はい、京都冬の旅(チャリンコ編)三泊目です。
しっかし、京都の道は分かりやすいわ!メッチャ気に入った!
三日もチャリでうろつけば、縦横無尽に走りまわせる。自分が育った大阪の道も、南北が○○筋、東西が○○通り、と名づけられて、碁盤の目のようになってるから、覚えやすかろう。
対して京都は、東西南北のどれも○○通り、と、どちらも「通り」が付くので、一旦紛らわしく思うが、二つの通りが交差する要所要所では、例えば、中立売通と堀川通の交差する場所は、「堀川中立売」と、双方の通り名称が付けられており、覚えやすいし間違え難い。

 更に、東西は西から西大路通、千本通、堀川通、烏丸通、河原町通、東大路通の六本。南北は、北から北大路通、今出川通、丸太町通、御池通、三条、四条、五条〜十条の順番さえ分かれば、路地に入り込んでも、地図なしでどこにだって行ける。 あ・・、但し、自分が今どっち向いて走ってんのかすら、分かんない人はムリよ、やっぱし(笑。
 ってことで、小学生のように今日も元気良くホテルを飛び出し、チャリンコをすっ飛ばす。
堀川通を北上し、目指す第一目標は堀川高校。そう、「旧本能寺跡」へ向かった。京都駅を背にして、真っ直ぐ二条城へ向かうこの道沿いにある、堀川高校の周辺が旧本能寺だ。神泉苑への寄り道に格好の場所にある。

本能寺跡地の前面道路本能寺跡地本能寺跡 旧石碑本能寺跡地付近の地図




 ここばかりは、寺院巡礼とは無関係なのだが、実は、隠れ織田信長崇拝者の自分は、いつかここも訪ねてみたかった念願の場所。かつては、仏敵と云われた信長を崇拝してたら、和尚や阿闍梨に怒られるかの(汗 だが、三百年早く生まれすぎたと、言われた信長が存命したら、日本は三百年進んでいたかも知れない。ふと、そう思える人間も少なくはない筈。以前、「ばさら者」について稿したが、北方謙三の言葉を借りて、「ばさらとは、毀すこと」と定義付けるなら、信長こそ本物の「ばさら者」と言えるだろうと思える。

 去年、神仏に目覚め半生を捧げると誓うまで、煩悩の塊として栄耀栄華を夢見て、修羅の如く日夜ビジネスに明け暮れてた時分は、名刺の裏にさえ、「人間五十年〜下天のふちをくらぶれば〜夢幻のごとくなり〜」と、信長の愛した敦盛の幸若舞を刷っていたほどだった。書斎には今でも、信長関連の本だけでゆうに五十冊ぐらいある。

 明確な場所が分からないので、堀川高校を過ぎた北側から、周囲をグルッとまわってみた。
東へすぐ一本、入ったところに真新しい近代的な建物が建っていた。見つけた。これが、旧本能寺小学校跡に建てられた、特別養護老人ホームだ。(建物の一部は、堀川高校や本能自治会館となっている)。
目の前に、新たに立てられたと言う石碑が立っていた。画像をクリックして、拡大していただくと分かるが、特に信長を称えるずとも弔いの言葉の一つもない。ただ、寺暦に関することが書かれているだけだった。

 更に北東へ回り込むと、古い石碑も見つけた。
本能寺の歴史は古く、信長が討たれる170年前に遡る、応永22年(1415)に日隆聖人が、「本応寺」と号され開山している。その後、移転や焼失を繰り返し、再建を試みた「本能寺の変」七年後の上棟式当日に、秀吉の命により鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転させられている。
本能寺の変の首謀者は、光秀ではなく黒幕がいたという諸説は知られるところ。実は家康、秀吉、或いは足利義昭、誠仁親王などの朝廷、はたまた、比叡山の如く全山焼き討ち寸前を免れた高野山?(また怒られそう(笑)
 自分にとっては、そんな埋もれた歴史を紐解くほどヒマはなく、また現在の本能寺の信長公廟にも、慰霊法要にも全く興味はない。要するに、戦国の覇者信長は天下統一目前にここで死んだのだ。その同じ地に立って、いにしえの時を超え、ただ合掌して弔えればそれでいい。


