りも長いこと持続しまっさかい。
少々、香りが薄れても箪笥なんぞに仕舞うと、
密閉されておれば、まだまだ、"酔香(えひか)"は蘇りますし
また、大事な衣服の防虫効果も高ぉ御座います。
ネオパラエースとか、たんすにゴンよか
趣味趣向、宜しいでっしゃろ?w
丁字、大茴香、桂皮、白檀、龍脳など
十数種類の天然香が、程よくブレンドされてます。
源氏物語を彷彿させる、この艶めく静けさ・・
やめられまへんでw
基本、これは男性用ですが
無論、女性の方でも平気でおます。
っちゅうか、
この柄、男はムリやろうっちゅうのもありますしw
他にも巾着型や、携帯し易いスティック形、
また、皮のケースに入った、レザーサシェっちゅうのもおます。
私はいっつも、
自分でミシンで作った、例のお守り入れに忍ばせてます。
歩き遍路んときは、さすがに外してましたが。
汗でビシャビシャんなってまうんでね。

これは、また別の掛香っちゅうて
本来は、クローゼットなんかに吊るしとくんでっけど
私はこんな風に、クルマに吊ってます。お洒落やしね。
山田香木店はネットでも買えまっせ。
思いっきり忘れとったけど(爆 こちら
大切な女性(ひと)へ、あの男性(かた)へ
ちょいと贈りモンに如何でっか? 是非ペアでどうぞ♪
云うときまっけど別に私、毎度の如く
山田はんトコの回しモンとちゃいますからね。
多分これで
ナンボかは、売れると思うけどw
本日もご愛読、ご訪問
誠に有難う御座います。
毎度おおきに。
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
確かに20日は、わて京都に居りましたで。
えーえー
間違いないあれしまへん。一人でしたよ。
決して、舞妓は〜ん♪とは、遊んでまへんえ。
祇園どころか、先斗町すら行かんと
ソッコー日帰りしたんやし。
エライ?えらい?
めっちゃえらいワシw
ったく・・ほんに
疑り深いお方が居てはるさかいねぇ〜(爆
おやまん
ナンか云うたってやぁw

私が京都に立ち寄ると
いつも買い求めるもののひとつに、
"酔香(えひか)" が、おます。
これは匂い香、懐中香と云って
いにしえ源氏の時代より、男の嗜みとして殿方らが
自ら合わせた香りを、衣に炷(た)きしめておったそうな。
源氏物語・若紫には、こう書かれております。
《源氏の君のお袖の追い風が、ひとしお妙に匂い渡りますので》
《奥に隠れている人々も、何となく胸を躍らせている様子です》
う〜〜ん・・
お袖に、君(きみ)・・、追い風・・
ひとしお・・匂い渡らせる・・
言葉のひとつひとつからしてもぉ・・
シビれまんなぁ〜妖艶でw
あ、そーいや私。
昔、光源氏みたいって云われましたわ。
なんでやろ?
諸星に似てへんことは確か。
あれよか男前w あ、その光源氏とちゃう?(爆
(あぁこれヤバいかなぁ・・また怒るかのぉ・・w)
まーまーそんなことを今更、狙っておるのではなくて
発心してから一切、それまで毎日着けておった香水止めたんで。
あの頃は、チェストの上の飾り棚に
そらもー、ズラズラと世界中の香水を並べて
その日の気分や、その日に会う◎◎◎の雰囲気に
帳尻合わせてとかって・・やってましたからね。
作務衣着るようになってからでんな。
こーゆー香りを好むようになったんは。
どの道あれでんがな、どうしても毎日勤行しとるんで
お線香や、塗香(ずこう)の匂いが体に付きまっしゃろ?
そやからこーゆー香りのが違和感のぉて自然に調和するんですわ。
発心する前は元より、
私にとって身に着ける香りとは、そーでんなぁ〜・・
幾つぐらいやろ?
多分、小学校ん頃から大切な必須アイテムでした。
今のように、そこ等辺の薬局やホームセンターでも
ブランドもんの香水が、簡単に手に入る時代とちゃいます。
今は誰でも知っとるアラミスですら、
当時、大阪梅田の阪急百貨店のオンリーショップに
わざわざ行かんと、手に入らんかったんです。
無論、今のようにタスカニーもデヴィンもオールウエィズもなく、
900すらありまへん。オールドタイプのアレだけでした。
ませてましたね。思いっきり。
女性用の香水も、そんとき流行ってるモンは
ほとんど香りだけで当ててましたなぁ。利き香水?w
因みに私、
女性用の香りで弱いんが、パウダー系ですねん。
これはナンか理由は分かれへんけど、
なんせクラクラするんですわ。猫のまたたびのようにw
そやからもし、
私とお遭いするような機会がありましたら
女性の方は、パウダー系はご遠慮下さい。
ぶっ倒れますんでw
話し戻して、
この、"酔香(えひか)" は、同志社大学の傍
京都御所西にある、山田松香木店のもの。
ここのが、ええ香りするんが多いでっせ。
香りも長いこと持続しまっさかい。
少々、香りが薄れても箪笥なんぞに仕舞うと、
密閉されておれば、まだまだ、"酔香(えひか)"は蘇りますし
また、大事な衣服の防虫効果も高ぉ御座います。
ネオパラエースとか、たんすにゴンよか
趣味趣向、宜しいでっしゃろ?w
丁字、大茴香、桂皮、白檀、龍脳など
十数種類の天然香が、程よくブレンドされてます。
源氏物語を彷彿させる、この艶めく静けさ・・
やめられまへんでw
基本、これは男性用ですが
無論、女性の方でも平気でおます。
っちゅうか、
この柄、男はムリやろうっちゅうのもありますしw
他にも巾着型や、携帯し易いスティック形、
また、皮のケースに入った、レザーサシェっちゅうのもおます。
私はいっつも、
自分でミシンで作った、例のお守り入れに忍ばせてます。
歩き遍路んときは、さすがに外してましたが。
汗でビシャビシャんなってまうんでね。

これは、また別の掛香っちゅうて
本来は、クローゼットなんかに吊るしとくんでっけど
私はこんな風に、クルマに吊ってます。お洒落やしね。
山田香木店はネットでも買えまっせ。
思いっきり忘れとったけど(爆 こちら
大切な女性(ひと)へ、あの男性(かた)へ
ちょいと贈りモンに如何でっか? 是非ペアでどうぞ♪
云うときまっけど別に私、毎度の如く
山田はんトコの回しモンとちゃいますからね。
多分これで
ナンボかは、売れると思うけどw
本日もご愛読、ご訪問
誠に有難う御座います。
毎度おおきに。
感謝合掌
北斗法蓮 百拝
2008年03月19日
はい、京都冬の旅(チャリンコ編)とうとう最終日です。
たった四日間のブログ書くのに、何日かかってねん!? っちゅう、突っ込みは、この際ご勘弁下さい(笑。 なにかと近頃、忙しぶってるので時間がのうてすんまへーん。
京都に来てから三日間、見事な晴天が続いてチャリンコ巡礼も順調に日を重ねたが、この日ばかりは朝から雨模様。 しかし、小雨程度だしチャリンコは今日までの料金を払ってしまっているので、荷物をクロークに預けてチェックアウトしてしまい、まずは東寺へと向かった。
そう、初日に肝心の大師堂(御影堂)への礼拝が、閉館間近でまだだったので、真っ先に大師堂へ向かって堂に上がって勤行をさせていただいた。 小雨ぱら付く平日は、流石の東寺も参拝者がまばら。ひっそりとした誰もいない大師堂で、この地を踏めた再会の喜び、そして高野山での得度の報告、駆け出し真言僧侶としてのこれからの抱負、その他もろもろのお話しをお大師さんとさせて貰った。
さて、帰りの新幹線は3時半ごろ。
食事時間も考慮して、2時過ぎには京都駅に戻りたい。最後の日は、そう遠出は出来ないので、京都駅から程近い伏見稲荷に詣でることにした。 ところが、東寺を出てから雨はドンドン激しくなり、雨具を一切持参してなかったのでズブ濡れになりだした。これでは、先へ進めそうになくなったので、コンビニで安モンの合羽を買って急を凌ぐ。それでも、股の部分が割れて雨が張り込み、股間はビッショリ(笑。
稲荷大神のご神威が顕れたのは、天長4年(827)正月とされている。
奇しくも、稲荷大社から望む西側の東寺では、空海が渾身の想いを込め、伽藍構築に全力を注いでいた時期である。 稲荷大社を奉ずる稲荷山は、いわゆる“東山三十六峰”の、最南端に位置する霊峰(海抜233m)で、古くから三ケ峰と呼ばれてきたように、三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容を備えていると云う。
今般、全国に遍く稲荷信仰は、実はこの神体山信仰に始まったとされる。もしかすると、山登りの好きな空海は、忙しい伽藍構築の合間にも、時々ふっと人目を逃れこの山頂に登りに来たかも知れない(笑。
【千本鳥居】
秀吉が造営した、神社の楼門の規模としては最も大きいものに属する、立派な門をくぐると正面が本殿。本殿をかわすように更に奥へ入って行くと、奥社参道へと続く千本鳥居の入り口がある。
「赤い鳥居」=「お稲荷さん」と単純に連想出来るほど、誰もが知っている。(あの鳥居が千本もあるのか?)実は、ここへ来るまで千本鳥居のことは全く知らず、伏見稲荷参拝は今日の天気で急に決めたから、全然下調べしてなかった。
寺院とはまた別の、神による結界が張られているのか? そう思えるほど、巧く言葉では表現できないが、千本鳥居の中を歩き出すと、すぐさま神聖な空気というか・・張り詰めたような見えない何かに包まれた観がした。元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっている。この「朱・あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって、稲荷大神の御霊(みたま)の働きとする強烈な信仰が宿っているそうな。
雨のしたたり落ちる千本鳥居の中を歩く。
この道は、ずっと山頂の奥社(寺院でいう、奥の院かな)へ続いてるそうで、延々上り坂だ。合羽を着たままだから、気温が低くても充分汗ばんできた。
なんだか、久しぶりの山岳巡礼で、歩き遍路を思い出し嬉しくなってきた。外人観光客の団体も、傘をさしながら頑張って登っている。
【奥社奉拝所】
それにしても、千本鳥居はどこまでなんだろうか? 鳥居の間合いを計ってみると大体、二本の柱の芯〜芯で一メートル強。ってことは、短くても五百メートルぐらいはありそうだ。(・・の、割にゃあ〜なかなか着けへんのぉ〜)てな事を考えながら、ひたすら登って行くと奥社奉拝所に出た。売店なども幾つかあって、観光客や参拝者でひと際賑わっていた。
ここで、一つ、いい物を手に入れた。
『神拝祝詞 神道大祓全集』がそれだ。寺院でいう信徒用の経本と同じ。御守やお札を並べていた小さな小屋の軒先に幾つか見本があり、手にとって熱心に読んでいると、丁寧に説明してくれた。おおまかに云うと、一番簡単な大文字で書かれた物と、全国のお稲荷さん(稲荷神社)で使える物と、一番分厚いのが、全ての神社で使える先の全集だ。
この祝詞集には稲荷祝詞は勿論、龍神祝詞から大日本国々一宮など、ありとあらゆる祝詞に加え、祭典作法から地鎮祭の手順まで記載されている。興味深いのは、六根清浄大祓や仏説聖不動経、不動の剣文、不動尊祈り経、般若心経、最後には護摩修法回向文まで記されていたことだ。値段はたったの千二百円。え?この内容で安すぎる!聞き間違えたかと思ったが、とりあえず、オバチャンが間違ってるかも知れないことに気付く前に、さっさと金を払っていただいた(笑。
これさえあれば、全国どこの神社へ行っても、その神社に祀られた神に沿う祝詞があげられる。
ご存知のように、般若心経は(仏説)さえ外せば、神社でも勿論唱えて良いもので、その次に身禊大祓(みそぎのおおはらい)=天津祝詞を今まで(家でも)三遍あげた上で、各神社のご祭神の御名を唱えるのが良しと教わっていた。(でも、目次があまりにも多すぎて、というよりむしろ言葉が難しくて、どこの神社でどれを上げたらいいか、今のところサッパリ分からんが(笑)
実は、後で知ったが、この奥社奉拝所までで、千本鳥居は終わっているらしいのだが、まだ先にも鳥居が見えていたし、大雨で地図も良く見えず、てっきりまだ続いてるのかと、ズンズン更に登っていってしまった。
【新池(熊鷹社)】を越え、【三ツ辻】【三徳社】【四ツ辻】まで登ったら、道が三つに分かれた。うち、左方向の【荒神峰(田中社神蹟)】 向かうと、急な石段を登りつめた先は行き止まりで、土砂降りの雨の中、一人熱心な信仰者が祭神を拝んでいた。仕方なくまた同じ石段を降りて、今度は真っ直ぐ登って行くと【御膳谷奉拝所】 があった。
この社務所に休憩場所があり、やっと腰を下せた。
が、タバコを吸おうと思ったらチャリに忘れて最悪。イライラしながらある訳のない自販機を探して社務所の中を覗くと、宮司を取り巻き数人の信者が集まっていた。ここでは、稲荷山に鎮まる塚の神々に御饌を供進しているそうで、なにか手続きをしていているのだろうか。
それにしても随分登ってきた。途中、茶店もあったが、なにも注文せずにズブ濡れで腰を下すわけにもいかず、ダラダラとここまで登ってきてしまった。
あらためて、掲示された地図をちゃんと見てみると、この先にはまだ【釼石(長者社神蹟)】【一ノ峰(上之社神蹟)】末広大神、←ここが頂上、【二ノ峰(中之社神蹟)】青木大神、【間ノ峰(荷田社神蹟)】伊勢大神、【三ノ峰(下之社神蹟)】白菊大神、と、六つの社があり、また【四ツ辻】に戻ってくるようになっている。
つまり、三つの道に分かれた右側の道へ戻る、【四ツ辻】を中心にぐるっと稲荷山を巡るような参道になっていた。
(こら、アカンわぁ〜今日は時間あれへん・・)と、ここで退却することにした。
言い訳1:時間があれへん(笑
言い訳2:タバコをチャリンコに忘れて、ヤニが切れた(笑
言い訳3:息が切れてる(笑
自分では、久しぶりに随分登ったつもりだったのに、あとで調べると、稲荷山は標高233メートルしかなかった。
は?たったそれだけ? 勾配が強いとはいえ、石段だし歩き遍路道のような悪路ではない。
しかも、たったそれだけの標高でヘタってて、どないすんねん?
