○はじめに
得度してから唱え始めた『理趣経』。初めて理趣経の片鱗に触れたのは、四国歩き遍路の途中、第五十一番の石手寺でいただいた、在家勤行法則「梵行」という小冊子に記載されていた、「理趣経百字の偈」であった。誰しもそれが理趣経を凝縮した物だとは分かる。だが、その時点では、まだ意味や全文を求めるまでに至らなかった。
ただ、日々の勤行では「理趣経百字の偈」を取り入れて唱えるだけはしていた。百字の偈は理趣経本文にも同じ言葉で出てくる。つまり、全体を圧縮しただけの別物ではない。そのため今でも、この部分だけは慣れてる分だけスラスラ唱えられる。

だが、「理趣経百字の偈」は、後述する理趣経の初段から十七段までの内容が全て含まれており、この偈を三遍唱えるだけで理趣経一巻全て唱えたのと、同じ功徳があるという。 百字の偈なら、一遍唱えるのに三十秒と要さない。忙しい貴方は、まずこの百字の偈だけでも朝晩唱えれば、きっと幸せな生涯と安楽な後生を過ごせること相違ないであろう。

 という事をつい、最近知った今時分になって、理趣経への解釈度を深めていくと、知れば知るほど衝撃的な内容と功徳に愕くばかり! これほどのお経を、自分ひとりで愉しむのは間違っている。是非みなさんと一緒に、宗門外不出と云われた秘教、理趣経を解き明かして共に功徳に肖るべく、そんな思いからこの稿を起こした。
自分ひとりが知識を深めていって、その有難さや功徳に浸ってニヤニヤしていても、その行為はどこまでいっても自己満足であり、オタクやオナニーと何ら変わらない。インプットとアウトプットをバランス良く循環させてこそ、やがて自分に違った形で還元されるというもの。

 理趣経はご存知の通り長いお経であり、全てを解き明かすには一冊の本になるぐらい長文になってしまう。一応、これはブログなので毎日延々と理趣経についてだけ書く事は出来ない。従って、書き終えるのに恐らく何ヶ月もかかるだろうし、その間にも行を積み、考えも変わっていくかも知れないが、必ず最後まで解いて行こうと思うので、どうか気長にお付合い願えれば幸いである。


初回はまず、理趣経の概略から・・

○理趣経の定義
理趣経とは、『この世を極楽にする』素敵すぎるお経である。

○理趣経、究極の目的
煩悩を直ちに菩提(悟り)に変えてしまうこと、即ち「煩悩即菩提」である。理趣経には愛染明王は直接出てこないが、同じ趣旨である。大日如来⇒金剛薩埵⇒愛染明王の一連の流れを見れば、真言の寺で理趣経と共に、愛染明王真言が唱えられるのも頷けた。
そして、それが目的である限り、理趣経の意味を真実を突き詰めていけば、自分も、そう今これを読んでいる貴方も、必ず菩提に達すると信じて疑わない。
四苦八苦の苦しみを生む原因ともなる、誰しもが持つ煩悩。かつての自分などは、この煩悩の塊もいいところで、多分千人分ぐらいは軽く業を抱えていたと思う。煩悩が多いということは、それだけ罪も多いはずだが、それすら気付かず特に苦しみらしい苦しみはなかった。能天気なのか? 煩悩が多すぎて仏に呆れられていたか?(笑。

○理趣経の原経典
理趣経は、『五部の秘経』という、真言宗で最も大切な経典の中の、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』の、六会にあたる経典をいう。またこの経を用いて行なう、「理趣経法」という、真言僧侶ならば、日夜行ずるのが当たり前の密教において大切な行法がある。因みに十三段で後述するこの秘法は、伝法灌頂を受け僧籍に入らなければ誰もは行なえない。
現代伝わる理趣経は、不空訳のもので弘法大師が唐から持ち帰ったとされる経典であるが、根本源典は般若心経とルーツを同じくする、六百巻の大般若経である。