『神泉苑』
 はい、次行きます。
寺院巡礼と無関係な稿が長くなってすんません。
神泉苑 池より本堂を望む 東寺真言宗寺院の神泉苑は、平安京(大内裏)の南東隣り、現二条城のすぐ南側に位置する。時は桓武政権統治下、784年に長岡京を造営した後の794年、改めて平安京を造営にあたり、設けられた苑池であり、平安京最古の史跡である。南都六宗を弾圧する桓武天皇に、唐から帰国した空海と最澄も手厚く保護され、密教が瞬く間に世に認められた時代でもある。
堀川通から二条城へ向かうと、西洋人の観光客で溢れていた。京都はどこへ行っても、外人さんが多い。白人に限れば六本木界隈よか多いかも(笑。
北側から入ろうとしたら、料亭の入り口のようでメニューの看板などが置かれていたので、南側の御池通から入り直した。
 この寺では、組寺会による四国遍路霊場巡拝も行なわれ、三年がかりで四国八十八ヶ所遍路を満願する、ゆっくりした巡礼の会だ。また、824年に弘法大師が雨乞いの祈祷修法を行い、善女龍王を勧請して甘露の慈雨を降らせた(弘法・守敏の法力争い)は、あまりにも有名。以来、この神泉苑の池には善女龍王がお住みになるという。

神泉苑本堂 本堂で勤行してから、池の中央にある善女龍王社へ続く法成橋を渡ってみた。
この橋は、願いごとを書いた札を胸に抱き、一つだけ願いを善女龍王へ祈りながら渡るとご利益があるという。
境内の東南には、弘法大師が大日如来に祈願し、誰が最上の護法かを訊ねたところ、「弁財天に如くはなし」と説かれたという弁天堂がある。真意は別として、この弁財天は、安芸宮島、繁盛神社と御同体で日本三体の弁財天と云われる。
ふと気がついたのだが、弁天堂の屋根に、ユニークな泥鰌(どじょう)の瓦が載っていたのは、なぜなんだろう。住職が不在で誰も知る人は居なかった。

神泉苑 宝筺印塔神泉苑 弁財天堂神泉苑弁財天堂のどじょう




『愛染寺』
この寺のご本尊の一つ、目的の愛染明王は普段は拝むことが出来ないそうで、事前に電話で予約?ってのも変だが、連絡しておいた。電話で丁寧に案内して下さった女性は、ご住職の奥様かと思っていたが、訊ねてみるとご立派な比丘尼であられた。

愛染寺の場所は、観光寺ではないので地図には記載されておらず解りづらい。てっきり、二条城の北側付近だと思って、丸太町通から電話したみると、まだずっと北上するとのこと。また、この時も丁寧にお教えいただいた。
前述したとおり、京都の街は教える方も教わるほうも、電話の会話ですら簡単である。「今」居る場所(丸太町通)から、「千本通」を北上、「中立売通」と交差する「千本中立売」を左折すれば右手にあると言う。
なんて、分かりやすいんだ! 「ならば、特別公開中の立本寺の傍だな・・」と、勢い勇んで飛ばして行ったら通り過ぎた(笑。間口も狭く、それほど周囲に溶け込んで目立たない寺だ。 
大将軍八神社や北野天満宮へと続く中立売通は、商店街のように店舗が両脇に並び、観光客よりも住民人の方がも多く闊歩しているように思ええる。とても活気がある場所だ。千本通やこの辺りでは、自転車は車道を通らねばならず、歩いている婦人警官に注意されている人もいた。京都において自転車は、明確に車両扱いされることが多いように思える。

比丘尼にご挨拶をして、本堂へ上がらせていただく。
この愛染寺は、中央に大曼陀羅を配す日蓮宗のお寺。愛染明王像は向かって左側にいらっしゃった。比丘尼が灯明とお線香をわざわざ付けて下さった。そうした最中、比丘尼がなぜ愛染明王を参られると訊かれたので、各地の愛染明王を参拝して女人救済しろと下知をいただいた旨を話すと、稀に同様のお告げを授かり、この寺へ参拝に来る者がいると仰られた。愛染明王には信仰する者に通ずる何か共通点みたいなものがあるのだろうか。

