松樹院 竹成大日堂 五百羅漢(両部大日如来像・小物)

可愛らしいっしょ?
大きさは親指ぐらいです。

こんなに小さくとも、ちゃんと焼き物で出来てます。
先日訪れた無住職の寺、松樹院 竹成大日堂で求めました。

本堂の中に幾つか、こういった物が並べられていたのですが、丁度持ち合わせがなかったんですわ。それでもこの、表情柔らかな大日如来像を持ち帰りたいと思いました。

普段は施錠されていて、向かいの和菓子屋の旦那が開けてくれるとの事でしたが、わざわざ申し訳ないとも思い、携帯で付近のコンビニを検索しチャリで飛ばしてATMで出金して求めました。

一体700円。
観光客にはマスコットでしょう。また昨今、仏教・密教ブームがリバイバルしてますから、仏像コレクターもいるでしょう。

然し、私には、この両部大日如来は自坊(自宅)に置いてきた、東寺由来の両部曼荼羅に匹敵するものなのです。


歓喜天和讃(生駒聖天Base)にあり。
『夫(そ)れ天尊と言(もう)するは〜、、金胎両部の教主たり』

大聖歓喜天は、大日如来の法化身であられます。念ずる際には、金胎両部の大日如来を観想し、更に尊天上様(お聖天さま)へと観想を続けてゆくにあたり、東北へ向かった五か月前から頭と心のイメージだけで両部を観想してきた私にとって、こういった現物的な対象物はよりイメージを高めやすいアイテムとなります。

一神教の、特に日本キリスト改革派教会や福音派は、偶像崇拝として、このような行為を嫌うといいますが、私たち仏教徒も皆、仏像や仏画、増してこのような本来観光客向けに売られているマスコット自体が、神・仏そのものでであるなどとは思っておりません。

ただ以前、高崎の不動寺の橋爪住職が、『拝む対象がないとな。』と、私に愛染明王の仏画を譲って下さったように、密教において大変重要な三密加持に至るため、観想力を高めるには本来不可欠なアイテムなのです。

三密加持(さんみつかじ)とは、
一般仏教では、いわゆる"罪"と捉える、身・口・意の三業(さんごう)を、密教では「業(ごう)」とは捉えず、「三密(さんみつ)」と呼びます。

寧ろ、この身・口・意を駆使してこそ、仏となれる。
「仏と私たちの身体・言葉・心の三種の行為の形態が、不思議な働きによって感応道交しあう時、速やかに悟りの世界が現れてくる。」と説きます。

いわゆる、ご先祖さまも仏様。寺院にある仏像・仏画も仏様。聖天様のような本来・神様ですら仏様と称するので、ややこしいのは当然ですね。一般仏教と密教の違いも、ちゃんこ鍋になっている方がほとんどでしょう。

仏教に興味を持ち始めた人でも、最初からこの辺りでつまづくでしょうし、増して一神教の方々が誤解や偏見を持つのも致し方ない部分でありましょう。なんせ、仏教は例えば、娑婆(シャバ)のように、ヤクザ用語になっているほど、私たち日本人の生活に深く無意識に浸透しているのですから。


即身成仏を信条とする密教では、いわゆる仏様だけが仏なのではありません。私たちフツーの人間もまた同様に仏であり、本来誰しもが仏たる資質を備えている。それが仏性(ぶっしょう)です。

『我らは人は 仏の子 はじめからー』
『仏の子になるのではない 仏の子でいようとするでないー』
『仏の子は仏ではないが 人の子も大人になるまで過程がありー』
『同じ人間であるように 仏の子もまた仏と成り得る日が来る。』


この世に、誰の役にも立たぬ人はおりません。
私たち一人ひとりが、他の人に代わってもらうことのできない、独自な人として、仏としての役回りを各自が持っているのです。

夜郎自大院・勤行次第にあり。
聖天さまは、『私利私欲我欲愛欲に塗れ、人の心を忘れ己の仏性に気付かぬ愚かなる者達をも導き賜い、目覚めた愚かなる者達によって更なる愚かなる者達を導き、以っていつの世も、時の権力者によって犠牲となる弱者を救い賜う。』のです。

また、三密加持とは次の三つの力を現します。
以我功徳力とは、私たちの功徳力
如来加持力とは、仏さまの救済力
及以法界力とは、先の両者が仏縁の場・竜華(りゅうげ)の庭として、天地大宇宙のあらゆる力

これら三つの力が、融合しあうことを三密加持といいます。


一般仏教では、百八煩悩の中でも最も抜き難い煩悩を、三毒と申します。例えば、『愛され求めるを飽くこと知らぬこと』『愛するが故に嗔ること』『愛に酔いしれ溺れること(人はどうでもいい)』

この場合の愛とは、愛欲のこと。執着心とすればより分かりやすいでしょう。これらに苦しむ人がほとんどなのですから、それを全て厳禁・否定してしまえば事は簡単ですが。

世の中を観ておっても、特に役人仕事はそうですが、何でも細かく規定するのは面倒なので一切禁止。それが確かに簡単ではありますが、密教ではそうは捉えません。

人は人を愛するが故に、己を磨き向上させ、また愛するものを守ろうとも頑張ります。密教では否定されがちな愛欲を真っ向から捉え肯定します。


この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない。全ての欲望を捨てると云うことは、人を救う欲をも捨てると云うこと。

欲が邪魔になると思うならば、小さな欲に気付きし証拠。
更なる大きな欲で制すればよい。例えば、一切衆生済度を誓うのならば、正しくそれは御仏と同じく大欲であり、これこそが目先の小欲を制することができる唯一の賜物。欲の浄化とはそういうこと。

大欲とは即ち、大義であります。
ヨーロッパにも、こういう言葉があります。
”ノブレス・オブリージュ”( noblesse oblige)
「富貴なるもの、徳もまた高きを要す」

本来、時の権力者とは、弱き力なき民を導く者であるはずです。


それではまた。
本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。

全世界核廃絶武装解除天下泰平
全人類共尊共助共慈共悲共愛
厭離穢土欣求密厳淨土悉地成就


南無大聖大仁慈歡喜雙身天王
感謝合掌 
北斗法蓮 百拝