0600起床
 朝から雨で肌寒い。 勤行を終えて、そそくさと手馴れた旅準備。ほとんど前日にしてあったので楽勝。タクシーを呼んで待つ間に、短く伸びた余分な髭を剃って整える。
プロフィールを見てお分かりの通り、自分は髭を生やしている。 が、我が生涯のグルとなる小林阿闍梨に、髭のことは特に指摘されなかった。(云ってないからか(笑) 「まぁええわ〜お会いしてから、剃れと云われたら剃りゃあ」と、呑気に構える。

0725高崎駅に到着
 えきねっとで予約済みの、新大阪までのチケットを自動発券機で受け取る。近頃、これが便利だ。以前はいちいち、みどりの窓口へ行き、自分で時刻表を見て用紙に書きぃの、並びぃので、混雑してるときなど予定した新幹線に乗れなかったこともある。
0752出発
いつもの喫煙室兼カフェでコーヒー飲んでから、ついでにウンコもしておく。(家出して来いっちゅうねんw) まだ薄着の作務衣だけでは春には早いのか、或いは戒めるかのように肌寒い東京駅で、東海道新幹線に乗り換える。本当は9時に八八重洲口で待ち合わせる予定だったので、余裕を見て予約した0906発のひかりに乗るまで、0852に東京駅に到着してから若干のタイムラグがあった。

1159新大阪着
次は地下鉄御堂筋線で難波へ行き、南海高野線に乗り換えだが、極楽橋まで向かう列車は快速や急行になると、そう本数は多くない。今回も、1300難波発なので、慌てて難波に行っても30分は待ち時間が生じる。 ふと見ると、昔から好きだった大阪のカレーショップ「サンマルコ」が、新大阪の改札内に出店していた。 サンマルコは東京駅にもあるが、丸の内側の地下街なので先ず東京では行くことはない。丁度ええわと、腹ごしらえして行く。店内はサラリーマンでごった返していた。

1300なんば発
極楽橋まで一時間半。電車での移動は、ゆっくりたっぷり本が読めて嬉しい。 長く読書に集中していたが、その内に気が付くと、「ヒョォォォオーキキキィィィー」と、笛の音のような軋み音が聞こえてきた。
車窓から眺めた景色は知らない間に辺り一帯は、蓮の花が開いたと形容される、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)の峰々に囲まれていた。(因みに「高野山」と云う、山は実際には存在しない。)

どうやらこの軋み音が、弘法大師が開山した密教聖地へ訪れた合図らしい。しかし、この音の原因はナンだろうか?忙しい位に連続するカーブを、グネグネと走るせいか?それとも、長く続く傾斜の強い線路のせいか?

1429極楽橋到着
1438発、大門行きのバスは、未だ雪がそこら中に残る、曲がりくねった細い道(それでもバス専用道)を、ゆっくりと進んでいく。 1500本山前(金剛峯寺前)で降りる。目的地の常喜院は、金剛峰寺の道を挟んですぐ隣。中へ入ったらタバコが吸えそうにないので、ここで一服する。そう云えば、歩き遍路のときにお礼参りに高野山へ訪れた際は、奥の院へ直行して参拝を済ませたら、トットと下山してしまったので、ここ金剛峰寺には入らなかった。奥の院と金剛峰寺(どちらもバス停)は、2.1Km離れている。
既に到着している筈の、小林阿闍梨へ電話を入れるもお出にならない。留守電に、「今、到着しました。常喜院に入っております」とだけ伝言を残し、一人常喜院の門を叩いた。


常喜院入り口 自分にとっては、四国八十八ヶ所での常楽寺以来、二度目の宿坊となる常喜院。坊へと案内されると、一緒に得度する何人かの荷物が部屋に置かれいた。みなの荷物に共通しているのは、白いビニール袋だった。
(ん?・・アレはもしかして、法衣か?)高野山内にある、石橋法衣店に注文してあった、明日の得度式に使用する法衣一式を取りに行かねばならない。既に先着隊は全員、取りに行ってきたようだ。 案内して下さった女将・・じゃない、ここは宿坊だからご住職の奥様だろうか? に、法衣店の場所を伺いテクテクと歩いて取りに行った。


 左手にすぐ、金剛峰寺が見える。目の前の大きな駐車場には、「法印転衣式のため、一般車両は駐車禁止」と、書かれている。 そう、この日は第509世寺務検校執行(じむけんぎょうしぎょう)法印となられた、長澤光倫大僧正(正智院住職)の就任を披露する転衣(てんね)式が行われていたのだ。

 法印とは、高野山真言宗の僧侶の最高役職で、弘法大師の名代として、重要な法会などの導師を務める。任期は1年間、法印に昇進される為には、高野山の僧侶となって入門してから長い年月を必要とし、あらゆる修行・学問を修め年次によって順席に従い、その最上(上席次順)から毎年一人が、2月22日に総本山金剛峯寺座主により昇進辞令を受け法印に昇進する。例年3月10日前後に、金剛峯寺から緋の衣(ひのころも)と緋の袈裟(ひのけさ)を授かり、着用して儀式に臨まれる。