歩き遍路終えて、三ヶ月もせんうちに、どんだけ体力落ちとんねん?
アカーン!また修行せんと!
降りていく最中、年配の宮司が息を切らして上がってきた。
どうやら、ここは自力で上に上がるしか交通手段がないらしい。あんなご年配の方でも毎日登ってらっしゃるのに、歩き遍路を終えたらあっと言う間に落ちていた、自分の体力減退に頭に来る。東寺を賜ったお大師さんも、再び四国の山々を歩かれたり、京都と高野山を度々往復したりと、常に自らの身体を甘やかすことななかっただろう。甘い甘い、アカンアカン、もっと頑張ります。すんまへん。
本日もご愛読誠に有難う御座います。
雨のため、画像が一枚もなく、お疲れでしたでしょう。
皆々様のご健勝とご幸福を、心よりお祈り申し上げます。
感謝合掌
法蓮 百拝
〜おまけ〜
【天津祝詞 全文(かな付き)】
*以前、自分用に作った物です。続きを読む
たった四日間のブログ書くのに、何日かかってねん!? っちゅう、突っ込みは、この際ご勘弁下さい(笑。 なにかと近頃、忙しぶってるので時間がのうてすんまへーん。
京都に来てから三日間、見事な晴天が続いてチャリンコ巡礼も順調に日を重ねたが、この日ばかりは朝から雨模様。 しかし、小雨程度だしチャリンコは今日までの料金を払ってしまっているので、荷物をクロークに預けてチェックアウトしてしまい、まずは東寺へと向かった。
そう、初日に肝心の大師堂(御影堂)への礼拝が、閉館間近でまだだったので、真っ先に大師堂へ向かって堂に上がって勤行をさせていただいた。 小雨ぱら付く平日は、流石の東寺も参拝者がまばら。ひっそりとした誰もいない大師堂で、この地を踏めた再会の喜び、そして高野山での得度の報告、駆け出し真言僧侶としてのこれからの抱負、その他もろもろのお話しをお大師さんとさせて貰った。
さて、帰りの新幹線は3時半ごろ。
食事時間も考慮して、2時過ぎには京都駅に戻りたい。最後の日は、そう遠出は出来ないので、京都駅から程近い伏見稲荷に詣でることにした。 ところが、東寺を出てから雨はドンドン激しくなり、雨具を一切持参してなかったのでズブ濡れになりだした。これでは、先へ進めそうになくなったので、コンビニで安モンの合羽を買って急を凌ぐ。それでも、股の部分が割れて雨が張り込み、股間はビッショリ(笑。
稲荷大神のご神威が顕れたのは、天長4年(827)正月とされている。
奇しくも、稲荷大社から望む西側の東寺では、空海が渾身の想いを込め、伽藍構築に全力を注いでいた時期である。 稲荷大社を奉ずる稲荷山は、いわゆる“東山三十六峰”の、最南端に位置する霊峰(海抜233m)で、古くから三ケ峰と呼ばれてきたように、三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容を備えていると云う。
今般、全国に遍く稲荷信仰は、実はこの神体山信仰に始まったとされる。もしかすると、山登りの好きな空海は、忙しい伽藍構築の合間にも、時々ふっと人目を逃れこの山頂に登りに来たかも知れない(笑。
【千本鳥居】
秀吉が造営した、神社の楼門の規模としては最も大きいものに属する、立派な門をくぐると正面が本殿。本殿をかわすように更に奥へ入って行くと、奥社参道へと続く千本鳥居の入り口がある。
「赤い鳥居」=「お稲荷さん」と単純に連想出来るほど、誰もが知っている。(あの鳥居が千本もあるのか?)実は、ここへ来るまで千本鳥居のことは全く知らず、伏見稲荷参拝は今日の天気で急に決めたから、全然下調べしてなかった。
寺院とはまた別の、神による結界が張られているのか? そう思えるほど、巧く言葉では表現できないが、千本鳥居の中を歩き出すと、すぐさま神聖な空気というか・・張り詰めたような見えない何かに包まれた観がした。元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっている。この「朱・あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって、稲荷大神の御霊(みたま)の働きとする強烈な信仰が宿っているそうな。
雨のしたたり落ちる千本鳥居の中を歩く。
この道は、ずっと山頂の奥社(寺院でいう、奥の院かな)へ続いてるそうで、延々上り坂だ。合羽を着たままだから、気温が低くても充分汗ばんできた。
なんだか、久しぶりの山岳巡礼で、歩き遍路を思い出し嬉しくなってきた。外人観光客の団体も、傘をさしながら頑張って登っている。
【奥社奉拝所】
それにしても、千本鳥居はどこまでなんだろうか? 鳥居の間合いを計ってみると大体、二本の柱の芯〜芯で一メートル強。ってことは、短くても五百メートルぐらいはありそうだ。(・・の、割にゃあ〜なかなか着けへんのぉ〜)てな事を考えながら、ひたすら登って行くと奥社奉拝所に出た。売店なども幾つかあって、観光客や参拝者でひと際賑わっていた。
ここで、一つ、いい物を手に入れた。
『神拝祝詞 神道大祓全集』がそれだ。寺院でいう信徒用の経本と同じ。御守やお札を並べていた小さな小屋の軒先に幾つか見本があり、手にとって熱心に読んでいると、丁寧に説明してくれた。おおまかに云うと、一番簡単な大文字で書かれた物と、全国のお稲荷さん(稲荷神社)で使える物と、一番分厚いのが、全ての神社で使える先の全集だ。
この祝詞集には稲荷祝詞は勿論、龍神祝詞から大日本国々一宮など、ありとあらゆる祝詞に加え、祭典作法から地鎮祭の手順まで記載されている。興味深いのは、六根清浄大祓や仏説聖不動経、不動の剣文、不動尊祈り経、般若心経、最後には護摩修法回向文まで記されていたことだ。値段はたったの千二百円。え?この内容で安すぎる!聞き間違えたかと思ったが、とりあえず、オバチャンが間違ってるかも知れないことに気付く前に、さっさと金を払っていただいた(笑。
これさえあれば、全国どこの神社へ行っても、その神社に祀られた神に沿う祝詞があげられる。
ご存知のように、般若心経は(仏説)さえ外せば、神社でも勿論唱えて良いもので、その次に身禊大祓(みそぎのおおはらい)=天津祝詞を今まで(家でも)三遍あげた上で、各神社のご祭神の御名を唱えるのが良しと教わっていた。(でも、目次があまりにも多すぎて、というよりむしろ言葉が難しくて、どこの神社でどれを上げたらいいか、今のところサッパリ分からんが(笑)
実は、後で知ったが、この奥社奉拝所までで、千本鳥居は終わっているらしいのだが、まだ先にも鳥居が見えていたし、大雨で地図も良く見えず、てっきりまだ続いてるのかと、ズンズン更に登っていってしまった。
【新池(熊鷹社)】を越え、【三ツ辻】【三徳社】【四ツ辻】まで登ったら、道が三つに分かれた。うち、左方向の【荒神峰(田中社神蹟)】 向かうと、急な石段を登りつめた先は行き止まりで、土砂降りの雨の中、一人熱心な信仰者が祭神を拝んでいた。仕方なくまた同じ石段を降りて、今度は真っ直ぐ登って行くと【御膳谷奉拝所】 があった。
この社務所に休憩場所があり、やっと腰を下せた。
が、タバコを吸おうと思ったらチャリに忘れて最悪。イライラしながらある訳のない自販機を探して社務所の中を覗くと、宮司を取り巻き数人の信者が集まっていた。ここでは、稲荷山に鎮まる塚の神々に御饌を供進しているそうで、なにか手続きをしていているのだろうか。
それにしても随分登ってきた。途中、茶店もあったが、なにも注文せずにズブ濡れで腰を下すわけにもいかず、ダラダラとここまで登ってきてしまった。
あらためて、掲示された地図をちゃんと見てみると、この先にはまだ【釼石(長者社神蹟)】【一ノ峰(上之社神蹟)】末広大神、←ここが頂上、【二ノ峰(中之社神蹟)】青木大神、【間ノ峰(荷田社神蹟)】伊勢大神、【三ノ峰(下之社神蹟)】白菊大神、と、六つの社があり、また【四ツ辻】に戻ってくるようになっている。
つまり、三つの道に分かれた右側の道へ戻る、【四ツ辻】を中心にぐるっと稲荷山を巡るような参道になっていた。
(こら、アカンわぁ〜今日は時間あれへん・・)と、ここで退却することにした。
言い訳1:時間があれへん(笑
言い訳2:タバコをチャリンコに忘れて、ヤニが切れた(笑
言い訳3:息が切れてる(笑
自分では、久しぶりに随分登ったつもりだったのに、あとで調べると、稲荷山は標高233メートルしかなかった。
は?たったそれだけ? 勾配が強いとはいえ、石段だし歩き遍路道のような悪路ではない。
しかも、たったそれだけの標高でヘタってて、どないすんねん?
歩き遍路終えて、三ヶ月もせんうちに、どんだけ体力落ちとんねん?
アカーン!また修行せんと!
降りていく最中、年配の宮司が息を切らして上がってきた。
どうやら、ここは自力で上に上がるしか交通手段がないらしい。あんなご年配の方でも毎日登ってらっしゃるのに、歩き遍路を終えたらあっと言う間に落ちていた、自分の体力減退に頭に来る。東寺を賜ったお大師さんも、再び四国の山々を歩かれたり、京都と高野山を度々往復したりと、常に自らの身体を甘やかすことななかっただろう。甘い甘い、アカンアカン、もっと頑張ります。すんまへん。
本日もご愛読誠に有難う御座います。
雨のため、画像が一枚もなく、お疲れでしたでしょう。
皆々様のご健勝とご幸福を、心よりお祈り申し上げます。
感謝合掌
法蓮 百拝
〜おまけ〜
【天津祝詞 全文(かな付き)】
*以前、自分用に作った物です。続きを読む
2008年03月18日
はい、京都冬の旅(チャリンコ編)三泊目です。
しっかし、京都の道は分かりやすいわ!メッチャ気に入った!
