浅草・待乳山聖天さまへ参詣するとき、いつも東京メトロ銀座線の一番前に乗車し、改札を出たらそのまま浅草松坂屋の中を抜け、江戸通りを一直線に最短距離で向かっている。

松坂屋を出たところで一服していると、信号の向こう側に隅田公園が見える。この日は趣を変えて、公園の中を通っていくことにした。 隅田公園は雷門のある通り、吾妻橋から隅田川に沿って言問橋の下をくぐり、桜橋中学校まで続く、超細長い大きな大きな公園。
花川戸一丁目、浅草七丁目、今戸一丁目と色んな町名を跨ぐ。待乳山聖天さまはだいたい中間ぐらいにあろうか。画像の地図が、ちょうど待乳山聖天さまで切れているのは、本龍院から拝借したため。平田ご住職、平にご容赦を。



c350f67c.jpg 言問橋の下をくぐって、橋の袂方向へ左に進むと、戦災者の慰霊碑がある。逆に言問通りに続く言問橋西詰の信号から、隅田公園に入ったらすぐ右側にある。目立つ場所なのに、案内札が小さいせいか、興味のないせいか、素通りしていく人が多い。

とはいえ、心あるどなたかが、時々は写真のように花を供えて下さっている。最近は隅田川の畔ではなく、この慰霊碑の前でご供養することが増えた。お盆を過ぎてもまだまだ気温は暑い。浅草駅から10分近くツカツカ歩いてきて、ここで立ち止まると、お線香を焚いて袈裟を着けてと、用意している間にも汗が滝のように流れてくる。


 読経を終えて、待乳山本龍院へ着くと「浅草七福神」の地図看板が目に止まった。普段は、地図で言うと上の「隅田公園」バス停側から聖天さまへ入って、帰りは下の隅田川へ向かって歩いている。
参拝を終えた後は真っ直ぐに、言問橋へ向かうので気がそっちに行ってるせいか、気にも留めなかったが、この日はなぜか、ここにある浅草七福神の看板が目に入った。
改めて良く見てみる。七福神の中で我が家の信仰と関連しているのは、大黒さまと弁財天さま。まぁ毘沙門天さまも聖天さまを守護されているが、その方はここ、待乳山に居られるし、大黒様は浅草寺だから何度も行っている。
弁財天さまは・・と、探すと、「吉原神社」と書かれた場所にいらっしゃるようだ。ここから差ほど遠くもない。(これも何かのお導きかも知れん、行ってみるか・・)と全く予備知識なしに、気まぐれに吉原弁財天さまを訪ねることにした。


 思ったより遠かった。待乳山にあった地図で大体の道を暗記して行ったのだが、途中で間違ってるんじゃないか?と思うぐらい結構歩いた。多分、うろ覚えだから遠回ししたのかも知れない。東京の道は放射状の道が多い。良く調べればきっと近道もあるだろう。ダラダラ歩いてると、目標とした「吉原太門」という、交差点があった。

 (よしはらだいもん?、ここを左だったな)と横断歩道を渡る。「だいもん」と勝手に読んだが、本来は「よしはらおおもん」と呼んだらしい。吉原歓楽街への正面玄関だったそうな。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされたらしい。遊女たちにとっては正に希望を捨てる地獄の門だったろう。
江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、明治44年(1911年)の大火で焼失し、関東大震災を機会に撤去された。

現在唯一、交差店名として名残を留めるのみとなった場所を左折したところに、「見返り柳」があった。札を読むと、その昔、この柳の下で遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという。(ふーん・・後ろ髪?)馴染みの遊女への情か?はたまた遊び足りないのか?そんなことを思いながら、先へ進んだ。交番で訊くとこの道沿いの左側に弁財天さまはいらっしゃるとのこと。もう少しだ。


