5:00AM。
東の窓から、まるで唄のような真っ赤に焼けた太陽が昇り始める。家中の窓を開けている、ほんの僅かな間にも太陽はドンドン大きくなって、オレンジ色に変わった眩しい光を我が家にも差し込んでくる。真言密教の教主、大日如来は読んで字の如く、大きな日の輝き、太陽のこと。留まることなく、毎日繰り返される自然界の営み。その森羅万象の働きの中に、大宇宙の生命とも言える「大日如来の慈悲」の営みも存在し、御仏の真理を悟らせようとする働きかけを、「法身説法」と弘法大師は説かれた。地球誕生から46億年、この宇宙的な時間を一週間に例えると、文明を持ち得た我々人類の歴史など、まだたったの一秒しか経っていないそうだ。参照:宇宙は謎がいっぱい―ビッグバンから人類の未来まで (PHP文庫)
そんな、まばたきほどの瞬間に、人は愛し合い、憎みあい、癒しあい、傷つけあい、奪い合い、助け合う。貧乏人も金持ちにも、同じように朝日は訪れる。一日24時間と云う、この星の時間も同様に、苦しんでいる人にも、楽しんでいる人にも、全ての人に与えられし絶対無比の平等。この瞬間にも、新しい命が生まれ、同時に寿命尽きた命は天に召される。人は生まれた瞬間から、死ぬことは義務付けられている。老いることからは逃れられない。だからこそ、人の命は尊きもの。
父母より授かりしアナタの生命は、宇宙で唯一つの存在。アナタが今日、輝くのか否か。アナタが今、幾つであられても、これからの人生だって捨てたもんじゃないですよ。アナタ自身、尊いたった独つの生命体なのです。そう思えたとき、自分以外の他の誰もが、同じように尊い存在なのだと思えるのではないでしょうか。これが、自分の座右の銘、『天上天下唯我独尊』における、自分なりの意訳であります。
我が家のご本尊、諸尊、神様への朝の勤行は、少々お待ちいただいて、久しぶりに、ご近所の不動寺の勤行に参列させて頂こうと出かけた。まだ6時前なのに、熱心な檀家さんのお婆ちゃんが境内の掃除を、他にも男性が数人、墓地の手入れをしている。「早くから精が出ますね」挨拶を交わして、修行大師像の前に立つ。以前も書いたが、四国歩き遍路においても、数多くの大師像を見てきたが、この不動寺の大師像は、穏やかなその表情の中に、鋭い眼光が抜きん出て目立つ大師像である。
本堂前で向側の聖観音像と向き合い、大師像は真西に向かって立たれているので、朝日を背にしているにも関わらずに、その瞳からは眩い光が放たれているようにも見える。入り口の六地蔵像、女人講、それぞれにお線香をあげ、ご挨拶して廻る。歩き遍路に出る前は、これを毎朝やっていたものだ。特にお大師さまへは、「どうか、お四国へお導き下さい」と毎朝懇願していた。結果、半ば準備不足の見切り発車ではあったが、兎にも角にも四国遍路へ旅立てた。
そうこうしている内に、本堂の端から窓が開き始めた。
橋爪住職が東側に内部が続いている、自宅から本堂へ入られたようだ。入り口の大扉でじっと待つ。ガラリと扉が空いて、ご挨拶すると、「おぉっ、暫らくだねぇ。上がってな。」とご住職。「有難う御座います。」と本堂へ上がらせていただく。この不動寺のご住職は代々続く、高野山真言宗の家系で、先代住職やお兄さんは品川の高野山東京別院などの役員をされたりと、幹部内情にもかなり詳しいが、三男である現住職はとても気さくで、ズバズバものを云う、非常にラフなご気性で親近感がある。だから? 朝の勤行時も法衣はいちいち着ていない。作務衣にいつもタオルを首にかけている。ん?そう云えば、法衣を着ているところを見たことがないかも知れない(笑 しかし、相談すれば何でも親切に、ぶっちゃけ話しまで教えてくれる。
たまに息子さん(副住職)もいらっしゃるのだが、この日はお一人。
堂内のそこらじゅうに、線香と灯明に火を燈していく。ここの本堂は非常に広い。祭壇前の外陣だけでも15畳、これが東西に同様に繋がっているから、これでもう45畳。裏にも位牌堂がある。デンデンと堂内を忙しく歩きながら、「これが結構〜大変なんだよ。これだけで十五分ぐらいかかっちまわー」とご住職。「お手伝いしますよ」と、広い堂内を手分けして大師坐像などに線香と灯明を燈していく。
作業を進めながら住職が訊く、「ところで、またどっか廻ってきたんかい?」巡礼や遍路のことである。「ハッ。愛染霊場を少し・・」「愛染霊場?」歴史も浅い霊場なので、ご存知ないようだ。「はい、西国の愛染明王を祀るお寺を巡る霊場です。」そう説明したら、今度は「愛染さんて、強ぇーけど怖ぇーんだぜ」ときた。群馬弁丸出しの話し方が、ご気性と相まって尚気さくさを増す。
怖いとは?聖天さまなら分かるが・・「どうしてですか?」と聞き返すと、なんでも、愛染明王は明王の中でも極めて霊験が強い、(それは知っていたが)、東京別院から本堂を長野県諏訪市の仏法紹隆寺(ぶっぽうしょうりゅうじ)へ移築する際、三億の費用がどうしても捻出出来ずに、困っていた当時の住職が、女房、子供を捨てて、(一旦、離れて)修法を行じ一心不乱に祈ったところ、三年後に無事全額を工面出来て移築したと言う。
(あれ? 愛染さんて、女人救済随一の明王なのに、ナンで離れさせる?)と、聊か疑問に思ったが、まぁとにかくそんな実話があるらしい。男が愛染明王に増益に関するご利益を求めるは、そういった犠牲が伴う修法が存在するのだろうか?バタバタしてて、そのときはそれ以上訊けなかった。次回にでも追って詳しくお話しするが、今懸命に取り組んでいる事業の根幹は女人救済事業。愛染明王のご誓願を今一度、詳しく調べてみる必要がありそうだ。
「今、お経は何読んでんだい?」準備がほぼ整ったところで、そう訊かれた。
「はい、朝は理趣経、愛染経、大黒天神経、観音経偈門、十一面観音陀羅尼、大聖歓喜天使咒経です。」「はぁっ? そりゃー長ぇなー そんなに読んでんかい?」「それじゃあ、時間かかるだろ?」「はぁ、朝は一時間半ぐらいですか」「ふぇー。なら、今日はどうすっかな。観音経は昨日読んだし、よしっ理趣経読むかぁ」「ハイ、是非お願いします。」「でもなぁ。そもそもオレァ、お経嫌ぇなんだよ」と、正直な住職。それは以前も聞いたことがある。やっぱり本当に嫌いなんだ。(笑