三日もチャリでうろつけば、縦横無尽に走りまわせる。自分が育った大阪の道も、南北が○○筋、東西が○○通り、と名づけられて、碁盤の目のようになってるから、覚えやすかろう。
対して京都は、東西南北のどれも○○通り、と、どちらも「通り」が付くので、一旦紛らわしく思うが、二つの通りが交差する要所要所では、例えば、中立売通と堀川通の交差する場所は、「堀川中立売」と、双方の通り名称が付けられており、覚えやすいし間違え難い。
更に、東西は西から西大路通、千本通、堀川通、烏丸通、河原町通、東大路通の六本。南北は、北から北大路通、今出川通、丸太町通、御池通、三条、四条、五条〜十条の順番さえ分かれば、路地に入り込んでも、地図なしでどこにだって行ける。 あ・・、但し、自分が今どっち向いて走ってんのかすら、分かんない人はムリよ、やっぱし(笑。
ってことで、小学生のように今日も元気良くホテルを飛び出し、チャリンコをすっ飛ばす。
堀川通を北上し、目指す第一目標は堀川高校。そう、「旧本能寺跡」へ向かった。京都駅を背にして、真っ直ぐ二条城へ向かうこの道沿いにある、堀川高校の周辺が旧本能寺だ。神泉苑への寄り道に格好の場所にある。




ここばかりは、寺院巡礼とは無関係なのだが、実は、隠れ織田信長崇拝者の自分は、いつかここも訪ねてみたかった念願の場所。かつては、仏敵と云われた信長を崇拝してたら、和尚や阿闍梨に怒られるかの(汗 だが、三百年早く生まれすぎたと、言われた信長が存命したら、日本は三百年進んでいたかも知れない。ふと、そう思える人間も少なくはない筈。以前、「ばさら者」について稿したが、北方謙三の言葉を借りて、「ばさらとは、毀すこと」と定義付けるなら、信長こそ本物の「ばさら者」と言えるだろうと思える。
去年、神仏に目覚め半生を捧げると誓うまで、煩悩の塊として栄耀栄華を夢見て、修羅の如く日夜ビジネスに明け暮れてた時分は、名刺の裏にさえ、「人間五十年〜下天のふちをくらぶれば〜夢幻のごとくなり〜」と、信長の愛した敦盛の幸若舞を刷っていたほどだった。書斎には今でも、信長関連の本だけでゆうに五十冊ぐらいある。
明確な場所が分からないので、堀川高校を過ぎた北側から、周囲をグルッとまわってみた。
東へすぐ一本、入ったところに真新しい近代的な建物が建っていた。見つけた。これが、旧本能寺小学校跡に建てられた、特別養護老人ホームだ。(建物の一部は、堀川高校や本能自治会館となっている)。
目の前に、新たに立てられたと言う石碑が立っていた。画像をクリックして、拡大していただくと分かるが、特に信長を称えるずとも弔いの言葉の一つもない。ただ、寺暦に関することが書かれているだけだった。
更に北東へ回り込むと、古い石碑も見つけた。
本能寺の歴史は古く、信長が討たれる170年前に遡る、応永22年(1415)に日隆聖人が、「本応寺」と号され開山している。その後、移転や焼失を繰り返し、再建を試みた「本能寺の変」七年後の上棟式当日に、秀吉の命により鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転させられている。
本能寺の変の首謀者は、光秀ではなく黒幕がいたという諸説は知られるところ。実は家康、秀吉、或いは足利義昭、誠仁親王などの朝廷、はたまた、比叡山の如く全山焼き討ち寸前を免れた高野山?(また怒られそう(笑)
自分にとっては、そんな埋もれた歴史を紐解くほどヒマはなく、また現在の本能寺の信長公廟にも、慰霊法要にも全く興味はない。要するに、戦国の覇者信長は天下統一目前にここで死んだのだ。その同じ地に立って、いにしえの時を超え、ただ合掌して弔えればそれでいい。
『神泉苑』
はい、次行きます。
寺院巡礼と無関係な稿が長くなってすんません。
東寺真言宗寺院の神泉苑は、平安京(大内裏)の南東隣り、現二条城のすぐ南側に位置する。時は桓武政権統治下、784年に長岡京を造営した後の794年、改めて平安京を造営にあたり、設けられた苑池であり、平安京最古の史跡である。南都六宗を弾圧する桓武天皇に、唐から帰国した空海と最澄も手厚く保護され、密教が瞬く間に世に認められた時代でもある。
続きを読む
しっかし、京都の道は分かりやすいわ!メッチャ気に入った!
三日もチャリでうろつけば、縦横無尽に走りまわせる。自分が育った大阪の道も、南北が○○筋、東西が○○通り、と名づけられて、碁盤の目のようになってるから、覚えやすかろう。
対して京都は、東西南北のどれも○○通り、と、どちらも「通り」が付くので、一旦紛らわしく思うが、二つの通りが交差する要所要所では、例えば、中立売通と堀川通の交差する場所は、「堀川中立売」と、双方の通り名称が付けられており、覚えやすいし間違え難い。
更に、東西は西から西大路通、千本通、堀川通、烏丸通、河原町通、東大路通の六本。南北は、北から北大路通、今出川通、丸太町通、御池通、三条、四条、五条〜十条の順番さえ分かれば、路地に入り込んでも、地図なしでどこにだって行ける。 あ・・、但し、自分が今どっち向いて走ってんのかすら、分かんない人はムリよ、やっぱし(笑。
ってことで、小学生のように今日も元気良くホテルを飛び出し、チャリンコをすっ飛ばす。
堀川通を北上し、目指す第一目標は堀川高校。そう、「旧本能寺跡」へ向かった。京都駅を背にして、真っ直ぐ二条城へ向かうこの道沿いにある、堀川高校の周辺が旧本能寺だ。神泉苑への寄り道に格好の場所にある。
ここばかりは、寺院巡礼とは無関係なのだが、実は、隠れ織田信長崇拝者の自分は、いつかここも訪ねてみたかった念願の場所。かつては、仏敵と云われた信長を崇拝してたら、和尚や阿闍梨に怒られるかの(汗 だが、三百年早く生まれすぎたと、言われた信長が存命したら、日本は三百年進んでいたかも知れない。ふと、そう思える人間も少なくはない筈。以前、「ばさら者」について稿したが、北方謙三の言葉を借りて、「ばさらとは、毀すこと」と定義付けるなら、信長こそ本物の「ばさら者」と言えるだろうと思える。
去年、神仏に目覚め半生を捧げると誓うまで、煩悩の塊として栄耀栄華を夢見て、修羅の如く日夜ビジネスに明け暮れてた時分は、名刺の裏にさえ、「人間五十年〜下天のふちをくらぶれば〜夢幻のごとくなり〜」と、信長の愛した敦盛の幸若舞を刷っていたほどだった。書斎には今でも、信長関連の本だけでゆうに五十冊ぐらいある。
明確な場所が分からないので、堀川高校を過ぎた北側から、周囲をグルッとまわってみた。
東へすぐ一本、入ったところに真新しい近代的な建物が建っていた。見つけた。これが、旧本能寺小学校跡に建てられた、特別養護老人ホームだ。(建物の一部は、堀川高校や本能自治会館となっている)。
目の前に、新たに立てられたと言う石碑が立っていた。画像をクリックして、拡大していただくと分かるが、特に信長を称えるずとも弔いの言葉の一つもない。ただ、寺暦に関することが書かれているだけだった。
更に北東へ回り込むと、古い石碑も見つけた。
本能寺の歴史は古く、信長が討たれる170年前に遡る、応永22年(1415)に日隆聖人が、「本応寺」と号され開山している。その後、移転や焼失を繰り返し、再建を試みた「本能寺の変」七年後の上棟式当日に、秀吉の命により鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転させられている。
本能寺の変の首謀者は、光秀ではなく黒幕がいたという諸説は知られるところ。実は家康、秀吉、或いは足利義昭、誠仁親王などの朝廷、はたまた、比叡山の如く全山焼き討ち寸前を免れた高野山?(また怒られそう(笑)
自分にとっては、そんな埋もれた歴史を紐解くほどヒマはなく、また現在の本能寺の信長公廟にも、慰霊法要にも全く興味はない。要するに、戦国の覇者信長は天下統一目前にここで死んだのだ。その同じ地に立って、いにしえの時を超え、ただ合掌して弔えればそれでいい。
『神泉苑』
はい、次行きます。
寺院巡礼と無関係な稿が長くなってすんません。
続きを読む
2008年03月17日
はい、京都冬の旅(チャリンコ編)二泊目です。
0900
予約してあった、KCTPはラッキーにも、アパホテル堀川通りから徒歩一分という近さ。開店前に到着して、今日から三日間世話になるチャリを借りた。わずかな待ってる時間に後ろを振り向くと、ウジャウジャ人が増えだして、こんなにもチャリを借りる人が居るのかと驚いた。まぁ殆んど学生で、一番ジジイだったかも(笑。
颯爽と京都の街へ繰り出し、東本願寺近くのマックで腹ごしらえ。コーヒーとソーセージマフィンを詰め込み、一路、智積院へと向かった。七条通りを東へぶち当たるまで、とにかく真っ直ぐ。
事前に京都の道は、北向きが登り坂になっていると分かっていたが、東向きも結構〜登っている。だが、小学生以来のチャリンコの遠出は、楽しくってしょーがない。天気もいいし最高だ。ビュンビュン飛ばした。




『智積院(ちしゃくいん)』
智積院は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、東京 高幡山金剛寺、栃木 出流山満願寺、名古屋 大須観音寶生院を別格本山とする、都合三千余りの寺院教会を擁する、真言宗智山派の総本山である。
弘法大師入滅260年後、興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)によって、荒廃した高野山は復興するも、高野山金剛峯寺座主となった後、クーデターが起こり根来山へ移り新たな教学を確立する。これがいわゆる新義真言宗の始まりである。檀家や信者の祈りとは、全く別次元での教義論争史はさておき。
今回、特別公開となるのは、★堂本印象筆宸殿襖絵、 ★長谷川等伯筆「十六羅漢図屏風」、★一の谷合戦図、★土田麦僊筆「朝顔図」の四点。あくまで、密教の真髄に触れたいのであって、仏教美術そのものに関心が上回るあわけではないのだが、通常は貴賓VIPクラスしか見れない場所らしいので入ってみた。
確かに、堂本印象筆宸殿襖絵などは、とても寺院の襖とは思えないほど、今もってしても斬新なのだから、当時としてはそれは驚愕のセンセーショナルを巻き起こしたろう。
だが、それらより自分は小堀遠州作の名勝庭園に目を惹かれた。ここはいつでも見れるってのに(笑。「利休好みの庭」と伝えられ、豊臣秀吉が鶴松の供養に建立した祥雲禅寺(智積院の前身)時代に原形が造られ、後に第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と評される。中国の廬山をかたどった、とても優美な庭園である。
特に興味深かったのは、気持ちを高めたい時や癒したい時の気分に合わせ、座って眺める場所を変えるだけで、一つの庭が全く異なる二つの趣向的景観を併せ持っているのが面白かった。
また、さわさわと水面が反射され、縁側の軒下に絵画のように映し出されていたのが美しかった。写真を撮ったら、ただのオーヴにしか見えないのでボツにしましたが(笑。
この庭を望む大書院には、かつて長谷川等伯作の壁画が飾られいたらしく、今はレプリカで覆われている。建築デザインもやっているので、その壁画をモチーフにした、書院にも大きく興味をそそられた。
巨大な講堂は、回りにグルッと縁側?と、称するには馬鹿デカすぎる廊下がある。そこにも確かに「順路」と書かれた札があるのだが、入り口から大書院の方へ入って行くと、自然に出口に向かわされて講堂へ行けない。
(札があるんやから、平気やろ)と、例の如く、勝手に柵を跨いで講堂の中へ入る(笑。 しっかし、デカかった。ざっと見ただけでも百畳クラスの間が、三つもある。開放して繋げたらナンと、三百畳!
