理趣経解釈、今回は初段のまとめ、十七清浄句の功徳の段のお話しです。
この段でのポイントは、小楽から大楽へ至るにあたり邪魔をする「四つの障害」と、倫理を越えた密教論にみる「究極に断言された功徳」についてです。 他の経典に類を見ない、問題提起を語る理趣経の密教たる真髄部分でもあります。


大日如来は金剛薩埵に、こう呼びかけていきます・・
○金剛手 若有聞此 �徑淨出生句 般若理趣
「*1.金剛手よ。 もし、*2.�徑淨出生の句である、*3.般若理趣を聴いたのならば」
○乃至菩提道場 一切蓋障 及煩惱障 法障業障
「いまし、*4.菩提道場へ至るまで、次なる*5.四つの障り(さわり=障害)があるのだ。それは、*6.蓋障(かいしょう)、*7.煩惱障(はんだっしょう)、*8.法障(はっしょう)、*9.業障(げっしょう)を云う。」
○設廣積習 必不墮於 地獄等趣 設作重罪 消滅不難
「例え、*10.広く積習するも、必ずしも地獄などの趣には墜ちず、」
「例え、*11.重罪を犯したとしても、その罪を消滅させることは難しくはないのだ。」
○若能受持 日日 讀誦 作意思惟 即於現生證
「もし、*12.能く受持して、日々に読誦し作意思惟するならば、*13.即ち現生に於いて」
○一切法平等 金剛三摩地 於一切法 皆得自在
「*13.一切法平等の金剛の三摩地を証して、*14.一切の法に於いて皆、自在を得て」
○受於無量 適�噪歡喜 以十六大菩薩生 獲得如來 執金剛位
「無量の適�噪歡喜を受け、*15.十六大菩薩生を以って、*16.如来と執金剛の位を獲得するが良い。」


*1.金剛手(こんごうしゅ)とは?
密教経典における、呼びかける聴衆の代表者のこと。 お馴染みの般若心経では、「舎利子」と呼びかけていますが、これと同じ意味合いです。 また、金剛手は手に金剛杵を持つ者を云います。

*2.清浄とは?
清らかな・・というイメージに思いがちであるが、風呂に毎日入ってるよとか、息が臭くないとかそうではなく、密教では自分と自分以外の全てとを、区別しないことを云います。 自我を確立させていくと同時に、自我は大きな全体(宇宙)の中の一つだと気付くことです。大宇宙の中で自分の存在や意義を見つけ、更に大宇宙を取り込んで一つとなること。この思想は、まず自分ありけり、自我の確立こそが大事とする、西洋文化や西洋宗教の考えと正反対と云えます。
出生とは、もともと現実世界にありながら、隠された或いは見えなかったものを、目の前に出現させることです。この部分を噛み砕いて表すと、続けて次のようになります。

*3.般若理趣を聴いたのならば
(上記の)「清浄」を具現化する(出現させる)、悟りへの道(般若)の境地である、理趣経を聴いたのなら

*4.菩提道場とは?
って、どこの道場やねん? それは釈迦が悟りを開いた場所を指します。インドのブッダガヤにある菩提樹の下で、金剛座と呼ばれる巡礼聖地であるが、転じて「悟りを開くに至ったのならば・・」と云う意味になります。

*5.四つの障りとは?
今項のポイントのひとつです。
四障(ししょう)、四魔(しま)とも云い、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いてから、金剛サッタになるまで、何度も何度も悩まされたのが、この四つの障りです。 悟りを開き瞑想に入った釈迦に、これら四つの魔物が襲い掛かかってきます。

*6.蓋障(かいしょう)とは?
まず、一匹目の魔物はコイツ。なんだか、ゲームのようなだが、そんなイメージの方が分かりやすい。 五蘊魔(ごうんま)と云う、小ボスキャラである。梵語では魔羅(Mara=マーラ)、仏陀の修行の邪魔をした障害の魔王の名。カーマ神の別名でもある。
障害物が心に「蓋ふた」をして、ロクでもないことを考えること。自分など子供のころから今に至るまで、しょっちゅうだが(笑 
要するに自分の心身を掻き乱されて、真理を覆ってしまうことを云います。仏教で言う、文化的活動に関わる障害を所智障(しょちしょう)と云い、悟りに至るまで様々な妨害で修行の妨げをする魔物。これが、蓋障と云う障害です。

*7.煩惱障(はんだっしょう)とは?
二匹目の魔物は、煩悩魔です。 先ほどの所智障に対して、生存に関わる障害を云います。即ち、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、人間の煩悩は百八とされていますが、要約されたのがいわゆる三毒と呼ばれる、妄想魔たちです。欲しい欲しいもっと欲しいと貪る心、つまらぬことで腹を立てる怒りの心、愚痴ってばかりいる愚かな心。人は誰もみな、この魔物のせいで心身ともヘロヘロになり、愛すべき相手とイガミ合い、傷つけあってしまいます。これら煩悩に因る障害を云います。