○理趣経の題名を分解して意味を考える
お経の題名は適当に付けられているのではない。お経全体の意味が込められているので、まずはそこから解き明かそう。 理趣経とは略称で、正しくは『大楽金剛不空真実三摩耶経(たいらきんこうふこうしんじさんまやけい)・般若波羅蜜多理趣品(はんにゃはらみたりしゅぼん)』という。

○理趣経題名分解
大楽・・・大いなる楽しみ(極楽)・・大日如来(曼陀羅の中心仏)
金剛・・・ダイヤモンドのように硬い意志・・阿閃如来(金剛部の仏)
不空・・・空の否定語・・宝がいっぱい・・宝生如来(宝部の仏)
真実・・・清らか・・蓮の花・・無量寿如来(蓮華部の仏)
三摩耶・・悟りのこと・・成所作智の具現化・・不空成就如来(羯磨部の仏)
経・・・・お経のこと
般若・・・智慧のこと・・波羅蜜多と続き、涅槃(悟り)の岸への渡り方を考える
波羅蜜多・・パーラミター・・彼岸に渡る・・param(彼岸に)+ita(到った)
理趣・・・「真理の趣き」「道理の味わい」
品・・・・巻、章のこと

 こうして紐解くと、理趣経とはすなわち、上記の「五智如来」を称え、悟りへの道標を示すお経であることが分かる。 更に理趣経は全体を、十七のチャプチャーに分割し、大変素晴らしいドラマ仕立てになっている。
物語は他化自在天という、天界の宮殿に八十億もの諸仏が、大日如来の説法を聴こうと、続々と集まりだしたところから始まる。そこで釈迦は自ら会得した悟りを、大日如来の言葉を通して語らせ、また自らも金剛薩?に置換えて、いちいち頷いたり納得したりしてみせるのだ。どうだろう? 早く先を知りたくならないだろうか?


○ドラマとして観た理趣経のキャスト
原作者・・シッダールタ(釈迦)
プロデューサー・・釈尊の弟子達
翻訳・・・不空三蔵(漢訳)
日本版ディレクター・・弘法大師
舞台・・・他化自在天(天界の王宮)
主演・・・金剛薩埵(原則)
語り手・・大日如来、八大菩薩ほか
エキスストラ・・八十億の諸仏

○物語のアウトライン
主な全体像:
初段〜二段:序文的内容
三段  四段 五段  六段:理論編 悟りの内容を示す
七段  八段 九段  十段:実行編 修行の方法を示す
↓   ↓  ↓   ↓
金剛部 宝部 蓮華部 羯磨部

十一段:中間復習とまとめ
十二段〜十五段:他教神までも悟りを開く
十六段〜クライマックスへと!