その代わり御詠歌がお好きで、何度か聴いたことがあるがとてもお上手である。「お経の声は出ねぇーが、御詠歌は出るんだよ。声の出し方が違うんだな」と云う。自分にはその違いが完全には分からないが、しかし、どー考えても絶対、お経よりご詠歌の方が難しいと思うが。
ポーンと一つ、分厚い座布団を投げてくれて、「そこへ座んな」と云われた。
いつも、外陣で勤行に参列させて貰っていたが、そこは護摩壇の目の前、内々陣もいいところだ。これは光栄だ。有難く詰め寄らせていただく。10cmぐらいの分厚い経本を渡され、「んじゃ、理趣経ね。開経偈から。」「ハッ。」アレ?五体投地もなし?(笑 いきなり、開経偈から始まった。歸命毘盧遮那佛(みょーびーるしゃなー) 無染無着眞理趣(むーぜーん) 生生値遇無相?(しょーじょー) 世世持誦不忘念(せーせー) 弘法大師�勸法樂(こうぼうだいしー ぞうほうらーく) ・・・・
う〜〜ん、いい感じだ。自宅での勤行と、本堂でしかも内々陣での勤行はこうも空気が違うのか。そう思いながら、初段を終えたとき、「はい、ここでお終い。次はね、菩薩勝慧者(ほさっしょう けいしゃ) からね。」(え? それって、理趣経百字の偈 やがな。そんなに素っ飛ばすんか?) 「中抜きって云ってな、夏は暑ぃーから抜いて読むんだよ」って、ホンマかい!?(笑 理趣経百字の偈 は、十七段のあとにある。二段目から十七段まで、そんなにワープしてもいいんかい? しかも理由が、「夏」だからってのが面白い。まるで短縮授業。これが理趣経サマーバージョンか。
お経は本当にそれだけだった。御真言も10ぐらいを全部三遍づつ、確か弘法大師御宝号だけを七遍唱えたような。だから、あっと云う間に終わった。そのあとの、「○○○のために〜」と云う、回向がどこそこの、傳燈大阿闍梨○○とか、檀家さんのためとか、一門のためとかと、数分続いて終わった。
お経が終わって、「まだ、時間あるかい?」「ハイ」と答えると、「よしっ、じゃあご詠歌歌おう」「オレだって、大体一時間ぐらいはかけてんだけどね。いつもご詠歌唄ってんだよ」そうおっしゃるので、「是非、聴かせて下さい」とお願いした。ご詠歌は自分は歌えないが、聴くのは大好きだ。なんというか、洗練された演歌といおうか、民謡のようでもあるし、兎に角、日本人の魂に響くようなリズムと、ゆったりした歌い方が心が洗われるようで、とても好きなのだ。
「金剛」「世尊」「弥勒菩薩」など、様々なご詠歌を沢山唄って下さった。ご住職は、この不動寺でご詠歌を在家に教えるクラスも持っているが、「婆さんどもは覚えが悪くってどーしょーもねぇから、こんなのは勿体ねーから教えねーんだ」と云う(笑。「だって、難しいですよ私らでも」見たこともないような、音符の変形記号は全く理解出来ない。聴きながら附を追って、少しでも解読しようとしたが、やはり難しい。増して相手がお年寄りじゃ、まぁそれも致し方なかろうとは思うが。遍路や巡礼でも、各寺のご詠歌があるが、全て棒読みだった。いつかは覚えたいが。多分、四度加行で強制的に習うだろうから今は聴くだけでいいや。
ご詠歌が終わってから、位牌堂へも案内して下さった。
数段になった棚に、幾つもの位牌が並んでいた。そこに並べられた灯明の火も全部消していく。「ろうそく作りもしなきゃなんねーんだよ」溶けた蝋を集めて、減った灯明の中に注いでおけば、冷めれば繰り返し使用できる。「光堂ろうそく」と云う、このろうそくは、周りが溶け難くく、中だけが下がっていくタイプの、表面に「南無大師遍照金剛」と書かれた大きな灯明である。
そのため、風にも強く消え難い。説明書には80時間と書かれているが、二つ以上買って、一つを一度使い切ると、先ほどのように新しいろうそくの溶けた部分を足して行けば、繰り返しかなり使えて結果とてもお得なろうそくである。そのため、予備の替え芯が幾つも同梱されている。他にも、般若心経や観音経、南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・南無釈迦牟尼仏 など6種類が書かれたものもある。唯一、京都の財木堂で売られている。ネットでも買えるよ。一個1575円。五千円から送料無料。
これは自分もよくやっているので要領は分かる、お手伝いしていた。
亡くなられたばかりの方か、箱に収められた遺骨が二つあった。「焼いた骨は臭くなるから、窓を開けて線香を焚いとくんだよ」「だから、四十九日以上置いておくんじゃねーって云ってるんだ」「あははっそうですかぁ」(いいんかい?檀家さんにそんなコト云って(笑)「それにしても沢山の位牌がありますね」「みんな、作り変えたヤツだから、燃さなきゃなんだよ。溜まっちまってるけど」(燃すじゃなくて、御焚き上げでしょ(笑)本当にここの住職は面白い。
「これからメシ喰ったら、草むしりだ。結構やること一杯あるんだよ。」「長々と有難う御座いました。」結局、なんだかんだと6時前に行って二時間以上。不動寺を出たのは8時を廻っていた。以下は、不動寺でのお大師様に話しかけた言葉、そのままである。「お大師様、お久しぶりです。」「まだまだ精進が足りませんが、お蔭さまで随分と、人様のお役に立つことに、心を分けるようになりました。」「しかし、多くの人様を救うには、まだまだ力も智慧も足りません。」「どうぞ、御仏の智慧を、言葉を、行動を、何よりも御仏の心を貸し与えて下さい。」
この最後の願文は、最近の勤行でも中心的な願いとなっている。
なぜなら、理路整然な会話術をマスターするより、心理学を駆使したテクニックより、やはり人の心を動かし訴えかけるものは、一点の曇りのない、自分の心そのものだと思うようになってきたからである。心で話し、心で聞き、心で動くことが最も相手に誠実に確かに思いが伝わるのではないかと。そう思えてきた。密教・自心の探求―「菩提心論」を読むに曰く、「もし人仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す。」真言密教最大の特徴である、即身成仏はつまり、「我々の誰しもが心の中に、すべて等しく仏になる種を持ち、今、生活しているこの身このままで仏になれる」と云う、密教にご興味のある方にはご存知の通りであると思う。即身成仏とは自分なりには、仏のように考え、仏のように行動し、仏のように話すことであり、要するに何もかも仏の真似事をしている内に、仏に近づけるかも知れないと思っていた。
