前回の山伏修行で三重院を訪れてから、予てより住職及び副住職と約束していた、本尊会大祭にお招き頂いた。この日は、新たに新築された信徒会館の落慶法要も行なわれるため、お祝いの挨拶も兼て是非ともお伺いしたかった。

二度目になる上越新幹線の上毛高原駅に降り立つ。高崎からわずか17分、たったの一駅。ここから三重院まで一本道で約四キロ、歩いて一時間の程良い距離にある。通り道のそこかしらに、入行する前にブログにアップしておいた「火渡り」の案内看板が目につく。

 火渡り修行は初めてである。どんなモンだかも全く想像が付かない。画像でさえ見たことも無ければ、話しを聞いたこともない。「火を渡る」と書くのだから、炎の上を歩くか跨ぐかするのだろう・・という、何か武道の修練に近いような、せいぜいそんな程度の想像しか出来なかった。
火渡り道場なるものを、初めて目にしたのは確か、関東八十八ヶ所遍路の四十四番札所、神崎寺(真言宗醍醐派 千葉県)の境内だった。その時はご住職がご不在で詳しい話は聞けず終いだったが、その日からいつかやってみたい修行の一つと捉えてきた。
そもそも、火生三昧(火渡り)は別名、火定三昧(かじょうざんまい)とも云い、火定とはすなわち、火によって死ぬというほどの意味でもあるという。


谷川岳 背後にまだ真っ白な雪を残す、谷川岳を奉じるこの地は、当然高崎より気温が低く、都内では既に散ってしまった桜もこれからといったところ。四月と云えど肌寒さが残る。とはいえ、久しぶりに一時間ガンガン歩くと額にじわっと汗が滲み出し、持参した薄い遍路ブルゾンを途中で脱ぐことになった。

ところで今回の修行は、火渡りのみならず、これも初めての滝修行も兼ている。加えてマントラも併行する。通常この三重院では前回同様、不動明王のご真言・慈救呪(じくしゅ)を唱えるのだが、自分は虚空蔵求聞持法を遂行したいので、特別に副住職の許可を事前に得て、今回は虚空蔵菩薩のマントラをさせていただくことになっている。

虚空蔵求聞持法については、度々稿を起こしているが、こういう下界と決別した環境作りを強引に機会として持たないと、中々百万遍まではほど遠く、いつまで経っても隔たりが埋められない。というのが理由である。現在のところ、三十四五千遍。
さて、この修行で何遍進められるか?

 前回修行時、一台も車が止っていなかった三重院の駐車場はギューギュー詰めに溢れていた。他府県ナンバーも多く見られる。落慶法要も兼ている年に一度の大祭、当然と言えば当然か。
駅から三重院へ向かうと、駐車場を挟んで正門の手前に本堂の裏へ繋がる入り口があり、初めて来た時は分からずに柵を跨いでここから入った。既に勝手知る境内。今回は行儀正しく、遠回りになるが正門から入った(笑。


三重院入り口三重院入り口三重院境内




 境内はいつもと違って、紅白の垂れ幕や色鮮やかな御幣(ごへい)が大木に飾られ華やかな様子を呈し、沢山の信徒さんで賑わっていた。目を引いたのはそれにも勝るとも劣らぬ、山伏装束に身を包んだ行者さん達の姿だ。

事前に副住職から、「大祭では装束を着て、式に参加して貰うから手伝ってくれ」と云われていた。手伝うのは作務も修行の一環であるし、お世話になっている分、一向に構わない。
ただ、大勢の本物の行者が集う中に、自分のようなむしろ一信徒と変わらん、ド素人の行者もどきが式に参加させて頂いていいんだろうかか? ナンちゃって山伏もいいところだ(笑。 
(まぁ、恥をかいてもいいから出来るだけのことはさせて頂こう・・)そう思った。

