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仮設天壇に華水供(けすいく)を捧げるため、散歩がてら道端に咲く野草を摘みに行く。


そんな私にとっては野草だが、この花の咲く向かいの家の住民にとっては、ただの雑草。

きっと、夏は草刈りをしなきゃだろうし、仏壇があれば佛花はスーパーに行き、ひと束、398円とか良い物であれば780円で買い求めているだろう。


同じ花でも、人によっては排除すべきかな雑草であり、同時に長閑な風景を構築し心和ませる野草ともなる。


ある人にとっては、排除すべき邪魔者であっても、またある人にとっては、かけがえのない人でもある。

社会貢献で広く世に知られる人も、家族にとっては冷たい無責任な人もいよう。


人に悪事を働くものも、その被害迷惑を被るが他人とあらば、自分にとって有益あれば知ってて近づくであろう。


自分は自分と云う、ただ一人の人生を歩むもの。一度きりの人生において、常に主役を張るか生涯、端役で終わるのか。

完全な善人はおらず、また悪人もいない。何かが突出してれば、一方で何かが欠けているものである。


高い山の上の崇高な境地を麓から目指す顕教と違い、我が密教は愚俗の凡夫がいきなり菩薩見道をひた歩く。


菩薩の真似事を一生懸命にしておっても、いとも容易に、ものの一瞬で化けの皮が剥がれ愚者に戻ろうとする。

そんな瞬間は多いとき、日に何度でも訪れる。

それでも、その瞬間瞬間に、菩薩ならばこうは考えまい。こんな暴言は吐くまい。であれば、この状況をどう打破解決する?そう自問自答を繰り返す。

仮に適切な菩薩らしき解答を得られずとも、そう一瞬、はたと踏み留まるだけでも、そこには過去のあなたはおらず。

そこにおるのは、既に菩薩道を歩むあなたなのである。



本日もおおきに。
ご高覧に感謝致します。


感謝合掌 
北斗法蓮 百拝