次に控えている、西国三十三観音巡礼と西国愛染明王巡礼に出発するまえに、出来るだけこの理趣釈経を進捗させたいと思っているが、まだ四回目まだ初段。更にその先の遍路も計画しているので、どこまで解いていけるか分からないが、出来る限り頑張りまーす。

〜理趣経の全ては、初段に集約されている!〜
と、云っても過言ではないかも知れない。 立川流を最大の例として上げた場合、理趣経が男女の性の営みを全面肯定した仏教経典に本来有るまじきものとして、一部誤解を招く解釈が生じた要因は、この初段に凝縮されている。

 (真言立川流については、淫祀(いんし)邪教(じゃきょう)として弾圧によって断絶し、史実上ほぼ葬り去られた現在、わずかに残された記録は、いずれも立川流を敵視する立場からの記述であり、その教理を誹謗する意図が含まれていると見られるため、真相については多くの学者が疑義を呈している。そのため、別の機会に是非掘り下げていきたいとは思うが今回は割愛する。)

 言い換えれば「この初段をどう解釈理解するか?」 正にそこで、理趣経の全体像、或いは真言密教そのものまでもが大きく歪んできてしまう可能性がある。 そこで、どう解釈したら誤解を回避出来るのか? 宇宙の真理は一つであるべきなのに、様々なアングルから様々な視力で見れば、全く別の真理が発生してしまいかねない。

自分自身も腹の奥底で充分納得出来るまで、何度でも解釈を書き加えて行きたいと思う。 ハッキリ云って、誰がどう解釈しようが、いいっちゃあいいんだが、それではこの理趣経に収められた、「真の価値」を見出せないのもいささか勿体無い気がするのもある。
 そもそも、人間の本来生まれ持っている生命力を、宇宙の真理と同化しポジティヴに最大限に活用しようとするのが密教の意図である限り、どう考えても誰もが馴染みやすい、馴染み深い・・というか、知らない人や興味のない人がいるわけのない、性をテーマに端的に取り上げても、然して騒ぐほどのことは微塵もないと思う。大体、性に対して余程のトラウマでもない限り、みんな好きでしょホントは(笑。


〜『初段:大楽の法門』の十七清浄句〜
 理趣経は、冒頭の勧請、序説と最後の流通を除くと以下の十七段の章節に分けられている。
初段:大楽の法門 金剛薩埵の章  二段:証悟の法門 大日如来の章 三段:降伏の法門 釈迦牟尼如来の章 四段:観照の法門 観自在菩薩の章  五段:富の法門 虚空蔵菩薩の章  六段:実働の法門 金剛拳菩薩の章  七段:字輪の法門 文珠師利菩薩の章  八段:入大輪の法門 纔発心転法輪菩薩の章  九段:供養の法門 虚空庫菩薩の章  十段:忿怒の法門 摧一切魔菩薩の章  十一段:普集の法門 普賢菩薩の章  十二段:有情加持の法門 外金剛部の諸天の章  十三段:諸母天の法門 七天母の章  十四段:三兄弟の法門 三高神の章  十五段:四姉妹の法門 四天女の章  十六段:各具の法門 四波羅蜜の大曼荼羅の章  十七段:深秘の法門 五種秘密三摩地の章  以上の十七段(十七章)

 これから一緒に紐解いていく今稿である、『初段:大楽の法門』の内容も同じように、十七の項目に分けられている。 〔適(びょうてき)⇒歙(よくせん)k宗覆修)ぐη(あいはく)グ貔攫在主(いっさいしさいせいしゅ)Ω(けん)適(てきえっ)┛Α覆△ぁ豊慢(まん)莊嚴(そうげん)意滋澤(いしたく)光明(こうべい)身樂(しんらく)色(しょく)聲(せい)姐瓠覆ょう)洩(び)
これらを十七清浄句という。十七清浄句とは、何でも四つに分けたり、四つにまとめたりするのが好きな仏教の、通例のように、〔適(びょうてき)を総論とし、残りを四の四倍である十六の具体例と合わせた、全部で十七からなる清浄の句である。

 『理趣経』とは、ときとして、天台宗の『本覚思想』と対比、或いは同一視されることもある、真言密教の根本思想である、『自性清浄』に基づき「そもそも人間とは、誰しも生まれつき、汚れた存在ではない」 という、思想を端的に表した句偈であり、人間本来の持つ本能的な性衝動(行動)や性思考(考え)、性行為(営み)自体は、自然な姿そのものであり、それが決して不浄なものであるはずがない。