三重院 信徒会館 まずは、寺務所にて落慶の祝辞を兼てご住職にご挨拶。「この度またお世話になります。宜しくお願い致します。」「おう、アンタか!よく来た来た」と言って下さった。繰り返し後述していくが、恩年七十三歳になる村上住職は修行中大変厳しく自分も散々怒鳴られるが、かといって横柄で威厳を威張る方では決して無い。
ご挨拶した時も大慈悲たる笑顔でにこやかに、更に下下下僧の自分にすら両手両膝をつき、こうべを垂れて礼を尽くして下さるような方だ。教養のない自分は、こういう方を敬い奉る善い言葉を知らずに申し訳ないほどである。

本堂では、副住職がタイミングよく火渡りの日に体験修行に来たという、若い二人の女性にレクチャーをしていた。しばしやり過ごすのを待って挨拶。同い年の彼と久しぶりの対面を果たす。
 早速、装束に着替えるため、修行時に寝床となっている寺務所の二階へ上がる。蛇足だが、この度の信徒会館落慶により今後の宿坊は新築の方になるそうだが、この日は女性陣も多くいたため、旧宿坊は男性用に分けられていた。

 そこにはワンサカと行者さんたちがいた。東京、千葉、埼玉、新潟と場所も様々なら、羽黒修験や別宗派の方もいた。寺院によって他宗派を受け入れてくれないそうだが、この三重院の懐は大きく寛大だ。だから、高野山真言宗の自分もこうしてお招き下さる。
その中で、新潟の寺院から応援に来た副住職の後輩という方に、装束を着せて頂いた。以前、説明したかどうか・・修験道宗の僧侶は、一般の僧侶と違って法衣と山伏装束を気分けるのが特徴的だ。勤行や法要時などは法衣を着るが、修行や修法時は装束を着るようだ。
がこれがまた、複雑で慣れないと一度や二度じゃ一人で着られないから難儀だ。まず、手甲と脚絆を着ける。借り物だから脚絆のサイズが合わず、ふくらはぎの後ろが止らない。後ろから足蹴がはみ出している(笑 みっともないがこの際贅沢は言っておれん。

次に、鈴懸(すずかけ)と呼ばれる修験道の法衣を着る。鈴の字は五鈷鈴を、懸は金胎の曼荼羅をかけて修行することを表す。そして袴をはき、螺緒(かいのお)を腰に巻く。これは見た目はロープを編みこんだ物で、用途もそのまま山岳修行において、岩場を登る時や危難の時にこれを解いて用いる。
行者が獅子に乗ることによって法性に入ることを表す、引敷(ひっしき)は尻を隠すように後ろに回して着ける。大日如来の五智の宝冠を表す十二のヒダがある、頭襟(ときん)を頭につける。最後に六波羅蜜を表す六つの丸い房が付いた、修験道独特の結袈裟(ゆいげさ)を着けると、ナンちゃって山伏でさえも、なかなからしくなる。

53a3580b.jpg 今回は周りが本物の行者だらけで、写真を撮っておチャラけてる状況でなく、非常に画像が乏しいため、見たことがない人にとっては伝わりづらくて申し訳ないが、山伏装束は一言でいうと天狗さんのような格好といえば、イメージが湧きやすいだろうか。(画像は前回、修行時のもの)


 支度を済ませ、行者たち全員揃って二時からの得度式に参列。ざっと数えただけでも二十人ぐらいの行者がいる。その内、5〜6人が女性だった。この日は以前、ここで修行した一人の若い男性が今回得度すると云う。式次第の大まかな流れは、自分が受けた高野山での得度式と大差はなかった。
次に、二班に分かれ、方や本堂での護摩法要。方や千秋楽で信徒さんたちに撒く、餅つきが始まった。
自分は希望を副住職が配慮してくれたので、護摩法要に参列させていただいた。険しさ極まる谷川岳を百回以上も入峰したという、村上住職の護摩は凛とした気合が漲り、あの目黒大圓寺の甲子祭をも凌ぐ。だが、今回は信徒ではなく、僧侶(行者)の一人だ。こちらも負けじと煙の蔓延する堂内で、気合を入れて勤行に参加した。