 みるみる廻りはソープ街と化していく。そりゃそうだ、ここは吉原。日本一のソープ街。ちなみに現在は「吉原」という地名はない。1966年まで存在していたそうで、現在は住居表示の実施により、台東区千束三丁目、四丁目あたりか。近隣には日雇い労働者が集まる地域である山谷がある。大阪でいえば、愛隣地区だな。ミナミの帝王にも登場する日本最大のドヤ街・寄せ場であり、日本で唯一暴動の起きる人間がいる場所でもある。

話しは逸れたが、元々の吉原自体もこの場所ではなく、日本橋にあった吉原遊郭が移築されたらしい。以来、昭和33年までの300年間にも及ぶ遊郭街「新吉原」の歴史が始まり、特に江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。多くの文学小説あり、新しいものでは「さくらん」など映画化も多い。
ここに来るのは7年振りか・・以前、川崎で成功し吉原へ進出してきたソープ経営者の事業家に招待され、開店祝いに来たことがある。最近交友が途切れてはいるが、彼の店はまだ頑張っているのだろうか・・。そのときは車だったし、どこだか覚えてない。
2006年からポン引きが禁止されているが、お構いナシに店頭に何人も立っている。まさか、坊主頭の作務衣を着た白い鼻緒の草履を履いた自分を呼び込むヤツはいないだろうとスイスイ歩いてると、「どうですか?社長!」「可愛いコ、今なら案内出来ますが・・」なんと、声をかけてきた男がいた。彼の客を選ばぬ営業根性に思わず拍手!「また今度ね。」(笑

吉原弁財池 ぐにゃ〜っと右曲がりのカーブを下ると、右手に吉原神社があった。が、交番でも待乳山の地図でも、吉原弁財天は左側にあると云っていたので、ここはパスして進んでみた。すると、少し先に小さな囲いがあった。

この画像は、入り口に立てられた札。
クリックして拡大して読んで欲しい。読んで愕いた。まさかここにそんな悲惨な歴史があったなど知らずに訪れたのだが、呑気な参拝気分が吹っ飛んでしまった。何の気なしに来たのだが、聖天さまがここを供養しろという思し召しだったのか。しかし、このあと、それ以上の衝撃を垣間見ることになった。

542e3524.jpg 中へ入ると中央にそびえるように立つ、観音像がある。その周囲に小道があり、ちょうど観音像を一周出来るようになっている。観音さまの足元には沢山の供養物や、花束が供えられている。お線香も用意されていたが、言問橋での供養用に自前のお線香を持ち歩いていたので、それを取り出した。袈裟を掛け読経する。


 ご供養を終えて、しばし佇んでいると、初老の男性から声を掛けられた。
「お坊さんでらっしゃいますか?」「はぁ、まぁそうです。こんにちわ。」面倒なので細かい説明は避けた。この男性はわざわざ、田園調布から毎週お参りを兼て、この弁財天の清掃や管理に訪れているのだという。

ここは一応は吉原神社の管理となっているが、実際のところ、清掃やお線香、ろうそくなどの管理はみな、有志の方々が手弁当でご苦労されているらしい。さっき、自分が自前のお線香をあげて経を読んでいたのを見ていたらしく、「お坊さんが来てくれるのは珍しい」とか何とかイイながら、境内というには狭すぎる中を色々説明しながら案内してくれた。


 かつてここにあった、弁財池で溺れた遊女のことに話が及んだ時、色褪せた一枚の写真とボロボロの週刊誌を見せてくれた。その写真は夥しい遊女達の死体が浮かぶ、弁財池の写真だった。彼のお爺さんが写真愛好家だったらしく、この写真を撮ったのだそうだ。彼曰く、関東大震災の直後になぜ、彼のお爺さんが吉原へ走ったのか、その理由は定かでないらしいが(笑。

とまぁ、少し冗談でも入れないと正視しかねないような死体の写真だった。
しかも、その写真を週刊誌に投稿したのは彼自身だそうだが、その記事には上の立て札にはない衝撃の事実が書かれていた。
震災による火災から身を逃れようと池に飛び込んだのは、書いてある通りだが、なぜここへ遊女たちが集中したのか?直接の死因はみな、圧死や溺死だったそうだ。なぜ。500人もの入りきれないほどの遊女が次々と飛び込んだのか?