『六道珍皇寺』
智積院を後にして、今度は北へ登り一号線を渡って裏道へ入る。六道珍皇寺まで、大通りを外れた抜け道を事前に頭に入れておいた。
「六道さん」の名で親しまれ、お盆の精霊迎えに参詣する寺として名高い、臨済宗建仁寺派の寺院。が、元々は真言宗で平安時代に弘法大師の恩師・慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開山したなど諸説ある。
この付近は「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境界を表す。また平安時代の葬送地、鳥辺野の入り口にもあたり、魔界探検スポットは事欠かず、ミステリーツアーには一押しのスポットで、京都でも屈指の魔界エリアとも云われる。
冥界に興味ある方は、是非参拝してみては?
例年8月7〜10日には、寺宝が公開される六道詣りが行われ大変な賑わいを見せるそうだ。
閻魔堂(篁堂)には、気迫に満ちた閻魔大王像と、小野篁(おののたかむら)像が安置される。平安朝の官僚・小野篁は、夜は冥府の閻魔王宮に仕え、本堂横の裏庭に、小野篁が夜な夜な冥界に行ったとされる井戸がある。
そして明け方戻ってきて、日中は朝廷に仕えていたそうな。 ほんじゃ、いつ寝てんねん?(笑
いつもなら、勝手に写真を撮るが(笑、ガイドがピッタリ張り付いて撮れなかった。ただ、このガイドさん。一人ボケ突っ込みで、関西人らしく面白おかしく話してくれた。
特別公開は、★伝教大師作薬師如来坐像(重文)、★地獄絵「熊野観心十界図」、★珍皇寺参詣曼荼羅図、 ★赤松家ゆかりの寺宝展観など。 特に熊野観心十界図における、地獄絵図は説明を聞かずとも、子供でも分かるようなビジュアル的な完成度が高かった。これを持ち歩いて庶民に地獄の恐ろしさを説いて回ったという。
〜まだまだ続くでぇ〜
続きを読む
0900
予約してあった、KCTPはラッキーにも、アパホテル堀川通りから徒歩一分という近さ。開店前に到着して、今日から三日間世話になるチャリを借りた。わずかな待ってる時間に後ろを振り向くと、ウジャウジャ人が増えだして、こんなにもチャリを借りる人が居るのかと驚いた。まぁ殆んど学生で、一番ジジイだったかも(笑。
颯爽と京都の街へ繰り出し、東本願寺近くのマックで腹ごしらえ。コーヒーとソーセージマフィンを詰め込み、一路、智積院へと向かった。七条通りを東へぶち当たるまで、とにかく真っ直ぐ。
事前に京都の道は、北向きが登り坂になっていると分かっていたが、東向きも結構〜登っている。だが、小学生以来のチャリンコの遠出は、楽しくってしょーがない。天気もいいし最高だ。ビュンビュン飛ばした。
『智積院(ちしゃくいん)』
智積院は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、東京 高幡山金剛寺、栃木 出流山満願寺、名古屋 大須観音寶生院を別格本山とする、都合三千余りの寺院教会を擁する、真言宗智山派の総本山である。
弘法大師入滅260年後、興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)によって、荒廃した高野山は復興するも、高野山金剛峯寺座主となった後、クーデターが起こり根来山へ移り新たな教学を確立する。これがいわゆる新義真言宗の始まりである。檀家や信者の祈りとは、全く別次元での教義論争史はさておき。
今回、特別公開となるのは、★堂本印象筆宸殿襖絵、 ★長谷川等伯筆「十六羅漢図屏風」、★一の谷合戦図、★土田麦僊筆「朝顔図」の四点。あくまで、密教の真髄に触れたいのであって、仏教美術そのものに関心が上回るあわけではないのだが、通常は貴賓VIPクラスしか見れない場所らしいので入ってみた。
確かに、堂本印象筆宸殿襖絵などは、とても寺院の襖とは思えないほど、今もってしても斬新なのだから、当時としてはそれは驚愕のセンセーショナルを巻き起こしたろう。
だが、それらより自分は小堀遠州作の名勝庭園に目を惹かれた。ここはいつでも見れるってのに(笑。「利休好みの庭」と伝えられ、豊臣秀吉が鶴松の供養に建立した祥雲禅寺(智積院の前身)時代に原形が造られ、後に第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と評される。中国の廬山をかたどった、とても優美な庭園である。
特に興味深かったのは、気持ちを高めたい時や癒したい時の気分に合わせ、座って眺める場所を変えるだけで、一つの庭が全く異なる二つの趣向的景観を併せ持っているのが面白かった。
また、さわさわと水面が反射され、縁側の軒下に絵画のように映し出されていたのが美しかった。写真を撮ったら、ただのオーヴにしか見えないのでボツにしましたが(笑。
この庭を望む大書院には、かつて長谷川等伯作の壁画が飾られいたらしく、今はレプリカで覆われている。建築デザインもやっているので、その壁画をモチーフにした、書院にも大きく興味をそそられた。
巨大な講堂は、回りにグルッと縁側?と、称するには馬鹿デカすぎる廊下がある。そこにも確かに「順路」と書かれた札があるのだが、入り口から大書院の方へ入って行くと、自然に出口に向かわされて講堂へ行けない。
(札があるんやから、平気やろ)と、例の如く、勝手に柵を跨いで講堂の中へ入る(笑。 しっかし、デカかった。ざっと見ただけでも百畳クラスの間が、三つもある。開放して繋げたらナンと、三百畳!
『六道珍皇寺』
智積院を後にして、今度は北へ登り一号線を渡って裏道へ入る。六道珍皇寺まで、大通りを外れた抜け道を事前に頭に入れておいた。
「六道さん」の名で親しまれ、お盆の精霊迎えに参詣する寺として名高い、臨済宗建仁寺派の寺院。が、元々は真言宗で平安時代に弘法大師の恩師・慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開山したなど諸説ある。
この付近は「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境界を表す。また平安時代の葬送地、鳥辺野の入り口にもあたり、魔界探検スポットは事欠かず、ミステリーツアーには一押しのスポットで、京都でも屈指の魔界エリアとも云われる。
冥界に興味ある方は、是非参拝してみては?
例年8月7〜10日には、寺宝が公開される六道詣りが行われ大変な賑わいを見せるそうだ。
閻魔堂(篁堂)には、気迫に満ちた閻魔大王像と、小野篁(おののたかむら)像が安置される。平安朝の官僚・小野篁は、夜は冥府の閻魔王宮に仕え、本堂横の裏庭に、小野篁が夜な夜な冥界に行ったとされる井戸がある。
そして明け方戻ってきて、日中は朝廷に仕えていたそうな。 ほんじゃ、いつ寝てんねん?(笑
いつもなら、勝手に写真を撮るが(笑、ガイドがピッタリ張り付いて撮れなかった。ただ、このガイドさん。一人ボケ突っ込みで、関西人らしく面白おかしく話してくれた。
特別公開は、★伝教大師作薬師如来坐像(重文)、★地獄絵「熊野観心十界図」、★珍皇寺参詣曼荼羅図、 ★赤松家ゆかりの寺宝展観など。 特に熊野観心十界図における、地獄絵図は説明を聞かずとも、子供でも分かるようなビジュアル的な完成度が高かった。これを持ち歩いて庶民に地獄の恐ろしさを説いて回ったという。
〜まだまだ続くでぇ〜
続きを読む
2008年03月16日
以前から計画していて、歩き遍路の終わりにこのブログでも宣言していた、42回非公開特別文化財公開(平成20年1月12日(土)〜3月18日(火))と、東山花灯路(平成20年3月14日〜18日)に合わせ、3月16日から19日まで巡礼を兼ねた、京都冬の旅に行って来た。
まずは第一日目。
高崎から、上越〜東海道新幹線を乗り継ぎ約4時間。幸いにもお天気に恵まれ、車窓からは美しい富士の山を堪能できた。
午後2時前、京都駅着。新幹線ホームは、八条口寄りなので、北側逆方向の烏丸口(中央口)へは、結構〜歩いて移動が必要だ。
八条口側は、東寺や伏見稲荷に行くには良いが、京都の寺院の殆んどは、京都駅より北側にある。そのため、ホテルや旅館も、京都駅から北に向かって数多く点在している。
さて今回の旅にも当然、東寺巡礼は含まれているので、余り洛北寄りの宿を取ると偏りすぎてしまう。欲張りな自分は僅かな滞在期間でも、あっちもこっちも参拝したいのだ。(笑 そんなワケで、京都駅近くのアパホテル堀川通りを拠点とした。
因みに、京都には、あの涙の会見をしたオバチャンのアパホテルが四件あり、祗園を除けば三件が駅付近に集中している。その内、この堀川通りだけに大浴場がある。 にも関わらず、三件中最も安いのだ。ただ、他の二件と比べて3分少々駅から遠いというだけで。わずか、3分の距離だけなら、安いわ大好きな風呂もあるわで、迷わずここに決めた。
駅からホテルへ向かう途中、お目当てのレンタルサイクリング屋さん、KCTPが都合よくあったので、明日以降三日分の予約を入れておく。 そう、今回はチャリンコで走りまわる旅なのだ。京都は狭い道が多く、観光シーズンの道路は常に大渋滞。って、そもそも古都京都は、世界中からフルシーズン観光客が集まる、一大観光都市でもある。
だからいつだって、渋滞は避けられない。自家用車で京都に来れば、駐車場に入るにも探すにも、また、京都中心部に戻るにも何せ時間がかかる。
タクシーやバスも渋滞事情は変わらない。電車でも時間や路線に制約される、・・
ということで、京都を制するには、チャリが一番!。道を覚えるためにも、京都を西へ東へ、北へ南へと縦横無尽に走り回せるからだ。それに足の骨ズレてるし(爆
ホテルのチェックインは午後三時から。とりあえず、荷物を預けてソッコー東寺へ向かって歩いた。チャリは一日単位なので、明日から借りた。わずかしか時間のない今日は歩きで巡礼。東寺への道は、三ヶ月前の歩き遍路の帰りに参拝した際に覚えたから、スイスイひょいひょい我が物顔で歩ける。
東寺は京都駅より、やや南西に位置し、初めてでも五重塔を目指して歩けば簡単に辿り着ける。そもそも、日本一の塔高(54.8m)にした理由は、遠く参拝出来ない者にも見つけ易く、離れた場所でも手を合わせやすいがためだ。今日においても、その存在感は国際観光都市、京都のエントランスとして、実寸では高い筈の京都タワー(131m)をも、凌いでいるかのように思える。
京都非公開特別文化財公開における、東寺の灌頂院「伝法灌頂」のしつらえと、五重塔(国宝)初層内部だ。
だが、どちらも4時で閉館なので、そうそう時間に余裕があるわけでもなかった。本来は御影堂へ行ってお大師さんにも、ご挨拶と得度した報告をしなければならないのだが、まずは真っ直ぐに灌頂院へ向かった。