 ここで何と、膳(餅)を本尊薬師如来と日光月光両菩薩、及び薬師十二神将に運ぶ大役を仰せつかい、これには心底感謝感激感動した。
千葉から来られた女性行者と二人の配役だったが、膳を運ぶ役職のある僧侶と云えば、お大師さんの未だおわす高野山奥之院の御廟においては、それこそ深い見識と慈愛に満ちた教授クラスの高僧が任命され、「維那」(ゆいな)と尊敬を込めて称される。
膳の奉仕は「奥院勤行之事」(おくのいんごんぎょうのこと)という微細な指示書に従い厳格に執り行われる大役だ。自分も含めて突かれた餅を本堂へ運ぶものも、みな一様に白い専用のマスクを着ける。
見事?、大役を果たしたあとは、信徒さんたちに配り終え残った美味しいお餅をいただいた。


 いよいよ、本日のメインイベントである、大火渡りの時刻が近づいてきた。
二階で行者さんたちと時間待ちしていると、意外なことが見えてきた。それは誰しもが、火渡りを潔く望んでいないという事実だった。今回、初めて火渡りに参加するのは自分を含めてわずか四名。あとは、みな十年クラスで修行を積まれている行者さんたちだ。
元来、修験道は行者の道であるから、僧侶よりもいわゆる在家行者が多い。今回もいわばプロと呼べる行者(僧侶)は二人か三人ぐらいで、他は普段サラリーマンなど仕事を持つ在家さんらしい。しかし、在家であっても修行を重ねてきたに相違なく、訊くとほとんど皆自前の装束を持参しているほどである。

にも関わらず、みな口々に「ここは、毎年必ず火傷をする」など話しをしている。中でも自分に装束を着せてくれた彼は、「滝はいいが、火は相性が悪い」と最もブルーになっていた。何でも毎年参加する親父さんの名代で、運悪く?(笑 今回参加したらしい。しかし、プロがそんなブルーになるほどの火渡りとは、一体如何ほどのものなのか?
更に訊くと、三重院の火渡りは関東でも屈指の苦行と云われるそうで、それが「大火渡り」と呼ばれる所以だと言う。あとで分かったが、他の寺院の火渡りとの大きな違いは、まず通常の二倍から三倍はあると云われる、その距離の長さである。(実寸で7m強)
二つには、寺院によっては引火している部分を地面が見えるほど掻き分けて、通り道を確保するらしいのだが、ここはほとんど除けないらしい。
だから、通常の火渡りが歩くことが多い中、ここでは火の粉を巻き上げ炎の中を疾走するそうだ。それゆえこの三重院の火渡りは、多くのカメラマンの格好の絵になるそうだ。
特に指の間に、焼け焦げた小さな枝が入ったりすると最悪らしい。一人は以前に、もう立っていられないほど火傷をして、たまらず病院へ行ったら普段の生活ではあり得ない、火渡りに因る足の裏の火傷に医者にも困惑されたという。

 (ほーほー、そりゃ凄い。大丈夫なんかい?ナンちゃって行者(笑)
しかしプロやセミプロが、ド素人を恐怖感で煽ってどないすんねん?(爆 まぁやると決めたのだから、今更逃げるわけに行かない。火傷したらしたときだ。運任せ風任せ出たトコ勝負じゃ。


 信徒会館では、招いた落語家によるイベントが始まっていた。
その間、召集された行者達で今度は火生三昧祭のリハーサルを行なった。自分は国旗係りに任命された。式次第の中で、国旗を持って入場し掲上する役目だ。これも一人だけの大役なので、有り難く承った。