 と、述べていることが特徴なだけであり、またそれ自体が肝要であらねばならないのに対し、性行為や性衝動を完全否定しないことを、単純にそれらを全面的に肯定した経である、との偏った見方で語られることもあるが、恐らく映画でも千人の感じ方、捉え方があるように、拡大解釈や誇大解釈によって故意的に性を肯定し、また利用する輩はいつの時代だって存在する。最終的には貴方自身が、貴方自身の歯と舌で良く吟んで味わって、飛び交う情報を整理して消化した上で、貴方らしい判断で利用していただければよいのではないでしょうか。



〜理趣釈経 現代版『初段:大楽の法門』〜
理趣経、最初の説法は、○説一切法聢洞臾隋岼貔數,漣聢洞腓量腓鮴發たもう」 砕いて云うと、大日如来の第一声は、「この世にある、どんな物でも、どんな出来事でも、汚いものなんて何ひとつないんだよ。」というお話し。「全ては清らかなものである。」と断言した上で、「いわゆる・・」と以下に続いていく。

 この一説に、理趣経の全内容が凝縮されているとも云える。 逆に云えば、ここが理解出来れば、理趣経の全てが理解出来るとも云えよう。 まず、「一切法」とは、仏教の教えの全てである。仏教の教えとは、三法印(さんぽういん)という、三つの中心的教えがある。三法印とは、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」のことを云う。

「一切法」とは、つまり仏の教えによれば、現象世界に存在する一切の物が、「本質」として「清浄」であるのだよ。― こう説いているお経が、『理趣経』なのです。「清浄」って、風呂入ったばかりだとか、無菌室から出てきたてとか、そんな意味ではないらしい。こないだまでそーゆー意味だと思ってた(笑。
身体に垢が付いてないとかって物理的な意味ではなく、自分と自分以外を区別しない=大自然さえも一体である。という意味であり、高野山の松永有慶大阿闍梨によれば、「自他無二平等・・と云うことが、分かっている事、・・・が、清浄なのである」と仰る。ますます分からん(爆

 「一切法聢董廚函△劼噺世捻召いってしまうのも、余りに漠然とし過ぎているので(自分などはサッパリ分からない(笑)「どんな物が?」「どんな場合が?」と分かりやすく、上に列挙した十七の具体例として説いて下さっていく。
 真言密教における理趣経法によれば、これら十七清浄句はあくまで「小楽」であり、「大楽」に変換するためには、あらゆるものの見方を十七清浄句のように、「清浄」としなければならないとされている。「小楽」とは、この世での短い時間の小さな楽しみ、「大楽」とは、あの世で永遠に続く大いなる楽しみを云います。小楽を大楽に変換する方法を会得した金剛薩?(密教行者の理想像)を例に挙げて、教主(大日如来)が説いていかれるのです。

 ちょっと待ったりぃな! あの世の楽しみが「大楽」なら死なんと味わえんがな! はい、そこなんですね。要するに理趣経とは、真言密教の終局の目的である、「生きながらにしてあの世へ往く―即身成仏」という方法を、祖師たちが見出したお経なのです。そう、生きながらにして存分に大楽を味わうことが出来るのです。だから理趣経は、この世を極楽にするお経と云われるのです。


〜男女の性なる悦びも清浄である〜
○所謂 妙適聢洞臉菩薩位「男女がその交わりによって、互いの快感が絶頂に達し、失神するようなエクスタシーを得た瞬間も、その境地は極めて清らかなものであり、故に菩薩の位であるのだ。」 これが理趣経十七清浄句における総論であり、「男女が一つになることの清浄さ」という、全体にわたる主題がまずここにバーン!と提示された。

 これから大日如来は十七清浄句を、この世の小楽の具体例として話されて行かれるのである。前述の「小楽」の極めつけとは、男女のセックスである。小楽だから、ほ〜んの短い時間の、ほ〜んの小さな楽しみである。・・う〜〜ん、そう断言されると、かつての不堕落な生活が蘇り、あ・・頭が痛い・・(笑。

