さて、待乳山聖天(本龍院)にて、本日より一週間に亘って執り行われる、密教修法の中でも最大の奥義である、大聖歓喜天さまへの浴油祈祷が始まった。

 果報は寝て待てというが、それはやるべきこと全て手を打ちつくしたら、あとはジタバタせずに、ドンで構えておけという意味で、聖天さまに限らず、行者に祈祷を依頼したら後は、寝て待っているだけでは、ささやかな願いであろうと叶うはずもない。
そもそも、ご祈祷の効顕というもの自体、今回でいうと「聖天さまの神力」+「行者の法力」+「信者の信力」が一点に集中し、スパークするプラズマのような力であるからして、その三つの均衡が保たれていてこそ、尋常ではない功徳が得られるのであろう。

 昨日ご紹介した、待乳山聖天(本龍院)でいただいた、「浴油祈祷中の心得」なるものの中に、印象的な語句があった。 最後の行に、「むしろいつも以上に、日常の自分のすべきことに集中するべきです」とあった言葉。
自分自身でも一心に祈念するのは、もう云うまでもないが、この言葉に依って、眼からウロコがまた一枚剥がれ落ちた気がした。

 聖天さまのお力を、一寸の疑いもなく信じて、一旦任せてしまえば、あとは迷いを捨て俗世の問題に立ち向かえと云う意味であろう。それが聖天さまのお力をお借りしようとした、自分自身のなすべきことであり、その結果のみならず、その過程においても聖天さまのお力が存分に発揮されることに、疑う余地は一切ないのだから。

 それこそが、大聖歓喜天礼拝作法の最初と最後を結ぶ、礼拝における「帰命頂礼」の真意ではないか。「帰命」とは、我が命すらも投げ出して悔いはない。という意味に及ぶのだから、身も心も全て投げ出して聖天さまに帰依、すなわち縋り、尽くすということであろう。

 
 そーゆーワケで、実際は昨日の夜から日々の勤行に「大聖歓喜天礼拝作法」をどう取り入れるかを、色々試してみることにした。朝は元々長いので、作法は今まで通りとし、読誦ではお迎えした順序として、「大黒天神経」、「愛染経」の次に、「十一面観音経」と「歓喜天使咒法経」を入れさせて戴いた。夜は、従来の勤行に「大聖歓喜天礼拝作法」を丸々追加することにした。

ところで、この作法によると、聖天さまのご真言は最低で三回、通常は千回或いは三百回と記されている。(げげっ!そ・・そんなにですかい? 聖天さま・・激汗)

 今、毎日の勤行では、ご本尊の三面大黒天(大黒天、毘沙門天、弁財天それぞれ)、愛染明王のみ二十一回とし、弘法大師のご宝号(南無大師遍照金剛)と光明真言は七回、その他の諸尊は三回としてきた。13日に一度修している、大黒天一日千座行において、大黒天のご真言を千回唱えるくらいで、虚空蔵求聞持法を除けば、毎日千回も唱えるご真言を持つ仏様は初めてであり愕いた。

更に本龍院の作法しおりには、ご丁寧に他の諸仏との差別比較する一覧があり、それに依ると、以下のようになっている。

本尊・諸尊    例   [祗◆ [祗  例
大日如来真言   100  21   3  3
仏眼仏母真言    21  21   3  3
十一面観音真言  100  21   3  3
軍茶利明王真言   21   7   3  3
大聖歓喜天真言 1000 300 100  3
毘沙門天真言    21   7   3  3
三宝荒神真言    21   7   3  3
諸神通用真言    21   7   3  3
光明真言       3   3   3  3
大金剛輪陀羅尼    3   3   3  3

 こうみると、例い世韻倭瓦討僚仏のご真言が三回になっていて、一切差別化されていないので、これはもう最低の最低限の際、と見なすべきだとして、やはりご本尊である、聖天さまの回数は抜きん出ている。が、一度に千回は難しいので、三百回とし、朝晩で六百回、さらに夜、時間をとって残り四百回を唱えることとした。

それでも分かりきっていたことが、当然勤行は更に長くなり、お線香も燃え尽きて、途中で付け足さなければならなくなった。足のしびれは限度を通り越し、最後の五体投地はヨレヨレの死に物狂いとなった。


