よく比較される、或いは混同される仏の慈悲と神の愛。
似ている部分もあれど、実は本質的に全く異なるものです。

元旦に公表しました、方針演説。
あの稿で公益事業について書きましたが、公益事業の定義のひとつに"不特定多数のための利益"とあります。

例えば、
家族を大切にする。妻や夫、子供を愛する。企業のトップであれば、社員の幸福や家庭円満を願う。そのために一生懸命仕事する。これらは利害関係にあるので慈悲ではなく、愛です。

よく、我が子のために命をも投げ出さん母を、観音様の慈悲に例えられますが、他人の子ではなく我が子であれば、慈悲ではなく愛でありましょう。

一神教の神の愛とは原則、これに近いものです。唯一の神と崇め、その他一切の神を拝むな。その約束を守れるなら、審判の日が訪れた時に救済してあげましょう。その他の人は知りませんよ。と云う条件付きであり、一種の契約宗教です。

対して仏の慈悲とは、
遍く一切衆生に及ぼされる普遍的なものです。自分と全く利害関係になくとも救いの手を差し伸べる。相手を擁護する義務とか社会的通念とか、或いは善意を施した事によって得よう、間接的であっても何かしらの利益すら一切求めないものであります。

私の公益事業によるビジョンでは、この"不特定多数の困窮したる人々に利益を施す。"と云う部分が、仏の慈悲と大変適合しているのであります。


余談ですが、
多神教であるはずの密教の神・聖天信仰もその特異性であるが故に、他の神を同時に祀ってはならないとされます。私自身も亦、平素から『愚者必救済 愚願必成就 唯一絶対神』と申しております。

お聖天様が一神教の神と違うのは、
愚者必救済・・・即ち、愚か者をも救われる
愚願必成就・・・即ち、愚かな願望をも叶う

この2カテゴリーの祈りに最大の力量を発揮されるのは、聖天様をおいて他にいらっしゃらぬ。そういう意味を以って、唯一絶対の神とされておるのです。


ところで震災から間もなく一年。
相変わらず私は百念仏追善供養を続けておりますが、被災で亡くなられた方に併せて毎日、病気・怪我・飢餓・事件・事故で亡くなられた方も供養しております。

要するにその日、亡くなられた世界中の方です。当然、その中には犯罪者もおれば死刑囚もおるわけです。或いは先祖供養に至っても亦然り。民を苦しめる愚かな権力者の先祖も供養します。

何故なら、本当に救うべき者は救い難き愚か者だからです。自らの仏性に気付かず、救いの道を知らぬまま我欲貪るものこそ、本来は救い導いてゆかねばなりません。それがこの世から犠牲となる弱者を救う唯一の手段であり、具現化するのが聖天信仰なのです。


一神教については、まだまだ勉強不足ではありますが、ふと素朴な疑問が湧きませんか?神と契約している人が、契約していない人(若しくは、他の神を信じる人)を救ってあげて下さいと、そう祈った時にその願いは聞き入れられるのか?と。もっと世界を巡って勉強していきたい所存であります。

お聖天様?は、大丈夫ですよ。
祈る人々の喜ぶ心を、最高の好物とされ歓ばれる神。それがお聖天様ですから。あなたがもし、あなたの知る人の幸福を祈り、それがあなたにとって心の底から最大の喜びとなる。

そうであるのなら、お聖天様は歓んでお聞き下さる事でしょう。それがお聖天様が神でありながら仏である。仏であるが故の、大聖大慈悲歓喜尊天であられます。


聖天信仰。
それは、人が喜んで歓んで一生を生きてゆける。
如何なる絶望の中にあっても、揺るぎない希望と成り得るのです。

それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。

全世界が核廃絶し兵器を捨て穏やかな日々が訪れますよう
全人類が共に尊み共に助けあい共に慈しみ合いますように
We have to do The Rapture Pure Land construction.

感謝合掌 北斗法蓮