これは若い頃の話しになるが、かつての生活で実践したことがある。
小学校5〜6年のときに、スーパーカーを交差点で見つけると、夢中でチャリンコで追いかけた。大阪市内の渋滞では、近距離なら結構ムチャすれば追いつく。マンションの駐車場まで追いかけて行き、写真を撮らせて貰ったり、時には乗せたりもしてくれた。そんなとき、必ず大人相手に訊いていたことがある。それは、「ナンの仕事してはるんですか?」だった。20歳前後になると、今度は信号待ちのベンツやベントレーに乗っている人に、「どうやったら、そんなエエ車に乗れるんですか?」と訊いて回った。大阪はヤクザも多かったので、「なんじゃあ、ワリャア!」と凄まれたこともあるが、懲りることはなかった。(笑
15歳で父親を失っている自分にとって、やがて渡世上の親とも呼べる人と出会う。
なにもかも、この人から盗んでやろうと決心してから、身なりだけは超高級すぎて真似できなかったが、歩き方、しゃべり方、声の調子、人と接する時の態度、果ては息遣い、目つき、目の動かし方、間の取り方、などなど、タダで真似できることは貪欲にほとんど真似をした。「気色悪いヤッチャのぉ〜オマエ〜」と云われるほど露骨にやり続けた。その結果が功を成した・・かどうかは分からないが、23歳からずっとSクラスや7シリーズに乗り続けて来た。自分のことだけを考え、好きなものを好きなだけ買ってきた。好きなものに好きなだけお金を注いできた。今はそれが正しかったとは云わない。ただ、金を稼ぐ定義、意義を一個人の欲望のみを満たすことに拘ってきたために、それは大きな間違いだったと気付いて、モノを捨て、私欲を捨て、出家したわけであるが、金を稼いだかどうかだけなら、十分に稼いでこれたのは事実である。
同じように、(かどうかは、聊か極端かも知れないが)素の自分が話そうとするときや、相手の話しを聴くときも、今までのようについカッとなったり、小馬鹿にするようなことも、(仏さまなら、こう考えるかな?)(仏さまならこう答えるだろう)(この人だって、観音さまが姿を変えているのかも知れない)そう考えると、随分と今までと違う人に会えるようになってきた。それでもなお、心から相手のことを考えないと、言葉が足りなかったり、云うべきところで控えてしまったりする自分が居る。心が足りない、気持ちが足りない。心が口先じゃない言霊となり、態度となり行動となり得る。そう思えてきた。
先の『菩提心論』から引用した文章は、即身成仏を端的に著す名文であるが、これを意訳すると、「仏の智慧を得て悟りを得ることを願い、教えを学び修行する機会を得たならば、父母より頂いた、この身このままで成仏することができますよ 」ってコトになり、結局は修行しなければ成仏出来ない、それ以前に全ての人が仏性を持って生まれたとしても、その存在自体に気付き(目覚め)なければならない。仏性を持っている=成仏出来る資格を有している⇒だが、修行いかんによっては誰しもなれない(出来ない)そう思っていた。だから、遍路や巡礼を続けたり、滝やマントラや諸々の修行をしたり、阿闍梨になろうともした。
だが、それって自分だけの、自分だけが成仏すれば良い、自分の心が洗われれば良いというような、狭き了見にも思えてきた。阿闍梨になって、なにがしたいのか? なにをもって世間様に還元するのか? それは阿闍梨にならないと出来ないことなのか? 阿闍梨と云う、肩書きだけが欲しいのか? 色々考えた。 元より行者さんを批判しているのではない。敬愛する行者さんは沢山いらっしゃる。確かに、行を修しある意味において神通力を備えれば、祈祷祈願によって衆生を救うことが出来るかも知れない。本当にそういう人も知っている。だが、寺院のセガレとして生まれたワケでもない自分は、阿闍梨になれたとしても、私寺を建立するか、どこかの寺院に入らなければ人様に施しが出来ない。いずれかの組織に属し、規律にも従わなければならないだろう。自由な動きも制限されよう。
不動寺の橋爪住職に、僧侶の求人募集を見せてもらったことがあるが、そういった僧侶の受け入れ口もないことはない。しかし、僧侶という職業に就職するために出家したのではない。自分にとっての「僧侶」とは、職業ではない。それにそうなったとしても、そこで救えるのは信仰心を持った方々だけである。実社会において、目前に迫ったこの国の危機感すら、他人事にしか思えないほど、生活に追われているような、既に信仰心から遠ざかってしまった人々を、満遍なく救うには、もっと別のアングルから手を差し伸べる必要がある。やはり一人でも多くの人が、現状と未来をしっかり見据え、不安のない明日の迎えることの出来るようにしてあげることが、阿闍梨になるより自分にとっては最優先事項先決であるという結論に至った。
阿闍梨になることを諦めたワケではない。
暫しそれは先延ばしにしても、いつの時代でも犠牲者となる、民、大衆、ピラミッドの底辺にいる人たちを何としても救って行きたい。これが今推し進めている救済事業のきっかけである。だからこそ、もう二度とビジネスの世界に舞い戻ることはないと思っていたが、そうして人様の増益のお手伝いをすることが、今まで生き馬の目を抜く弱肉強食のビジネス界で生き残り、この身に沁み込ませたビジネススキルを活かせるのではないか、もしかしたら、そのために今まで商売をしてきたのではないか。今はそう思えてならない。それが自分が今まで生かされた世間様への恩返しであり、半生を生きるべく使命だと思っている。
詳細はいずれお伝えするが、特に母子家庭や低所得者層の方々に、容易に収入を得ていただくため、間違えのない手段の伝授と、継続増益するためのサポート体制の構築である。弘法大師の開かれた、綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)は身分の上下なく、広く一般大衆家庭の子供にも門扉を開いた、わが国初の私塾。そのお志を継がせて頂くに因んで、正式名称ではないが、今は趣旨としてその名称をお借りして、一切無償の全国行脚のため私財を投入しようと準備を急いでいる。
なんや、結局金儲けの話しかい? 金儲けはやめたんとちゃうんかい?