法印転衣式とは、この儀式をこと云う。式には高野山以外の本山の管長猊下や、高野山内の管長猊下・前官御房をはじめとする住職方、大徳、寺院僧侶、法印ご自身の有縁の信徒、高野山内の町家の人々、各期間の代表など総勢千余名が参列する。因みに、高野山内で緋の衣と緋の袈裟を着用できるのは、法印のみとされる。
 金剛峰寺を通り過ぎて、ゆるい下り坂を降りていく。下校途中の小学生たちが、凍った路面の上で足を滑らし遊びながら、元気良く挨拶してくる。・・なつかしい、歩き遍路以来の気分だ。

苅萱堂この道は、奥の院から先、国道371号線と高野龍神スカイラインを分かれるまで一本道。両脇には遍路用品店やみやげ物屋が並び、中には飾らない卸問屋のような、掛軸やお札を印刷している店などもある。
高野山にまつわる、女人禁制時代の苅萱道心と石童丸の哀しい物語や、歌舞伎、浄瑠璃でもお馴染みの苅萱堂のすぐ脇に、石橋法衣店はあった。お遍路さんたちも大勢参拝している。

既にこんなにも、懐かしいのはなぜなんだろう・・下界の方が時間が無駄に過ぎ去って行くと云うことか・・。


 この法衣店は、高野山各寺院のご用達だが、仕立てや生地も良いことから、旅館や料亭などの制服(作務衣・着物)の注文も多いと云う。

身長と胴回りのみ事前に伝えてあったのだが、歩き遍路を終えてメタボ復活兆しを見せる、自分の恰幅良い腹を見て店主が、「寸法は大丈夫ですかね?・・ちょっと羽織ってもらえます?」と、云われた。(笑 
一応、仕立て糸は付いてるが、採寸して作ったのではなく、既に何サイズか用意されている物なのだろう。

 幸い、スムーズに着れてレギュラーサイズで事なきを得た。ここで戴いた物は、半襦袢、白衣、黒衣、如法衣(袈裟)、白帯、白足袋、の全部で六点。法衣店任せだったので、得度式法衣一式と云われるままに注文してしまったが、白足袋なら幾つか持っていたので不要だったな。まぁええか、予備にあったかて。

〜得度一式法衣の価格〜
○半襦袢 3680円
○白衣  9200円
○黒衣 16800円
○如法衣 8300円
○白帯  1150円
○白足袋 1050円

締めて4万円。180円はおまけ。
果たして、安いんか、高いんか? 
物販、物売りが本業の自分でも、法衣の相場は全然分かりましぇん。


 さて、法衣を受け取って一旦、常喜院へ戻ったが小林阿闍梨とは未だ連絡が取れず。 恐らく皆を引き連れて、参拝でもされてらっしゃるのだろう。
「このまま連絡が取れなくても、夕食は六時ぐらいだろうから、遅くてもそれまでに戻れば良いな」そう、考えて身を軽くしたあと、また一人でウロウロ山内を歩きに出かけた。

大師教会 常喜院のすぐ隣は、大きな門柱を構えた大師教会になっている。更に回り込むと、霊宝館があった。手に持っているのは、極楽橋のバス停で貰った簡素な高野山案内図だけ。おおざっぱな位置しか分からないが、とりあえずその先にある、壇上伽藍に向かった。
手前に青龍大菩薩を掲げられた赤いのぼりが見えて、池の真ん中に社があった。帰りに寄ろうか・・そう思いながら、とにかく伽藍に入って行く。
ところが、地面が柔らかい砂で所々雪が残ってたり、溶けてたりとドロドロで足場が悪い。下駄を履いてるモンだから、巧く歩けずつま先は泥だらけになってきた。

 簡単な地図には、金堂、不動堂、御影堂、大堂の四つしか記載されていない。あとで知ったが、実際は塔や蔵を含むと15もの建物がある。
「う〜〜ん、とにかく御影堂には行きたいな・・」そう思うのだが、端っこにありそうなので、抜き足差し足でトロトロ抜かるんだ泥道を、なんせ端っこに向かって進んでいった。
境内の一番端っこには、明神社(みょうじんじゃ)御社や西塔はあったが、お目当ての御影堂が見つからない。と、云うより手に持ってる地図より、はるかに実際の建物が多いので、どれがどれだか分からない。