愛染寺 愛染明王像 しかし、なんと美しく、なんと大きな愛染明王像だろう。極彩色に彩られたお姿は、正面に坐すと首が痛くなるほどに見上げる高さである。新しく見えるのでお聞きすると、ご本体自体は明確ではないが江戸時代の物だそうで、近年修繕を施されたそうだ。通常、愛染明王像の右手第一腕は何も持たず、金剛拳を握っているが、この愛染寺の像は、珍しく独鈷杵を持たれていた。
それにしても、しばし見とれてしまうほどに美しい愛染明王像だった。比丘尼は自分が礼拝中、ずっと坐して傍に居られたが、丁度、お彼岸のこともあり幾度となく檀家さんが見えられたりご対応されていた。「お忙しい折、突然お邪魔して申し訳ありませんでした」と、帰り際に挨拶すると、またいつでも訊ねて下さいと云って下さった。比丘尼のその笑顔は、まるで大慈悲に溢れた観音さまのようであった。


晴明神社入り口『晴明神社』
愛染寺から今出川通に出て更に北へ、下鴨神社へ向かう途中に晴明神社があったので立ち寄った。
夢枕獏原作、野村萬斎主演の陰陽師で皆さん良くご存知の安倍晴明が祀られる神社である。晴明神社は晴明公の屋敷跡であり、天文陰陽博士としての活躍の拠点でもあった場所。晴明公の死後、一条天皇が晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)に創建された。安倍晴明もまた、空海と同じく唐へ渡り、城刑山で伯道仙人の神伝を受け、帰国後我が国独自の「陰陽道」を確立した人物である。

他の神社と一見して違和感を感じるのは、社のそこらかしらに示された「五芒星(ごぼうせい)」つまり、Pentagram(ペンタグラム)である。晴明神社の神紋で、晴明桔梗ともいわれ、祈祷呪符の一つ。天地五行(木・火・土・金・水)、五つの元素の働きの相克を象徴した、宇宙万物の除災清浄を表す。ナンか聞いたことないですか?(笑。

晴明神社 本社「臨(リン)兵(ビョウ)闘(トウ)者(シャ)皆(カイ)陣(ジン)裂(レツ)在(ザイ)前(ゼン)」 と、
九字真言(ドーマン)を切る、安倍晴明は余りにも有名。因みに真言宗では「臨兵闘者皆陣烈在前」天台宗では「臨兵闘者皆陣列前行」と唱えるそうな。今度、阿闍梨に教えてもらおう。
ただ、これらの九字護身法は、本来は灌頂を受けた阿闍梨や修験者が師匠より伝授されないと、行なってはいけない所作である。
このような非器(器で無い者)の行為は越法罪(おっぽうざい)、あるいは越三昧耶(おつさんまや)といい、本来許されないことであるとされる。・・が、忍術のドラマや映画、漫画などで頻繁に見せられちゃあ、やってみたい!と、思うのが人間(衆生)だよね。ついつい(笑。
自分はパチンコなど一切しないが、今ではCR機というパチンコのマシンにもなっているほど、陰陽師ブームだそうな。周囲のみやげ物屋は、旅行中の学生で溢れていた。


『下鴨神社』
今出川通を東へ一路進んで行くと、同志社大学の門前では卒業式?が行なわれていて、華やかな羽織袴の晴れ着姿の女子が親たちと門前に沢山いた。以前、同行出身のビジネス仲間が居たが、余りに真面目に某企業で勤めそれなりに出世したが、身体を患って失脚してしまった。そんな彼の母校はここだったのか・・こんな切欠でもなければ、思い出せない人物もいるほど様々な人間と関わりあってきたのか・・などと、呑気に人生を振り返りながら加茂大橋の西詰から葵橋を渡り、糺(ただす)の森へ入った。
 現在、国の史跡として保存される糺の森は、東京ドームの約3倍の広さがあり、高野川と鴨川が合流する三角州地帯の森林を指し、かつては、約495万平方メートル(約150万坪)の原生林であったそうな。下鴨神社は、この糺の森のはるか北の端。歩いて行くには結構時間がかかりそうだ。というより、最初、手前(南側)にある河合神社を下鴨神社と間違えて、自転車を止めてしまった。糺の森の中を歩こうとしたが、このあと更に北上して宝ヶ池へ行く事もあり、また自転車をとりに戻って乗っていった。但し、下鴨神社へと続く参道にあたる糺の森部分は、自転車通行禁止なので、一本西側の車道を走った。

正式名称、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。
世界遺産に登録される古都京都の文化財の一つ。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称葵祭)で有名である。

上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。

下鴨神社 奈良の小川の御手洗 御手洗社が鳥居の右手にあったので、傍へ行くと更に左手を流れる小川に、「奈良の小川の御手洗」と書かれてあったので、ここでお清めしてから参拝した。本社へ入ると、干支にちなんだそれぞれの守護神の社があった。と言って、七社だが。