そうだ、確かに自分だけの金儲けはもうやめた。しかし、現実社会で人様を救うには、キレイごとを並べててもどうにもならない。やはり、紙幣流通が最も現実的な救済措置に違いないのだ。じゃあ、私欲を捨てたんなら余った金をやみくもにばら撒くのか?そんな一過性のモンは意味がない。事実、宝くじに当選して、サラリーマンの生涯年収を得た人のほとんどが、五年以内に資産を失くしているデータがある。泡銭では意味がない、自分自身で稼げるのだという実績と楽しさ、豊かさとゆとりを得ることによって、心にこびり付いた邪念や垢が落ち、本来持っていた仏性に目覚め、その向こうに見える、誰に優しくしたい、誰かを支えたい、という自分の本当の心に触れるパラダイムシフトである。
わずかな個人や施設にドバッと、資金を流入するよりは、何千人何万人という、より多くの人たちが、今以上にしっかりと確実な収入を得ることが出来たら? どうであろう。学歴もない、人脈もない、資金もない(ここまでは自分も同じだったが)更には、自らリスクを背負ってビジネスの世界に飛び込む勇気もない、そんな人たちを恵み或る心豊な世界へいざないたい。しっかり収入が増えれば、間違いなく今よりも生活にゆとりが出来て、嫌が応にも夫婦喧嘩が減って、それを観ている子供との会話も増えて、親にも気を配れて親孝行が出来て、家庭内みんなの笑顔が増えれば、心が豊かになる人も増えましょうや。その結果、少しでも無差別殺人などの犯罪が減って、未来に希望を持てる人が増えて、それまで周囲にいた、「無理だよ」「夢なんか叶わないよ」「諦めたよ」と云う、ネガティヴな人間たちから遠のき、「やれば出来るよ!」「やってみなきゃ分からないじゃないか!」「きっと出来るさ!」と云う、希望に満ちた人たちが傍に集いだすでしょう。
2年前、30代前半でインターネットビジネスによって瞬く間に財を築いた、あるミリオネアと語ったとき、彼の主幹する起業塾でミリオネアを100人輩出するのが夢だと彼は云っていた。そのころ、自分も同じ夢を持っていたので、同じ事を考えている男に会えたと、非常に彼に共感できたのを覚えている。そのときの自分の周囲には、金を儲けてからの知人に囲まれていた。最初は今まで知らなかった世界観、価値観、豪華絢爛なパーティー、高級車の見せびらかし合いが面白かったが、すぐに飽きた。彼らに興味があるのは、自分が儲けた手段や方法、投資や秘密倶楽部の情報交換であり、自分という一個人よりも金で何が出来るかだった。
そんな世界に嫌気が差し始めていたときで、起業家を目指し、若くやる気のある人たちを育てたい、夢を共有してもっと大きなプロジェクトがしたい、と思っていたときだった。実は、この夢は古くから持っていて、自分が20代のころ、いつも社員にこう云っていた。「ウチの会社の社員用駐車場は、ベンツやビーエムだらけにしようぜ!」「あの会社一体、どないなっとんねん?って、云われよーぜ!」と。
他人より自分第一の若い頃でも、社員には稼いで欲しかった。自分独りで高級外車を乗り回していても、つまらないからだ。だから、みんなで乗り回したかった。しかし、20年商売してきて、その夢はほとんど叶わないと悟った。そこまで抜きん出てくる男は、みな独立していくからだ。収益のあがる部署では、同業種の中では高額な報酬を用意していても、例え社長でも役員報酬という給与を受け取っていた、自分の年収を追い抜くヤツはいなかった。いや、立場上、経費を自在に使える経営者である以上、それらも収入と見なしてしまえば、絶対に不可能なのだ。だから、社員ではなくビジネスオーナーと云う、同じ土俵に引っ張り上げるという、方向転換して夢を継続させようと思っていた時期だった。
しかし今は違う。更に方向性を変えた。
なぜなら、やる気のある起業家を育てる起業塾や講師は、自分でなくとも先のネット起業家のように幾らでもいるからだ。今般、増え続ける一方ではないか。しかし、その環境の中でも今後は、挫折する人も多く突出していくのは容易ではないだろうが。出家して世の中を見つめなおし、自分を見つめなおした今、自分のやるべきことは、ミリオネアを100人育てることではなくなった。
サラリーマンの某統計によれば、月々5万収入が余分にあれば、奥さんがパートを辞められ、貯蓄や教育資金に回せ、子供とも時間も増やせるそうだ。ならば、月々確実に5万、収入を増やせる人を10000人、10万30万と6桁に収入を増えせる人を1000人、7桁を100人以上とってもらうことを目標とした。実際これはかなり低めの設定である。メトカーフの法則に乗ってしまえば、これ以上は軽くイケると思っている。つまり、それほどに現実的だと捉えて頂ければ良い。心に雲もない、透き通った未来を見渡せるような人が、一人でも多く増えるに越したことはない。
ある意味、福祉事業的な本当の無償でないと意味がないとも思う。
雑誌を見ても、テレビCMを見ても、ネットで検索しても、副業にせよ、SOHOやネットビジネスを教える塾やスクールは履いて捨てるほどある。無料でレポートが読めたり、DVDを貰えたりするが、結局は月会費制のシステムへと誘導される。これらの多くは課金制のビジネスとして立派な商売である。在宅ワークも残念ながら、まとまな会社を探す方が難しい。テキスト代だの登録料だの、なんだかんだと準備金を要求されたり、仕事にならないような仕事をさせられて、結局稼ぐことは出来ない人が山ほどいる。
ビジネススキルのない主婦たちが、真面目に副業を得ようとしても、現代ほどリスキーな時代はない。こんな輩がいるから疑心暗鬼になったり、ポジティヴな思考を欠落させてしまうのも無理はない。しかし、「タダより怖いものはない」との猜疑心も取り除いてあげないといけない。また、タダだったら適当しか取り組まない人もいるでしょう。だからこそ、紛れも無い真実のみを、身を粉にして渾身の心で伝え続けていくしかないかも知れないと思っている。
〜編集後記〜
なんだかまた、取り留めのない話しになってしまった。
誤字脱字、支離滅裂、られつの廻ってない部分はご勘弁を。
先日から、これだけ漠然とした内容にも関わらず、何件か反響や問合せが来ている。兎に角、全国行脚しだすと家に全然帰れないほど、間違いなく相当忙しくなる。準備中の今なら、まだ幾らかサポートしたりも出来る。ご興味のある方は、お早めにプロフィール欄のメールアイコンより、ご一報下され。
