さてさて、ここのところ一気に聖天さまづいていましたが、暫らく振りに「理趣釈経」の復活です。初段(大楽の法門) 金剛薩?の巻き のまとめからでしたね。

▼初段の最後、お経ではこんな感じです。振り仮名は読経用(読み上げる調子)に合わせて振ってあります。
時薄伽梵(しーふぁーきゃーふぁん) 一切如來(いっせいじょーらい) 大乘現證(たいしょー けんしょー) 三摩耶(さんまーやー) 一切曼荼羅持(いっせい まんたーらーち) 金剛勝薩(きんこーしょーさったー) 於三界中(よーさん かいちゅー) 調伏無餘(ちょーふく ぶーよー) 一切義成(いっせい ぎーせい) 就金剛手(しゅーきんこーしゅー) 菩薩摩訶薩(ほーさんばーかーさー) 爲欲重顯(いよちょーおん) 明此義故(びしーぃーこー) 熙怡微咲(きいー びーしょー) 左手作(さーしゅーさー ) 金剛慢印(きんこーまんいん) 右手抽擲本初(ゆーしゅー ちゅーてき ほんそー) 大金剛作(たいきん こーさく) 勇進勢説(ゆーしん せいせっ) 大樂金剛(たいらーきんこー) 不空三摩耶心(ふーこーさーぁんまやーし〜ん)
「吽(うーん)」(金剛拳印)


金剛サッタ ここで初めて、最後の部分に種字の梵字が現れます。これは、一文字の真言によって、格段の教えをひと言でまとめた種字であり、理趣経では必ず格段の最後はこの種字で終わります。 ただ、このブログで紹介した理趣経のテキスト版では、梵字が画像ファイルのため表示されていません。完全版Vr.2をダウンロードされた方はお分かりですね。自分はこれを印刷して毎朝読んでいます。まだの方は宜しければ、こちらからダウンロードしてみて下さい(無料)、種字が全て分かります。

格段の最後の何行かは、如来の教えをそれぞれの菩薩が受け止め、総まとめにして、「あらためて」要点を述べる形式となっているのが理趣経の特徴です。 なので、読んでいくとお分かりになるように、例えば、「大菩薩(たいほーさー ) 欲重顯明(よーちょー おんびぃ) 此義故(しーぃーこー) 熙怡微咲(きーいーびーしょー)」と、聴いたことのある言葉が重複しています。せっかくですから、この部分の意味を先に解いてしまいましょうか。

 これは、「大菩薩が、あらためてそれらの教えを明確にするために、わずかに微笑んで・・」と云う意味になりましょうか。 このあとで、大抵、格段の教えを意味する種字(一字の真言)によって、それぞれの菩薩が印を組んで締めくくります。 例えば今回の初段ですと、「吽(うーん)」は、上記の種字を読み方を表しており、サンクリット語では「hum=フーン」で、「あ・うん」のウンです。これが、初段の「大樂金剛不空三摩耶心」の教えを一字にまとめた真言である。と説いているのです。現段階で自分的には、これが「身・口・意」所謂「三密」の「口」であり、教えを心に刻むことが「意」であり、最後に印を結んで示すのが「身」だと解釈している。と捉えています。

 元々この一字の種字は、玄奘訳の「般若理趣分」にはありませんでした。また、最後に菩薩が現れて「改めて説く」という、形式にもなっていません。菩提流志(ぼだいるし・流支・留支)訳になって、初めて種字が記されますが、ここでも菩薩が再説するのではなく、あくまで「如来が説いた」、と云う形式になっています。
本来、種字であるとか、呪文とかいわゆる真言とは、現世利益を求める衆生が、病気を治して下さいとか、長生きさせて下さいとか、そういった願いを叶えるために唱えることが主体であったのが、不空訳の理趣経になると、種字自体が教えの集約と位置づけされ、単なる呪文としての種字から、教義を凝縮した梵字(文字)としての意味づけ、内面性が与えられ密教思想上、大きな展開を図った=密教化したとも云えます。

 不空訳になってから、教えを説く如来が独特の名前や仏格を持ち、聴衆者すら如来(説き手である)の分身の一人=その分身である菩薩が、総まとめにして繰り返し説き直して、一字の真言で締めくくる。こういう形式となっているため、不空訳の般若理趣経は最も密教的な思想の集約であることも、理趣経が密教における真髄と云われる所以かも知れません。 まぁそんなコトを、ぼや〜んと頭の隅っこに入れたままでも、これから先の釈経を読んでいって頂ければ良いかと思います。


