大阪で三十余年振りに、祖母がお世話になっていたご住職とお会いし、実に有意義な時間を過ごせた。永らく続いた会談のあとは、大阪庶民の集う居酒屋で一杯。散々食べて呑んで二人で三千円台と、これがまた信じられないくらいに、安くてしかも大層美味かった!
 先日、いまや道頓堀のシンボル、大阪ミナミを代表するキャラとなった「くいだおれ人形」が、閉業のため姿を消す報道を聞いて至極残念に思いつつ、過去稿で述べたように、もはや新興外食産業大手に対し、品揃えも価格すら対抗できなくなった進歩しない大阪の味と老舗の衰退を示唆していたが、ご住職に案内された居酒屋は、正に古き良き大阪庶民の店で、破格の値段にバツグンの美味さが健在し、「食い倒れ大阪の街」もまだまだ捨てたモンじゃないと少々安堵した。


 翌日は、せっかくの帰郷ついでに墓参りと巡礼をしようと、帰路に着く新幹線の時刻は余裕を持ってとってあった。朝、五時半起床。ホテルで一時間の勤行を済ませ、通勤ラッシュの始まった列車で祖母の眠る奈良、王子霊園へお参りに行った。祖父が先立った時に建てたこの墓に、子供のころ良く祖母と参ったものだ。
 祖父、祖母といっても、この両名は実の祖父母ではない。プロフィールを読まれた方はご存知であろうが、自分の本当の祖父は父方がイタリア人であり、祖母は作家。母方の祖父母は、東京で代々芸者小屋を営んでいた末裔にあたる。
 ここ王子霊園に眠る祖父母は、母にとって叔父叔母にあたるのだが、父が養子縁組したことで戸籍上の祖父母となった。そんな紙っぺらの話しより、二歳のとき白昼誘拐拉致(笑 されたとはいえ、自分にとって幼年期、大切に育ててくれたこの祖父母こそ、本当の「じいちゃん、ばあちゃん」と今でも思っている。

 複雑な家庭事情が絡んで今に至るが、恐らくこの墓に佛花を添えに参るのは今や自分ただ一人だとも思えるのも、神仏に手を合わせる以前から、例年欠かさずに訪れる理由の一つであろう。
 墓を磨いてお線香を焚き灯明を照らす。今はこうしてただ静かに、霊前で袈裟を着け数珠を持って、お経を唱えることが出来るようになったのも、祖父母の深い信仰心によるお導きだと感謝している。

四天王寺境内図 さて、墓参りを終えて大阪市内に戻り、まずは四天王寺を訪ねた。
改めて思い返すと、そういえば大阪にも「寺」と付く、駅名が多く存在する。ここ四天王寺もそうだ。ワルガキのころから過ごした大阪で、地下鉄に乗るたび何度も「四天王寺」という、駅名として言葉は耳にしていたが、一度も降りたことはなかった。

 四天王寺の寺暦
推古天皇元年(593)の建立。1400年以上も歴史を持つ。『日本書紀』によれば、聖徳太子自ら四天王像を彫り、寺院を建立したのが始まりだとされる。
『四天王寺縁起』に示される「四箇院」とは「帰依渇仰 断悪修善 速証無上 大菩提所」を指す。 すなわち、仏法修行の道場である“敬田院”、 病者に薬を施す“施薬院”、病気の者を収容し、病気を癒す “療病院”、身寄りなき者、年老いた者を収容する“悲田院” これらの、四つの施仏教の根本精神の実践の場として、これらの施設は、中心伽藍の北に建てられた。
いわゆる、「四天王寺式伽藍配置」 といわれるものであり、日本では最も古い建築様式の一つである。

平安時代、空海は延暦6年(787)四天王寺に借住し、西門で西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄土を観想する「日想観」と呼ばれる修行を始め、承和4年(837)には、四天王寺の最初の別当に、東寺の阿闍梨「円行」が就くなど、 当初は真言宗との繋がりも深い。
 それ以降は、最澄が弘仁7年(816)に上宮廟へ入り、六時堂や椎寺薬師院を創建した後、最澄の弟子「光定」「円仁」など、天台僧の補任が圧倒的に多く関わり天台化されていく。この天台化による、四天王寺信仰の特色が今に残る、「釈迦如来転法輪処 当極楽土東門中心」の言葉が示す信仰の大きな柱となっていった。


 『日本紀略』による天徳4年(960)の焼亡を始め、南北朝時代の吉野方と幕府方の戦い、応仁の乱、信長の石山本願寺攻め、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では大坂方の放火に遭うなど、幾度も戦火の真っ只中にさらされ炎上焼失再建を繰り返す。明治維新の神仏分離令で所属していた神社が切り離され、次は室戸台風によって伽藍崩壊、再建するもまたも昭和20年(1945)大阪大空襲により、境内のほぼ全域が灰燼に帰す。
 このように凄まじい歴史を持つ四天王寺が、ほぼ現在のように再興されたのは、昭和38年から54年にかけての極近年のことである。戦後間もなくして、太子創建の寺であることを主たる理由に天台宗から独立、和宗を創立。総本山として、仏法興隆と太子精神の高揚を本願とする寺として現在に至っている。


 日本三鳥居の一つ、石の鳥居から境内へ入る。鳥居といえば、神社にあるもので寺院には奇異に思われる方もいらっしゃるであろうが、元来鳥居は聖地結界の四門として、古来インドより建造物が認められ神社に限ったものではないらしい。(ふーん、ほんだらナンで今の寺院に鳥居が少ないねん?)それが知りたい(笑。 
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれた、扁額の文字は釈迦が説法を説く所であり、 「ここが極楽の東門の中心ですよ」との意だそうだ。
 入ってすぐの、境内図を見てみると相当広い。(東寺よりもまだ大きいのではないか?) こんな大阪のど真ん中に、これほど大きな寺院が建っていたなど、以前の自分は全く知る由もなく正直驚いた。全部をゆっくり参詣している時間はない。境内図から、お大師さんのおわす「大師堂」と「大黒堂」を見つけたので、大体方角を頭に入れて更に中へ入る。



