11月の下旬から、毎朝の水行を始めた。
思いつきで始めたので、ハッキリ最初の日にちを覚えていない。
が、まだ11月だったのは間違いないから、少なくとも十日は過ぎた筈である。

水行の次第は修験道宗・三重院での滝行で習った内容に準じたつもりだった。
確かに冬の真水は冷たいが自宅の風呂場での水温は、三重院で雨の中、夜に被った
井戸の強烈な冷たさとは全然比較にならない。
しかも、水行が終われば即その場で熱いシャワーを浴びられる。甘っちょろい行である。

『自宅での水行次第』
*あくまで自分のやり方なので、真似せずお好きなように。
要は心と身体の鍛錬。自分にとっては三毒の心を洗い流し、今までの人生を戒め
特に清浄を好まれる聖天さまに対し、身を淨め勤行に臨むためである。

1、まず寝巻きのスウェットを脱ぐ前に腕立て伏せ。
腕立て伏せは毎夜風呂の前にやってるので、水行を始めてから一日二回出来る。いいことだ。

2、この頃持病の腰痛が酷いので、ついでに腰振り運動も五十回。
*この二つの運動で、少々身体も温まる

3、寝る時も終日着けている、聖天さまの御守を外してご挨拶。

4、スッポンポンで風呂場へ。

5、風呂の窓から朝日に向かい、大日如来にご挨拶。
「大日如来さま、お早う御座います。只今より水行させていただきます。」

6、智拳印を結び大日如来のご真言 二十一編
「おん あびらうんけん ばざらだとばん」

光明真言 三遍
「おんあぼきゃ べいのしゃのう まかぼだらまに はんどまじんばら はらばりたやうん」

大聖歓喜天のご真言 七遍
「聖天さま、お早う御座います。宜しくお願い致します。」
「おん ぎゃくぎゃく きり おんか うんはった」

大師御宝号 七遍
「高野の山に身をとどめ、救いの御手を垂れ給う。教えのみおやに帰依し奉る。
願わくば無明長夜の闇路を照らし、二佛中間の我らを導き給え。」
「南無大師遍照金剛」

7、般若心経 一巻

8、桶に水を溜めながら、「六根罪障一切清浄」を繰り返す
*被っている最中も次の水が溜まるまで、常に言い続ける。

9、口をすすぎ、左腕、右腕、左脚、右脚、胸に水をかける

10、三毒を洗い流す
「貪りの心を洗い流し給え」
「怒りの心を洗い流し給え」
「愚痴の心を洗い流し給え」 これを3セット。計9回被る。

11、次にその日の心境などによって付加えている。
「まやかし、偽り、傲慢な43年間の人生を洗い流し給え」
「我子を殺め、我子を傷つけ、人を傷つけて来た大いなる罪をお許し下さい」
「人に世に役立つ人間に生まれ変わらせて下さい」 などなど。

12、身体が冷えてきて、思いつくことがなくなればお礼を述べて終了。
給湯のスイッチを入れ、お湯に変わったシャワーを浴び、下半身はソープを付けて
ウンコしてなくても、前夜使ってなくても、チンチンとケツの穴は入念に洗う。
(そもそも、オンナ遊びも一切止めたので最近全く使ってもないが、最も清めなくてはいけない気がするので)

以上



去年の今日は、前日に四国八十八ヶ所20番札所鶴林寺を経て、
別格霊場3番札所慈眼寺へ向かっていた。間もなく歩き遍路の最終日、12月17日。
あれから一年が経った。なにか変わったんだろうか。なにを学び得たのだろうか。
人は本当に変われるのだろうか。生きたまま生まれ変わることが出来るのだろうか。

高野山真言宗の仏前勤行集次第にある、発菩提心(ほつぼだいしん)真言の和訳に、
『白浄(びゃくじょう)の信心を 発(お)こして 無上(むじょう)の 菩提(ぼだい)を求む
願わくは 自他もろともに仏の道を悟りて 生死(しょうじ)の海を渡り 解脱の彼岸に到らん』

おんぼうじ しった ぼだはだやみ  

とある。以前、三重院の村上副住職と呑んだとき、自分のありのままの気持ちを
話したら、「それが菩提心だよ」と仰って下さった。
菩提心とは、覚りを得ようとする心。発菩提心とは、つまりそれを起こすこと。
本当に自分は菩提心を抱いたのだろうか。またこれからも抱き続けていけるのだろうか。

そもそも菩提とはナンだ?
密教経典『大毘盧遮那成仏神変加持経』では「菩提とは実の如く自心を知ること」とある。
大好きな映画マトリックスのワンシーンに、ネオが初めてオラクル(預言者)の元を
訪ねた時、その部屋の壁に『Nosce te ipsum』・・『汝、己自身を知れ』という意味の
ラテン語の文字が掲げられていた。とても意味深で興味深いシーンである。
仏教を知る旅(修行)とは、自分自身を知る旅であろう。