 では順々に解いて行きましょうかね。
○時薄伽梵(しーふぁーきゃーふぁん) 
=これは前回やりましたね? おさらいしましょうか。 時(し)は、不確定な時(とき)、薄伽梵(ふぁーきゃーふぁん)は、教主・世尊〜尊い先生と云う意味でしたね。 初段の菩薩は、「金剛手菩薩」ですから、ここでの時薄伽梵から〜金剛手菩薩摩訶薩までの文章は、全て金剛手菩薩にかかる形容詞となります。
この「時薄伽梵」は、格段の冒頭にもちょくちょく出てきます。 因みに何故だか分かりませんが、冒頭に出てくるときは、「時薄伽梵」と「時」がついていても、「しー」と発音せず、そこは無発音として、ただ「ふぁーきゃーふぁん」と読むときもあります。

○一切如來(いっせいじょーらい) 大乘現證(たいしょー けんしょー) 三摩耶(さんまーやー) 一切曼荼羅持(いっせい まんたーらーち) 金剛勝サッタ(きんこーしょーさったー)
=全ての如来の大乗の悟りを身につけた者よ。全ての曼陀羅において、金剛杵を持つ者の中でも、特に勝る菩薩よ。

○於三界中(よーさん かいちゅー) 調伏無餘(ちょーふく ぶーよー) 一切義成(いっせい ぎーせい) 就金剛手(しゅーきんこーしゅー) 菩薩摩訶薩(ほーさんばーかーさー)
=依って金剛手よ、三界(欲界・色界・無色界)つまり、全ての世界に於いて余すことなく、あらゆる利益を手にすることが出来たのだ。

○爲欲重顯(いよちょーおん) 明此義故(びしーぃーこー) 熙怡微咲(きいー びーしょー) 左手作(さーしゅーさー ) 金剛慢印(きんこーまんいん)
=(大日如来に褒められた金剛手菩薩は)重ねてこの義(教え)を顕明にせん(ハッキリさせよう)と思うが為に、(飛び上がるくらい嬉しいが、沢山の聞き手の代表者としては、少々はにかんで)わずかに微笑んで、左手には金剛慢の印を結び腰に当て

○右手抽擲本初(ゆーしゅー ちゅーてき ほんそー) 大金剛作(たいきん こーさく) 勇進勢説(ゆーしん せいせっ) 大樂金剛(たいらーきんこー) 不空三摩耶心(ふーこーさーぁんまやーし〜ん)
=右手には金剛杵を三度振りかざし、勇ましい勢いに溢れた姿で、小楽から大樂金剛へ悟りとった、自信のほどを表した。「吽(うーん)」! そんな感じですかね。


 補足ですが、二つ上の左手作(さーしゅーさー ) 金剛慢印(きんこーまんいん)と、すぐ上の右手抽擲本初(ゆーしゅー ちゅーてき ほんそー)の部分で、「左手には金剛慢の印を結び腰に当て、右手には金剛杵を三度振りかざし」と意訳してあるのは、「右拳仰ぎ心に当て三度抽擲 左拳腰に安ず」と釈経にありますが、インドでは大きな仕事を成しえたときや、極めて誇り高いことを成就せしめ、その結果に満足出来たときに、このポーズをとるそうです。

金剛慢印 金剛慢印(きんこーまんいん)とは、一般で云う金剛拳印のことで、まず中指から小指までを強く握り締めて拳を作り、これで「身・口・意」の「三密」を一致させます。次に親指を中指の付根に添え、最後に剣を表す人差し指を親指の先に付きつけ、右手は仰向けにして右の胸に寄せます。左手は伏せて左腰に当て、それぞれで堅固な決意で「身・口・意」を実践することを誓う印とされます。

余談ですが、弘法大師の坐像が右手に金剛杵を持っていますが、ちょっと無理なぐらい手を仰向けにしているのと、似ていますね。同じ意味合いでしょうか。それと、両手に金剛拳印を結び、右手の小指で左手の人差し指の第一関節まで掴むのが、お馴染み大日如来(金剛界)の智拳印です。


 初段では、「教主(大日如来)が金剛サッタに説いている」と考えられます。それを最後に金剛手菩薩が説き直す。・・・このパターンは、次の二段からもずっと続いていくわけですが、ちょっとこの説き手と聞き手の関係が、どーもハッキリしない人が多いのではないでしょうか? ここが理趣経のややっこしい部分でもありますが、分かってしまえばナンともないので、敢えて初段のまとめでハッキリさせちゃいましょう。
例えば二段では教主(大日如来)が説き始めて、終盤に「金剛手よ・・」と語りかけるのですが、最終的には結局自分で説いて、自分(大日如来)が納得する形で終わります。(ナンじゃそりゃ(笑)

さらに三段以降からは、聞いたこともないような如来の名前が次々登場し、最後には馴染みある菩薩の名前が聞き手となって、説き直したりします。例えば、三段の説き手は「迦牟尼如來(しゃかむににょらい)」=御釈迦さんですが、聞き手の金剛手菩薩は最後に憤怒の形相で降三世明王に変身したり、四段では「得自性聢橡\如來(とくじしょうしょうじょうほうしょうにょらい)」と舌を噛みそうな長い名前の如来は、早い話し、観自在菩薩のことであり、最後にまとめるのも自分自身(観自在菩薩)なのです。