*8.法障(はっしょう)とは?
三匹目の魔物は、天魔です。 小賢しい悪知恵で正しい判断を誤らせます。 大変意地が悪く、天邪鬼と云い返れば分かり易いでしょうか。 その証拠にコイツは、常に貴方に悪の言葉を囁き続けます。
どんなに良いことを始めようとしても、「やめとけや〜そんなんせんでええぞ〜」と云ったり、正しい教えを聴こうと素直に耳を傾けても、「聴かんでええぞぉ〜」と塞いでしまいます。
ですから間違った分別によって、併発する様々な障害や、事前に余分なチャチャを入れられているので、例えせっかく正しい教えを聴けたとしても、歪んだ心で捉えてしまい素直に受け入れられません。そんな邪気に魅かれてしまい、打ち勝てない障害を云います。

*9.業障(げっしょう)とは?
四匹目の魔物は、死魔です。なんだか薄気味悪いですが、その名の通り、死神のことです。 自分の過去今までに、行なった行為によって発生する妨げの一種。 自分がやってきたことに起因するわけですから、誰が悪いのでもなく、自分のせいですから他人のせいには出来ません。ぜんぶ自分でケツを拭くしかありません。業を背負うとはこのことでしょうか。従って、コイツに取り付かれると矢鱈と死にたくなります。どうしようもなく、衝動的に死ぬことしか浮かばない思考力に陥ること、またはそれが習慣付いてしまう障害を云います。

*10.積習(せいきしゅう)するも地獄の趣(しゅ)に墜ちず・・
積習とは積み重ねること。趣(しゅ)とは道であり場所のこと。 つまり、このような四つの障害を、例え広く積み重ねようとも、地獄のような場所には落ちることはない。 と云っているのです。
 ここで改めて理趣経が、密教の経典なる所以に触れることになります。なぜなら、普通の仏教では、上記のような妨げは「全て否定せよ。そして取り除いて行かねば、悟りは開けないぞ!」と教えているからです。これらの妨げは誰しも持っているものです。それらを一切合財捨ててしまえ! そう断言してきた今までの仏教の教えを、「積み重ねたって地獄には墜ちんから、まず安心せい。」と、真っ向から反対をことを言ってのけます。なぜなら・・

*11.重罪を犯したとしても・・
それらの障害によって罪を犯したとしても、(理趣経を聴いたのならば)その罪を直ちに消し去ることは、然程難しいことですらなくなってしまうんだよ。
 ここが理趣経に因る功徳の断言的な部分で、この「設(たとえ)」は「もし・・○○なら」と云う仮定法ですが、中国で訳されたときに仮定法で表現されたらしく、インドのサンクリット語で書かれた原本を、忠実に訳したチベット語の理趣経では、「例え・・」の部分は、元々「貴方が・・」となっており、「罪を犯す人が多くいる中でも、(理趣経を聴いた(貴方が・は))罪を犯しても、地獄に墜ちることはありません。」と、見事なまで徹底された断言した功徳として、原本は問題を鋭く提起して説かれています。

 なんだかこう解いてくると、「重罪を犯しても・・」なんて、都合の良いことばかりが書かれているようですが、誤解のないように少々補足すると、「理趣経を聴いたから重罪を犯しても許される。」⇒だから、重罪を犯してもお咎めナシ? いえいえ、そんなことを云ってるのではありません。

今項の二つ目のポイントです。
*2.の清浄の句の項で書きましたが、宇宙の中に(自然の摂理の中に)自分を一体化すること、自分と自分以外(森羅万象)とを区別しないこと、それが密教の理想であり、つまりは理趣経の真髄なのです。
この真理は最上の境地であるがゆえに、先の四つの障害など、ここが分かれば屁でもない。 と云っているのです。 社会で生きていく上で、道徳や倫理は重要視されていますが、理趣経はもっと高い段階、云うならば倫理観を越えたところから説いたお経=密教なのです。
自分と云う、ひとつの個体と精神を森羅万象に完全に融合させ、一旦は自分は無となります。そうしてひとつになった上で、今度は森羅万象・宇宙をふたたび自分の中に活かす。これが密教の最上の境地なのです。そうやって、社会の倫理や道徳も大切な観念ですが、それよりももっと大きな境涯がここにあるんですよ。と説いています。
そういった日常を否定しているのではありません。
否定するのではなく、理屈抜きで超えてしまえ! 映画マトリックスで、ネオが初めてビルの屋上を飛び越えるときのように、「心を解き放て!」ということなのです。あっちがいい、こっちが正義なども分別のひとつです。理趣経=密教ではそれすら小さな倫理とし、お捨てなさいな、もっともっと遥かなる次元を目指しましょうよ? と結論付いて行くのです。端的に云えばこれが、密教の目指す境地と、社会通念や世俗的ルールのどっちをとりますか? と云う問題提起とも云えます。
理趣経は、ここまでも思いきった書き方をしているので、中国で訳されたときに仮定法に訳し変えてしまったとも云われています。


*12.能く受持して、日々に読誦し作意思惟するならば・・
この部分を噛み砕くと、「この理趣経を手にして肌身離さず傍に置き、声に出して読み上げたならば、その口でその全身でその心で深く考えこれを受け止め・・」