下鴨神社鳥居下鴨神社 さざれ石(君が代)下鴨神社 干支の守護社下鴨神社 巳年の守護社





 その中で、自分の巳年は我がご本尊と同格神の「大国」と書かれてあったので、喜んで参拝したあと、良く見ると、「大國魂神(おおくにたまのかみ)」と書かれていて、「大國主神(おおくにぬしのかみ)」は、子年生まれの守護神であった。
(なるほど、子年だから致し方ないか・・)と、その場は諦めたが、調べると大國魂神は、各地の国魂神を大国主に習合させたものと考えられており、開拓の祖神として祀られている大国主は、元々はその地の国魂神であったとされ、今では大國魂大神=大国主命と同神とされているらしい・・と分かったところで、なんだか納得できたような、長い歴史の中で日本人は何でも合体習合させ過ぎている様な、サッパリしない気分だった。


松ヶ崎円妙寺山門『松ヶ崎大黒天』
下鴨本通を一気に北上し、北山通を左手に京都晩夏を彩る「五山送り火」、「妙」「法」の文字を山上に臨みながら東へ。松崎山妙円寺は日本最古の七福神参り(都七福神参り)、第一番札所の大黒天が祀られる。創建は元和二年(1616年)ということは、七福神信仰が始まったのも、それ以降ということか。日蓮宗の寺で、本尊の大黒天像は伝教大師の作で日蓮聖人の開眼と伝えられる。

 北山通と並行する一本北の道を探しながら東へ東へ走った。こうした街道と並行する、一本入った民家の続く道は、まるで遍路道のような雰囲気で、四国歩き遍路を心地よく思い出させてくれる。もはや、白川通と合流しそうなぐらいの東の端に、やっと案内看板が見えた。というより、北山通からの進入を促す看板を、裏道から見つけたのだ。常識にとらわれず、こうしたイレギュラーな角度からも見つけられるようになったのも、逆打ち歩き遍路の功徳かも知れない。

 赤いのぼりで囲まれた、急勾配の坂道を自転車を押して登って行く。登りきったところから、更に石段を上がれば妙円寺の山門だ。振り返れば、洛北から京都の街を見渡せるいい眺めだ。この寺は、「五山送り火・妙法」の点火場所でもあるそうな。甲子祭も近いので、その案内書が数箇所に張り出されていた。次は今月の25日、是非参拝したいところだが、残念ながらそんなに京都に長居できない。

松ヶ崎大黒天 本堂 本堂は誰もいなかったが、上がって参拝できるようなので、本尊の前に坐して大黒天神経とご真言を唱えさせてもらった。併設された寺務所でお話しを伺いたかったが、どなたもお出になられなかった。静かでこじんまりした境内を一周して山門で一礼し、寺をあとにした。


『愛染寺』
北山通と川端通が交差する、松ヶ崎橋を更に北へ上がり、現在造成中の「こどもの楽園」(平成20年3月26日にリニューアルオープン)を横目に、宝ヶ池公園の敷地内を抜けて行く。
明確な位置は事前に調べておいたが、手元に地図がないので段々テキトーになってきた。確か、グランドプリンスホテル京都の西、京都乗馬倶楽部と岩倉自動車教習所の東、あたり・・とにかく、宝ヶ池公園の北側を抜けなくてはとチャリンコをこいだ。