『灌頂院』
ここへ来たかった・・。
灌頂院(重文)とは、その名の示す通り、密教教義上、最たる儀式の要となる道場である。灌頂とは、先日のブログに記述したのでここでは割愛するが、唐より帰国し我が国で真言密教の開祖となった空海が、未完状態で嵯峨天皇から東寺を拝領した後、朝廷の計画による顕教寺院の伽藍配置だった状態から、本来、西塔が置かれるべき位置に、唯一空海自ら手を下し配したのが灌頂院であり、そのことからも、空海の真言密教開宗における灌頂院の重要さが計り知れる。
続きを読む
高崎から、上越〜東海道新幹線を乗り継ぎ約4時間。幸いにもお天気に恵まれ、車窓からは美しい富士の山を堪能できた。
午後2時前、京都駅着。新幹線ホームは、八条口寄りなので、北側逆方向の烏丸口(中央口)へは、結構〜歩いて移動が必要だ。
八条口側は、東寺や伏見稲荷に行くには良いが、京都の寺院の殆んどは、京都駅より北側にある。そのため、ホテルや旅館も、京都駅から北に向かって数多く点在している。
さて今回の旅にも当然、東寺巡礼は含まれているので、余り洛北寄りの宿を取ると偏りすぎてしまう。欲張りな自分は僅かな滞在期間でも、あっちもこっちも参拝したいのだ。(笑 そんなワケで、京都駅近くのアパホテル堀川通りを拠点とした。
因みに、京都には、あの涙の会見をしたオバチャンのアパホテルが四件あり、祗園を除けば三件が駅付近に集中している。その内、この堀川通りだけに大浴場がある。 にも関わらず、三件中最も安いのだ。ただ、他の二件と比べて3分少々駅から遠いというだけで。わずか、3分の距離だけなら、安いわ大好きな風呂もあるわで、迷わずここに決めた。
駅からホテルへ向かう途中、お目当てのレンタルサイクリング屋さん、KCTPが都合よくあったので、明日以降三日分の予約を入れておく。 そう、今回はチャリンコで走りまわる旅なのだ。京都は狭い道が多く、観光シーズンの道路は常に大渋滞。って、そもそも古都京都は、世界中からフルシーズン観光客が集まる、一大観光都市でもある。
だからいつだって、渋滞は避けられない。自家用車で京都に来れば、駐車場に入るにも探すにも、また、京都中心部に戻るにも何せ時間がかかる。
タクシーやバスも渋滞事情は変わらない。電車でも時間や路線に制約される、・・
ということで、京都を制するには、チャリが一番!。道を覚えるためにも、京都を西へ東へ、北へ南へと縦横無尽に走り回せるからだ。それに足の骨ズレてるし(爆
ホテルのチェックインは午後三時から。とりあえず、荷物を預けてソッコー東寺へ向かって歩いた。チャリは一日単位なので、明日から借りた。わずかしか時間のない今日は歩きで巡礼。東寺への道は、三ヶ月前の歩き遍路の帰りに参拝した際に覚えたから、スイスイひょいひょい我が物顔で歩ける。
東寺は京都駅より、やや南西に位置し、初めてでも五重塔を目指して歩けば簡単に辿り着ける。そもそも、日本一の塔高(54.8m)にした理由は、遠く参拝出来ない者にも見つけ易く、離れた場所でも手を合わせやすいがためだ。今日においても、その存在感は国際観光都市、京都のエントランスとして、実寸では高い筈の京都タワー(131m)をも、凌いでいるかのように思える。
京都非公開特別文化財公開における、東寺の灌頂院「伝法灌頂」のしつらえと、五重塔(国宝)初層内部だ。
だが、どちらも4時で閉館なので、そうそう時間に余裕があるわけでもなかった。本来は御影堂へ行ってお大師さんにも、ご挨拶と得度した報告をしなければならないのだが、まずは真っ直ぐに灌頂院へ向かった。
ここへ来たかった・・。
灌頂院(重文)とは、その名の示す通り、密教教義上、最たる儀式の要となる道場である。灌頂とは、先日のブログに記述したのでここでは割愛するが、唐より帰国し我が国で真言密教の開祖となった空海が、未完状態で嵯峨天皇から東寺を拝領した後、朝廷の計画による顕教寺院の伽藍配置だった状態から、本来、西塔が置かれるべき位置に、唯一空海自ら手を下し配したのが灌頂院であり、そのことからも、空海の真言密教開宗における灌頂院の重要さが計り知れる。
続きを読む
2008年03月05日
昨年末、歩き遍路を終え四国から大阪、そして京都へ立ち寄った際に、京都文化財の特別公開期間があるのを知った。
そして、嵐山花灯路に続き、10日間だけ開かれる東山花灯路と重なる、3月14日〜3月18日の期間中に、ふたたび京都を訪れようと決めていた。
そう、もう一度、金縛りのようなインスピレーションを受けた、あの東寺の二十一諸尊像から成る羯磨曼荼羅に会えるのだ。
正月の特別拝観に行けなかった、五重塔内部の真言八祖像も観たい。また観智院の愛染明王にも会いたい。
これを機会に、今度はゆっくり圓徳院の三面大黒天にも参りたい。回りきれなかった、寺院も訪れたい。ねねの道も歩きたい。
なんだか、チープで大変失敬な例えかも知れないが、まるで京都に住む、惚れたオンナにでも逢いに行く如く、今から胸が高まって仕方ないのだ。
とは、云うもの、いざ計画を立てると、三泊四日でも行きたい場所全ては網羅できない。公開時間が、午前10時〜午後4時と限られており、遍路の納経時間より短い!(笑
社寺仏閣に限らず、京都には日本人にとって見所が多過ぎるのだ。甲乙付けがたいところを、泣く泣く優先順位をつけて消去法で絞っていくしかない。
それでもチャリンコでも借りて、走りまわそうかと思ってるが(笑。
きっとみなさんも、若い頃に修学旅行などで、訪れたことがあっても、やはり京都は歳を食ってからの方が、益々魅力は増していくのではなかろうか。
四十二回非公開文化財特別公開寺院一覧(公開箇所)
○相国寺 開山堂・法堂・瑞春院
足利三代将軍義満が創建した臨済宗相国寺派大本山。南側に「龍淵水(りゅうえんすい)の庭」が広がる開山堂は、江戸時代に桃園天皇の后・恭礼門院(きょうれいもんいん)の黒御殿を移築したもので、開山・夢窓国師(むそうこくし)像を祀り、円山応挙筆の小犬の杉戸絵が残る。
法堂(重文)は慶長10年(1605)に豊臣秀頼が再建した現存する日本最古の法堂。狩野永徳の子・光信筆の壮麗な天井画「蟠龍図(ばんりゅうず)」は、堂内で手を打つ反響音が龍の鳴き声のように聞こえ、通称「鳴き龍」と呼ばれる。東照宮にある物と似ている。
【開山堂】
( 開基足利義満像、開山夢窓国師像、円山応挙筆襖絵・杉戸絵、枯山水庭園、後水尾天皇宸筆額「圓明」)
【法堂(重文)】
(現存する法堂の中で我が国最古のもの、狩野光信筆天井画「蟠龍図(ばんりゅうず)」)
【瑞春院】
相国寺の塔頭寺院。瑞春院の雛僧であった少年期の思い出をもとにした水上勉(みずかみつとむ)の直木賞受賞作『雁(がん)の寺』で知られる。
小説の由来となった襖絵が方丈に残り、円山派の画家・上田萬秋(ばんしゅう)の「雁の絵」や今尾景年(いまおけいねん)の「孔雀の絵」などが往時を偲ばせる。
夢窓国師の作風を取り入れた室町時代風の庭園には、池のほとりに表千家不審菴写しの茶室「久昌庵(きゅうしょうあん)」が佇み、水滴の反響音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)が澄んだ音色を奏でている。
(本堂襖絵 上田萬秋筆「雁の絵」、今尾景年筆「孔雀の絵」、書院襖絵 鈴木松年筆「古松の絵」、南庭「雲頂庭」、北庭「雲泉庭」、水琴窟)
○東寺 五重塔・灌頂院(京の冬の旅・初公開)
【五重塔(国宝)】
平安京造営の際、国家鎮護のため創建され、のちに弘法大師空海に下賜された東寺は、真言宗総本山であり密教美術の宝庫。金堂(国宝)、講堂(重文)とともにそびえる五重塔(国宝)は、高さ55メートルの国内最高の木造の古塔。現在の塔は正保元年(1644)徳川家光が古来の工法で再建、約360年前の姿をとどめている。特別公開の初層内部は、大日如来に見立てた心柱を守るように四仏や菩薩像を安置し、柱や天井の極彩色の文様が美しく荘厳である。
【灌頂院(重文)】
灌頂院(重文)は空海が創建の際に最初に構想した建築物のひとつで、密教教義上、重要な道場。現在の建物は寛永11年(1634)の再建で、内部は両界曼荼羅をかけるようになっており、壁に真言八祖像などが描かれる。
正月8日から14日までの7日間、中国・唐に習い始められた「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が営まれ、国家安泰や世界平和を祈願する。
今回の特別公開では、密教の奥義を伝授する儀式「伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」のしつらえを特別展観。
(正月の「後七日御修法」をはじめ、伝法灌頂が行われる真言密教の重要な道場 壁面に真言八祖像、伝法灌頂のしつらえ特別展示)
○智積院
真言宗智山派総本山。豊臣秀吉の子鶴松の供養のための寺である、祥雲寺の跡地に、江戸時代に玄宥僧正(げんゆうそうじょう)が、紀州根来山(ねごろさん)の塔頭智積院を再興した。
収蔵庫には、祥雲寺を飾った長谷川等伯一門の絢爛たる障壁画「楓図」(国宝)、「桜図」(国宝)などが残る。
中国の廬山(ろざん)をかたどった庭園(名勝)は、石組や植込みが織り成す深山のような景色が美しい。特別公開の宸殿は、京都画壇を代表する画家・堂本印象の華やかな襖絵で飾られている。
(堂本印象筆宸殿襖絵、長谷川等伯筆「十六羅漢図屏風」、一の谷合戦図、土田麦僊筆「朝顔図」)
○知恩院 三門
法然上人の草庵に始まる浄土宗総本山のお寺で、特別公開の三門(国宝)は元和7年(1621)徳川二代将軍秀忠により建立された。
高さ約24メートル、横幅約50メートル、屋根瓦約7万枚に及び、木造の門では世界最大規模を誇る。
楼上内部には、宝冠釈迦如来像、十六羅漢像が並び、柱や天井を極彩色の天女や飛龍が彩る。
また、知恩院七不思議の一つ・白木の棺と、三門を建立した五味金右衛門(ごみきんえもん)夫妻の像を安置。楼上からは京都市内を一望できる。
(徳川二代将軍秀忠により建立された、わが国最大規模の楼門(国宝)、楼上内部(宝冠釈迦如来・十六羅漢像・鏡天井や柱に極彩色の絵)、知恩院七不思議の一つ 五味金右衛門夫妻像「白木の棺」)
○ 知恩院 経蔵・勢至堂 【京の冬の旅・初公開】
経蔵(重文)は元和7年(1621)の建立。内部の八角形の輪蔵に『宋版大蔵(一切)経』約六千巻を納め、これを一回転させれば、全巻を読誦するのと同じ功徳を得られるという。
天井には極彩色で描かれた、飛天や鳳凰が絢爛華麗に舞う。