三重院 立て札 護摩堂前(旧本堂)から行進して行き、裏の階段を登ると広い火渡り道場がある。「これより、三重院本堂道場なり」と立て札がある。ここから、長生山法華曼陀羅を称する全長27キロに及ぶ峰ごとの大道場だ。
余談だが、開山660年の節目にあたる今年から、年十回に渡りこの長生山を練り歩く、入峯修行も行なわれる(一回で約半分を歩くので二回参加で満行)。
かのお大師さんも生涯、山岳修行者であった。とりわけ歩き遍路のトレーニングにも最適であるし、ひと時でも下界を離れ、我が心を磨きたい方は是非とも参加されたし。

GWの五月五日(月)が初回となり、月に一度いずれも日曜に定められているので、会社勤めの方も参加しやすかろう。
入峯修行の問合せ、申し込みはこちら、ご担当は村上円信副住職まで。


三重院 火渡りリハーサル 話しをリハーサルに戻す。火渡り道場の周囲は幾重にも注連縄(しめなわ)で結界が張られ、更に中心及び、東西南北には竹棒の先に五色に彩られた大きな御幣が仕立てられ、不動明王を中心とする五大明王に因る厳重な結界が敷かれている。
仏教行事に習い結界の中の移動は、遠回りになっても必ず右回りと決められている。道場の北側には南に向かって祭壇が祀られ、お供え物が備えられる。中央には柴燈護摩、道場への入り口は唯一箇所、阿字門(あじもん)は南東の隅にある。

三重院 火渡りリハーサル2 儀式には、宝剣・斧・法弓など様々な道具も使われる。これらを使用する配役や、旅の行者と呼ばれる七名が選ばれ、寺院に見立てた道場に訪ねる形で門前問答を行なうため、我々よりも後から入場する。
二人の点火先達によって燃え出した柴燈護摩に、小分けされ束ねられた薪を中心に置く練習もした。
祭壇北側の浄火を点した松明から採火し、合図で水平に伸ばした手を45度に上げ、更に護摩壇の中央へ投げ置く要領で行なう。

 日も暮れかかった午後五時半、いよいよ本番である。
ほとんどの行者が、地下足袋を脱ぎ裸足になっている。気温も下がって来て肌寒いが、そうして足の裏を多少冷やしておく方が火傷も少ないという。が、火渡りの寸前に脱いでも良いと云われた。自分は地下足袋ではなく草鞋を履いていたが、白足袋だけ脱いで草鞋は履いたままにした。
このとき、サイズが合わずに脚絆の後ろが丸開きになって、はみ出ているスネ毛がふくらはぎから見えた。(スネ毛も焦げそうやな。こんだけ出とると・・)一人そう思った(笑。

三重院 水行井戸 さぁ、本番。一同、護摩堂の前(旧本堂)で勤行をし、この日以前、二十一日間にも渡り、肉、酒を絶ってきた住職が、冷たい井戸の水をかぶり最後の水行を始める。昼間からでも晩酌する、お酒好きな住職には厳しい修行であったろう。我々にも厳しいが、恐らく人一倍己自信に厳しい、誰もが認める素晴らしい行者さんであることは疑いようも無い。
大勢の信徒が見守る中、響き渡る法螺貝の音と共に火渡り道場へと行進して行った。いつの間にか、道場には信徒だけでなく観客に比例しカメラマンの姿も増えていた。


〜三重院火生三昧〜 火渡り式次第

入道場

山伏問答 
旅の山伏が聖護院は配下の山伏がどうかテストする儀式。

国旗掲揚

修祓(しゅばつ)
大衆を清める

法剣作法
式衆を清める

法弓作法
四方に色違いの矢を飛ばし道場を清める

法斧作法(ほうふさほう) 
山から切り出した薪、桧の葉などを清める

火生祓い(かしょうばらい)または、火生の舞
松明にて道場一面に梵字を描き、荘厳するの意。

火渡り

破壇作法


以上

ご教示
村上円信副住職 様


 これら、儀式の次第の中でも際立っていたのが、副住職の舞う「火生祓い」だ。
燃え盛る二本の松明をブンブン振り回し、華麗に舞う姿は迫力と美しさが見事に共存する。右回りに東西南北を舞いながら回り、方位から方位へ移動する際には歌舞伎のように片足を小刻みに突きながら、身体を斜めにして舞う。
副住職も勿論、裸足である。振り回している松明から、火のついた枝の束が時おり地面に飛び散る。
火生祓い3火生祓い2火生祓い