○物語の流れ
勧請(かんじょう):挨拶。弘法大師に感謝の意を示す

序説:煌びやかな宮殿に八十億の菩薩が集まりだす様子を表す

初段:金剛薩埵の章 〜大楽の法門〜
全ての欲は清く美しく、小欲・小楽を大欲・大楽に変えることが仏の道である

二段:大日如来の章 〜覚証の法門〜
それらは真理・道理であり、大欲の尊さを知る事は大日如来の境地そのものである

三段:降三世明王の章 〜降伏の法門〜
それを会得するには、自分の中に蔓延る三毒、貪・瞋・痴(とんじんち)を降伏させよ

四段:観世音菩薩の章 〜観照の法門〜
小欲を降伏させたなら、宇宙における全ての現象は清浄だと、観照せよ

五段:虚空蔵菩薩の章 〜富の法門〜
己の心も清浄であると知れば、どんな望みも叶う福徳が備わっていることに気付く

六段:金剛拳菩薩の章 〜実働の法門〜
仏の三つの行動(身・口・意)が三位一体を成し、印を結べば悟りの境地へと向かう

七段:文殊菩薩の章 〜転字輪の法門〜
覚証生活の為、阿字輪を全ての法に当てはめ、観想修行を行なう

八段:転法輪菩薩の章 〜入大輪の法門〜
大宇宙の全てを、自分の阿字の輪の中へ収める観想修行を行なう

九段:虚空庫菩薩の章 〜供養の法門〜
世の為、人の為に、無になり身を持って奉仕の実践活動を行なう

十段:摧一切魔菩薩の章 〜忿怒の法門〜
己を叱咤内省し、己の小忿怒を、正義のための大忿怒へと変化させる

十一段:降三世教令輪(普賢菩薩)の章 〜普集の法門〜
三段から十段までの論法と修行法の総まとめ 

十二段:外金剛部の章 〜有情加持の法門〜
二十の有情たち(天人・男の神)に加持を行い、正しく人々に加持する智慧を説く 

十三段:七母天の章 〜諸母天の法門〜
同じく、七人(その他多勢)の女神に。

十四段:三兄弟の章 〜兄弟の法門〜
同じく、三人の神(ヒンドゥー教の三大神)に。

十五段:四姉妹の章 〜姉妹の法門〜
同じく、四人の女神(烏摩の次女)たちに。

十六段:五部具の章 〜各具の法門〜
無限永遠に続く、成身会における五部のシステムは一即一切であり、無量無辺であると説く

十七段:五秘密の章 〜深秘の法門〜
初段の究極進化形。永遠の大安楽。五秘密尊の悟りの境地を五人の菩薩が説く

理趣経百字の偈
*因みに、稿頭で書いた「理趣経百字の偈」は、この五秘密尊の悟りの境地を短い詩で歌ったものである。

流通(るづう)
菩薩たちが再び集まり、金剛薩埵を賛美し、教えを実践し流通させることを誓い合う

合殺(かっさつ)
大日如来を称える歌 

回向(えこう)
祈り「私達が修行して会得した功徳を、更に優れた悟りの完成へ回し向けせて下さい・・」


〜編集後記〜
 一般的認識において、「悟りを開く」ということは、凡人に成せることではなく、気が遠くなるほどの長い年月で、ひたすら難行苦行を繰り返し、やっとこさ体得出来るか否かというイメージがある。 それがそのまま仏教という、超客観的アンデンティティーにも接続されている気がする。自分もそうだった。
 事実、釈迦の前生の善行逸話が説かれた、「本正経(ほんじょうきょう:ジャータカ物語)によれば、釈迦でさえ前世において、六波羅蜜行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を、それこそ何千回と生まれ変わながら続けた結果、ようやく悟りを開いたとされる。 正直言って、インターネットを始め、何もかもが高速化されていく今の社会で、そんな悠著なことはやってられない。

だが、真言密教では、「三密瑜伽の行法(さんみつゆが)」という秘法によって、悟りの世界へ入ることが出来るとされる。しかも、お得なことに、「一瞬で」という、信じられないようなおまけも付く。 これが、真言密教でいう「即身成仏(そくしんじゅぶつ)」である。
無宗教だった自分が、真言密教に辿り着き得度したのも、インドにおいて古来の釈迦の教えが衰退していったのも、これらが理由の一つでもあると思う。 悟りを開く=厳しい修行ではなく、修行=苦しくて辛いものでもない。そう決めてつけてしまうと、密教(仏教)は、普遍的価値観を失い、暗く孤独な特殊なものになってしまう。この辺りのことは、本稿から若干逸れてしまうし、いつか「誤解だらけの仏教」(仮称)という、稿を書き起こしたいと思っているので、そのときまで筆は預けさせてほしい。


次回からの続編では、それぞれの段階に分けて解き明かしていこうと思う。理趣経全文の和訳もそのうちアップするので、ダウンロードしたい方はもう少々お待ち下さい。前回アップした、理趣経全文(無修正)のダウンロードはこちら