感謝合掌
法蓮 百拝
東の窓から、まるで唄のような真っ赤に焼けた太陽が昇り始める。家中の窓を開けている、ほんの僅かな間にも太陽はドンドン大きくなって、オレンジ色に変わった眩しい光を我が家にも差し込んでくる。真言密教の教主、大日如来は読んで字の如く、大きな日の輝き、太陽のこと。留まることなく、毎日繰り返される自然界の営み。その森羅万象の働きの中に、大宇宙の生命とも言える「大日如来の慈悲」の営みも存在し、御仏の真理を悟らせようとする働きかけを、「法身説法」と弘法大師は説かれた。地球誕生から46億年、この宇宙的な時間を一週間に例えると、文明を持ち得た我々人類の歴史など、まだたったの一秒しか経っていないそうだ。参照:宇宙は謎がいっぱい―ビッグバンから人類の未来まで (PHP文庫)
そんな、まばたきほどの瞬間に、人は愛し合い、憎みあい、癒しあい、傷つけあい、奪い合い、助け合う。貧乏人も金持ちにも、同じように朝日は訪れる。一日24時間と云う、この星の時間も同様に、苦しんでいる人にも、楽しんでいる人にも、全ての人に与えられし絶対無比の平等。この瞬間にも、新しい命が生まれ、同時に寿命尽きた命は天に召される。人は生まれた瞬間から、死ぬことは義務付けられている。老いることからは逃れられない。だからこそ、人の命は尊きもの。
父母より授かりしアナタの生命は、宇宙で唯一つの存在。アナタが今日、輝くのか否か。アナタが今、幾つであられても、これからの人生だって捨てたもんじゃないですよ。アナタ自身、尊いたった独つの生命体なのです。そう思えたとき、自分以外の他の誰もが、同じように尊い存在なのだと思えるのではないでしょうか。これが、自分の座右の銘、『天上天下唯我独尊』における、自分なりの意訳であります。
我が家のご本尊、諸尊、神様への朝の勤行は、少々お待ちいただいて、久しぶりに、ご近所の不動寺の勤行に参列させて頂こうと出かけた。まだ6時前なのに、熱心な檀家さんのお婆ちゃんが境内の掃除を、他にも男性が数人、墓地の手入れをしている。「早くから精が出ますね」挨拶を交わして、修行大師像の前に立つ。以前も書いたが、四国歩き遍路においても、数多くの大師像を見てきたが、この不動寺の大師像は、穏やかなその表情の中に、鋭い眼光が抜きん出て目立つ大師像である。
本堂前で向側の聖観音像と向き合い、大師像は真西に向かって立たれているので、朝日を背にしているにも関わらずに、その瞳からは眩い光が放たれているようにも見える。入り口の六地蔵像、女人講、それぞれにお線香をあげ、ご挨拶して廻る。歩き遍路に出る前は、これを毎朝やっていたものだ。特にお大師さまへは、「どうか、お四国へお導き下さい」と毎朝懇願していた。結果、半ば準備不足の見切り発車ではあったが、兎にも角にも四国遍路へ旅立てた。
そうこうしている内に、本堂の端から窓が開き始めた。
橋爪住職が東側に内部が続いている、自宅から本堂へ入られたようだ。入り口の大扉でじっと待つ。ガラリと扉が空いて、ご挨拶すると、「おぉっ、暫らくだねぇ。上がってな。」とご住職。「有難う御座います。」と本堂へ上がらせていただく。この不動寺のご住職は代々続く、高野山真言宗の家系で、先代住職やお兄さんは品川の高野山東京別院などの役員をされたりと、幹部内情にもかなり詳しいが、三男である現住職はとても気さくで、ズバズバものを云う、非常にラフなご気性で親近感がある。だから? 朝の勤行時も法衣はいちいち着ていない。作務衣にいつもタオルを首にかけている。ん?そう云えば、法衣を着ているところを見たことがないかも知れない(笑 しかし、相談すれば何でも親切に、ぶっちゃけ話しまで教えてくれる。
たまに息子さん(副住職)もいらっしゃるのだが、この日はお一人。
堂内のそこらじゅうに、線香と灯明に火を燈していく。ここの本堂は非常に広い。祭壇前の外陣だけでも15畳、これが東西に同様に繋がっているから、これでもう45畳。裏にも位牌堂がある。デンデンと堂内を忙しく歩きながら、「これが結構〜大変なんだよ。これだけで十五分ぐらいかかっちまわー」とご住職。「お手伝いしますよ」と、広い堂内を手分けして大師坐像などに線香と灯明を燈していく。
作業を進めながら住職が訊く、「ところで、またどっか廻ってきたんかい?」巡礼や遍路のことである。「ハッ。愛染霊場を少し・・」「愛染霊場?」歴史も浅い霊場なので、ご存知ないようだ。「はい、西国の愛染明王を祀るお寺を巡る霊場です。」そう説明したら、今度は「愛染さんて、強ぇーけど怖ぇーんだぜ」ときた。群馬弁丸出しの話し方が、ご気性と相まって尚気さくさを増す。
怖いとは?聖天さまなら分かるが・・「どうしてですか?」と聞き返すと、なんでも、愛染明王は明王の中でも極めて霊験が強い、(それは知っていたが)、東京別院から本堂を長野県諏訪市の仏法紹隆寺(ぶっぽうしょうりゅうじ)へ移築する際、三億の費用がどうしても捻出出来ずに、困っていた当時の住職が、女房、子供を捨てて、(一旦、離れて)修法を行じ一心不乱に祈ったところ、三年後に無事全額を工面出来て移築したと言う。
(あれ? 愛染さんて、女人救済随一の明王なのに、ナンで離れさせる?)と、聊か疑問に思ったが、まぁとにかくそんな実話があるらしい。男が愛染明王に増益に関するご利益を求めるは、そういった犠牲が伴う修法が存在するのだろうか?バタバタしてて、そのときはそれ以上訊けなかった。次回にでも追って詳しくお話しするが、今懸命に取り組んでいる事業の根幹は女人救済事業。愛染明王のご誓願を今一度、詳しく調べてみる必要がありそうだ。
「今、お経は何読んでんだい?」準備がほぼ整ったところで、そう訊かれた。
「はい、朝は理趣経、愛染経、大黒天神経、観音経偈門、十一面観音陀羅尼、大聖歓喜天使咒経です。」「はぁっ? そりゃー長ぇなー そんなに読んでんかい?」「それじゃあ、時間かかるだろ?」「はぁ、朝は一時間半ぐらいですか」「ふぇー。なら、今日はどうすっかな。観音経は昨日読んだし、よしっ理趣経読むかぁ」「ハイ、是非お願いします。」「でもなぁ。そもそもオレァ、お経嫌ぇなんだよ」と、正直な住職。それは以前も聞いたことがある。やっぱり本当に嫌いなんだ。(笑