(アレが、足の上に落ちたら一瞬で火傷だな・・が、仮に落ちても逃げ出したり飛び跳ねたりは出来ねーし、辛いだろうな)
観ていてそう思った。この件を、終了後の宴会で話すとやはり我慢するしかないと、副住職は話していた。本人的には十年も続けているし、体力的にもキツイし去年は顔を火傷したらしいので、ボチボチ誰かに代わって貰いたいと云ってはいたが、「坊主になってからモテ出した」というファクターに、充分この火渡りでの独壇場ともいえる舞の魅力が、大きく含まれていることは、疑う由もなかろう。(笑 それぐらい、カッコ良かった。

 他には、点火前の加持祈祷だ。観客や信徒から希望者を募り、一人ひとりに数珠を軽く身体に当て、気合十分の祈祷をこなしていた。ブラジル柔術をやっているという寺院から応援に来た彼の加持祈祷は、エンターティメントとして捉えた場合、終わってからも追加で加持祈祷をして欲しいという人が現れるほど、観る者に目に見えない何かを伝えていた。

鍛えられ、厳しい修行を積んだ行者の加持祈祷は本当に効くと云われる。
北峰回峰二千日を満行されたことで知られる、酒井大阿闍梨の加持祈祷により、医師が見放した悪性腫瘍すら克服したという実話は有名である。
酒井大阿闍梨に及ばずとも、早く自分も一人でも多くの人のために、加持祈祷が出来る様になりたい。


 轟音を立てて燃え盛る護摩壇は、想像を遥かに越える凄まじい火力だった。
当然、隅に除けてはいるのだが、必死で経を読み上げながらも、鬼のように迫ってくる火力に眼鏡のフレームが溶けそうだ。
一瞬、後ずさりしたが後ろは行者さんたちで既に詰まっている。ふと、先日観た東京大空襲のドラマを思い出した。戦時中の空襲による爆風や火災による熱風は、こんなモンじゃ到底なかっただろう。望まずとも死と向き合わせの状況下にいた恐怖心に比べれば、自らの意思で立つこの場の火力に圧倒されている場合ではない。そう思えた。

長い勤行が続き、多少炎も沈下してきた。が、まだまだ真っ暗な野外を現代照明がなくとも、充分照らし満たすほど炎は残っている。あとで訊くと、さっきまでの凄まじい炎の記憶が更に、火渡りへの恐怖心を煽って行くのだという。
まず始めに、村上住職が飛んだ。しかも、通常は道の多少開かれた南北を走るのに、まだまだ燃え盛る両脇の盛り上がった場所を跨いで東から西にヒラリと飛んだのだ。外野から「おぉおおーっ」と歓声が沸きあがる。

更に、南側に回り込み、立て続けに南北を走った。(凄い・・)と、息を呑んでいる暇もなく、間髪入れずに副住職が「じゃあ、行こうか」と、自分を呼ぶ。
(は?・・あのぉ〜初心者なんですがぁ。こんだけ諸センパイがいんのに、恐れ多くも副住職に続く二番手っすか?(笑)