 お経に関しては、十一面観音経は、聖天さまのご本地であり、聖天さまの強いご利益は十一面観音さまのお導きによるものなので、セットで唱えるべき。 と、自分は思うので外せない。但し、待乳山聖天(本龍院)発行の作法解説に依れば、そうではないらしく、省略する場合の順序は以下のようになっているので、誤解なきよう皆さんにシェアしたい。

○最良 般若心経、観音経全文、十一面観音経

○中略 般若心経、観音経全文

○省略 般若心経、観音経偈文

○最省略 般若心経

 こうして見ると、待乳山聖天(本龍院)が推奨する次第は、いずれも般若心経は最重要で外してはならず、(というより、むしろ一般の在家信者が最も馴染みやすく唱えやすいからであろうが)よくよく見ると、肝心な「大聖歓喜天使咒法経」がない。なぜないのか?
平田真純現ご住職に依れば、聖天さまの功徳が説かれた大聖歓喜天使咒法経は、稀有なご利益を下さる聖天さまの信仰自体が、理屈や理論では理解出来ず、実体験でしか得られないものであり、実践が全てに先立ち、ご利益を得た後に初めて経典の意図、意味するものが呑み込めるであろう。

ゆえに、聖天さまのお力をお借りし得た人でなければ、この経典を読む資格がないのではないか。 と思われている。これは、待乳山聖天での「朝まいり」という行事においても、「大聖歓喜天使咒法経」だけは読まれないらしく、現ご住職が奉職に就かれる以前から続いてきたことだそうだ。

 始めは現ご住職も、なぜ唱えないのか?と疑問を抱いていたそうであるが、聖天さまの強い現世利益が散りばめられた、「大聖歓喜天使咒法経」は、上っ面だけの解釈では、供養さえすれば何事も叶うのだろうと云う、安易で自己中心的な信仰(スターウォーズなら暗黒面、ダークサイドか?) に陥る危険性があるからだと、結論付けている。
やはり密教から伝来した神なので、今手掛けている理趣経の解釈と近いものを感じる。ただ、自分の信仰心は揺ぎ無いものであるし、在家信者でもただの信仰者でもない。そもそも経典自体、ど素人が見ただけでは、ただ漢字が並べられているだけで、意味を歪めて受け取るどころか、読むことすら儘成らない。

 いや、自分は天邪鬼で反逆児だからって、ご住職に逆らいたいのではない、誤解されなきよう。要するに、自分なりに大切だと思う事は、「大聖歓喜天使咒法経」を正しく理解出来る心の眼を持ち、一心に念じるのなら問題はないと思う。

さらに云えば、「大聖歓喜天使咒法経」を読むことを許された、実体験した人々が「あぁ、こうゆうことを、おっしゃられていたんだな。」と、あとで理解出来る、或いはその感謝の境地に先に立ってしまえば良いのだ。と思う。実際に、聖天さまの信仰により、多くのご利益を受けた人たちは、やがて祈願の信仰から感謝の信仰へと変貌していくのが常であるという。

 これはかつての欲望の人生において、事業や夢を実現させるマインドコントロールに似ている。スポーツ選手のイメージトレーニングも同じで、金や物なら既に手にした、場所なら既にそこに居る、名誉や立場なら既にそうなった、と云うイメージを膨らませ具現化していくのだ。
これらは、より明確に具体的であればあるほど良い。社長になりたいヤツは、なりたい! なったらこうだ!あーだ! と思う輩がなっているのであって、天地がひっくり返っても、二代目でもない限り、社長になんかなりたくない!と思っているヤツがなれるわけはないのだ。
従って、自分が「大聖歓喜天使咒法経」を読むことは、既に聖天さまのご利益により多大な功徳を頂いたからこそ、こんにちがあるという、その境地へワープしてしまえば良いと思うのだ。


 話しを勤行に戻そう。 今までは、朝晩の勤行で「お願い事」、いわゆる祈願をするのは朝だけで、夜は観音経全文と阿弥陀経(弥陀讃)、舎利礼文を唱えて最後に回向(加減随意)、十念(南無阿弥陀仏)で終わる、気持ち的にはご先祖の供養のための勤行であった。

