「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」
           「弘法大師聖語撰抄 上巻」より(秘蔵宝鑰・序論)

 如何に繊細な詩人の魂をもっていたかを証する、これはあまりにも有名な空海の言葉。
弘法大師言語録 〜空海の言葉〜

訳文は、「心、驕(おご)れる者は、己れの総べてが正しいと思い、知恵無き者は、正しくものを見ることが出来ない。 然るに何度も生れ変わりながら、何処より生れ来たかった自分であるかを知らず、生まれては必ず死んでいながら、死の意味を知ることが出来ない」

空海は、自らの死期を悟ったとき、五穀や水を断ち、悠然と死の世界(生前世界)へ入っていきながら、

砕けば、「人は何度生き死にを繰り返えそうとも、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない」という感じだろうか。
自分の死期を自ら悟ったとき、五穀や水を断ち、悠然と死の世界(生前世界)へ入って行った空海は、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのか、を知らないまま、輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を、空海自身も己の姿の中にも見出そうとしたのではないか。


 仏門に入らずとも、天涯孤独であろうと、身内が死んだり親しい友人が死んだり、人は少なからず生前中に必ず死と向き合う。
そして死を間近に感じ、死と直面し、死とは? 生とは?何かを己に問う。

金を稼いで高次元なセキュリティーを講じても、交通事故には遭う。
どんなに高価なサプリや漢方を施しても、絶対に不老不死はあり得ない。
この世で唯一、確実なことは人は死ぬと云うことかも知れない。


だから、死ぬ気でなにかに取り組もう。
なにかに取り組むなら、死ぬ気でやろう。

どうせ、人生一度限り。
男の生き様は、死に様と同じ。
男にとって、最も大切な物は生きる姿勢であり生き様である。
言葉や行動は、それを補足するために後から付いて来る。

自分が死んだ時、葬式の規模ではない、どんな人が弔問に訪れ
そのうち何人の人が、本当の心の泪を流してくれるのか?
それはすなわち、世に人にどれだけ尽くしたかという事ではないか。

このブログのプロローグは、訪れてくれた人へのエールでもあり、自分自身も常に忘れぬための戒めでもある。

一度生死を彷徨った経験のある人間は、例えそれまで自殺願望者であったとしても、生まれ変われるという。
死ぬ気で物事に向き合うことは、成し得るか否かが、死ぬか生きるかに掛かっている。 一念が真剣勝負であり、魂を燃やす尽くす全力投球なのだ。

貴殿は、己が魂を己自身の起爆剤で、紅蓮の炎の如く燃やしたことがあるだろうか。例え、一念一瞬でもいい、自らの魂を極限まで高め、活き活きと羽ばたこう。


宇宙の生命に比べれば、人の一生など屁でもない。
大宇宙が完全なる悟りゆえの大日如来であるならば、我々人間一人ひとりは実に尊い小宇宙の塊だ。
ならば、地球上の生命の頂点に立つ人間も完全完璧であり、ゆえに自己中心的な生き方しか本来は出来ぬはず。だから、生きてるだけでも誰かを傷つけ、誰かを貶める。

貴方に相思相愛の相手が居ても、貴方に想いを寄せている者も居れば、まだ逢えずに幸せになれない誰かも居るのだ。
それを認識してこそ、人は仏陀の教えを乞い知ろうとするのではないか。

自分の座右の銘でもある、釈尊の「天上天下唯我独尊」は、自分独りが唯一無比の絶対価値ではなく、全ての人間はみな平等に尊いのだ。 と、自分なりに解釈している。
「君はこの世でただ一人、君こそはかけがえない」
幼い頃、父がまだ家にいるときに、便所に張ってあった父の言葉。
天上天下唯我独尊に通ずるものを、云わんとしていたのではないだろうか。


今日がつまらなかったと思う人間は、自分を大事にしていない証拠。
一生に一度しかない、今日と云う日を無駄にしたのは、誰のせいでもない自分なのだ。 それにいつまでも気付かねば、明日も明後日も他力本願にしか、楽しい日々は永遠にやってこない。
せっかく親に貰った自分の人生、一日でも楽しいことが多いほうが良くないか? 自分は欲張りなので一日たりとも、つまらない日があると頭に来てしょーがない(笑。


因果応報というが、この世において、ことの結果に思いも寄らぬ事はあり得ない。
全て天地自然における摂理であり、人生に想定外は本来ないのだ。
全てそれらは、己にとって思い寄らぬだけで、自己中心的な思想に頼らず遠くから見れば、万事はなるべくして成り立っている。
どんなことでも起こり得る。と、思っておけば、何が起きようとも全て受け入れられる心構えが出来る。

つまり、うぬ我自身も我が子、我が家我が社も全て客観的に突き放して見れば、どんなことが起きようと驚くに値しない、何ら動じることはないのだ。

「宇宙一切は完なり(この世はすべて完璧だから)
 故に自分の信ずる対極にある事も真実」 斎藤 道山