釈迦の転法輪 極楽に通ずる門の意味で呼ばれる、「極楽門」(西門)の四つの柱には、あまり他所ではみられない「転法輪」という、手で回すコマ様のものが4基ついていた。ブッダが教えを説かれることを表す法輪(チャクラ)を小さくしたもので、手で回すことにより「仏の法(のり)を教えて下さい」と、挨拶代わりにしたのが起源という。ここは広場の真ん中にあるので、わざわざくぐる必要はなかったのだが、一応ここでも一礼をして入った。


修行大師像 極楽門を右へ回り込んだ大師堂前には、この四天王寺西門で日想観を修行されたとされる、弘法大師修行像が祀られていた。とても肉付きの良いガッシリした体格のお大師さんだった。住所氏名法名を告げ、参詣のご挨拶をし般若心経を唱えた。
像のまわりには、四国八十八ヶ所霊場のお砂踏み場があり、5〜6人の巡礼者が先達と一緒に真言を唱えながら歩いていた。
東寺同様に、弘法大師のご命日、毎月21日は「大師会」が執り行われ、境内に露店が並び、多くの参詣で賑わうという。因みに翌22日は、「太子会」。つまり二日連続で行事が続く。残念、訪ねた日は丁度どちらも終わったばかりだった。


 五重塔、金堂、講堂は塀に囲まれ別料金のようだ。聖徳太子創建時、六道利救の悲願を込め、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められた所以により、「六道利救の塔」とも呼ぶ。 中には、南正面に山下摩起画伯の筆による、釈迦三尊の壁画と、四天王の木像がお祀りされているらしい。
五重塔の高さは、39.5mで東寺よりもだいぶ低い。当然か、東寺の五重塔は高さ日本一なのだから。 因みに、日本一古い五重塔は奈良の法隆寺、日本一美しい五重塔の醍醐寺。 と、東寺の五重塔のガイドさんが云っていた。本当かどうかは知らない(笑。



北の引導鐘 ということで、今回四天王寺の五重塔はパスして、右手に見ながら左奥へと進んだ。「ごぉおおん〜ごぉおおおん」と、鐘の音がする。見上げるような大きな鐘楼が右手に見えた。「北の引導鐘」と四面の壁全てに書かれてある。
(引導を渡す鐘か? 過激じゃね? 北ってどゆ意味だ?)と、一人ブツブツ考えながら、自分も突けるものなら突きたいと、入り口を探して鐘楼を一周したら、中は阿弥陀如来が祀られ堂になっていて、数名の祈願者が祈祷を受けていた。
鐘を鳴らしていたのは従事する僧侶で、本尊の目の前にある綱を時折、経を読みながら引いていた。(ありゃ、突かせて貰えんな〜)と、外から覗いて諦めた。 どこだったか、四国歩き遍路でもこういう引き手の鐘があった。ここも同じで天井から綱が垂れ下がっているので、実際に鐘は目にする事は出来ない。このお堂の鐘の音は、遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のため春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえすお堂という。

四天王寺札所 向かい側には、納経所があった。今回、なんの巡礼でもないのでご朱印帳は持参していない。 が、表にあった看板に目を奪われた。 間もなく始める、「西国三十三観音霊場の番外霊場」を始め、「新西国霊場一番」「近畿三十六不動霊場一番」など、実に十五もの巡礼霊場の札所になっているのには愕いた。
ん? 西国の番外? 巡礼の本には西国番外霊場として、元慶寺、花山院、善光寺の三ヶ所しか記載されていなかったから、順路には入れてなかったけど・・ナンで? ってか現場に居たのに今、これ書いていて気がついた(笑。
 すぐ右手には、境内中央に位置する雄大なお堂、「六時堂」があり、何やら修繕中なのか建材を積んだトラックを大勢の職人達が囲んでいた。 この堂では、昼夜6回 にわたって諸礼讃をするところから、「六時礼讃堂」の名がついたとされ、薬師如来・四天王等が祀られる、回向(供養)、 納骨等を行う、四天王寺の中心道場でもあるらしい。 入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めている。


四天王寺 三面大黒天 (大黒堂) 更に左手に回り込んで、大黒堂を目指すと濃い紫色ののぼりに囲まれた堂が見えてきた。良く見ると「三面大黒」と書かれているではないか! (おぉっ!ラッキー!こんなところで、お会い出来るとは!)てっきり、フツーの大黒さんが祀られていると思っていたので、期待もしてなかった我が家のご本尊にお会いできて思わず駆け寄った。 大黒堂は開放されていたので堂へ上がらせていただき、 「大黒天神経」(佛説摩訶迦羅大黒天神経)と、大黒天真言を唱えた。 お前立ての大きな尊像はあったが、正面のご本尊は厨子に入って見えなかった。

 この日の大阪はお天気が良く、日差しが強烈で広い境内を草鞋で歩き回って既に汗だくだった。半袈裟もすっかり汗が沁み込んでしまった。帰ったら洗おう。紫色の光明真言が梵字で書かれたこの半袈裟は、四国歩き遍路のときに買ったもので大層気に入っている。
お次は、梅田(大阪市北区)へ移動し、パワースポットとしても有名な、「太融寺」へ。 次回の稿にて。