 しかし、「大聖歓喜天礼拝作法」は、その次第の中に、「願文」が入っており、しかも読経部分を一つとしてまとめても、全部で十の項目がある次第のナンと、真ん中の五番目に「各自の所願を心中にて念ずべし」と、、「願文」があるのだ。 作法の中に願文がある事自体、極めて珍しい。このあとに、開経偈、読経と続くのでまだお経すら読んでないうちに、堂々と願意を述べても良いものかと恐縮してしまうほどである。
 朝の勤行時でも、巡礼中でも、願意は一番最後に遠慮がちにお願いしていたのだが、これぞ正にどんな願いをも叶えて下さるという、聖天さまのご本誓の賜物であろう。

 この部分を見ただけでも、聖天さまのご本誓が如何に広いお志であるか鑑みることが出来よう。待乳山聖天宮略縁記に依れば、次のように記されている部分もある、「金言諸神佛の捨て給う求願も、一心に信ずるものは直ちに成就せしめんは、この天の誓願なり」。
また、大聖歓喜天使咒法経では、「諸天に捨てられんに、我を念ずれば即時に現じて皆な円満す」、それから聖天講式では、「加すべきを加するは是れ、諸仏神の通例なり。加すまじきを加するは、唯だ大聖天の別願に限れり」

これらはみな、ひとつのことを共通して説いているのであろう。 すなわち、他の神仏ならとうに見放されるような願いごと、或いは外道(まだ今はね、一生はダメ。そんなヤツは聖天さますら見放される。自分もそう(笑)でも、善悪の因縁をも超越し、一心に縋れば救いの手を差し伸べて下さるという。


 かくして今回、心願成就として有名な待乳山聖天の平田真純ご住職、行者さまに浴油祈祷をお願いしたわけであるが、ただ「心・願」と云っても、これほどアバウトっちゃあ、漠然とした願いはないであろうから、日々心の中にあった、然るべき明確な心願を全二十の項目に分けて整理し、それを「願文」で読み上げ、仏壇の引き出しへ納めた。そういう点でも良い機会であったと思う。
さらに、今回の一週間に限らず、自分で人様のための祈祷が出来る様にみつるまで、延々と連続して祈祷してもらおうとも思っている。

 聖天さまとの仏縁は、通常なかなか簡単には恵まれないのだと云われる。初めて信仰してみようと思ったり、初めて神仏に手を合わせ願わずには居られないような、人生の窮地に陥ったとき、御仏のえにしを戴き、目の前に聖天さまと対面出来た人は、非常にラッキーだと思われて良いのではないだろうか。
考えてみたら自分も、諸仏に対する信仰は、三面大黒天さまに始まり、愛染明王さま、歓喜天さまと自然に密教色を強めていった。真言宗における最大法要、後七日御修法(ごしちにちのみしほ)においても、聖天さまの霊験をお借りするというほどである。


 密教を学びたい、と思ったから、聖天さまや愛染明王さまの信仰、或いは仏縁に至ったのではない、それなら縁(えにし)とは呼べないであろう。様々なご縁によって、自然に近づいていき、結局はそれらが後から結果として見えてくる。
全ての縁が、密教へと密度を深め、繋がっていっていっている、ということが、殊更不可思議であり本当の仏縁とは、そういった感覚を云うのかも知れないとも思う。なので、聖天さまとの仏縁を橋渡ししてくれた、芦屋の知己には感謝の気持ちで溢れている。


〜編集後記〜
今回もダラダラと長々の記事を読んで下さり、心より感謝致します。
本当はもっと、短く思う事を思うままに単純明快完結に、しかも分かりやすい言葉で、皆さんへ伝えられたらどんなにいいだろう。 そう心底思い、努力はしているつもりなのですが、自分のような外道は、学もないし、能力もない、本当に申し訳ないと思っております。
より皆さんのためになるような、役に立てるような記事を書けるよう、さらに精進して参ります。
皆さんにも、より善い仏縁があらんことを。


感謝合掌
法蓮 百拝