歩き遍路における、お約束事集。昨日の続きをいってみよう。

【十善戒】
この身今生より 未来際をつくすまで、十善のみおしえを守りたてまつらん
 弟子某甲(でじむこう) 尽未来際(じんみらいさい)
 不殺生(ふせっしょう)・・・むやみに生き物を傷つけない
 不偸盗(ふちゅうとう)・・・ものを盗まない
 不邪婬(ふじゃいん)・・・・男女の道を乱さない
 不妄語(ふもうご)・・・・・うそをつかない
 不綺語(ふきご)・・・・・・無意味なおしゃべりをしない
 不悪口(ふあっく)・・・・・乱暴なことばを使わない
 不両舌(ふりょうぜつ)・・・筋の通らないことを言わない
 不慳貪(ふけんどん)・・・・欲深いことをしない
 不瞋恚(ふしんに)・・・・・耐え忍んで怒らない
 不邪見(ふじゃけん)・・・・まちがった考え方をしない

十善戒は読んで字の如く、十の善い行いをするための戒め。仏教における「戒」とは、戒めというよりむしろ、「良いことの習慣づけ」と捉えた方が、日々の努力目標として、寛容で大らかな気持ちで遍路の旅を過ごしやすい。
上記は、真言宗の「仏前勤行次第」による、【十善戒】の一節。巡礼中は他宗であっても、真言に順ずるのが慣わしとされているとのこと。四国八十八ヶ所の経本に勤行法則として記載されている。


【十善戒】とは、簡単に云えば、三蜜である「身からだ」「口くち」「意こころ」の働き全てを正しく律して、生きて行くことを誓う宣言書のようなもの。
仏教宗派は多様であっても、根本はみな悟りを得て御仏に近づくための教え。世の為、人の為に生きることが人間終局の目的。「十善戒」とは、自分のような汚れた人間が悪いことに染まらず(染まっていたが 笑)善いことを心がけるよう、御仏が導き示されたことを実践しゆくのである。


この世にある全ての苦しみから離れて、常に幸福な気持ちでいられる自分になる事。そのためにも、十項目の誓いを立て自分を律して行くのだが、実際、この十善戒全てを遍路道中二ヶ月間も、全て守り抜くのは至難の業である。元より品行方正且つ、真面目実直な暮らしをしている方ならいざ知らず。既にバレバレの通り、自分のような汚れ切った人間には、相当な圧力を日々自制心に伴わなければ厳しかった。

人はみな幸福になりたいから、毎日その目標に向かって仕事をしたり、知識を得ようとしているはずであろう。仏教を信じる場合は、物や知識を得るのが幸福ではなく、生き物が精神的に幸福になる方法を説き信じる。「信は任すなり」とも云う、神仏は目に見えないものだが、人や自分の心とて見えぬもの。「あの人の心を信じたい」と云うのと同じでないかと思う。


「十善戒」は慈悲深い人生を送ろうと願う人々、本来仏教徒としての日常的な行動の基準で、御仏との誓いともいえるもの。 ・・であるが、我々のような俄か信者や僧侶見習いでも、せめて遍路中だけでも守り抜きたい・・と、日々努力することが肝要でなかろうか。
弘法大師の言葉にも「諸戒は十善を本(もと)とす」とあるように、十善戒には、人が生きていく中で、非常に重要な事柄が戒められている。

内容的には、至極道徳的なことばかりなので「当たり前のことやないかい!」と、思われる方もいらっしゃるであろう。そういう立派な方は、仏教に頼らずとも、既に悟ってらっしゃると見える。 が、初めてこれを見たとき、実生活において、「物を盗まない」以外、全部守れてなかった(もし、これが人の女とか女房も該当するなら全て 笑)自分には、これらの一つ一つを、守ろうとすることは大変困難であった。

実生活に戻った今では、尚更一層に厳守は難しい。しかし、常に心のどこかでこれらの戒めを思うことで、徐々に変化が現れるのを実感出来るのは確かである。自分のように9割とはいわずとも、現在の生活において、半分以上該当出来ない人は、是非実践お試しあれ。


▼お約束事は続くで
【無財七施の修行】
六波羅蜜の一つ、「お布施」のこと。布施が大好きだ!と言い切れる功徳な人は少なかろうが、日本人は神社でも寺でも、取りあえず目の前にお賽銭箱があれば、何気なく一番軽い小銭であろうが入れる習慣がある民族でもある。「布を施す」と読んで字の如く、元々は裸で過ごせるような暑いインドで、虫刺されを予防するために身体に巻く布を施したことから由来している。

「無財七施」とは、雑宝蔵経にあると云われる。一般的には、お布施はお賽銭に見られるように、財物による布施を連想するが、「無財七施」は金がなくとも、毎日どこでも誰でも、誰へでも出来る六波羅蜜では最も即時実行出来る行である。


『眼施(げんせ)』
  憎むことなく慈悲溢れる眼差しを以って他人を見ること。
『和顔悦色施(わがんえつしきせ)』
  にこやかに和らいだ、笑顔を常に他人に示すこと。
『言辞施(ごんじせ)』
  温かな思いやりのある言葉を、他人にかけること。
『身施(しんせ)』
  困っている他人へ、身をもって奉仕(尊敬)の行動を示すこと。
『心施(しんせ)』
  思いやりの心をもって他人と接すること。遍路においては、あとに続く遍路への  配慮も兼ねること。
『床座施(しょうざせ)』
  他人のために座席(場所)を設けて譲ること。
『房舎施(ぼうじゃせ)』
  他人に一夜の宿を貸すこと。遍路では相部屋を承諾してやること。


遍路とは人生なり・・・。
始めは自分を見つめなおす、心を洗う旅とも云えるが、やがて世のため人のためと思えるようになる。また、一度の遍路でそれさえ思えない輩は、自分に言わせればエンドレス遍路に突入するか、先達を目指すことが人生の目標に成りかねない。

そういう意図も含め、歩き遍路においての「無財七施」とは、しかるべき到着日早々から、空港を降りた瞬間から実践しなければならない行であるといえる。
自分も偉そうなことは云えないが、つまるところ、ただ、巡礼作法を守り読経し、お接待や自分や家族のご利益だけを望む遍路に、修行や精進という二文字は見当たらない。そんな巡礼で、自らの心まで洗えたら、霊験あらたかというより都合が良過ぎて、世の中遍路だらけになってしまうではないか(笑。

幾ら山岳修行を積み重ねても、行き違う人に和願施(笑顔)ひとつ、挨拶ひとつ出来ないなら、独善(身勝手)な修行といえまいか。遍路は絶対周回数ではなく、そういったことに一日も早く、気付くこと自体が大切なのではないかと思う。今日この頃である。