貴方は多国語を学んだことがありますか? 誰しも英語ぐらいは義務教育で習いますよね。多国の言語を学んでいくと感じられたことがあると思いますが、段々とそれぞれの国の公用語の向こう側に、その国の習慣や国民性、思想や宗教性までもが見えてきますね。それはそれで面白いのですが、そうやって異文化に触れる度に、「日本人に生まれて良かったなぁ〜」と思うのです。それは言霊と云う語句があるように、単にいにしえより日本人にとって言葉は魂が宿るものであり、ずっと人と人とを心で紡ぐ糸でもあったからです。

 日本語はアルファベットのような単なる記号の集合体ではありません。日本人でも覚えきれないほど日本語には沢山の表現があります。それらを全て直訳する外国語はありません。大体こういう意味だよとか、「for example..(例えば)」を乱用しないと難しくなります。つまり、100%翻訳して彼等に伝えられないのです。だから、映画を観ていても「あれ、今の字幕の訳し方、飛躍しすぎてねー?」と思う方もいらっしゃるように、英語を話そうとするときもそうですが、頭の中で日本語で考えてそれを英語に直そうとすると、時間がかかって長くなって仕方ないのです。一つの英単語に当てはめられる日本語は複数存在し、それだけ表現が豊かということなのです。だから英語で考え英語で話せば早く順応出来るように、字幕の限られた瞬間に日本語に直すには、イメージとして訳すしかない言葉もあるのです。

日本人は欧米人に比べ無表情だ、ゼスチャーに乏しいと云われてきましたが、それだけ繊細且つ風情をも醸し出す日本人語を操れていた古人にすれば、大げさな身振り手振りも不要だったのでしょう。また本来の日本語は、とても美しく丁寧な言葉です。相手を敬い、相手を思いやり、相手の立場を尊重しながら言葉にする敬語があります。この辺りの相手を尊重したり、謙遜し控えめにする言葉の数々が、敬語の存在しない(丁寧な言い回しはありますが)自己主張国の英語に頭の中で転換することを難解にしている要因とも云えます。


 では日本語から少し離れて、一般的に言葉とは人間のみが使う、コミニケーションのツールです。人は言葉によって励まされたり、感動したりします。人は幼いことから母親の言葉によって導かれ、一喜一憂してきました。人が言語を覚え自らの文化とする順番は、聞く⇒話す⇒読む⇒書くです。と同時にその反面、いとも容易く人を傷つけることも出来、両羽の刃とも云えます。ちょっと例えは悪いですが、心で人を殺したいとか、実際に殴るよりもカンタンだからです。しかも音速で相手の心を傷つけます。

昨今、両親とのコミニケーション不足なども原因してか、巧く自分の気持ちや思いを伝えられない若者が増えています。これは言語能力の低下も起因しているようにも思えます。美しい日本語が話せる話せない以前の問題です。先ほど、言語を覚える順序を書きましたが、こういった人と向き合う、尊重し合う、調和を保つことが苦手な人たちは、最初の「聞く⇒話す」とスッ飛ばしてしまっている気がします。
ネット上ではどこの誰もと明かさずに、誹謗中傷やりたい放題です。心ない者によって荒らされ、閉鎖せざるを得なくなった寺院の掲示板など多く聞かれます。正面から相手と議論出来ない、人の話しが聴けない、話せない。ネット上でしか自分の存在意義を見つけれない。こないだのマトリックスの話しじゃないですが、そんなの仮想現実の中でプラグに繋がれたまま暴走して削除される異変プログラムのようで、非常に嘆かわしいばかりです。仏道を通じて彼らも救って行けないか? 道を照らしてあげれないか? そんなことも思うようになりました。


 自分は客商売を続けて二十年以上と長いので、ずっと前から感じていたことですが、お金を払う時に「Thnak you!」と云うのは欧米人です。お客さんでありながら店員に気遣いしてくれるのも欧米人が多いです。そんな接客をしたときは、とても心地よい感じがしますし、その瞬間だけでも日本人より礼節を重んじるように思えてしまいます。逆に欧米人から見れば、日本人はニヤニヤしてるだけで「ありがとう」を言うべき時に言わない。マナー知らずだと非難されることもあります。実はこここそが、自分の定規で物を推し量る欧米人らしさと云える部分なのです。自分は欧米人の肩を持つ気は、サラサラありませんのでご安心を。(笑

そんなことはない!我々日本人はちゃんとお辞儀もするし、挨拶もする。欧米人よりよほど礼儀正しい!と思っている人が多いと思いますが、例えば、東京の街ですれ違いザマに肩がぶつかるのは日常茶飯事です。相手が怖い人でない限りさして避けないですし、いちいち「ごめんなさい」とも云いませんね。しかし、ニューヨークやロスでも「Pardon」とか「Excuse me」と、ちゃんと云ってくれます。
ええ? と思うでしょう。でもホンマです。「外人は謝ること知らんのやないかい!」とおっしゃる人もいるでしょう。それはそうです。自己主張の強い国ですから、カンタンには謝りません。「Excuse me」は「失礼、失敬」と云う意味で、ごめんなさい、すいませんの「Sorry」とは違います。特に都会に見られるのは文化度、マナーの認識の違いだけでしょうか? もっと云うと、肩をぶつけられた人の方が「Excuse me」と云う人も居ます。なぜでしょうか?

