ガランガラ〜ン・・・
06:00 「ぎえっ!しまった!」
 これは、住職が本堂へ入るときに入り口の鐘を鳴らす音である。
勤行は6時からだが、少々早かろうがお寺の勝手だ。早い話しが寝坊じゃあ〜本来、先に本堂へ行って勤行の用意をしておかなければならぬ立場の自分は、布団を放り投げドタドタと一目散に階段を駆け下りた。
しかし不思議だ・・。携帯二つと目覚まし時計の、三つのアラームで起きれないのに、外で聞こえる決して大きくない、あんな小さな鐘の音で不思議と目が覚めるのはナンでなんだろう?
「鐘の音=住職の怒りに触れる」の図式が、既に頭の中で組みあがっているからか?(笑 


 ・・・これは、前日の記事ではない。
四月十五日の記事である。なのに内容が同じ。
つまりまた寝坊したのだ。だから、記事も昨日のコピペ(笑

ただ、昨日と違うのは、副住職がまだ来てなかったこと(爆!
今ひとつは、今朝の問答で
「おはようございます!」
「顔を洗ってきなさい」
「は・い・」・・・

と、すっかり昨日のウソもバレてるということ。(笑
これぞ、本当の「問答無用」(爆

顔を洗いに洗面場へ行くと、副住職が「うぅ〜〜」と云いながら、
部屋から出てきた。二人とも眠い〜〜(笑

おかげで、勤行時の声もガラガラ。
寒くて鼻水はズルズル、ボロボロの勤行だった。


 勤行のあと、住職はいつも色んな話しをして下さる。
最後のこの日、とてもいい話しを聞かせていただいた。修験道の修行には大別して、三つの修行があるという。どれが先かどれが後か、またどれが重要でどれを軽視していいなどはなく、どれもが大切であると言う。

それら三つの修行は、日日の修行。法を受ける修行。入峯修行。であり、中でも最も難しいのが、日日の修行であると云われた。
修行に来たときだけ、その間だけでなく、毎日の生活に活かしてこそだ、という意味をおっしゃたのであろうと思う。

 なるほど。高野山であれ、ここ三重院であれ、或いは歩き遍路においても、そうした「修行するぞ!」という、普段の環境とは違う絶対空間に身をおいているときは、誰しも気も引き締まり、それなりの成果をあげられるであろうが、実際の生活に戻ったときこそ、そこで得た多くの気持ちや教えを忘れずに、活かして行かねばならないということだ。

 う〜〜ん深い。正しくその通り。
確かにそれが最も大変且つ、人生最大の修行そのものかも知れない。瞬間ふと思ったが、僧侶の全員が全員とは毛頭言い切るつもりは無いが、少なくとも自分はもしかすると、そうやって人のために尽くさなければ、衆生を救うという大義を掲げなければ、或いは、常に自分を厳しい条件下に晒さなければ、煩悩や業によっての罪や猜疑心に悩まされ続けるのではないか?

だから、人のためと称して、手を合わせ人に拝むことによってのみ、自らを救おうとしているのではないか?
そう一瞬思えたとき、次の言葉が更に自分の胸を打った。
「日日の修行とは、自分を礼拝する修行です」
なに?! 自分を礼拝する? どういう意味だ?
「自分の身体の中には、神さま仏様がいらっしゃる。」
「だから、その神仏を礼拝し、ご供養することが大切であり、
毎日、それを怠らないことです」


 頭の中でなにかが、ピキーーンと音を立てた。
(そうか! それが即身成仏なのか?)
いや、もしかしたら、まだ違うかも知れないが、かなり近いかも知れない気がする。もう少し・・もう少しで何か、大きなモノが見えそうな気がしてきた。この気付きなる大きな収穫が、今回の修行の最大のお土産になった。

有難う御座います! 村上ご住職さま!
忙しい中、滝修行をご指導下さった円信副住職様!
妙清先生、そして沢山の行者さん方、本当に有難う御座いました!!

またきっとお伺いします!!


感謝大合掌
法蓮 千拝






そして、この日日

それは、「自分を拝む」という印象に残るフレーズだった。