俗世間の穢れなど程遠い深山幽谷で修業することなど誰にでも出来る容易いことだと、私は常々言葉にしてきたし、皆さんと同じ俗世間に生きる事こそ真の修行であると云ってきた。私は現に今もそうしている。

そんな深山幽谷でちょっとばかり一時期修行した僧侶が、これまた穢れ無き神聖なる寺院に身を置く。これが我が国の所謂、官僧侶の大半の現状である。ちなみに拙僧は、未だにレベリウスな私度僧。俗世の垢にまみれてるから、皆さんと同じようにどうしたって心が汚れてしまう。

佛弟子であってもそれは避けようがない。悩みや痛みも葛藤もある。出家前とは明らかに質は違えど、相変わらずの煩悩の塊だ。十善戒も八正道も背いてしまう。だから毎日、仏に手を合わせる。仏の御力をお借りして、汚してしまった自分自身の心を日々浄化するのだ。

私にとって僧侶とは生き様であり、食い扶持ではない。だが、そうではない者は、まるで自分は無菌室に居ながらにして、訪れる穢れた俗世間に因って心乱した悩める衆生に、『心安らかに正しいことに目を向け功徳を積み、清らかに生きなさい。さすれば救われます。』などと或る意味、無理難題を云い、何やかんやと称した幾らかばかりの浄財を受け取り悟したとする。

多くの住職の法話と称する話の類は、仏教の教えの引用である。釈迦の説いた道理は、即ち真理であるから誰しも聞けば、『う〜〜ん、なるほどなぁ』と思う。その時は。

神聖なる社寺仏閣に足を踏み入れると、そこに佇むだけで身も心も安らいだ気にはなる。が、それは単に、いにしえのシュチエーションと大樹の発するマイナスイオンによる錯覚に過ぎず、気休めにしかならない。参拝して帰宅して翌朝出勤した瞬間から、また悩みや苦しみに襲われるルーティンが始まる。

それではナ〜ンも解決にならんのだって。


それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。

全世界核廃絶武装解除 Prayers for World Peace.
全人類が共に尊み共に助けあい共に慈しみ合いますように
We've to do Heavenly Rapture Pure Land construction.

感謝合掌 北斗法蓮