 有難うの話しに戻りますが、彼らにとって実は、この「Thank you!」は、ほんの軽い挨拶程度のものなのです。必要でないときに「No Thanks」つまり、「Thank」はないよ。と云うニュアンスからも感じられるように、日本語の「ありがとう」を直訳とすること自体が、本来は合わないのかも知れません。
というより、今では「有難う」と云う言葉は、お礼に代わる言葉として使われていますが、元々は「有り難し」つまり、有りそうでない、滅多にもない。と云う意味なのです。普段から、ありがとうを漢字で書いている人は薄々感づいていたんではないでしょうか。古語辞典によれば、「有る事を欲しても、困難で実際には少ない。または無いの意。稀な事を喜び尊ぶ気持ちから、こんにちの「有り難い」と云う感謝の意に至る」と書かれています。
ですから、欧米人の言う「Thanks」とは軽さが違うというか、そう心のどっかでDNAが思ってしまっているかも知れませんが、現代社会は欧米社会ですから、例えば部下や従業員、親や子供、配偶者へも口癖のように「ありがとう」と云った方が、相手に心地よさを与え、スムーズに事が運ぶのではないでしょうか。特に欧米人との円滑な友好関係を結ぶのなら、必要不可欠なマナーのABCに違いありません。


 日本人の中にもマナーに長けた方はいますが、殆んどの方は、客でござい!、こっちゃあ金出してんだから!って顔をされます。昨今、何かとクレームを付け、返品交換は当然、謝罪を始め時には金銭まで要求するクレイマーが問題視されるのも、金払ってんだから当然だろ? 的心理の負担した金銭以上の見返りを求める、消費者が増えています。モンスターペアレンツもクレイマーから派生した異変プログラムの一種と云えるでしょう。

昔は、こういったことはヤクザ屋さんの専売特許でした。駆け出しのチンピラはのし上がる為の修行として、何かとイチャモンを付け、白いものを黒いと云わせる掛け合いを学び、付け入りようのない所へ理屈をこじ付け、人様の懐を糧としてきました。十数年前に、やがて一億総ヤクザ時代が来ると申しましたが、最近ではクレームだけでなく、人様の命を軽々しく奪っているのも、どこにでも居そうなフツーの堅気の人間です。そんな嫌な報道を毎日のように聞かされます。ヤクザ屋さんの抗争事件など久しく聞かれなくなりました。殺生を肯定するわけには参りませんが、まだ、組の代紋を守るため、男の意地を通すため、といった大義名分があるヤクザ屋さんの方が、先日の秋葉原の通り魔無差別殺人のように、ただムシャクシャしていた、誰でも良かったなど有りえない理由で人様に刃物を向けるより、遥かにマシだと思うのは自分だけでしょうか。

 話しはブンブンぶっ飛びますが、いつものことなので笑って許して下さい。御仏の大慈大悲のお心で(笑。 歪んだ若者の殺人や、歪んだ大人のクレイマーも問題ですが、警視庁の統計によると65歳以上の高齢者による万引きが、認知件数自体は16年から減少傾向にあるにも関わらず、増加の一途を辿っていると云われます。14年から17年までは、15歳から19歳までの少年による万引きが全体の24%から30%だったのが、18年は高齢者が22%となり、初めて少年を上回っているらしいです。
しかも、理由はほとんど金銭的なものでなく、金を持ちながら万引きを行なう。その上、反省の色もなく悪態をつく老人まで居て始末に負えないと云う。こういった万引する高齢者は、金は持っていても家族でさえ会話がない孤独な人が多いという、これも心の通い合う言葉の欠落に端を発していると云えるでしょう。
NPO法人「全国万引犯罪防止機構」の福井昂事務局長は、「政治家もテレビなどで平気でうそをつく。いまの時代、自分さえよければいい、という人が多い。たかが万引と罪の意識がないから繰り返す。日本人全体に道徳教育が必要ですね」と日本の現状に嘆かれる一人である。
やはり、今の日本はおかしい。立ち戻れない地点に到達してしまう前に、世界に誇れる美しい心を持った日本人の魂を取り戻すために、「いっちょう、やったろうやないかい!」と、貴方も一肌脱いでくれませんか?