 ???これは一体どーゆーことかと云うと、宮殿の中央、眩いばかりの玉座にデーンと座られているのは大日如来に間違いないのですが、そこへ四方八方を囲むように坐している、八大菩薩たちがそれぞれ呼ばれ、玉座に座った途端に如来と化して、(大日如来と一体化して、或いは変化して)説法を始める。そして、説法が終わって玉座を離れるとまた菩薩に戻って、さらに念押して自ら説き直す。
 こーゆーイメージではないでしょうか。要するに誰も彼もが、大日如来(大宇宙の真理)へと繋がるということですね。なんせ彼(大日如来)は、金剛界だけでも千四百六十一尊もの仏の何にでも、変身出来るのですから。


 納得して頂けたでしょうか? ここまで、もう質問はありませんか? しつこいようですが、ちょっと自分自身がなかなか理解しにくかったので、金剛サッタのことについて、もう少し触れておきたいと思います。金剛サッタと金剛手菩薩、なにが違うか分かりますか? 自分はなかなか、その違いが分かりませんでした。

どーも紛らわしい。そもそも金剛サッタの名を初めて聞いたのは、京都巡礼で東寺の灌頂院へ特別内覧したときに見た、真言付法八祖の壁画の説明を受けたときで、「付法」とは師資相承によって伝持することをいうから、歴代の法を受けた祖僧を指すのだが、八代目の弘法大師から逆に遡ると、空海⇒恵果和尚⇒不空三蔵⇒不空三蔵⇒金剛智三蔵⇒龍智菩薩⇒龍猛菩薩⇒金剛サッタ⇒大日如来となっている。

すなわち、ここだけ見れば、金剛サッタは大日如来から直接法を受けた、直伝、直系のとんでもない菩薩なのである。 直伝ゆえに当然、大日如来から直接灌頂を受け、金剛杵(ヴァジュラ)を授かったとされている。また、密教の根本経典である「金剛頂経」と「大日経」を南天竺の鉄塔の中へ安置し、のちにこれを次の龍猛菩薩に託したともされている。
さらに経典によれば、「あらゆる如来の長男」(菩薩なのに如来の?)や、「人々の悟りを求める菩提心の本体」であるともされ、非常に高い地位を与えられている。その金剛サッタと聞き手の代表である、金剛手菩薩が同体、同一であるのはなぜか? どー理解すれば分かり良いのか?

 ず〜〜と元を辿れば、金剛手菩薩のころ、御釈迦さんの護衛係だったらしい。インドのルーツでは下級の鬼神で、手に金剛杵(ヴァジュラ)を持っているので(ナンで既に持ってる?)、執金剛神(ヴァジュラパーニ)と呼ばれていたそうな。(ん? この神さん、観音経に出てくるよね?)この神が初期〜中期密教では、ただの聞き手代表にしか過ぎなかったのが、ドンドンどんどん昇格していって、(もしかしたら、聞き手としてずっと何度も繰り返し、説法を聴いているうちに悟りを深めてのか?)終いにゃあ、金剛頂経では金剛手秘密主(ヴァジュラパーニ・グヒヤパティ)=金剛サッタとなっていったそうです。

そうなってくると、聴衆の代表としうよりも、むしろ教主の地位、代理、〜大日如来とも同一という解釈に及んでくる。 反ってその方が呑みこみ易かったかも知れない。 そして、菩提心を求める性格(仏格?)から、普賢菩薩とも別名同一化される。つまり、金剛手菩薩とも一緒なんだから、普賢菩薩=金剛サッタ=金剛手菩薩。となる。 あぁややこしい。でも、この関係を覚えてしまえば、何かに遭遇したときでも頭がこんがらなくて済むでしょう。

ということで、ようやく結論に向かいますが、(誰やねん! 前回で最後の七行ぐらいはチャッチャと終わる云うてたんは!(笑) 理趣経の格段の中で、「金剛手よ・・」と大日如来が呼びかけるのは、初段に限りませんが、特に初段は金剛サッタが出てくるのでややっこしいのです。 つまり、初段は金剛手菩薩に呼びかけてはいますが、金剛サッタの悟りを説いたものであり、初段の中で金剛サッタが悟ったものを、最後に金剛手菩薩が説き直す。 ん? 合ってるよな? 書いてて段々紛らわしくなってきた(笑
要はさっき云ったイメージで捉えると、金剛サッタは如来なんだから、玉座に坐して説くのは彼で、聴衆に戻って聴き、説き直すのは菩薩である、金剛手菩薩の役割。 と云うことですね。分かったよーな、分からんよーな。 もーいいや(爆。これで初段を終わります。