遠離一切顛倒夢想とは。
般若心経の一説、「一切の顛倒夢想を遠離し」と訳される部分です。
(あらゆる煩悩・妄想・邪見・迷見のさかしまな考えを離れ)とあります。
欲の全てを捨て、見栄を捨て、こだわりを捨て、色を捨て、なにもかも捨てようとしている私は世捨て人と呼ばれるのでしょうか?


真面目に神仏を拝んだことすら無かった私が、ふいに仏門への志を抱き、今日まで来ました。明確にかつての生活を全て捨てようと決意したのがいつかは分かりませんが、その思いは日々日々強くなり、実感していく一方です。

私はほんの少し前まで、人一倍見栄も強く、欲張りで、色欲も強く、物への執着はそれほどでもなかったのですが、こだわりが強く、好きな物や好きな人、好きな環境に囲まれるためには、誰が傷付いても、他人の犠牲も厭わない人間でした。

神仏はおろか、他人を信じず、自分の才能と運命だけを信じ、事業欲に燃え愚かにも大きな下らない夢を持ち続けていたました。高級外車を乗り回し、誰もが振り向くいい女を何人もはべらせ、いいなりにして帝王気取りでした。欲は欲を呼び、更に高く高く下らない夢を見て突き進もうとしていました。


一体、なにが私の心を変えたのか・・変えようとしているのか。なにを望んでいるのか、悟りを開きたいのか、仏になりたいのか、かつての人を傷つけた罪を購いたいのか、どうしたいのか、未だ分かりません。とにかく捨てたいのです。


好きだった物を全て捨てる。
簡単に出来そうにないと思っていましたが、なぜか抵抗がありませんでした。もう車もありません。着道楽だったので服やジュエリー、更にインテリアにもこだわっていたので、物は売るほど溢れています。その全てを売り払い、処分していっています。これはとっておきたいという未練はありません。今は毎日せいぜい作務衣をまとう程度です。音楽も好きでした。過去の思いでも詰まったMDもCDも全部捨てました。二台ある電子ピアノも全く弾く気にならず、処分を待っています。

全部捨てるって、どういうことでしょう。
ピアノにしてもそうですが、続けてきたからこそ弾けていました。それを止めてしまう。投げ出す?少し違うと思っています。過去の経験が勿体無いと感じるのも、すがりつくのも全て未練、こだわりの内だと考えるようになりました。
今まで築いてきた人間関係、積み重ねてきた事業、将来の夢、なにもかも。


一度、すべて綺麗さっぱり捨て切ってゼロにしないと、なにかが見えない気がします。ゼロとは完全なゼロ。裸同然の状態になりたいのかも知れません。


しかし、最近。
「なにも欲しくないって状態は、案外楽だな・・」そう思えるようになって来ました。


合掌
厭離穢土欣求浄土