 さてと、いよいよ本題ですが いまごろかい?(笑。
「Excuse me」の部分で、特に都会に顕著に見られると書きました。例えば対照的な、中国雲南省など少数民族の住む地域には、「ありがとう」に直訳する言葉自体がありません。インドの現代語である、ヒンディー語にも元々ありませんでした。現在は欧米化社会に対応するため、サンスクリット語系の「ダンニャワード」と、ペルシャ語系の「シャクリヤー」が使われていますが、どちらも翻訳された新造語なのです。

日本語の「有難う」も元の意味を辿れば、今の「ありがとう」と云う言葉はない、と云うことになります。これはどういう意味なのでしょう? 恐らく、見ず知らずの他人ばかりに囲まれる都会においては、「ありがとう」と云う言葉は潤滑油となり、ただですらギクシャクしがちな人間関係を円滑にする重要なワードになっていると思います。
逆に、雲南省やインド、そして我が国に共通するのは、農耕民族であり移動しない、いわば単一民族であると云う点から、ひとつの国や地域に根ざした文化を持つ人種は、いちいち「ありがとう」と云う必要がなかったのではないでしょうか。「他人行儀」というやつですね。

 特に日本語の「有難う」は、目の前にいる相手を超越して、もっと絶対的な存在である神や御仏に対して、いにしえの日本人は使ってきたのではないでしょうか。感謝の気持ちを相手の身体を通して、もっと普遍的な物に対する敬意を払ってきたのではないかと。
例えば、お布施をするのは、お経と同じで自分に功徳が返ってくるからだと云われますね。でも今の日本人はお賽銭にしろ、御守にしろ、神社やお寺にお金を払うのは商品を買ったりするのと同じ感覚です。見返りを明かに求めています。まぁ受け入れ側に商売ッ気丸出しでは、そうなってしまっても遺憾とし難いところでもありますが、唯一四国を歩き遍路したときに、人々の純粋なお布施に触れたような気がします。

仏教国タイでもそうです。食事に人を招くと友人知人に混じって知らない人まで来たりします。散々飲み食いしても、彼らはお礼の言葉を述べません。金のあるヤツがないヤツに布施(施し)をするのは当たり前。その御蔭があって、功徳をいただき更に豊かになるのだからと、平然と言います。
アラビア人が布施を乞うときは、「ハーガ・リッラー」と云うそうで、これは「アラーの神に返しなさい」との意味になります。つまり、施しを出来る人が持っている金は本来、アラーの神の金が一時的に預けられているだけだというのです。ですので、貰った人はアラーの神から頂いて物で、その人から貰ったのではないから「ありがとう」を云う相手は、アラーの神なのです。これは日本の「金は天下の廻りモノ」と同じ意味ではないでしょうか。
医療支援でアラブ諸国に、出向した日本人医師が困惑したこんな話しがあります。日本では彼らは、重度の患者の家族たちからは神のように感謝されますが、アラビアでは事情が違います。病気の完治した子供の両親は、治療した医師ではなく、アラーの神に感謝するだけで、ひと言も医師にはお礼を言わなかったそうです。

インド人も布施に対しては同じ感覚でいます。日本人は同じ仏教のルーツを持ち、しかも「有り難い」と神仏に対する尊い感謝の意味を成す言葉を持ちながら、「金のあるヤツが布施をする」「金があるヤツが、ないヤツを救う」インドやタイが当たり前とする行為を、せいぜい社会貢献という名のもとの税金対策でしか善意を装うことが出来ない日本人が圧倒多勢です。
自分の会社もそうでした。企業として、赤字になるとメインバンクにも体裁が悪い。でも儲かりすぎるとこれまた問題もあるのです。そんなときは顧問の税理士や会計士とデコを付き合わせて、どこに献金しようかと相談します。寄付金はしっかり税控除となるからです。ここにこれだけ献金しても、税務署にとられる税金は同じ。だったら企業のイメージアップにもなる社会貢献しましょう。と云うことになります。今は社会貢献していない企業の方が少ないくらいですが、まずは企業の利益最優先。余ったらやりましょうという感覚です。最初から寄付金を予算計上している企業は稀有です。

「布施なんて、こっちがしてもらいたいくらいだ」「余裕ができてからでないと、社会貢献なんて出来っこない」そう思う人もいるでしょう。自分たちの生活向上が優先ですから、稼ぎが増えてもその分出費もかさみます。いつまでたっても、人様に施しはできないでしょう。でも反対に、「自分たち以上に苦しんでいる人がいる」「無理はできないけど、少しでも役に立てれば」そう、決して有り余っているワケではないお金から施しを考える人もいます。なにも、自分たちの生活を粗衣粗食に徹してまでとはいいません。もう少し、人と人とは助け合えないでしょうか。


「ただいま」「お帰り」。
「行って来ます」「行ってらっしゃい」
「いただきます」「ごちそうさま」
これも英語に直訳できません。日本ならではの習慣なのです。英語にない素敵な言葉があります。でもこれすらも、今の日本では薄れていく習慣の一つだと云われます。家族がバラバラで、親と子供が顔を見合わせないで一日を過ごすことが、何日も続く家庭が増えていると聞きます。「ありがとう」「ごめんね」「ただいま」「おかえり」を、相手が言ってくれなくても、自分の方から言ってみませんか。
素敵な日本の習慣を取り戻してみましょう。