 この宝ヶ池公園内はとても広く、池を囲むように散策道が敷かれ、そこを沢山のお年寄りや家族連れが散歩したり、運動したり寝転んだりとゆっくり時間が流れている。そこを場違いのように、額に汗してガーガーチャリをこいで走る。やがてケツを上げて力まないと登れないような坂に出くわした。右手は駐車場の入り口のようで、車が並んで混雑している。
ひーこらと、やっと登りきると向こう側は長く続く急な下り坂になっている。どうやら山頂らしい。ホッとしたところで喉の渇きに気付く。同時に今、登ってきた駐車場の脇に沢山店があるのにも気付く。
「アホちゃうかワシ・・もう降りんの面倒くさいのぉ〜」そう一息ついてたら、脇道から楽々と登ってくる自転車がいる。自分が登ってきたのは車道で、脇にもう一本自転車でも楽に登れるゆるやかな道があったようだ。さやわかな表情で追い抜いていったそのオヤジは、目の前の下り坂を滑るように降りていく。なんだか、ムッとして頭にくる。追いかける。(笑 
 しかし、このオヤジ(って、多分自分より若いかも・・)近くの住民なのか慣れてるようで、前後に子供用の椅子をつけたバリバリのママチャリのくせに、相当早い。余計にムカツク。自分はガキの頃はチャリンコ、中学は単車(なんでやねん)、次は車と根っからの飛ばし屋スピード狂だ。かつて免許を二回取り消しにされているが、その全ては速度違反、懲りないヤツ(笑
んで、結局ノーブレーキで血眼になって追いかけたが、ぶっちぎられた。「くっそー、どこ行ってん」と辺りを見渡すと、すっかり山を降りてしまって、目的地の愛染院を多分、はるか見上げるほど通り過ぎていた。
「アホかマジでワシは?」そう思いつつも、もう一度あの坂を登る気はしない。ってなワケで、愛染院はまた今度の参拝にいたします。ちゃんちゃん。ごめんなさい。


『酔いどれ京都・先斗町』
 再び今出川通まで戻って東へ。銀閣寺から哲学の道をどんどん南下して、真如堂や永観堂へ寄ろうと行ったら門が閉められていた。夜間拝観の寺でない限り、京都の寺はいつでも入れるところは少ないような。これだけの観光地だから仕方ないか・・。

 八坂神社を背にして四条通を西へ行けば、鴨川を越えたすぐ右が先斗町。が、四条通は自転車通行禁止。そんなモンに従うわけじゃないが、急いで行く必要もなく、祗園の花見小路通を南へ降りて前日に覚えた、六道珍皇寺の前の道を西へ行って鴨川を渡る。
この道は面白い、まるで東山一体のしっとり京都と、四条辺りの近代的な賑やかさの京都を繋ぐタイムトンネルのようだ。鴨川を渡って右手に折れれば、洒落た店が並ぶ木屋町通を北へ登り、これがそのまま先斗町通に繋がっている。今宵いっぱいの店を今夜は先斗町で探そう。

 先斗町通は三条から四条の間を結ぶ、鴨川堤防西側の通りで祇園と並ぶ古い花街だったが、最近は小料理店も多くなり、一元お断りの遠慮なく気軽に食事も楽しめることから、外人客もそぞろ歩く。
大人が四人も真横に並べば窮屈なくらいの細い道の両脇に、京都らしい風情を醸し出す店が軒を連ねる。のれんの向こう側には、打ち水をした石畳の玄関が覗き見え、更に西へ何本も入り込む迷路のような小路にさえ、奥の方から宵を誘うように灯籠のほのかな灯りが、店先にぽつんとぽつんと見える。

この歳んなって、初めてここを歩いたが、ただ歩いてるだけでもほろ酔いになれそうなほど情緒たっぷりの場所だ。すっかり気に入ってしまった。途中、空き家になった貸し店舗物件があった。居抜きで借りれそうだ。そういえば、昨日ねねの道の石塀小路にも、旅館の売物件があった。
「買うたろうかな、店やりたいのぉマジで」思わす呟いてしまう。ほんざら冗談でもない、今までなってきた事業は不動産と小売業それにサービス業で、飲食はずっとやりたかった事業の一つだった。

あぁ、ホンマに京都で暮らしたい。
恐らく若いころから憧れていたせいもあるが、たった二三日で京都の虜になってしまった。私寺を作りたい、お大師さんが開かれた綜芸種智院ほど立派なものでなくとも、公平に誰もがいつでも学べるような・・うーん、道場や私塾とまで表現するとおこがましいが、もっと自由な活力のあるコミュニティーの場を提供したい、さっきいった飲食業の夢もある。
私欲を捨てて神仏に半生を捧げ大義に生きると誓っても、事業欲を捨てたわけじゃない。事業アイデアなら幾らでも未だに湧いてくるし負けない。ただ違うのは、かつてのように私利私欲のためではなく、自分だけの栄耀栄華のためでもない、人の為、世の為、国の為に何が出来るだろうと日々考え込む。勿論、なんやかんやいいながらも、京都に暮らしたいってことに変わりないんやけど(笑。


本日も長々と、読んで下さって本当に有難う御座いました。
みなさんのご健勝とご幸福も、今夜も心よりお祈り申し上げます。

感謝合掌
法蓮 百拝