その代わり御詠歌がお好きで、何度か聴いたことがあるがとてもお上手である。「お経の声は出ねぇーが、御詠歌は出るんだよ。声の出し方が違うんだな」と云う。自分にはその違いが完全には分からないが、しかし、どー考えても絶対、お経よりご詠歌の方が難しいと思うが。
ポーンと一つ、分厚い座布団を投げてくれて、「そこへ座んな」と云われた。
いつも、外陣で勤行に参列させて貰っていたが、そこは護摩壇の目の前、内々陣もいいところだ。これは光栄だ。有難く詰め寄らせていただく。10cmぐらいの分厚い経本を渡され、「んじゃ、理趣経ね。開経偈から。」「ハッ。」アレ?五体投地もなし?(笑 いきなり、開経偈から始まった。歸命毘盧遮那佛(みょーびーるしゃなー) 無染無着眞理趣(むーぜーん) 生生値遇無相?(しょーじょー) 世世持誦不忘念(せーせー) 弘法大師�勸法樂(こうぼうだいしー ぞうほうらーく) ・・・・
う〜〜ん、いい感じだ。自宅での勤行と、本堂でしかも内々陣での勤行はこうも空気が違うのか。そう思いながら、初段を終えたとき、「はい、ここでお終い。次はね、菩薩勝慧者(ほさっしょう けいしゃ) からね。」(え? それって、理趣経百字の偈 やがな。そんなに素っ飛ばすんか?) 「中抜きって云ってな、夏は暑ぃーから抜いて読むんだよ」って、ホンマかい!?(笑 理趣経百字の偈 は、十七段のあとにある。二段目から十七段まで、そんなにワープしてもいいんかい? しかも理由が、「夏」だからってのが面白い。まるで短縮授業。これが理趣経サマーバージョンか。
お経は本当にそれだけだった。御真言も10ぐらいを全部三遍づつ、確か弘法大師御宝号だけを七遍唱えたような。だから、あっと云う間に終わった。そのあとの、「○○○のために〜」と云う、回向がどこそこの、傳燈大阿闍梨○○とか、檀家さんのためとか、一門のためとかと、数分続いて終わった。
お経が終わって、「まだ、時間あるかい?」「ハイ」と答えると、「よしっ、じゃあご詠歌歌おう」「オレだって、大体一時間ぐらいはかけてんだけどね。いつもご詠歌唄ってんだよ」そうおっしゃるので、「是非、聴かせて下さい」とお願いした。ご詠歌は自分は歌えないが、聴くのは大好きだ。なんというか、洗練された演歌といおうか、民謡のようでもあるし、兎に角、日本人の魂に響くようなリズムと、ゆったりした歌い方が心が洗われるようで、とても好きなのだ。
「金剛」「世尊」「弥勒菩薩」など、様々なご詠歌を沢山唄って下さった。ご住職は、この不動寺でご詠歌を在家に教えるクラスも持っているが、「婆さんどもは覚えが悪くってどーしょーもねぇから、こんなのは勿体ねーから教えねーんだ」と云う(笑。「だって、難しいですよ私らでも」見たこともないような、音符の変形記号は全く理解出来ない。聴きながら附を追って、少しでも解読しようとしたが、やはり難しい。増して相手がお年寄りじゃ、まぁそれも致し方なかろうとは思うが。遍路や巡礼でも、各寺のご詠歌があるが、全て棒読みだった。いつかは覚えたいが。多分、四度加行で強制的に習うだろうから今は聴くだけでいいや。
ご詠歌が終わってから、位牌堂へも案内して下さった。
数段になった棚に、幾つもの位牌が並んでいた。そこに並べられた灯明の火も全部消していく。「ろうそく作りもしなきゃなんねーんだよ」溶けた蝋を集めて、減った灯明の中に注いでおけば、冷めれば繰り返し使用できる。「光堂ろうそく」と云う、このろうそくは、周りが溶け難くく、中だけが下がっていくタイプの、表面に「南無大師遍照金剛」と書かれた大きな灯明である。
そのため、風にも強く消え難い。説明書には80時間と書かれているが、二つ以上買って、一つを一度使い切ると、先ほどのように新しいろうそくの溶けた部分を足して行けば、繰り返しかなり使えて結果とてもお得なろうそくである。そのため、予備の替え芯が幾つも同梱されている。他にも、般若心経や観音経、南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・南無釈迦牟尼仏 など6種類が書かれたものもある。唯一、京都の財木堂で売られている。ネットでも買えるよ。一個1575円。五千円から送料無料。
これは自分もよくやっているので要領は分かる、お手伝いしていた。
亡くなられたばかりの方か、箱に収められた遺骨が二つあった。「焼いた骨は臭くなるから、窓を開けて線香を焚いとくんだよ」「だから、四十九日以上置いておくんじゃねーって云ってるんだ」「あははっそうですかぁ」(いいんかい?檀家さんにそんなコト云って(笑)「それにしても沢山の位牌がありますね」「みんな、作り変えたヤツだから、燃さなきゃなんだよ。溜まっちまってるけど」(燃すじゃなくて、御焚き上げでしょ(笑)本当にここの住職は面白い。
「これからメシ喰ったら、草むしりだ。結構やること一杯あるんだよ。」「長々と有難う御座いました。」結局、なんだかんだと6時前に行って二時間以上。不動寺を出たのは8時を廻っていた。以下は、不動寺でのお大師様に話しかけた言葉、そのままである。「お大師様、お久しぶりです。」「まだまだ精進が足りませんが、お蔭さまで随分と、人様のお役に立つことに、心を分けるようになりました。」「しかし、多くの人様を救うには、まだまだ力も智慧も足りません。」「どうぞ、御仏の智慧を、言葉を、行動を、何よりも御仏の心を貸し与えて下さい。」
この最後の願文は、最近の勤行でも中心的な願いとなっている。
なぜなら、理路整然な会話術をマスターするより、心理学を駆使したテクニックより、やはり人の心を動かし訴えかけるものは、一点の曇りのない、自分の心そのものだと思うようになってきたからである。心で話し、心で聞き、心で動くことが最も相手に誠実に確かに思いが伝わるのではないかと。そう思えてきた。密教・自心の探求―「菩提心論」を読むに曰く、「もし人仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す。」真言密教最大の特徴である、即身成仏はつまり、「我々の誰しもが心の中に、すべて等しく仏になる種を持ち、今、生活しているこの身このままで仏になれる」と云う、密教にご興味のある方にはご存知の通りであると思う。即身成仏とは自分なりには、仏のように考え、仏のように行動し、仏のように話すことであり、要するに何もかも仏の真似事をしている内に、仏に近づけるかも知れないと思っていた。
