前稿では、大日如来を観想し宣誓と淨化を致しました。いよいよご本尊、尊天上様(大聖歡喜天)を観想していきましょう。ここからは、千遍真言を終盤クライマックスとして勤行を終えるまで終始、大聖歡喜天を観想し続けます。

聖天勤行は長丁場です。
お供えから始めて既にここまでで、およそ二十分が経過しているでしょう。まだ読経はひとつも読んでいません。ここからが本番です。フルコーラスで一時間強、集中したまま聖天さまを観想し続けるのは容易ではないでしょう。

大日如来から最後の方便身・大聖歡喜天へ。
その為にも先の宣誓、淨化の行において大日如来を能く能く観想するのです。大日如来から聖天さまへ。スムース且つ自然に移行することで、「大日如来最後方便の身、観自在尊慈悲深重の尊体」が顕現されるのです。

最後の方便とは、これが最後。
大日如来の最後の切り札、最終兵器(究極の奥義)。これで救われなければ、もう後がない。即ち、他の神仏に見捨てられても必ずお救いになられる。これが聖天さまの"如何なる願いも叶う"と云われる所以です。

神仏の加持力を、パソコンや車に例えるのは些かどうかと思いますが、スペックで表すのであれば他の神仏が救えないものも救うのですから、最大最強のキャパシティと云えるでしょう。

梵我一如(佛凡一如≒仏と凡夫は一体なり)
完璧な和合と調和・富貴無窮巳(ふうきむぐうい)の財宝神であられる天地宇宙の中心・究極の仏として大慈悲心が発せられ、凡夫が行者として真心込めてこの天尊に向かうとき、無量の祈願が正に速疾に成就するのであります。

以上を踏まえて、さぁそれでは聖天さまを御呼びしましょう。


◆天部降神の儀
降神の儀とは、神(聖天さま)への崇敬の心を表し、行者に坐す仏殿(ご自宅であれば、仏間・仏壇・聖天壇)にお招きする招霊の儀式です。
降神の儀は、神道でも地鎮祭などでも行事となっていますが、王でもあられる聖天さまを、わざわざ御呼び立てすると云うのも、些か抵抗を感じられる方もいらっしゃるでしょう。

そこは密教・即身成仏ですから。
畏れながら天部におられる聖天さまを、御呼び立てしつつも自分自身もまた、天部へお迎えに上がる。そんな気持ちで空間を超越した次元で拝謁を果たす。

その境地が仏間と天部を見えない橋で繋ぎ、すぐ目の前の玉座に聖天さまが坐しておられる光景を目にすることが出来るのです。近くに感じれば感じるほど、ハッキリ見えれば見えるほど、勤行次第が進む中で祈願なりご相談なりの回答が顕著となってゆきます。

佛凡一如(ぶつぼんいちにょ)
前稿の宣誓で、大日如来は我らであり我らは仏の子、仏の弟子であると観想しました。そして、聖天さまはその大日如来の最後の方便身。

凡夫の中でも特別愚かものの私たちのために、最後の方便として顕現されたのです。大日如来は聖天さまであり、私たち凡夫もまた仏の仲間なのです。それが佛凡一如です。

さぁもう臆することなく、聖天さまと二度とない瞬間(とき)を共にしましょう。

『そもそも、歓喜尊天とは。諸神諸仏の父母一切衆生の根元にして、一礼一敬もその功徳の御力、我ら計り知ること、とてもとても能(あた)わずとは。』

『御仏の金言、諸神諸仏の捨て賜うよな、我ら愚願も一心に信じるものは、ただちに成就せしめるは、この天尊上様だけのご誓願なるぞ。有難や。』

『洵(まこと)に末代澆季(まつだいぎょうき)相應(そうおう)の尊天と申し奉るべく、豈(あに)信仰せざるべけんや。信じざるべけんや。』

*末代澆季とは、道徳心も人情も薄れた末世の意。お察しの通り、現代こそ聖天さまの救いが必要とされておるのです。モラルなき◎◎人と、世界に恥じぬ、後ろ指差されることなきよう、せめて仏教徒は仁慈に励み勤めましょう。


次に、聖天さまの印契を結び中指を額に当てたまま、大聖歓喜天雙身毘那夜迦法 所収のご真言を三遍唱えます。聖天さまが降神されるのを観想して下さい。

『ノウボビ ノウヨクキャ シャカシッチ ボキャシャタニャタオン ノウヨクキャ ノウヨクキャ ビノウヨクキャ タラヨクキャ ハリタラヨクキャ ショウギャカシッチ ショウギャカシッタ センジキャラ ソワカ、、』


次稿は、五体投地です。

本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