 燃え盛る護摩壇の南北には、四角く塩が盛られている。
南の塩はお清め、北の塩は足の裏を冷やす為だそうだ。北側では村上住職が、まるでドラゴンボールの悟空が渾身の「かめはめ波」を撃つときのような、腰を落とし印契を組んで、大声で気合を入れて待ち構えて下さっている。そこへ向かって走り抜ける副住職。
彼にとっては実の父親でありながら、修験道の師でもあろう。十五歳で父親を失っている自分にとって、観てるだけで伝わってくる何とも云えぬ父なる安心感と信頼感に満ち溢れたこの情景に、わずかな瞬間ながらも感動に近いものを感じずにいられなかった。
次は自分の番だ、同じように住職が待ち構えて下さっている。合掌して直立し、住職の気合を合図に「おぉりゃあ」と叫び無心で駆けた。・・・真っ白になった、どこにも火傷はしてそうにないのではないか。全く熱さは感じなかった。住職の気合と呪術による結界のせいか? 父の面影を慕った安心感のせいか?感謝合掌・・・

 行者が全て走り抜けたあと、続いて一般参加の方々の番だ。
事前に流されたアナウンスで、「どなたでも参加出来ます。裸足になって並んで下さい」とあった。それを聞いているときは、まだまだ炎は強かったし道も開かれてなかったが、自分的には(一般参加の人でも出来るんだから平気だろう)とタカをくくっていたが、実際は一般の人が火渡りをする前に、鉄くわでほぼ火の粉が無くなるくらいに道を広げたのだった。
(なんだ・・そゆコトか。まぁそりゃそうだわな、大丈夫ですよ〜と言っておきながら、フツーの人に火傷されても大変だし)って、自分もここでは見物してるフツーの人と、何ら変わらないんだが(笑。

 火渡りも無事終わり、護摩堂前へ戻って千秋楽の餅投げだ。
ビニールに包まれた、おみくじ入りの餅投げは人気の名物行事だそうで、大勢の信徒さんたちが待ち受けている。
「コレって絶対、受ける方より投げる方のが楽しいよね!」そう、隣にいた体験修行の女のコに云った。何より信徒さんたちが、みんな笑顔で両手を上に上げて、目で「こっちへ投げて!」って云ってるようで、そこへ取り易いように投げてあげると、更に笑顔が増える。コレは本当に楽しかった。


 暗がりで道場を片付けているとき、誰かが「これ、他所の火渡りじゃ〜いつも奪い合いになるんだよね」という、五大明王なる五色の大きな御幣を指して云った。
「じゃあ私、貰って帰る!」そう云ったのは、素晴らしい問答役を果たした千葉の女性行者だった。居合わせた自分も遠慮なく戴くことにして、彼女と二人で分けた。

自分が頂いたのは、「赤」と「紫」。
因みに色分けによる、五大明王はそれぞれ

東 降三世夜叉明王 青(緑)
南 軍陀利夜叉明王 赤
西 大威徳夜叉明王 白
北 金剛夜叉明王  黒(紫)
中央 不動明王    黄

修行満行後、有り難く自宅に持ち帰り、仏間の南北に安置させていただいた。


 
 〜編集後記〜
この夜は、修行中といえど、豪華な夕食だった。しかも酒付き。
落慶祝いと火渡り祭りのおめでたい日。新築の信徒会館で、高そうなお弁当とお刺身をいただいた。真新しい畳の匂いがプンプンする場所で、醤油などこぼさない様に気を遣い、らしくなく行儀良くしていた。

都内や遠方から車で駆けつけた行者さんたちは、中座して帰宅するため、もっぱら呑んでいたのは多分、自分と副住職の二人だったと思う(笑。
こうして、貴重な火渡り体験の一夜は幕を閉じた。関係者の皆さん、有難う御座いました。

▼三重院の火渡りの動画リンク(You Tube)
*旅の行者問答や、副住職の舞など、文字では伝えきれない様子が見れます。
*斜めのアングルのせいか、動画内の護摩壇より今年の方が距離が長いように思います。
本山修験宗三重院 炎と水の祈り(その4)
本山修験宗三重院 炎と水の祈り(その5)

三重院ホームページ
(ギャラリーへ入れば、様々な修行の写真が観れます)