これは若い頃の話しになるが、かつての生活で実践したことがある。
小学校5〜6年のときに、スーパーカーを交差点で見つけると、夢中でチャリンコで追いかけた。大阪市内の渋滞では、近距離なら結構ムチャすれば追いつく。マンションの駐車場まで追いかけて行き、写真を撮らせて貰ったり、時には乗せたりもしてくれた。そんなとき、必ず大人相手に訊いていたことがある。それは、「ナンの仕事してはるんですか?」だった。20歳前後になると、今度は信号待ちのベンツやベントレーに乗っている人に、「どうやったら、そんなエエ車に乗れるんですか?」と訊いて回った。大阪はヤクザも多かったので、「なんじゃあ、ワリャア!」と凄まれたこともあるが、懲りることはなかった。(笑
15歳で父親を失っている自分にとって、やがて渡世上の親とも呼べる人と出会う。
なにもかも、この人から盗んでやろうと決心してから、身なりだけは超高級すぎて真似できなかったが、歩き方、しゃべり方、声の調子、人と接する時の態度、果ては息遣い、目つき、目の動かし方、間の取り方、などなど、タダで真似できることは貪欲にほとんど真似をした。「気色悪いヤッチャのぉ〜オマエ〜」と云われるほど露骨にやり続けた。その結果が功を成した・・かどうかは分からないが、23歳からずっとSクラスや7シリーズに乗り続けて来た。自分のことだけを考え、好きなものを好きなだけ買ってきた。好きなものに好きなだけお金を注いできた。今はそれが正しかったとは云わない。ただ、金を稼ぐ定義、意義を一個人の欲望のみを満たすことに拘ってきたために、それは大きな間違いだったと気付いて、モノを捨て、私欲を捨て、出家したわけであるが、金を稼いだかどうかだけなら、十分に稼いでこれたのは事実である。
同じように、(かどうかは、聊か極端かも知れないが)素の自分が話そうとするときや、相手の話しを聴くときも、今までのようについカッとなったり、小馬鹿にするようなことも、(仏さまなら、こう考えるかな?)(仏さまならこう答えるだろう)(この人だって、観音さまが姿を変えているのかも知れない)そう考えると、随分と今までと違う人に会えるようになってきた。それでもなお、心から相手のことを考えないと、言葉が足りなかったり、云うべきところで控えてしまったりする自分が居る。心が足りない、気持ちが足りない。心が口先じゃない言霊となり、態度となり行動となり得る。そう思えてきた。
先の『菩提心論』から引用した文章は、即身成仏を端的に著す名文であるが、これを意訳すると、「仏の智慧を得て悟りを得ることを願い、教えを学び修行する機会を得たならば、父母より頂いた、この身このままで成仏することができますよ 」ってコトになり、結局は修行しなければ成仏出来ない、それ以前に全ての人が仏性を持って生まれたとしても、その存在自体に気付き(目覚め)なければならない。仏性を持っている=成仏出来る資格を有している⇒だが、修行いかんによっては誰しもなれない(出来ない)そう思っていた。だから、遍路や巡礼を続けたり、滝やマントラや諸々の修行をしたり、阿闍梨になろうともした。
だが、それって自分だけの、自分だけが成仏すれば良い、自分の心が洗われれば良いというような、狭き了見にも思えてきた。阿闍梨になって、なにがしたいのか? なにをもって世間様に還元するのか? それは阿闍梨にならないと出来ないことなのか? 阿闍梨と云う、肩書きだけが欲しいのか? 色々考えた。 元より行者さんを批判しているのではない。敬愛する行者さんは沢山いらっしゃる。確かに、行を修しある意味において神通力を備えれば、祈祷祈願によって衆生を救うことが出来るかも知れない。本当にそういう人も知っている。だが、寺院のセガレとして生まれたワケでもない自分は、阿闍梨になれたとしても、私寺を建立するか、どこかの寺院に入らなければ人様に施しが出来ない。いずれかの組織に属し、規律にも従わなければならないだろう。自由な動きも制限されよう。
不動寺の橋爪住職に、僧侶の求人募集を見せてもらったことがあるが、そういった僧侶の受け入れ口もないことはない。しかし、僧侶という職業に就職するために出家したのではない。自分にとっての「僧侶」とは、職業ではない。それにそうなったとしても、そこで救えるのは信仰心を持った方々だけである。実社会において、目前に迫ったこの国の危機感すら、他人事にしか思えないほど、生活に追われているような、既に信仰心から遠ざかってしまった人々を、満遍なく救うには、もっと別のアングルから手を差し伸べる必要がある。やはり一人でも多くの人が、現状と未来をしっかり見据え、不安のない明日の迎えることの出来るようにしてあげることが、阿闍梨になるより自分にとっては最優先事項先決であるという結論に至った。
阿闍梨になることを諦めたワケではない。
暫しそれは先延ばしにしても、いつの時代でも犠牲者となる、民、大衆、ピラミッドの底辺にいる人たちを何としても救って行きたい。これが今推し進めている救済事業のきっかけである。だからこそ、もう二度とビジネスの世界に舞い戻ることはないと思っていたが、そうして人様の増益のお手伝いをすることが、今まで生き馬の目を抜く弱肉強食のビジネス界で生き残り、この身に沁み込ませたビジネススキルを活かせるのではないか、もしかしたら、そのために今まで商売をしてきたのではないか。今はそう思えてならない。それが自分が今まで生かされた世間様への恩返しであり、半生を生きるべく使命だと思っている。
詳細はいずれお伝えするが、特に母子家庭や低所得者層の方々に、容易に収入を得ていただくため、間違えのない手段の伝授と、継続増益するためのサポート体制の構築である。弘法大師の開かれた、綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)は身分の上下なく、広く一般大衆家庭の子供にも門扉を開いた、わが国初の私塾。そのお志を継がせて頂くに因んで、正式名称ではないが、今は趣旨としてその名称をお借りして、一切無償の全国行脚のため私財を投入しようと準備を急いでいる。
なんや、結局金儲けの話しかい? 金儲けはやめたんとちゃうんかい?
