さて、理趣釈経第七回目は、理趣経「二段 (覚証の法門) 大日如来の巻」からですね。
理趣経の格段は、それぞれ聴衆の代表者「聞き手」になる別々の仏さまがいることは、今まで何度か書いてきましたね。理趣経の二段は、初段をより具体化して「もうちょっと分かり易くしようよ」と、説いたものなので、聞き手は初段と同じく「金剛薩埵」です。 ただ、語り手の大日如来が初段とはちょっと違います。

どない違うねん?
ちょっと説明すると、またややっこしいのですが、分かり易く云うならば、初段の大日如来は、「金剛大毘盧遮那如來」。これに対して、二段の大日如来は、「毘盧遮那如來」。
イメージ的にも、なんだか初段の大日如来の方が、「金剛」と「大」が付くだけ、エライんかな? って感じがしますね。そう思ってて構いません。それが一番簡単です(笑。
涅槃=死 と捉えがちですが、本来は悟りのことですね。ですが、これが分かりやすいので、その例えで行くと、初段の大日如来は、何百年前にこの世を去っていますが、未来永劫永遠の命を持っているので宇宙と一体です。それに対して、「今死んだばっかりなんよ。」=死にたて=悟りたてのホヤホヤ、正しく「五相成身観(ごそうじょうしんがん・悟りに至る修行法)」の観想を終えたばかり、と云うのが、二段の大日如来です。

ナニが違うねん?
 敢えて「悟った」順と云おうか、あの世での順番で云うならば、大センパイと新米の後輩って感じでしょうか。もっと云うと、密教行者が修行をした結果、感得した智法身(ちほうじん)の大日如来になります。密教教学では、修生始学(しゅうしょうしがく)の大日如来と謂われます。
対して初段で説いたのは、理法身(りほうじん)と呼ばれる、謂わば「法」そのものを意味する、宇宙身としての道理そのもの、絶対真理そのものである大日如来になります。在家信者や一般的な人が指す、大日如来のことですね。

法身(ほうじん・ほっしん)とは、御釈迦さんの生身(現実)の身、生身(しょうじん)に対して、(*「なまみ」とは読みませんが、意味はそのままです。) 死しても尚、つまり入滅したあとも、教え(法)をよりどころにせんがために、永遠不滅の身として考えられたのが「法身」です。
御釈迦さんは生存中から兼がね、「仏は法を悟ったものであるから、法こそ真実のよりどころである」「肉体を持った仏に頼ってはならないぞ」そう弟子たちを諭していました。そのように諭すのも無理もない話しで、弟子たちは御釈迦さんそのもの、その言動や行動、つまり肉体の中に「法」を見出して、頼っていたんでしょうね。
だから弟子たちにとっては、御釈迦さんが死んでしまった=入滅という事実を受け入れるのも、「法」を如何に残すかってことも、大きな問題となって論議を巻き起こしたでしょう。


 ところで、こーゆー語句の説明ばっかりしてると、いちいち中断してちっとも先に進めない。単純に、元のお経がこうなんですわ。 せやから、和訳したらこーなりまんねん。って、解くのが書く方は簡単である。
お経って、キーボードで変換すらしない、フツーの生活では絶対使わないようーな、初めて聞く言葉ばかり出てくる。それをただ、振り仮名を付けただけじゃあ、読めることは出来ても意味が分からない。分からなければ読めないのと大差はないのではないか。でも、こういった語句もついでに理解しながら覚えながら、経典を説いて行くのも現代人の功徳の一つであると思う。

インド人の書いたお経を、中国人は国を挙げて自国語に翻訳した。それが空海をはじめ多くの僧侶によって日本へ持ち込まれた。 ではなぜ、日本人は翻訳しなかったのか? 当時の僧侶は勿論、朝廷に仕える教養者はみな、漢文が読めたから意味が分かったらしいのである。しかし、そのお経の功徳や教えを、僧侶以外の苦悩する衆生に解くときは、空海たちも噛み砕いて話したであろう。

「お経は意味が分からないからいいんだよ、有り難いと思えるんだよ」って人も中にはいる。始めはそれでいいと思う。ただ、きっと有り難いことが書いてあるんだと、信じてご先祖さまなりに読誦することが大切である。それを続けて行けば、自然とお経の意味も知りたくなるし、意味が分かればもっと有難くなる。
そうなると、人に教えたくなる。人にも有り難さを分けてあげたくなる。人を救いたくなる。聡明な読者の皆さんには勿論、いい加減なコトは書けないから、自分も必死に勉強する。皆さんに良い形で提供しようとすることが、自分の知識養成にも繋がる。あな有り難や。あな尊。まぁそーゆー趣旨なので、のんびり行きましょう。


