お経って、ただ一度読んだだけで、その意味が分かる人がいるだろうか? 漢字には一文字一文字に、それぞれ意味があるから、中国や香港へ旅行へ行ったときのように、何となくニュアンスは分かる。 が、せいぜいその程度でお経の本質までは分からない。 お経を注訳した本が、こんなにも世の中に出回っているのも、きっとそのせいであろう。

 そもそも、お経は漢字だらけ。大抵は訓読み、理趣経は漢読み。いずれにしても中国産である。 では、中国の人なら仏教に興味がなくとも、読めばすぐさま意味が飲み込めるのだろうか? お経は元を辿ればインド産。釈迦の言葉である。中国人はそれを自国の言葉に翻訳した。真言や、般若心経の一部(ギャーティーギャーティー)など、インドの言語サンスクリット語がそのまま残っていたりするが、それすら漢字を充てている。
広い中国では、漢訳・呉訳・魏訳・唐訳などと色々ある。現代人は意識せずに使い分けているだけで、例えば、「暖」を「ダン」と読むのは漢音であり、「和」を「ワ」と読むのは呉音、「明」を「ミン」と読むのは唐音のように、てんでバラバラである。 が、まぁとにもかくにも自国語に直されている。

 そんな中国人の訳したお経が日本ではそのまま読まれている。キリスト教など、仏教以外を信仰している人を除き、無宗教の人でもお葬式をすれば、お坊さんを呼んでお経を上げてもらうだろう。誰も疑問を持たない、フツーの慣習的行事である。 だが、我々でも意味を解いて行かねば、理解出来ないお経を、仮に生前、信仰心を持たずに亡くなった人が、あの世で聞いて果たして有難がるのか? いささか疑問である。

 なぜ日本人は、経典が入って来る度に日本語に直さなかったのか? 中国人は今でも、外来語であろうがナンであろうが、全て漢字に直してしまう。最近では他国のキャラクターでも何でもオリジナル化してしまい、問題に挙げられる中国の特性は、いまに始まったことではなさそうだ。対して有りのままのオリジナル性を重んじて、本質性を追求する日本人との国民性の違いなのか? しかし、国民にすれば、自国語の方が便利で分かりやすいのは確かである。

聖書だって「汝は・・」と、日本語にならず英語のままだと布教しにくかったのではないか? 100%日本語版がないとは云わない。遍路や真言宗在家勤行の「回向」部分でも、「願以此功徳(がんにしくどく)普及於一切(ふぎゅうおいっさい)我等與衆生(がとうよしゅじょう)皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)」を、「願わくは、 この功徳を以って、あまねく一切に及ぼし、われらと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と読むものもある。般若心経の完全日本語版も見たことがある。が、何で普及一般化されてないのかってこと。

 ちょっと話しは逸れるが、香港へ仕事で行った時、広東語で話す彼らのEメールは殆んど英語である。中国語の難しい漢字や繁体字など、複雑な変換を必要とする、特殊といおうか中国独特のパソコンのキーボードは、流石の中国人も打つのが面倒だという。掌心雷という、日本語のWindowsにある手書き検索機能に似たツールを用いても、全てを変換させるのは、かなり面倒なようである。パソコンはやはり英語の国が作ったものなので、英語を常用しない日本人にしても分かり難い。用語を覚えないと、ヘルプを参照したってチンプンカンプンだ。なめられているとしか思えない。


 さて、いよいよ本題。 前置きなげ〜(笑。 そんなワケで、唱えるだけで功徳があると云われる、理趣経においても、全く分からないより分かった方がいいし、また意味を解き理趣経への理解を深めていくことによって、より仏教にしろ密教にしろ、諸仏にしろ色んなものが見えてきて更に面白くなってくる。
理趣経を真面目にキチンと解いた本やWEBページが沢山ある。そうではなくて、愚僧の提案する理趣釈経は、日本人の日本人による日本人のための分かりやすい理趣経を目指したい。さてと、肩の力を抜いてリラックスして、軽く気功でもして身体を動かして、ゆっくり一緒に解いていきましょうかね。