勢至堂(重文)は知恩院の旧本堂で、享禄3年(1530)再建の現存する知恩院最古の建造物。
この地が、法然上人の亡くなった場所であり、知恩院発祥の地で、上人の本地身とされる、勢至菩薩像(重文)を祀るため勢至堂と呼ぶ。
○六道珍皇寺 【京の冬の旅・初公開】
平安時代に弘法大師の師・慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開いたお寺で、お盆の精霊迎え「六道まいり」で名高い。
薬師堂には平安時代の作の本尊薬師如来坐像(重文)を祀り、閻魔(えんま)堂(篁堂)には、気迫に満ちた閻魔大王像と小野篁(おののたかむら)像を安置する。
平安朝の官僚・小野篁は、夜は冥府の閻魔王宮に仕えたといい、冥界への入口と伝わる「冥土通いの井戸」が庭に残る。
地獄絵「熊野観心(かんしん)十界図」、「珍皇寺参詣曼荼羅図」や播磨の赤松家ゆかりの寺宝が特別展観される。
(伝教大師作薬師如来坐像(重文)、地獄絵「熊野観心十界図」、珍皇寺参詣曼荼羅図、 赤松家ゆかりの寺宝展観)
○六波羅蜜寺
天暦5年(951)に空也(くうや)上人が開いたお寺で、西国三十三ヶ所観音霊場第17番札所。
この地は平安時代には平家一門の屋敷、鎌倉時代には六波羅探題が置かれ、史跡として名高い。秘仏・本尊十一面観音像(国宝)を祀る、本堂(重文)は鎌倉時代の様式を残す建物。
宝物館は優れた仏像彫刻の宝庫であり、口から6体の阿弥陀仏を出す、空也上人像(重文)や、平清盛像(重文)、さらに今回は貴重な「空也上人ゆかりの寺宝」が特別展観される。
(空也上人ゆかりの寺宝(空也上人の画像・空也上人が使っていた鹿の角の杖))
○立本寺 【京の冬の旅・初公開】
日像(にちぞう)上人により、元享元年(1321)に開創された日蓮宗京都八本山のひとつ。
境内に本堂・祖師堂・刹堂(せつどう)が、コの字型に並ぶ配置は、日蓮宗伽藍の典型である。
本堂の須弥壇(しゅみだん)後壁には、江戸中期の絵師・渡辺始興(しこう)が大画面に描いた「十六羅漢図」が残る。
江戸時代建立の客殿は6室に分かれ、仏間が背面に張り出す日蓮宗客殿の様式を伝えており、客殿庭園(京都市指定名勝)は、築山に石を組み、灯籠や五輪塔などを添えた緑豊かな庭園である。
そして、嵐山花灯路に続き、10日間だけ開かれる東山花灯路と重なる、3月14日〜3月18日の期間中に、ふたたび京都を訪れようと決めていた。
そう、もう一度、金縛りのようなインスピレーションを受けた、あの東寺の二十一諸尊像から成る羯磨曼荼羅に会えるのだ。
正月の特別拝観に行けなかった、五重塔内部の真言八祖像も観たい。また観智院の愛染明王にも会いたい。
これを機会に、今度はゆっくり圓徳院の三面大黒天にも参りたい。回りきれなかった、寺院も訪れたい。ねねの道も歩きたい。
なんだか、チープで大変失敬な例えかも知れないが、まるで京都に住む、惚れたオンナにでも逢いに行く如く、今から胸が高まって仕方ないのだ。
とは、云うもの、いざ計画を立てると、三泊四日でも行きたい場所全ては網羅できない。公開時間が、午前10時〜午後4時と限られており、遍路の納経時間より短い!(笑
社寺仏閣に限らず、京都には日本人にとって見所が多過ぎるのだ。甲乙付けがたいところを、泣く泣く優先順位をつけて消去法で絞っていくしかない。
それでもチャリンコでも借りて、走りまわそうかと思ってるが(笑。
きっとみなさんも、若い頃に修学旅行などで、訪れたことがあっても、やはり京都は歳を食ってからの方が、益々魅力は増していくのではなかろうか。
四十二回非公開文化財特別公開寺院一覧(公開箇所)
○相国寺 開山堂・法堂・瑞春院
足利三代将軍義満が創建した臨済宗相国寺派大本山。南側に「龍淵水(りゅうえんすい)の庭」が広がる開山堂は、江戸時代に桃園天皇の后・恭礼門院(きょうれいもんいん)の黒御殿を移築したもので、開山・夢窓国師(むそうこくし)像を祀り、円山応挙筆の小犬の杉戸絵が残る。
法堂(重文)は慶長10年(1605)に豊臣秀頼が再建した現存する日本最古の法堂。狩野永徳の子・光信筆の壮麗な天井画「蟠龍図(ばんりゅうず)」は、堂内で手を打つ反響音が龍の鳴き声のように聞こえ、通称「鳴き龍」と呼ばれる。東照宮にある物と似ている。
【開山堂】
( 開基足利義満像、開山夢窓国師像、円山応挙筆襖絵・杉戸絵、枯山水庭園、後水尾天皇宸筆額「圓明」)
【法堂(重文)】
(現存する法堂の中で我が国最古のもの、狩野光信筆天井画「蟠龍図(ばんりゅうず)」)
【瑞春院】
相国寺の塔頭寺院。瑞春院の雛僧であった少年期の思い出をもとにした水上勉(みずかみつとむ)の直木賞受賞作『雁(がん)の寺』で知られる。
小説の由来となった襖絵が方丈に残り、円山派の画家・上田萬秋(ばんしゅう)の「雁の絵」や今尾景年(いまおけいねん)の「孔雀の絵」などが往時を偲ばせる。
夢窓国師の作風を取り入れた室町時代風の庭園には、池のほとりに表千家不審菴写しの茶室「久昌庵(きゅうしょうあん)」が佇み、水滴の反響音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)が澄んだ音色を奏でている。
(本堂襖絵 上田萬秋筆「雁の絵」、今尾景年筆「孔雀の絵」、書院襖絵 鈴木松年筆「古松の絵」、南庭「雲頂庭」、北庭「雲泉庭」、水琴窟)
○東寺 五重塔・灌頂院(京の冬の旅・初公開)
【五重塔(国宝)】
平安京造営の際、国家鎮護のため創建され、のちに弘法大師空海に下賜された東寺は、真言宗総本山であり密教美術の宝庫。金堂(国宝)、講堂(重文)とともにそびえる五重塔(国宝)は、高さ55メートルの国内最高の木造の古塔。現在の塔は正保元年(1644)徳川家光が古来の工法で再建、約360年前の姿をとどめている。特別公開の初層内部は、大日如来に見立てた心柱を守るように四仏や菩薩像を安置し、柱や天井の極彩色の文様が美しく荘厳である。
【灌頂院(重文)】
灌頂院(重文)は空海が創建の際に最初に構想した建築物のひとつで、密教教義上、重要な道場。現在の建物は寛永11年(1634)の再建で、内部は両界曼荼羅をかけるようになっており、壁に真言八祖像などが描かれる。
正月8日から14日までの7日間、中国・唐に習い始められた「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が営まれ、国家安泰や世界平和を祈願する。
今回の特別公開では、密教の奥義を伝授する儀式「伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」のしつらえを特別展観。
(正月の「後七日御修法」をはじめ、伝法灌頂が行われる真言密教の重要な道場 壁面に真言八祖像、伝法灌頂のしつらえ特別展示)
○智積院
真言宗智山派総本山。豊臣秀吉の子鶴松の供養のための寺である、祥雲寺の跡地に、江戸時代に玄宥僧正(げんゆうそうじょう)が、紀州根来山(ねごろさん)の塔頭智積院を再興した。
収蔵庫には、祥雲寺を飾った長谷川等伯一門の絢爛たる障壁画「楓図」(国宝)、「桜図」(国宝)などが残る。
中国の廬山(ろざん)をかたどった庭園(名勝)は、石組や植込みが織り成す深山のような景色が美しい。特別公開の宸殿は、京都画壇を代表する画家・堂本印象の華やかな襖絵で飾られている。
(堂本印象筆宸殿襖絵、長谷川等伯筆「十六羅漢図屏風」、一の谷合戦図、土田麦僊筆「朝顔図」)
○知恩院 三門
法然上人の草庵に始まる浄土宗総本山のお寺で、特別公開の三門(国宝)は元和7年(1621)徳川二代将軍秀忠により建立された。
高さ約24メートル、横幅約50メートル、屋根瓦約7万枚に及び、木造の門では世界最大規模を誇る。
楼上内部には、宝冠釈迦如来像、十六羅漢像が並び、柱や天井を極彩色の天女や飛龍が彩る。
また、知恩院七不思議の一つ・白木の棺と、三門を建立した五味金右衛門(ごみきんえもん)夫妻の像を安置。楼上からは京都市内を一望できる。
(徳川二代将軍秀忠により建立された、わが国最大規模の楼門(国宝)、楼上内部(宝冠釈迦如来・十六羅漢像・鏡天井や柱に極彩色の絵)、知恩院七不思議の一つ 五味金右衛門夫妻像「白木の棺」)
○ 知恩院 経蔵・勢至堂 【京の冬の旅・初公開】
経蔵(重文)は元和7年(1621)の建立。内部の八角形の輪蔵に『宋版大蔵(一切)経』約六千巻を納め、これを一回転させれば、全巻を読誦するのと同じ功徳を得られるという。
天井には極彩色で描かれた、飛天や鳳凰が絢爛華麗に舞う。
勢至堂(重文)は知恩院の旧本堂で、享禄3年(1530)再建の現存する知恩院最古の建造物。
この地が、法然上人の亡くなった場所であり、知恩院発祥の地で、上人の本地身とされる、勢至菩薩像(重文)を祀るため勢至堂と呼ぶ。
○六道珍皇寺 【京の冬の旅・初公開】
平安時代に弘法大師の師・慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開いたお寺で、お盆の精霊迎え「六道まいり」で名高い。
薬師堂には平安時代の作の本尊薬師如来坐像(重文)を祀り、閻魔(えんま)堂(篁堂)には、気迫に満ちた閻魔大王像と小野篁(おののたかむら)像を安置する。
平安朝の官僚・小野篁は、夜は冥府の閻魔王宮に仕えたといい、冥界への入口と伝わる「冥土通いの井戸」が庭に残る。
地獄絵「熊野観心(かんしん)十界図」、「珍皇寺参詣曼荼羅図」や播磨の赤松家ゆかりの寺宝が特別展観される。
(伝教大師作薬師如来坐像(重文)、地獄絵「熊野観心十界図」、珍皇寺参詣曼荼羅図、 赤松家ゆかりの寺宝展観)
○六波羅蜜寺
天暦5年(951)に空也(くうや)上人が開いたお寺で、西国三十三ヶ所観音霊場第17番札所。
この地は平安時代には平家一門の屋敷、鎌倉時代には六波羅探題が置かれ、史跡として名高い。秘仏・本尊十一面観音像(国宝)を祀る、本堂(重文)は鎌倉時代の様式を残す建物。
宝物館は優れた仏像彫刻の宝庫であり、口から6体の阿弥陀仏を出す、空也上人像(重文)や、平清盛像(重文)、さらに今回は貴重な「空也上人ゆかりの寺宝」が特別展観される。
(空也上人ゆかりの寺宝(空也上人の画像・空也上人が使っていた鹿の角の杖))
○立本寺 【京の冬の旅・初公開】
日像(にちぞう)上人により、元享元年(1321)に開創された日蓮宗京都八本山のひとつ。
境内に本堂・祖師堂・刹堂(せつどう)が、コの字型に並ぶ配置は、日蓮宗伽藍の典型である。
本堂の須弥壇(しゅみだん)後壁には、江戸中期の絵師・渡辺始興(しこう)が大画面に描いた「十六羅漢図」が残る。