 気を取り直して。
この二段の全体像は、先ほど述べたように、絶対真理である理法身の大日如来より、より具体性を持った、智法身の大日如来が説いているので、内容もより明確になっています。
おおざっぱに謂うと、「四如来が、四方向から、四つの智慧を明かす」と謂うのが、二段のテーマです。この「四つ」と謂うのは、理趣経の基本分別にもなっていますが、大日如来の悟りの内容を四方向から解説し、最終的に「大日如来と同体になる」⇒「自分は大日如来なのである」と謂う、自覚を持つところへ至る、道筋を示すお話しです。では、部分的に見て行きましょう。


ふたたび、舞台は眩いばかりの荘厳な宮殿の中です。
玉座に坐した大日如来が、静かに語り始めました。まず、主題の説明です。しつこいんですが(笑。
○時薄伽梵 毘盧遮那如來 復説 一切如來⇒「尊方(とうとかた)である、(時薄伽梵・しーふぁーきゃーふぁん)大日如来(毘盧遮那如來・ひろしゃーだーじょーらい)は、全ての如来の―」
○寂靜法性 現等覺 出生 般若理趣⇒「極めて静かな(寂靜・せきせい)教え・真理(法性・はっせい)へと、悟り(現等覺・けんとうかぁくい)を生み出す(出生・しゅっせー)真実なる智慧(般若・ふぁんじゃあ)の道(理趣・りーしゅう)を、復(また)説こう。」振り仮名入れると読みづらいですね? 止めます(笑。
⇒意味は要するに、「絶対真理へ至る道を、また説いてやろう」と云う、アプローチです。


○所謂「いわゆるだな・・」

と、少々勿体ぶりながら、
ここから「四如来が、四方向から、四つの智慧を明かす」テーマに入って行きます。
「四如来」とは、誰でしょうか? 大日如来を入れて五智如来って、以前書きましたね。知らない人はこちら五智如来とは? の「智慧」の部分を見て下さい。

それら四如来の(と云っても、大日如来の智慧なんだけど)、智慧からなる、「四つの平等」が、これから読まれる部分です。その四つの智慧と四如来との関係、及び意味は、一覧にした方が分かりやすいでしょう。 下を見て下さい。これらを、ふわっとでも頭に入れておいて貰って、先に進みましょう。
あ、それともう一つ、密教で云う「平等」とは、「等しい」ではなく、「同体」ってことです。「仏も人間も絶対世界も現象世界も本来同体である」と云う、密教的思想によるものです。そこまで考えなくても、「オマエとオレとは、一心同体だぜ」それと一緒です、二個いちと云う意味です。言うなれば、その高次元版でしょうか。

○四人?の如来  四つの智慧           四つの平等      
阿閃如来     大円鏡智(だいえんきょうち)  金剛平等(永遠に不変)
宝生如来     平等性智(びょうどうしょうち) 義平等(福徳・価値)
無量光如来    妙観察智(みょうかんざつち)  法平等(真理・教え)
不空成就如来   成所作智(じょうそさち)    一切業平等(働き・行動)


まずは、阿閃如来の智慧、大円鏡智(澄んだ水の表面のこと)
○金剛平等 現等覺 以大菩提 金剛堅固故⇒
「金剛平等とは、永遠にして不変の平等だと云うこと。例えば、宇宙の命と自分の命は、おんなじ価値なんだ! そう思えたのなら、それは大きな悟りであり、絶対に壊れることのない、ダイヤモンドの輝きをもたらすんだよ。」
いつの間にか、大日如来は俗語を話されるようになりました(笑。 でも、この方が聖書みたいじゃないし、分かり易くていいでしょ?

次に、宝生如来の智慧、平等性智(澄んだ水の水面が同じ高さである)
○義平等 現等覺 以大菩提 一義利故⇒
「義平等とは、福徳や価値や値打ちも平等だと云うこと。例えば、仏も人間も皆同じ利益を持っている。それらは掛け替えのない値打ちなんだ。そう思えたのなら、それは大きな悟りであり、絶対の利益、つまり一つの義利と分かるのだから、互いに施しあうものなんだよ 」

次に、無量光如来の智慧、妙観察智(澄んだ水の水面にすべてを映し出すこと)
○法平等 現等覺 以大菩提 自性聢童裏
「法平等とは、真理や教えも平等だと云うこと。例えば、蓮華が泥の中で美しい白い花を咲かせる様に、全ての物は元々から清浄なんだ。そう思えたのなら、それは大きな悟りであり、絶対の真理は汚れた世界で生きているもの全てが、本性は清浄である、つまり自性清浄なんだと分かるんだよ。」

最後に、不空成就如来の智慧、成所作智(澄んだ水が全ての物の成長を育むこと)
○一切業平等 現等覺 以大菩提 一切分別 無分別性故⇒
「一切業平等とは、働きや行動も平等だと云うこと。例えば、日常生活でコレとアレとは違うものだ、と頭で分別・区別をつけているが、本当はどんな物だって本性としては分けられないんだ。対立的に見るんじゃないんだ。 そう思えたのなら、それは大きな悟りであり、絶対の働きは一切の分別とはもともと、無分別である(という性)であるが故と分かるんだよ。」