そうだ、確かに自分だけの金儲けはもうやめた。しかし、現実社会で人様を救うには、キレイごとを並べててもどうにもならない。やはり、紙幣流通が最も現実的な救済措置に違いないのだ。じゃあ、私欲を捨てたんなら余った金をやみくもにばら撒くのか?そんな一過性のモンは意味がない。事実、宝くじに当選して、サラリーマンの生涯年収を得た人のほとんどが、五年以内に資産を失くしているデータがある。泡銭では意味がない、自分自身で稼げるのだという実績と楽しさ、豊かさとゆとりを得ることによって、心にこびり付いた邪念や垢が落ち、本来持っていた仏性に目覚め、その向こうに見える、誰に優しくしたい、誰かを支えたい、という自分の本当の心に触れるパラダイムシフトである。
わずかな個人や施設にドバッと、資金を流入するよりは、何千人何万人という、より多くの人たちが、今以上にしっかりと確実な収入を得ることが出来たら? どうであろう。学歴もない、人脈もない、資金もない(ここまでは自分も同じだったが)更には、自らリスクを背負ってビジネスの世界に飛び込む勇気もない、そんな人たちを恵み或る心豊な世界へいざないたい。しっかり収入が増えれば、間違いなく今よりも生活にゆとりが出来て、嫌が応にも夫婦喧嘩が減って、それを観ている子供との会話も増えて、親にも気を配れて親孝行が出来て、家庭内みんなの笑顔が増えれば、心が豊かになる人も増えましょうや。その結果、少しでも無差別殺人などの犯罪が減って、未来に希望を持てる人が増えて、それまで周囲にいた、「無理だよ」「夢なんか叶わないよ」「諦めたよ」と云う、ネガティヴな人間たちから遠のき、「やれば出来るよ!」「やってみなきゃ分からないじゃないか!」「きっと出来るさ!」と云う、希望に満ちた人たちが傍に集いだすでしょう。
2年前、30代前半でインターネットビジネスによって瞬く間に財を築いた、あるミリオネアと語ったとき、彼の主幹する起業塾でミリオネアを100人輩出するのが夢だと彼は云っていた。そのころ、自分も同じ夢を持っていたので、同じ事を考えている男に会えたと、非常に彼に共感できたのを覚えている。そのときの自分の周囲には、金を儲けてからの知人に囲まれていた。最初は今まで知らなかった世界観、価値観、豪華絢爛なパーティー、高級車の見せびらかし合いが面白かったが、すぐに飽きた。彼らに興味があるのは、自分が儲けた手段や方法、投資や秘密倶楽部の情報交換であり、自分という一個人よりも金で何が出来るかだった。
そんな世界に嫌気が差し始めていたときで、起業家を目指し、若くやる気のある人たちを育てたい、夢を共有してもっと大きなプロジェクトがしたい、と思っていたときだった。実は、この夢は古くから持っていて、自分が20代のころ、いつも社員にこう云っていた。「ウチの会社の社員用駐車場は、ベンツやビーエムだらけにしようぜ!」「あの会社一体、どないなっとんねん?って、云われよーぜ!」と。
他人より自分第一の若い頃でも、社員には稼いで欲しかった。自分独りで高級外車を乗り回していても、つまらないからだ。だから、みんなで乗り回したかった。しかし、20年商売してきて、その夢はほとんど叶わないと悟った。そこまで抜きん出てくる男は、みな独立していくからだ。収益のあがる部署では、同業種の中では高額な報酬を用意していても、例え社長でも役員報酬という給与を受け取っていた、自分の年収を追い抜くヤツはいなかった。いや、立場上、経費を自在に使える経営者である以上、それらも収入と見なしてしまえば、絶対に不可能なのだ。だから、社員ではなくビジネスオーナーと云う、同じ土俵に引っ張り上げるという、方向転換して夢を継続させようと思っていた時期だった。
しかし今は違う。更に方向性を変えた。
なぜなら、やる気のある起業家を育てる起業塾や講師は、自分でなくとも先のネット起業家のように幾らでもいるからだ。今般、増え続ける一方ではないか。しかし、その環境の中でも今後は、挫折する人も多く突出していくのは容易ではないだろうが。出家して世の中を見つめなおし、自分を見つめなおした今、自分のやるべきことは、ミリオネアを100人育てることではなくなった。
サラリーマンの某統計によれば、月々5万収入が余分にあれば、奥さんがパートを辞められ、貯蓄や教育資金に回せ、子供とも時間も増やせるそうだ。ならば、月々確実に5万、収入を増やせる人を10000人、10万30万と6桁に収入を増えせる人を1000人、7桁を100人以上とってもらうことを目標とした。実際これはかなり低めの設定である。メトカーフの法則に乗ってしまえば、これ以上は軽くイケると思っている。つまり、それほどに現実的だと捉えて頂ければ良い。心に雲もない、透き通った未来を見渡せるような人が、一人でも多く増えるに越したことはない。
ある意味、福祉事業的な本当の無償でないと意味がないとも思う。
雑誌を見ても、テレビCMを見ても、ネットで検索しても、副業にせよ、SOHOやネットビジネスを教える塾やスクールは履いて捨てるほどある。無料でレポートが読めたり、DVDを貰えたりするが、結局は月会費制のシステムへと誘導される。これらの多くは課金制のビジネスとして立派な商売である。在宅ワークも残念ながら、まとまな会社を探す方が難しい。テキスト代だの登録料だの、なんだかんだと準備金を要求されたり、仕事にならないような仕事をさせられて、結局稼ぐことは出来ない人が山ほどいる。
ビジネススキルのない主婦たちが、真面目に副業を得ようとしても、現代ほどリスキーな時代はない。こんな輩がいるから疑心暗鬼になったり、ポジティヴな思考を欠落させてしまうのも無理はない。しかし、「タダより怖いものはない」との猜疑心も取り除いてあげないといけない。また、タダだったら適当しか取り組まない人もいるでしょう。だからこそ、紛れも無い真実のみを、身を粉にして渾身の心で伝え続けていくしかないかも知れないと思っている。
〜編集後記〜
なんだかまた、取り留めのない話しになってしまった。
誤字脱字、支離滅裂、られつの廻ってない部分はご勘弁を。
先日から、これだけ漠然とした内容にも関わらず、何件か反響や問合せが来ている。兎に角、全国行脚しだすと家に全然帰れないほど、間違いなく相当忙しくなる。準備中の今なら、まだ幾らかサポートしたりも出来る。ご興味のある方は、お早めにプロフィール欄のメールアイコンより、ご一報下され。
感謝合掌
法蓮 百拝
コメント
コメント一覧 (1)
でも現実にしたいと思う 輩は
少なくとも この世の中に いるのだ
そんな思いが 強くなります。
自分が 今まで お会いした 数々の
人々 いや、 たった30年・・
まだまだ上には上がいると 常日頃
慢心することは 戒めておりますが。
なんとも 清清しく 強く強く 心に響
いて 仕方ありません。
このブログから 読み込むごとに
感じる思いを 日々の 糧として
歩いて みたいです。