火災を気に足抜けを危惧した、番頭たちが吉原の門を全部閉めてしまったらしいのだ。閉じ込められた遊女達は燃え盛る炎から逃れる手立てはここしかなかったのだ。その事実を後世に伝えようと、彼はお爺さんの残された写真と共に投稿を決意したのだそうだ。しかしなんという番頭たちの馬鹿さ加減。足抜けもなにも、死んだら何もならないではないか。「商品」という言い方は失礼だが、売る物がなくなってしまえば、御まんまの食い上げではないか。それとも江戸商人らしく、「商品」よりも「大福帳」を優先したのか。ならば、なぜ閉じ込める必要があった?「商品」が他人へ流れるぐらいなら燃やしてしまえってか?


 怒りよりも、平然と行なわれていた人身売買によって、縛られていた遊女達の悲惨な死にいたたまれなくなった。江原啓之がこの地をスピリチュアルスポットとして紹介し、「女性の願いを叶える」というパワースポットのように表現されたこともあって、今では多くの女性が参拝に訪れるというが、彼女たちがこの事実を知ったらどう思うであろう。それとも、500人の遊女たちの無念の思いが、自分達が掴みきれなかった幸福を現代の女性に託しているのだろうか。

 初老の男性はいつもなら、毎週日曜日にここを訪れているらしい。
明日が雨だという予報を聞いて、たまたま今回は土曜に来たのだという。自分もたまたま時間があって、たまたま隅田公園から聖天さまへ行って、たまたま七福神の看板を見て来たのだ。でもこれが偶然という名の必然なのだろう。会うべくして彼と会い、知るべくして知ったということだと思う。

そして彼もいつも待乳山聖天さまへ参り、そのあと、浄閑寺を経由してここへ来るのだという。浄閑寺は投げ込み寺と称され、吉原で亡くなった遊女たちが投げ込まれた寺だそうだ。1855年の安政の大地震の被災者と吉原で亡くなった遊女を一穴になげるように埋葬したことからつけられたそうな。身寄りや引き取り手のない遊女の埋葬地だったそうで「生まれては苦界。死しては浄閑寺」と川柳にうたわれたこともあるようだ。文学作家の永井荷風が遊女達に同情し、このためこの新吉原総霊塔の前に文学碑があるという。今度は浄閑寺にも足を伸ばして参詣してみたい。

結局、この初老の男性とは浅草駅まで一緒に歩き、帰り際に浅草の様々な歴史や見所まで案内して頂いた。うっかりお名前を伺うのを忘れてしまったが、また日曜日にでも吉原弁財天を訪ねてみたいと思う。


〜編集後記〜
そうそう、この吉原弁財天には、あの家田荘子さんもいらっしゃったそうな。
「長くお経を唱えて下さった」と初老男性から聞いて、(家田さんがお経?)と不思議に思ったが、なんと彼女も出家していたそうな。
・・・アレ?知らんかったのは自分だけ? みなさんご存知だった?どーも芸能に疎いもので。
しかも、自分と同じ高野山真言宗だった。しかも2007年11月に伝法灌頂を受け阿闍梨になってる。去年の11月といえば、自分が四国歩き遍路に出た同じ月。しかも高野山大学大学院・文学研究科密教学の現役学生。おーまいがー。

ぎえっ、ウルトラ大先輩やん。・・・
むふふ、ならば話しは早い。
実は現在、進行中の救済事業の一環として、特に女性支援に力を入れているのだが、その講演活動に彼女とコラボ出来たらいいなと思って動いている。是非実現したいので、日々精進精進せねば。


感謝合掌
法蓮 百拝