*13.即ち現生に於いて一切法平等の金剛の三摩地を証して・・・
ここで云う、平等とは、一日が誰しも24時間であるとか、人間みな平等とかそんな話しではなく、弘法大師の云う三平等のことで、大乗仏教の行き着く先であり、現世利益・即身成仏への悟りを説いています
 三平等とは、自分と他人と仏の三体が平等であると云うことです。自分と他人はひとつであり平等である。ということは、宇宙や仏さまともひとつであるということです。

 本当の平等とは、絶対対象者=真理と自分たち=世俗的なものとは、本来ひとつである。 と云うことです。 前稿(その四)で習った一切法(仏の教えの全て)が、自分も真理もひとつであるならば、金剛=ダイヤモンドのように堅く揺ぎ無い、三摩地(悟りの境地)を、現世において証する。
つまり、現世で善い行いを積んで次の世代でもっと良い暮らしがしたいとか、死んでからせめて極楽浄土へ行きましょうよとか、ではなく、今、生きているこの身、このままで幸せになる(悟りを得る)ことが出来るんだよ。

それが三平等であり、そのためには「目覚めなさい」と云うことなのです。
「オレがオレが」「アタシだってアタシだって」という、自分自身へのこだわりを捨て、森羅万象生きとし生けるもの、なんもかんも全てがひとつなんだ=だから、仏さまも自分もひとつなんだ=だから、自分も仏さまなんだ!(もしかして?(笑) という、「自覚=気付き」を持ちなさい。 そう云っているのです。

*14.一切の法に於いて皆、自在を得て」
自在というのは、自由自在。これも元々仏教用語のひとつですが、自我を確立し他人の干渉を許さない、何でもかんでも自分の思い通りになるという、現在の意味とはちょっと違います。 仏教の自由とは、自在と云うことなので、「自分」と云う、個体を残していては、自由にはなれませんから、自在にもなれません。
ややっこしいですか? 書いてる本人も良く分かりません(爆。
今稿のポイントで、密教の真髄に何度も触れてきましたが、宇宙の中(自分以外)に自分自身をドロドロに溶け込まして一体化してしまい、完全にひとつになることが自由であり、自在であるのです。だからここでは、「皆、自在を得て」ですから、さっきから云ってることがみんな出来ましたね! と云うことを意味します。

*15.十六大菩薩生を以って?
まず手前に「無量の適�噪歡喜を受け」とありますが、これは「適�噪」心の悦びということですね。それから、十六大菩薩とは、金剛界の四仏に四人ずつ菩薩がいるので、これを十六菩薩と呼びます。
そこから先、「十六大菩薩生を以って」とある、この部分は非常に興味深い部分であり、またしても同時に密教たる経典らしくズバっと、ダイレクトに語りかけてきます。

 何のことかと云うと、今の理趣経の原典は大般若経で玄奘の訳したものです。
その理趣分から抽出されましたが、ここが拡大されたのではなく、より密教的に内容が濃縮されたと云われているのが不空訳の般若理趣経です。詳しいことを書くと長くなるので、今回の要点だけ述べると、元々は、「十六大菩薩生を経て(へて)」と書かれており、これは十六回生まれ生まれ変わって、ようやく悟りに行き着くという、気の遠くなりすぎるような、しかし悟りを得る⇒無常菩提を得るという、正に大乗仏教的な教えですが、これが不空訳の理趣経だと、「以って」に変わっているのです。

 これがどーゆーことか、お分かりになるでしょうか?
そうです。とんでもないウルトラワープなのです。 大乗仏教では、十六回も生まれ変わって、やっとこさ悟りを得る⇒無常菩提を得るを目的としていますが、密教では理趣釈経によれば、十六回生まれ変わるまでもなく、十六輪廻後に悟りを得るのでもなく、「経て」ではなく、「以って」ですから、「現世で直ちに十六大菩薩の悟りを身に付ける」=生きながらにして、金剛界の四仏の悟りを身に付ける。 と云うことを意味しているのです。
やっぱり凄すぎますね〜密教における理趣経の功徳は。 貴方なら現世と十六輪廻後、どっちがいいですか?(笑。

*16.、如来と執金剛の位を獲得するが良い
如来と執金剛=金剛薩埵=同格なので、すなわち大日如来である、執金剛の境地に達することを意味します。 *15.のまとめにもなりますが、要するに玄奘訳では、「十六回生まれ変わるまで修行を続けたら、執金剛を経て悟りに行き着くのですよ。」そう云われていたのが、不空訳である密教の理趣経では、ナンと!
「あなたは大日如来になるのです!」と、宣言してしまっているのです。

ホンマかい!
と、にわかには信じがたい。
いや、ちょっと待って!
が、ホンマになれるモンなら生りたい、肖りたい。
どっちやねん! (笑


 いかがでしたか? 面白かったでしょ?
これで、理趣経の初段、「功徳部分」はおしまいです。
え? まだ初段あんのかい? ハイ、すいまへーん(笑
まぁ、次回は最後の7行程度でまとめですから、こんな長くならんでしょう。

それでは、また次回の講釈にて。


感謝合掌
法蓮 百拝