江戸時代建立の客殿は6室に分かれ、仏間が背面に張り出す日蓮宗客殿の様式を伝えており、客殿庭園(京都市指定名勝)は、築山に石を組み、灯籠や五輪塔などを添えた緑豊かな庭園である。
2008年01月30日
芦屋の知己より、四国八十八ヶ所遍路の報告が届いた。彼とはこのブログを通じて、えにしを頂戴した。以後、互いの遍路・巡礼状況などを、ときどき情報交換させて頂いている、賢明で筆頭株主のような読者さんである(笑。
彼は区切り打ちの車遍路で、既に二巡目。自分よりベテランの遍路さん。今回は四国53番札所 円明寺と別格霊場9番 徳盛寺まで行かれたそうな。彼のメールによれば、焼山寺、鶴林寺、大龍寺の大山三寺は、雪で参詣の人もほとんど居なかったらしい。道路はアイスバーン状態だったそうで、良くご無事で帰ってらしたと、連絡を頂いて安堵する。
四国でも、この時期30センチもの雪が積もるとも。
その代わり、ロープウェイは貸切らしく、優雅だったのか孤独だったのか・・。
他にも、別格7番 金山出石寺は雪の中もう少しで通行止になりそうだったらしく、45番岩屋寺、44番大宝寺は道路が凍りだめでした・・と書かれていたので、車でも登れなかったのだろうか。
自分が歩き遍路をしていたのは、たった一ヶ月前なのに、寺の名称を聞くと既にどこもかしこも、みな懐かしく感じる。
彼も遍路中、車の中で虚空蔵求聞持法を実践されている。そうそう、最近報告していなかったが、と云うより実生活に戻ってサボり気味で・・
虚空蔵求聞持法はただいま、三十一万四千七十七回で停止している。これもいつまでも無期限と云うわけに行かないので、一気に山でも篭ってやり終えたいところだが。
ふたたび知己の話しに戻るが、関西に居住している彼は既に、西国三十三箇所も巡礼されており、今月14日には京都・東寺で行なわれた後七日御修法にも出向されている。
後七日御修法では、真言宗各山の高僧方が、潅頂院から御影堂まで出立され、今年は金剛界曼荼羅での修法が行なわれたそう。高野山専修学院や各山の僧侶も数多く参集され、各高僧を南無大師遍照金剛の唱和で出迎えたとも。
また彼が、今観音寺で読経されていた際には、100名近い僧侶が移動してきて、般若心経の唱和をされたそうで、想像するだけでも20人や30人の団体遍路どころではない、ど迫力の読経だったろうと思う。
自分も是非行きたかったが、四国から戻ったばかりで今回は失念した。
先日彼から、後七日御修法に高僧が参集した沢山の写真と一緒に、西国三十三箇所のマップまで頂いた。 自分は当初、四国遍路をレンタカーで巡る予定だったので、西国三十三箇所も加えて巡礼するつもりだった・・が、ご存知の通り歩き遍路を敢行したので、西国遍路は今後の巡礼目標の一つなのだ。それを知っている知己の心遣い、感謝の念に堪えないばかり。
感謝合掌
彼は区切り打ちの車遍路で、既に二巡目。自分よりベテランの遍路さん。今回は四国53番札所 円明寺と別格霊場9番 徳盛寺まで行かれたそうな。彼のメールによれば、焼山寺、鶴林寺、大龍寺の大山三寺は、雪で参詣の人もほとんど居なかったらしい。道路はアイスバーン状態だったそうで、良くご無事で帰ってらしたと、連絡を頂いて安堵する。
四国でも、この時期30センチもの雪が積もるとも。
その代わり、ロープウェイは貸切らしく、優雅だったのか孤独だったのか・・。
他にも、別格7番 金山出石寺は雪の中もう少しで通行止になりそうだったらしく、45番岩屋寺、44番大宝寺は道路が凍りだめでした・・と書かれていたので、車でも登れなかったのだろうか。
自分が歩き遍路をしていたのは、たった一ヶ月前なのに、寺の名称を聞くと既にどこもかしこも、みな懐かしく感じる。
彼も遍路中、車の中で虚空蔵求聞持法を実践されている。そうそう、最近報告していなかったが、と云うより実生活に戻ってサボり気味で・・
虚空蔵求聞持法はただいま、三十一万四千七十七回で停止している。これもいつまでも無期限と云うわけに行かないので、一気に山でも篭ってやり終えたいところだが。
ふたたび知己の話しに戻るが、関西に居住している彼は既に、西国三十三箇所も巡礼されており、今月14日には京都・東寺で行なわれた後七日御修法にも出向されている。
後七日御修法では、真言宗各山の高僧方が、潅頂院から御影堂まで出立され、今年は金剛界曼荼羅での修法が行なわれたそう。高野山専修学院や各山の僧侶も数多く参集され、各高僧を南無大師遍照金剛の唱和で出迎えたとも。
また彼が、今観音寺で読経されていた際には、100名近い僧侶が移動してきて、般若心経の唱和をされたそうで、想像するだけでも20人や30人の団体遍路どころではない、ど迫力の読経だったろうと思う。
自分も是非行きたかったが、四国から戻ったばかりで今回は失念した。
先日彼から、後七日御修法に高僧が参集した沢山の写真と一緒に、西国三十三箇所のマップまで頂いた。 自分は当初、四国遍路をレンタカーで巡る予定だったので、西国三十三箇所も加えて巡礼するつもりだった・・が、ご存知の通り歩き遍路を敢行したので、西国遍路は今後の巡礼目標の一つなのだ。それを知っている知己の心遣い、感謝の念に堪えないばかり。
感謝合掌
2007年12月22日


これで、秩父三十四観音、関東八十八ヶ所、四国八十八ヶ所、別格二十ヶ所の四つの納経帳が揃った。
〜京都駅へ〜
雨は、徐々に本降りになってきた。京都駅へ向かう道のりを、ある事に非常に悔やみながら歩いていた。
実は、ロッカーに荷物を預け東寺へ向かったとき、振り出した雨の中を、小さな子供を抱きかかえた母親とすれ違った。すぐさま、傘をあげようと思った。
が、自分も濡れる。そんなモン、また駅へ戻ってコンビニで買えばいい。しかし、ベビーカーを押す亭主も居る、余計な世話か。だが、背中を丸めた母親の表情は、雨の中を小走りに歩くのが、耐えられない様子だ。そんなコトを、一瞬ゴチャゴチャ考えていると、その夫婦は肩をすぼめながら、通り過ぎてしまった。
なぜ、とっとと傘をあげなかったのか?
ビジネスの世界において、友を持たず、敵か部下しか周囲に居なかった自分が、人生の師と呼べる人間がたった一人だけ居る。15歳で父親が蒸発した自分にとっては、17歳で出会った彼は、正に渡世上の親とも呼ぶべき存在だった。その彼に若い頃から、こう云われ続けてきた。
「考えを直ぐ口に出すな。感情で動く前に考えろ。」
躊躇するとか、優柔不断ではなく、常に冷静で居ろと云う意味だが、長い年月における習慣が、こんな些細なときにも邪魔をする。
これからは、人に施しをしたいなら、考える前に行動を起こすようにしよう。
京都駅に着いても、後悔の念が消えない。改札を出てくるお年寄りなどに、雨模様を見て困っている人が居ないか、しばらく立っていた。
だが、誰しも空を見上げたら、そそくさと手提げ鞄から、折りたたみ傘を出してさしだす。みな、ご近所なのか・・特に女性のお年寄りは、用意がいい。
新幹線の時間が迫ってきて、いよいよ諦めて改札へ向かう。
全く話しは変わるが、京都は美人が多い。京美人と云うのは、既に死語だと思っていたが、本当にキレイな女性が多く感じた。 いやいや、オンナ日照りが続いてっからって、餓えきってるせいではないよ。ホント、ホント。マジで美人が多かったんだから。(笑
551蓬莱の売店があったが、やはり例のポテトは売られてない。東海道新幹線は、まだ喫煙車両が残っていた。普段、東京へ行き来しているのは、とっくに全車禁煙にしやがった上越・新潟・長野新幹線。グリーンだけでも、喫煙車を残しときやがれってんだ。座席番号は「グリーン車10号4A」。「4」は、自分の運命数。こうして、偶然「4」に出会えると、一日中気分が良い。
禁煙待合室で、お年寄りに席を譲る。ここも喫煙所に暖房は効いてない。ここ数年、どこもかしも喫煙者の排斥は酷いモンだ。特に都心部においては、更に痛感する事が多く、ことごとく愛煙家の行き場が無くなって来ている。
新幹線に乗り込み、荷物を棚に上げていると、金剛杖を忘れたのに気付く。
「エライこっちゃ!」さっき、お年寄りに譲った席の後ろに置いたままだ。こんな処に置いてなんぞ行けない。発車のベルが鳴り響くホームへ飛び出し、ドアとホームを跨いで立って、まず列車を止める。グリーン車と車掌車は近い、窓から顔を出す車掌へ大声で叫ぶが、分かってない様子。
駅員が押し込みに来たので、「すぐそこの待合室に忘れ物をした!」と事情を話し、すっ飛んで取りに行った。直後、マイクで「待合室に忘れ物〜、停車中です停車中〜」と、ご丁寧にアナウンスされた。走りながら笑ってしまった。(笑
▼
続きを読む


読み難ければ、クリックすると少々は見易くなるかも。
09*24
御影堂(大師堂)の前に立っていた。
弘法大師と大日如来に、再び導かれるように雨の中、また東寺を訪れた。
東海道新幹線の発車時刻は11時。十分間に合うように、早起きして朝食を済ませ、ホテルをチェックアウトした。
京都駅地下の、大型コインロッカーにキャリーを放り込み、コンビニで傘を買い歩いてきた。六寸の、大きな菅傘を被ってはいるが、歩き遍路の時と違って、作務衣に下駄履きだ。濡れたまま新幹線には乗れない。
実のところを話すと、ゆうべホテルの部屋で、東寺で買った土産を渡す相手ごとに、小分けに整理していると、三冊買った本のうち、一冊が入ってなかったのだ。「あの爺さん、忘れたな〜」
なんやかんやと、バカみたいに沢山買ったので、購買所の爺さんがうっかりしたようだ。受け取った時に、こちらも確認すれば良かったが。
たかが、600円ぐらいの本。本だから、アマゾンでも本屋でも手に入る。
「まぁいいか、また買えば・・わざわざ取りに行く事もない」
最初はそう思った。だがそのあと、あるトラブルが生じる。
普段利用している「JR東日本」の「えきねっと」で予約した新幹線のチケットが、京都駅では受け取れない事が、予約したあと、確認した際に分かった。「えきねっと」は「JR東日本」圏内でしか受け取れないらしい。JR西日本では通用しないのだ。
代わりに「エクスプレスe予約」ってのがあった。すぐ登録しようと思ったら、「J-WESTカード」なる物が必要なんだと。
「そんなモン知るか!第一、作っとるヒマあるかい!」
全く甚だ面倒臭い。サポートデスクに電話して、散々ゴネたが「予約確認の際に、同意するを選択されると、その件について明記してある、規約を全てお読み頂きご承知頂いたと・・・」の一点張りで、確かにあったので、ムカツクがどーにもならん。
これに限らず、二次元のネット上での「同意する」は本当にクセもんだ。諸兄方も、規約を端から端までなんぞ、余程時間がある時か、不安材料のあるサイトしか読まんのではないか?