 まず、理趣経のタイトルについては前回第一回でご説明した通り。補足を交えておさらいすると、『大樂金剛不空眞實三摩耶經  般若波羅蜜多理趣品』、所謂、理趣経と呼ばれるものは真言宗常用のお経であり、それゆえに実は日本製でもある。理趣経の訳経には様々なものがあり、真言宗で使われるものは、本来の理趣経より若干長く編集されている。
どこが違うのかというと、最初の「勧請(かんじょう)」とか、「啓請(けいじょう)」の句と呼ばれる部分と、終盤の「般若理趣経 合殺(かつさつ)」と書かれた部分以降、「毘盧遮那佛(ひろしゃだふ)」から始まる唄のパート、一番最後の「廻向(えこう)」という、「我等所修〜」の部分は、日本で付け足された部分であり、この前一つ、後ろ二つの部分の間にある、「序説」から「流通(るづう)」の章までが、本来の理趣経全文である。

 これらの付加えられた部分は、読み方が違うことから、加筆された時期が異なると推測されている。分かりやすいのが、最初の「勧請」部分では「毘盧遮那佛」を「びるしゃなぶつ」 と読むのに、最後の「合殺」になると、「ひろしゃだふ」と読み方が変わっている。紛らわしいが、どちらも大日如来に変わりない。「びるしゃなぶつ」は呉音、「ひろしゃだふ」は漢音の読み方である。本文は全て漢音で読む。

 仏教の経典がほとんど呉読みされるのは、七世紀以前に揚子江の南流域の呉地方で流行した仏教が、多く日本に入ってきたためとされる。それに変わって、洛陽や長安など北の都である唐文化が入ってきた奈良時代末期、平安初期以降は一時期、経典を漢音に統一する動きが見られたが、鎌倉時代(中国では宋の時代)には、また南部の仏教の影響を受け、ふたたび呉読みの経典が多くなる。
ただ、巡礼や修行で色んなお寺の勤行へ出ると思うが、理趣経以外にも黄檗宗や天台宗でも、今でも漢読みするお経は結構あるようだ。理趣経を読むときに、不慣れな漢読みに多少戸惑うかも知れない。

しかし、それは既に呉読みのお経を沢山読んでいる人であって、お経は理趣経が初めて、或いはそれ以前は般若心経だけと云う人なら、意外にスンナリ読めるかも知れない。
なぜなら、漢音とはぶっちゃけフツーの漢字の読み方だからだ。(笑 だって、「金剛」を「こんごう」と読むのは、既成概念として、「こんごう」と読みたいだけで、これは立派な呉読みであって、漢読みで読む方が、「金」は金属の「きん」なんだから、フツーっちゃあフツーでしょ?


 冒頭の部分では、文字が沢山並んでいるが、言葉にして唱えるのは振り仮名のある部分だけである。
なぜかは未だ知らない。どの本にも書かれていない。今度、高野山で聞いてくる(笑。
『理趣経 本文』
勧請(かんじょう)
歸命毘盧遮那佛(みょーびーるしゃなー)
無染無着眞理趣(むーぜーん)
生生値遇無相(しょーじょー)
世世持誦不忘念(せーせー)
弘法大師疔+(こうぼうだいしー ぞうほうらーく)
大樂金剛不空眞實三摩耶經(たいらーきんこう ふこーしんじー さーんまやけーい)
般若波羅蜜多理趣品 大興善寺三藏沙門大廣智不空奉 詔譯

『理趣釈経 現代版 勧請』
毘盧遮那佛と、何色にも染まらない穢れなき真実なる教えに帰依します。
我が生のあるうち、日々繰り返し読誦して、教えを忘れざらんことを誓います。
そして、この経を唱え弘法大師にご法楽を捧げます。
これは、「苦しみに変わることない、普遍的な楽しみとは何であるのか?」を説いた、
真実を悟らんとする誓いの教えであり、完全なる悟りへの道を述べた章である。
大興善寺の沙門、不空三蔵が皇帝の教勅(詔=みことのり)を奉り(たてまつり)、ここに訳す。

 ここで出てくる「勧請」とは、仏様をお迎えして祀ること。理趣経では、大日如来をお迎えして、更にこの理趣経を読むたびに、理趣経を伝えて下さった弘法大師に感謝を示し、法楽(教えを楽しんでいただく)を捧げるのである。最後の部分は、この理趣経は不空訳であることを宣言している。