 妙適(びょうてき)とは、男女のオルガスムスの境地そのものを指すともされるが、サンスクリット語の「Surata(スラタ)」が語源で、より大きな楽しみと云う意味も持つ。それは、「大楽」としても意味も含まれているという解釈で良いのだろうか? 小楽から大楽への変換方法が理解を深めて行けば見えてくるのか?
 しかし、「妙適=スラタ」にはもっと深い本当の意味があります。本物の理趣釈経によれば、性描写はあくまで比喩としての表現方法であり、無縁のものにも大悲が与えられるという、自他無二平等の同体観を男女合体の所作を以って表しただけであると書かれています。

 このことからも、立川流の誤解はこの「妙適」の二文字の解釈を、非常に浅く捉えてしまったのかも知れませんね。確かにこの部分だけを強調したりすれば、あたかも、純粋な男女の性行為や人的行為そのものばかりでなく、婚姻後の不貞行為や理性の介在あるなしに関わらず、むしろ動物に近い性的要素すらも、何もかも大胆に肯定しているかのように見える。これは少々オーバーかも知れないが、理趣経を解くにあたって、全く理趣経や密教を知らない周囲の意見や反応を集めてみた結果、特に女性でそういったイメージを持つ人もいた。

 でも、自分のような外道には、大好きなセックスのことを例に挙げた方が呑みこみ易いし、事実、インドの理趣経注訳書には全てをセックスの意味とする理解もあります。種の存続目的以外に性行為に及ぶのは唯一、人間だけであり、それ故にそこには愛があり、慈しみがあり、愉しみがあり、ロマンがあり、快楽がある。

 ラテン系の血が混じる自分は、セックスに対して後ろめたいとか、隠したいとか背徳的なイメージは一度も感じたことがないし一切ない。どこでも出来るし、いつでも出来るし、誰が居ても出来る(笑。ただひたすらにサッパリ明るい変態である(爆。
 蛇足だが、人間が死に至るとき、脳細胞から発生する物質、エンファリン、エンドルフィン。これらはナンと、快楽物質だという。 ということは、死ぬ時は非常に気持ちがいいという事になる。リングの貞子に脅されたりさえしなければ、誰しも穏やかな表情で死に至るのはそのせいだという。

 ならばきっと、愛する相手と愛に満ち足りたセックスでオルガスムスに達したときにも、発生しているはずだし、魂が肉体を離れ、あの世へ逝くことを「往生する」というが、男も女も究極に気持ち良くイクときは、この世に居ながら瞬間的にも正に「逝って(往って)」るんではないか? 女と身も心も一体となれたときは、宇宙空間にいるような気分にもなる。
生命である小宇宙を作り出す女(母体)こそ、宇宙そのものではないか? と思ったりもする。そこに身を埋める男の存在は小さ過ぎるとも観じる。(モノがじゃないよ(笑) だから自分のような外道な男は、せめてえばらずには居られないのかも知れない。

 仏教に限らず、宗教者にとって性は目をそらすべき対象とされてきた。他仏教徒の偉いさんだって、やってることやってるクセに「女犯」という表ヅラで避けてきた。 が、密教は人間の奥底にまで光を当て、人が生きている証の一つの表現方法であるセックスを、大胆にも堂々と全面に押し出して、自他無二平等を説いた。
そんな『理趣経』は、映画 『空海』の劇中でも、空海が最澄に対して「他の経典はこれまで快く貸してきたが、密教の真髄である理趣経はそうは行かない」と、最澄を以ってしても(最澄だからか?)書を写し取るだけでは、理趣経を正しく理解出来ない、と空海は判断している。
或いは、もしここを最澄に安易に理解されてしまうようでは、正統伝承者である自分の立場が脅かされると思ったのか? いずれにせよ、空海が如何に理趣経を重んじていたのかが良く分かる有名なエピソードでもある。


回りくどくて誠申し訳ない。さぁ、どんどん次へ行こう!
ここからの八つの清浄句は、意生金剛・適悦金剛・貪金剛・金剛慢のうちの、四供養の菩薩の悟りの境地とされ、前半の四つの清浄句が行動や衝動を、後半四つの清浄句がその結果生じる精神的境地を表している。それが更に連鎖して説かれていくのだが、これらを柔らかく噛み砕いた和訳として表現してみた。いかがであろう。