明神社西塔金堂と根本大塔
左から、【明神社】
弘仁7年(816)、弘法大師が朝廷に高野山開創を願い出て、勅許を賜わった折り、始めに伽藍の安穏を祈って、地主神である丹生都比売明神を第一社に、高野明神を第二社に祀り、総社に12王子120伴神を合祀する神域を確保した。
現在の御社は、壇上でも比較的古い文禄3年(1594)の建立で、重要文化財に指定されている。
中央、【西塔】
伽藍の西北隅に、巨杉に囲まれるように建つこの塔は、真然大徳が仁和3年(887)に建立したが、幾度も消失に合い、現在の建物は五代目、天保5年(1834)の再建。本尊の金剛界大日如来像は、開創当時の作で、重要文化財。
小林阿闍梨曰く、ここが高野山で最も大きなパワースポットだそうだ。
右、【金堂と奥に見える根本大塔】
空海が真言宗開宗後、高野山での仕事始めが、密教根本道場としての伽藍の建設だった。金堂と前述の高野明神の御社を築造し、引き続き大塔、その他の諸堂を次々と建立して行ったとされる。
現在この境内全体を、大塔の鎮まる壇として、壇上伽藍の総称で呼ばれている。
根本大塔は、昭和12年(1937)の再建、真言密教の「源泉」と、いう意味で根本大塔と呼ばれ、高さ49メートルの鉄筋コンクリート造り。内陣は華麗で、16本の柱には堂本印象画伯の十六大菩薩と、四隅の壁面には真言八祖像と花鳥が描かれている。見れてなーい!
 

 「ううう、下見不足じゃあ〜ナンも見られへんがなぁ」
 仕方ないので、最も大きな金堂だけでもと、ヨタヨタ足で戻っていくと、扉がバッタリ閉められてしまった。時刻は四時半、閉館時間らしい。チャンチャン。
「もうダメじゃ。今日は諦めるか・・」 帰りに青龍大菩薩を参拝するのも忘れ、そそくさと退散してさっき、気になった法具店などを覗き歩きに行った。品揃えや品質、価格を調査する。商売柄、こういった習慣は抜けないモンだな。


 ふと気がつくと、小林阿闍梨から伝言が入っていたので折り返す。ウロついてるなら構わないから、食事までに戻って来いとのことだった。 時間も5時過ぎていたので、常喜院へ戻り遅れ馳せながら、ようやく皆さんとご対面相成ることとなった。

しかし、挨拶もそこそこで皆さん慌ててらっしゃる。何事かと訊ねると、「6時から食事なので、それまでに風呂を済ませるように」と、云われたらしい。小林阿闍梨にまず挨拶をと、所在を訊くと入浴中だと云う。
 自分も着替えの用意をして、風呂場に向かおうとしたら、宿坊のお世話をしてくれる常喜院の僧侶の一人が、「今日は大浴場が閉鎖しているので、一人づつしか入れません」と云う。
 「あーそうですかぁ〜」なんて呑気に話してると、風呂上りの小林阿闍梨らしい方が歩いてきた。初対面だが一瞬で分かったので声を掛けて挨拶する。
そんなこんなしてる内、先に風呂へ向かった連中も戻ってきて、食事後に交替で入ると云うことになった。


 6時からの食事で、参加者全員と顔を合わせる。
一様に自己紹介を兼て、顔つなぎをした。 女性が二人。うち、一人は男性参加者の奥さんで、立会い証人となる。もう一人は、わざわざ宮崎から来られたそう。 他に、ボストン出身の白人男性。といっても、既に在日35年で日本語堪能、しかも能の師匠でもあり、日本人より遥かに日本文化に通じ愛されている。

 小林阿闍梨が、「日本文化を後世に残してくれるなら、誰だって(外人さんでも)いいよ」と、云っていたが、自分も含め、今の日本人にどれだけ貴重な日本文化を、語り伝えて行くことの出来る人間がいるだろうか・・。 能の師範になれぬとも、せめて自分も、何か日本の美しく繊細な心意気や、芸術文化を後世に残して行きたいと以前、後継者が育たず途絶え行く日本工藝の職人さんらを、蔭ながら支援する事業も行なっていたのを思い出した。

 後は、22歳と云う若さで出家する感心な男性も居た。これに一番怪しい(笑 自分を加えて五人が、明日の得度式に臨む。みな(自分も 笑)個性豊かで楽しそうな同期の桜だ。 食事の席は禁煙だったが、ボンボン日本酒とビールが置かれていたのには驚いた。 が、遠慮してかゲコなのか、宮崎の女性と自分と二人でポン酒をバンバン開けて行った(笑


 東京からご夫婦で来られたSさん。自分のことを、小林阿闍梨が送り込んだ鬼教官だと思ってたらしく(爆、明日一緒に得度を受けると云ったら驚いていた。 皆さん、以前から小林阿闍梨とは関わりがあったようで、自分もそうかと聞かれたが、「いえ、さっき一時間ほど前にお会いしたばかりです」と、答えるとまた驚かれた。

ただ、これは自分がトップセールスを続けた不動産営業の叩き上げで、会った瞬間に10年来の親しみと信頼を、自然と交せるのに長けているせいであろう。いやいや、「ただ態度がデケぇーだけだろ?」 とは申されんで下されい。(笑


 食後は交替で風呂に入り、何やかんやしてる間に、女性陣の部屋がいつの間にやら、喫煙室と化して、明朝5時起きだと云うのに、深夜に及ぶまで話しをしていた。