『理趣釈経 現代版 序文』
いつ? 誰が? 何処で? 誰に? 説いたのか?
1、誰が説いたのか?
○如是我聞 一時薄伽梵 成就殊勝 一切如來 金剛加持 三摩耶智=教主より、私はこう聞かされたのです。 あるとき、一切の如来が持っているダイヤモンドの如く、変わることのない壊れることのない力によって、極めて勝れた悟りの境地に到達されたことを。
*仏教経典のお約束事として例に習い、理趣経も五成就(ごじょうじゅ)によって区切られて始まる。「如是我聞一時」⇒「あるとき、私は聞いたのだ」とうのは、五成就でいう「いつ?」に当てはまる時成就の部分である。時期を定めないので、A long long time ago...昔むかしあるところに・・みたいなモンだ。
 次の「薄伽梵」は、教主成就のこと、つまり教主=先生である。 因みに天才バカボンは、コレに由来している。 しかもそんじょそこらの並みの先生でない。釈迦のことを弟子たちが呼ぶときも「世尊」というように、とんでもなくエライ人を指す。
仏教経典は「釈尊が説かれた」というのがお決まりではあるが、厳密にいえば中期インド密教以降の経典は釈尊の説いたものばかりではない。
密教の中心経典、大日経や金剛頂経では釈尊ではなく、大日如来そのものが説いたとされており、これが時に密教は仏教ではないと非難される原因ともなる。教理であり、宇宙の真理であり、法身そのものの如来が説くのはおかしいとした、仏教の常識である「法身(ほつしん)は説法せず」に対し、弘法大師は「法身は説法する」と大胆にも逆説を説いた。これが密教と他仏教との大きな相違点でもある。

また、「殊勝の一切如来の金剛加持である、三摩耶智を成就し」までの一節で、阿閃如来の智慧である、「大円鏡智(だいえんきょうち)」を表している。 そうそう、このように理趣経では所謂、五智如来がのっけから登場する。そのため、不動明王など誰も知っている仏と違い、馴染みの少ない五智如来を、少なからずとも学んでおく必要がある。自分も歩き遍路の帰りに東寺へ参らなければ、五智如来? ナンじゃそりゃ? ってな、感じだった(笑。

○已得一切 如來灌頂 寶冠爲 三界主「已に一切の如來の灌頂、寶冠を得て三界の主と為り」=一切の如来の灌頂、智慧を象徴する宝の冠を得て、欲界・色界・無色界という、三界(天界の全て)の主となられたのであります。
*これが、「平等性智(びょうどうせいち)」宝生如来の智慧を表している。 これは覚えやすい。寶冠=宝冠=宝生如来の功徳。

○已證一切 如來一切 智智 瑜伽自在「已に一切の如來の一切智智、瑜伽自在を証し」=かくして、一切の如来の全てを知る最上の智慧を得られ、心と体の完全な自由を得られたのです。
*瑜伽とは、ヨーガ。ヨーガを体得し自在になったという意味。 「妙観察智(みょうかんざつち)」阿弥陀如来の智慧を表す一節。

○能作一切 如來一切 印平等種種 事業「能く、一切の如來の一切印平等の種種な事業を作し」=一切の如来の全ての行為は、平等なる慈愛によることであり、その結果様々な事業を成し遂げられ
○於無盡 無餘一切 衆生界一切 意願作業 皆悉圓滿「無尽無余の一切衆生界に於いて、一切意願の作業を皆悉く円満せしめ」=尽きることのない、一切全世界の生きとし生けるものの願いを、ことごとく満足せしめて下さったのです。
*ここでいう事業とは、働きのことで、空しからず成就する実行力を表す仏である、不空成就如来の智慧、「成所作智(じょうそさち)」を述べる一節である。

*以上が、四如来による四つの智慧を示し、いよいよ大御所、大日如来が現れます。

○常恆三世一切 時身語意業 金剛大毘盧遮那如來「常恆に三世一切の時、身語意業の金剛、大毘盧遮那如來・・」=過去・現在・未来、三世のすべての時において、大日如来の働きは昼夜なく留まることなく、自分の身(からだ)と口(ことば)と意(こころ)との三つの働きは、ダイヤモンドのように堅い。と、毘盧遮那佛は説かれた。


あ〜疲れた〜 もうムリ! 今日はおしまい。(笑 
次回第三回は、「どこで説いたか?」を考えましょう。