〜欲望も清浄であり、菩薩の位である〜
その具体な性衝動とは・・
○A.欲望の始まり 我欲
慾箭聢洞臉菩薩位 - 早く欲しい! 早く交わりたい!と、矢の飛ぶ如く激しくはやる気持ちも

○B.欲望の加速 渇愛
觸聢洞臉菩薩位 - 唇に触れたい!髪に触れたい!肌に触れたい!と、思う衝動も

○C.果たした悦び 愛欲への転換
愛縛聢洞臉菩薩位 - 抱き締め合っていたい!離れたくない!と、叫ぶ心も

○D.更なる満足 悦楽
一切自在主聢洞臉菩薩位 - 思うままに征服し、満足した胸の高ぶりも

これら、全て菩薩の境地である。
以上の四つを精神的な面で云うならば・・


○a.欲情すれば相手を見たいと思い
見聢洞臉菩薩位 - 下心を持った欲心の目で、相手を見たい!と、思うことも

○b.触れれば互いに悦びを感じ
適z聢洞臉菩薩位 - 交わえば味わう、高鳴る絶頂に向かう悦楽も

○c.悦びは愛ゆえの喜びと変わり
愛聢洞臉菩薩位 - 互いを必要とする離し難い愛欲にのめり込むさまも

○d.全てを自由にした満足感に浸る
慢聢洞臉菩薩位 - 我が物とした確信、密かに自慢したい心も

これらも全て、菩薩の境地である。
もっと現実的に云うならば・・


〜飾り立てることも清浄である〜
○a’.欲望の矢で相手を見据えたら
莊嚴聢洞臉菩薩位 - 我が身を飾り、少しでも美しく見せたいと思うことも

○b’.触れて感じて
意滋澤聢洞臉菩薩位 - うっとりと高揚感に浸り、心が豊潤になっていくことも

○c’.愛によって光が射して
光明聢洞臉菩薩位 - 溢れる愛に満ち足りて、心が光り輝くことも

○d’.自由を得た満足感から
身樂聢洞臉菩薩位 - 不安や恐れが消し去られ、身体がふっと楽になることも

これらの情景も、全て菩薩の境地である。
もっと広い意味で、感覚的に云うならば・・


〜五感で観じるそのものも清浄である〜
○色聢洞臉菩薩位 - 目にするあらゆる物の色や形状も
○聲聢洞臉菩薩位 - 耳にするあらゆる物の音や響きも
○香聢洞臉菩薩位 - 鼻で嗅ぐあらゆる物の匂いや香りも
○味聢洞臉菩薩位 - 舌で感ずあらゆる物の甘美な味わいも

こういった感官の対象となる、身体中で感じることも
全て清浄なる菩薩の境地である。


○何以故 一切法自性聢童痢“娘稠藩緻多 聢
「何を以っての故に、一切の法は自性聢討任△襪故に、般若波羅蜜多も清浄である」

(上記の十七清浄句が清浄なワケは)
どうしてかと云えば、この世に存在するありとあらゆる、ものごと(一切の法)は、本質(自性)の上では、自分と自分以外との対立を離れて(清浄)いる状態であり、どんな物でも清く正しく美しいのである。

つまり、元々本質として、自分と自分以外には対立がないのに、現実世界では対立があるように考えられているだけでる。 だから、当たり前のことだが「般若波羅蜜多」=彼岸(向こう岸)にある、「悟りの智慧」も清浄であるのだ。この世が清浄であるのだから、増してあの世が清浄でないわけがない。

ということを、いわばくどく説いているわけで、ここで強調すべきポイントは、この世(現実世界)そのものは、「本来」清浄なのですよ。 ―と、いうことなのです。


 今回はここまでです。脈略にかけた長文をお読み下さって心より感謝します。
次回は、大日如来が金剛サッタに語りかけだし、今まで話した十六大菩薩の悟りを得る方法が説かれます。 初段のまとめでは、密教経典では非常に珍しく、理趣経の功徳について書かれた部分もあります。
 これは理趣経が見方によってはプロ用ではなく、我々アマチュア、セミプロ向けの有り難いお経だということです。 なぜなら、自ら功徳を積む修法を心得ている、本物の密教行者などに功徳をいちいち説く必要がないからです。だから、自分で行法や修法を展開できない我々には、お経を読むだけ、写経するだけでも功徳のあるお経はとても有り難いお経といえるでしょう。


感謝合掌 法蓮百拝