ここまでが、四人の如来の「四つの平等」を説いた本編です。
最後に語り手が、聴衆者の代表である金剛手菩薩に呼びかけ、功徳をまとめます。全体的にもこのパートの形は、一定のパターンになってますから覚えやすいと思います。特に次の出だしの「よいか、金剛手よ・・」ってのは、しゅっちゅう出てきます。今回は、「四出生法」ですが、ここが入れ替わるだけですから覚えちゃいましょう。

○金剛手 若有聞此 四出生法 讀誦受持⇒
「よいか金剛手よ、若し、この四出生法(四つの平等)の教えを聞いたならば、常日頃からこれを読誦したり、仏の教えを受けて心に念じ持ち続け、仏のお導きによって自らの行動を律するよう心がけられたのなら・・」
*ここは、敢えて「受持(じゅじ)」=「受け持つ」と云う意味の語句を、仏教的解釈で長い文章にしてみました。 今は学校のセンセイを、「担任」と云いますが、昔は「受け持ち」のセンセイと云いませんでしたか? 今の「担任」は人として教育者から、ただのリーマンになっているような気がします。それがモンスターペアレンツを生み出した要因の一つとも思えるのは、自分だけでしょうか。

○設使現行 無量重罪⇒
「例え、現世において、多くの重い罪を重ねても・・」

○必能超越 一切惡趣⇒   
「必ず心に住まう、すべての地獄や悪魔を追い払い・・」

○乃至當坐 菩提道場⇒
「まさに悟り得た、その場所に坐して・・」

○速能剋證 無上正覺⇒ 
「速やかに足りて、これ以上ない無上なる悟りの境地へ達するであろう。」

以上が、二段の大日如来の悟りに依る、功徳を示し直した部分です。
通してまとめると、
「仮にどんな重罪を犯したとしても、四つの平等の教えを聞いたり、読誦したり、よく受け持つことが出来たなら、瞬く間に無上菩提に行くことが出来るんだよ。」 そう大日如来はおっしゃってます。


さぁいよいよ、二段のクライマックスです。
○時薄伽梵 如是説已⇒  
「時に教主は、説き終わったそれらの意味を・・」
薄伽梵(ふぁーきゃーふぁん)は、教主でしたね。 たいてい、この後に「○○如来」とか名指しされますが、二段では特にだれそれと書かれていません。 しかし、次の文で「智拳印を結び・・」とされていますから、智拳印と云えば大日如来ですね。ここまでの語り手も彼ですから、そういう解釈でいいと思います。

○欲重顯明 此義故  熙怡微咲⇒
「よりいっそう、明らかにするために、頬を和らげ微笑みながら・・」
これ上のとセットで覚えてね。ほぼ毎回出てくるので。

○持智拳印  説 一切法自 性平等心⇒
両手で智拳印を結ばれた大日如来は、「一切法自性平等の心、つまり一切法が本性として、自分も他人も絶対真理も物事も、即ち宇宙の本質も総て平等であるんだよ。」そう表されたのです。
この四如来の智慧の集大成が、澄んだ水が至る場所全てに滞りなく行き渡ると喩えられる、いわゆる大日如来の智慧、法界体性智なのです。

あーく この智慧を具体的に一字の真言・聖音(梵字)で表したのが、「惡・あーく」です。これは主に「あーんく・あく・あ」と、三つある胎蔵界の大日如来を表す梵字のひとつです。また、尊勝仏頂を表す場合もあります。



如来拳印 また、経典内では「智拳印」とされていますが、実際にここで結ぶ印は、「右拳を以って左拳の空指を握る」と注訳があり、これは画像のように「如来拳印」のことを指します。本来はこの印を結ぶのが作法だそうです。理由は今のところ、明らかではありませんが。
「智拳印」と「如来拳印」の違いはカンタンです。右手の拳の中へ入れるのが、左手の人差し指が「智拳印」、対して左手の親指を差し込むのが、「如来拳印」です。ですでの、右手はどちらも同じ状態です。


これで、「理趣経二段 (覚証の法門) 大日如来の巻」は終わりです。
真言密教の経典である、不空訳の理趣経には、勧請に続き序説がありましたが、この二段までが序章というか、総論のようなものですね。 次の三段から、二段までで説いた理想とする世界を、八大如来=八大菩薩によって象徴される智慧を、八つの法門に分けて具体的に、さらにドラマチックに核心へと展開していきます。
キューティーハニーも真っ青、変身しまくりの大日如来にご期待下さい(笑。
それではまた。

*過去記事、「理趣釈経 その六」にも、金剛薩埵の種字と、金剛慢印を結んだ画像をアップしました。宜しければご覧下さい。


虚空蔵求聞持法 五十七万四千遍