おまけに、キャンセルするか延期するかしかないが、もう翌日なので30%もキャンセル料を取られる。納得できないまま、路線を普段使う上越新幹線へ、東海道から変更した上で、延期処理をした。
JR西日本のサイトで、カードを作る以外に方法はないか探すと、電話でも予約出来るとあった。すぐに電話を入れると、受付時間が「2分」だけ過ぎていた。翌朝8時まで、電話受付の対応はない。踏んだり蹴ったりで、イライラしまくる。東日本の方は、留意されたし。
と、まぁ〜そんなワケで、朝っぱら朝食バイキングを喰いながら、8時に電話を入れ予約を取り直した。元々は寝坊するつもりで、新幹線をのんびりした時間に予約した。それがこの騒動と、本の入れ忘れによって、「どーしても、も一回来いっちゅうんですかい?お大師さん」という、気持ちになったのだ。
▼続きを読む
2007年12月21日





「講堂」「五重塔」「金堂」
空海の描いた大伽藍を、たっぷり心行くまで堪能し、礼拝し終え、実に清々しい気分のままで、無料の境内エリアへ戻る。
それから係りの方と約束通り、東寺を出てしまう前に三面大黒堂に寄って、御影(おみえい)を頂いた。一万円札を崩すのに、随分と時間がかかったモンだ。(笑
次は境内を、北門から一旦出る形で、僅か東にある「観智院」へ向かう。露店は、この門を抜けてもなお、道の両端にビッシリ続き、更に一本、北の車通り(北総門)まで達している。この道は「櫛笥小路」と呼ばれ、位置も幅も、平安京創建時から変わっていない。
「観智院」自体もまた、東寺の子院として、南北朝時代から室町時代にかけて、優れた学僧を算出している。東寺へは参拝は大抵「東寺東門前」のバス停で降りて、自分も入ってきた、大宮通りの慶賀門からの進入が普通だそうだ。
だが是非、「北総門」⇒「櫛笥小路」⇒「北大門」から東寺へ至る道を、歩いて頂きたい。
何故なら、平安京の最南端に東寺は建てられたため、正門(南大門)から入るには、一旦、都を出なければならなかった。そこで平安時代の人々は、この「櫛笥小路」を利用して、北大門から参拝に訪れたらしい。以来、鎌倉〜南北朝〜室町〜戦国・安土桃山〜江戸〜平成へと、千二百年の時空を越え、今も変わらず、洛南高校(旧、東寺高校)の生徒や、近隣住民が利用しているのだ。そういった、遠き歴史に思いを馳せながら、のんびり歩いて見られるのも、また風情があろうかと思う。
チケットは、五重塔とは別々になっているので、ポケットを探り見つけておいた。入り口で履物を脱ぐようになっている。
(うぅ〜土足厳禁かい・・国宝級の学問所やから当然か。)
柱に手を突きながら、なおもフラフラと、不器用に下駄を脱ぐ。
東寺に居る時、あまりにも寒かったので、露店でパイルの足袋ソックスが買って、五本指インナーの上に履き、更にその上から白足袋を履いているので、パンパンで脱ぎづらい。ただでさえ、歩き遍路で一回り大きくなった足を、自分で圧迫してどーすんねん?アホちゃうか?(笑
さぁさぁ、前置きはこれぐらいにして
ボチボチ、中に入りましょうや。
▼続きを読む



断っておくが、手配犯写真ではない。(笑
おのぼりさん的、観光気分はキライなんだが、歩き遍路は一人旅。
そういえば自分の写真が、全然ないので、東寺参拝記念に撮って貰った。
一枚千円、気に入れば買ってやればいい。別に自分のカメラでも撮ってくれる。
あまりにも長い長い、深い深い感動。
講堂を出て直ぐには、次の金堂へは行けなかった。南北に配置された金堂と、講堂の東側には、池を巡るように美しい日本庭園がある。灰皿もある、そこで一服しよう。っと、その前に身体が冷えてションベンがしたい。五重塔とは反対の北にあるトイレへ駆け込む。
昔から、呑みに行っても「どんな膀胱してんねん?」と言われたほど、全く席を立たずに延々呑んでいたぐらいだったが、幾ら寒かったとはいえ、歳のせいか?トイレが近くなった気がする。さすが、夜中にはまだ行かないが、二回行くようになったら、酒じゃなくて薬飲まんと。(笑
鮮やかな紅葉と共に、五重塔を眺められるこの庭園は最高だ。とても気持ちがいい、一息のタバコを吸ってから、五重塔をぐるっと一周した。 どのアングルから眺めて見ても、美しい塔だ。ガリレオが落下実験を行った、イタリアのピサの斜塔と同等の高さを誇り、現存する国内最高峰の木造塔だ。徳川家光によって古来の方法で再建され、360年間同じ姿を留めている。
炎上の歴史とも呼べるほど、焼失の憂き目に会い、現在は五代目。東寺の諸道の中でも、87年の歳月を掛け一番最後に完成したと云われる。
初層部分には、空海が構想した金剛界曼荼羅が描かれている。
中心の柱に背を沿うように、北に「不空成就」西に「阿弥陀」東に「阿閃」南に「宝生」の四如来を安置し、脇侍を八大菩薩が固める。
ん?肝心な大日如来は?と思われた方は流石である。空海は五重塔、中心の柱そのものを、宇宙の真理を表す、大日如来と位置づけたそうだ。柱や天上は極彩色の文様が美しく荘厳らしい。
「そう」とか「らしい」としか云えないのは、ここも特別展観の時しか入れないのだ。しかも、ここだけはたった正月三箇日のみ拝観が許されると言う。う〜〜〜ん、ここも見たい!正月といえば、あと僅か十日だ。ずっと京都に泊まりこむかな。(笑
さぁ、五重塔は充分堪能した。次はいよいよ「金堂」だ。
続きを読む



画像と本文が一記事分、ズレていて申し訳ない。
そんなの関係ない!が、皆さんへ読者プレゼント第二弾を差し上げたいと思う。前回の記事に書いた東寺の納経所に、こんな文面が書かれていた。
「江戸時代よりお遍路は、まず東寺の御影堂へ参拝し、道中安全を祈願して厄除け御守札を持って、旅へ出た・・・云々すんぬん」
と云うことで、自分のように関東から直接、飛行機で四国入りしてしまう遍路さんは、この東寺へは寄って行けない。そういった皆さんのために、遍路の安全な旅を祈願した「四国遍路御守護」を東寺で購入してきた。これに「四国八十八ヶ所経本」を付けてプレゼントしたいと思う。画像三枚目がそうだ。
この経本は、四国八十八ヶ所全ての寺の御詠歌、ご真言、それに開経偈から般若心経〜十三仏真言など、勤行の経が大変詳しく載った経本だ。新品で買って持っていったが、御詠歌以外全部暗記しているので、結局一度も使わず途中で自宅へ送り返した。雨に濡れたので、少々紙のカバーが剥げているだけ。だから新品同様でしょ。誰か、これから旅立つ方に役立てて欲しい。前回のDVDプレゼントと重複申し込み可能なので遠慮なく申し込んでくれ。応募は⇒こちらから。
なお、第一弾のプレゼントは、早くから申し込んで下さった方もいらっしゃるので、間もなく締め切らせて貰う。そろそろ送ってあげたいしね。
さてと、話しを東寺へ戻そう。
拝観料800円を払い、やっとこさ中へ入る。おっとぉ〜、この拝観料には「観智院」の拝観料も含まれる。ここだけだと500円だからね。観智院のお話しはまた後で。
東寺の東西中心を、更に南北にビシッと配置された伽藍は南から「金堂」「講堂」「食堂」と北へ向かい並ぶ。食堂は無料、入り口が北にあるのでまず目にするのは「講堂」になる。ここに、どうしても見たかった大日如来を始め、我が国最大の立像群「21尊像」が安置されているのだ。
少し緊張気味に、巨大な講堂の割りに小さな木の扉を開いた。
続きを読む



弁天堂で礼拝したあと、更に奥へ直進すると北大門を右に見ながら真正面の門をくぐった。そこが突き当り、運良くやっと大師堂に辿り着いた。写経を収める箱には「四国八十八ヶ所巡礼」と記されている。やはり、聞いていた通り、本来この東寺から「四国遍路」を始めるのが、古くからの不文律なのか? 大師堂は靴を脱いで、上がって参拝出来るようになっていた。引きずる足で階段を登り、お大師さんの前に正座をした。
高野山での礼拝が最後だと思っていた。
この旅ではもう、寺で読経する事も、神仏に手を合わせる事すらも、ないだろうと思っていた。今また、自分の目の前にお大師さんがいらっしゃる。 何と云う威厳、何と云う神々しさ。 京都に来て良かった・・「お呼び立てして頂いて、本当に有難う御座います。」「お蔭さまで無事、四国巡礼を終え戻って参りました。」そう、ご挨拶から読経を続けた。頭の中は静寂と化し、辺りの人ゴミの喧騒は、この間全く耳に入らなかった。
〜脱線マメ知識〜
因みに、この大師堂(御影堂=みえいどう)は、実際にお大師さんが10年あまり住まれた場所である。嵯峨天皇から平安京二大寺院の一つ、東寺を一任された空海は「歓喜に絶えず、秘密道場と成す」と後に記したそうだ。ここに、我が国初の密教「真言宗」は誕生する。東寺を、真言密教の根本道場と定めた空海は、人生の集大成を捧げた大仕事に取り掛かる。その手始めが、画像の21尊像が並ぶ「講堂」の建設であり、正方形の境内のど真ん中に講堂を配置し、東西南北十字に結ばれた中心に、密教の主尊「大日如来」が安置されている。時に空海50歳、この東寺を宇宙空間に見立て、正に密教の教えそのものを「羯磨曼荼羅」として、境内に描いて行ったのだ。
続きを読む



07*30京都着
地下鉄梅田駅〜JR大阪駅経由して、東海道山陽本線快速で京都に着いた。ミナミから僅か一時間弱、あっと云う間だった。 予約してある宿、ホテルステーション京都西館は京都タワー方面だ。カランコロン、京都の街を下駄で歩く。それにしても寒い、どんよりした曇り空。風も冷たい。やはり、大阪より北に位置するから気温は低い。
遍路姿と違って、軍手は革の手袋に変わり、笈摺は毛皮のマフラーになった。唯一、贅沢した頃のなごり品だが、売りに出してはいたものの、高いので売れずに残っていた。そこまで出せる人は新品を買うので、こういった贅沢品は売れ辛い。私服が作務衣しかないので寒いと思って送らせた。しかし、この寒さなら持ってきて正解だったと思う。
取り合えず、宿に着いて早過ぎるのでクロークへキャリーや掛け軸を預けた。 フロントの前にレストランがあり、朝食バイキングになっている。今朝、御堂筋ホテルを出る前に前夜買って置いた、コンビニおにぎりを食って来たので、腹は減ってないがとにかく寒い。コーヒーだけ飲ませて貰えないかと頼むと、特別にと250円でOKしてくれた。おまけにバイキングだからお代わりも出来たから、一杯125円。安すぎる。ラッキー♪
さぁさぁ、一服も終わりコーヒーも二杯飲めた。
東寺はホテルの目と鼻の先だ、フロントに一応確認すると、「はい、東本願寺はそこです」と云う。「は?本願寺?東寺ではないんですか?」・・携帯の小さな地図画面で、宿を予約する際に最も東寺に近い宿を選択したと思ったのだが、どうも「東本願寺」と「東寺」を間違えたらしい。ロビーにあったパソコンで、もう一度「東寺」の場所を確認すると、何と駅の反対側だった。こりゃ笑える。今日もやっぱり、歩き遍路か。(笑
続きを読む
06*38 なんば駅
Suicaの使えない、地下鉄御堂筋線の中は既に通勤ラッシュが始まっている。何しに、こんな朝っぱらから地下鉄に乗っているのか? 実は急に思い立って、京都へ向かっているのだ。そう、あのリーフレットを見てから気になっていた、東寺へ参るために。特別展観は3月に行こうと思ったのだが、それまでとても待てない。もう居ても立っても、居られなくなってしまった。3月を待たずとも、目当ての二十一尊像のある講堂は年間通じて入れる。千百年以上も、秘仏にされていた21尊像は昭和40年、正しく自分の生まれた年に、その扉が開き一般公開されたと云う。どうしても見たい!。
それにもしかしたら、お大師さんに導かれたのでは?
と思えるほど、タイミング的にもピッタリだった。 なぜか?それは今日「21日」は、お大師さんの月命日なのだ。東寺では、1239年以降毎月21日に「弘法市」と呼ばれる盛大な市が開かれ、特に本命日の4月21日と「終い弘法」は、最も人出が多く20万人を超す大盛況だそうだ。
もし、四国で別格20番大瀧寺に戻らず、1番霊山寺から二日早く高野山へ行ってたら? もし、ミナミで四泊せず直行で群馬へ帰っていたら?もし、あのリーフレットを見なかったら? ・・・どう考えても、お大師さんが「来い!」と云ってる気がしてならない。お大師さんが、21尊像の前で護摩を焚かれたと云う、あの講堂へ行きたい!
行きたくて堪らない! 抑えられない思いのまま、残り一泊分をキャンセルし、夜明けの御堂筋ホテルを飛び出した。
続きを読む
Suicaの使えない、地下鉄御堂筋線の中は既に通勤ラッシュが始まっている。何しに、こんな朝っぱらから地下鉄に乗っているのか? 実は急に思い立って、京都へ向かっているのだ。そう、あのリーフレットを見てから気になっていた、東寺へ参るために。特別展観は3月に行こうと思ったのだが、それまでとても待てない。もう居ても立っても、居られなくなってしまった。3月を待たずとも、目当ての二十一尊像のある講堂は年間通じて入れる。千百年以上も、秘仏にされていた21尊像は昭和40年、正しく自分の生まれた年に、その扉が開き一般公開されたと云う。どうしても見たい!。
それにもしかしたら、お大師さんに導かれたのでは?
と思えるほど、タイミング的にもピッタリだった。 なぜか?それは今日「21日」は、お大師さんの月命日なのだ。東寺では、1239年以降毎月21日に「弘法市」と呼ばれる盛大な市が開かれ、特に本命日の4月21日と「終い弘法」は、最も人出が多く20万人を超す大盛況だそうだ。
もし、四国で別格20番大瀧寺に戻らず、1番霊山寺から二日早く高野山へ行ってたら? もし、ミナミで四泊せず直行で群馬へ帰っていたら?もし、あのリーフレットを見なかったら? ・・・どう考えても、お大師さんが「来い!」と云ってる気がしてならない。お大師さんが、21尊像の前で護摩を焚かれたと云う、あの講堂へ行きたい!
行きたくて堪らない! 抑えられない思いのまま、残り一泊分をキャンセルし、夜明けの御堂筋ホテルを飛び出した。
続きを読む



