自分自身を知るとはナンだ?
単に自分を冷静且つ客観的に分析することではない。
そんなのは今までだって散々やってきた。常に明確なビジョンを持ち
人生の目標を掲げ邁進し、思考思想を自分の言葉に発してきた。そうではない。
本当の自分を知るとはそうではない。真に自己を追求することは別次元であろう。
まだまだ自分が分からない。情けないほどに分からない。

自分でアンプラグして、マトリックスの隷属から脱しても、つまり発心しても
それは単に『目覚めたい』と願って目覚めただけで、真に覚醒した訳ではない。
大乗仏教では菩提とは煩悩の対義語であるとしながらも、とりわけ我が密教では
煩悩=欲望・怒り・迷い・愚痴と、菩提=道・覚・悟りは「而二不二(ににふに)」
と表し、双方は二つであってしかも二つではないと説くのが『煩悩即菩提』である。

ややこしい・・。
正反対の作用に捉えられる両者が、一見矛盾しているようにも思う。
「而二不二(ににふに)」とは、相(あい)即(そく)して存在するということ。
「即」とは、即ち(すなわち)同一ではないが不二の関係であるということ。イコールではない。
善と悪、慈悲と無慈悲、善根と罪障、表裏一体。対極のバランスなのだろう。
菩薩が済度するのも煩悩から。煩悩(欲望)がなければ、菩提(覚り)も得られない。
マトリックスなら、ネオが菩提でスミスが煩悩というところか。

このブログのトップページ上部にあるブログの説明文は、このブログを
書き始めた当初に書いたもので内容は一年以上経った今も変えていない。
あの頃は密教はおろか、仏教のぶの字も分からず、ただ己の欲望に満ちた人生に
飽き飽きし、欲を貪り続けた人生を戒めるべく、まずは物欲を捨てることから始めた。
ただひたすら物欲を捨て、性欲を捨て、名誉欲や事業欲も捨て、捨てに捨ててきた。
遍路や巡礼を通じてひたすら自分を問うてきた。余計に自分が分からなくなる。
そんなときもただひたすら、虚空蔵求聞持法を唱えたり、経を読んだり行をしたりした。

だが途中で気がついた。「人を救いたい」というのも、欲の内の一つではないかと。
自分自身がなにかを悟りたい、苦しみや罪から脱したい、解脱したい、そのためだけに
行を重ねてもただの自慰行為ではないか?実際に現実的に人を救えないのではないかと。
人を救うには大きな金がいることも分かった。事業欲を完全に捨ててしまえばこれも賄えない。
また、食欲や睡眠欲を主とする生きる欲自体も捨ててしまえば、死んだら施しも何も出来ない。


だからただ捨てるだけではダメなのだと気がついた。
煩悩を燃やしつくし、レバレッジによって菩提心を増幅させる。
仏道とは、仏道を行くものは、この究極の境涯を一生かけて宿題としていくべきなのだろう。

僧侶の本懐とは、いうまでもなく一切衆生救済にあると思う。
僧侶は職業ではない。センセイ商売ではない。偉くもなんともない。
寺院は会社でも事業所でもない。増してや観光名所でもない。
家族のためではなく、身内のためではなく、増して自分のためでもなく
全く他人のために修行が出来る人、お行をさせていただくこと。やり続ける人。
他人のために渾身の思いで祈祷できる人。それが本物の僧侶ではないだろうか。
他人のために命を張れること。惜しみなく投げ出せる人。

そんな僧侶になりたい。
間もなく満43歳。弘仁7年 816年 7月8日 弘法大師空海が高野山を朝廷より賜った年齢になる。
その偉業に比べ、ボンクラ怠け者おろかものの自分はまだまだこのていたらく。
神仏が幾つまでの寿命を与えて下さったのか分からない。
が毎朝の勤行時に、「今日も生かして下さり有難う御座います。」と頭を垂れる。
今日を生かされている、ということは、今日を生きろということである。
人生はその今日の積み重ねに過ぎない。その今日を世に人に尽くしきれない歯がゆさ。

死ぬまでにはきっと、お大師さまに認められるほどには世に人に尽くしきれないだろう。
であれば、しつこく何度生まれ変わっても、僧侶として一切衆生救済に命を賭したい。
こんな大法螺を吹くのは、未だに生まれ変わりきれていないせいなのだろうか。
しかし、いつかこの日のブログを読み返した時、少しでも仏道を精進しえているように。
一人でも多くの人々の悩み苦しみ憤りを取り除き、真の幸福を享受し合えますように。



願わくは この功徳を以って 遍く一切に及ぼし われらと衆生と皆共に
  仏道(ぶつどう )を成(じょう)ぜんことを


感謝合掌
法蓮 百拝