フツー、人に会うにも「こんにちわ。」「お早う御座います。」「お元気でしたか?」と、たいがい挨拶する。日々朝晩、神仏と合い対する時もそれは全く同じこと。本日は大聖歡喜天宗の勤行次第の中で、冒頭の挨拶から五体投地までをご紹介致しましょう

我がご本尊は、宗名のまま大聖歡喜天であられます。神でありながら天部に留まり、仏として我々に大いなる仁慈の光を発せられ、願望成就の種子を常に蒔いておられます。

ちょっと大袈裟に聞こえるかも知れませんが、現実に拝謁しようのない、神への態度は平民が王に傅くように崇め祀るを観想して接すれば分かり良いのであります。だからこそ平素は、"大聖歡喜天"などと呼び捨てにすることならず、尊天上様若しくは大聖歡喜天様と御呼びしておるのです。

従って、王の御前に拝謁している平民なのだから言葉遣いは無論、勤行中にアクビをしたり居眠りするなど当然以ての外。スッ呆けて、すかしっ屁でもしようものなら大ごとです。神の御前ではウソは勿論、どんな言い訳も誤魔化しも通用しません。

とは云え、こちらとら凡夫(ぼんぶ)。
余談ですが、この凡夫にも幾つかランクが御座いまして、、平凡の凡と書きますから、フツーの人のように定義していおる事もありますが、フツーの人ってったって千差万別なワケであります。

詳しくは今回割愛致しますが、どの凡夫も、六道の中を行ったり来たりグルグルと輪廻するので、どの道そこから抜け出せなければランクが違えど凡夫に変わりないのであります。六道も上(四聖)に行かなければ、外れただけでは"外道"です。昔、ドーベルマン刑事が、「ど外道が!」と云ってましたね、アレです。

特に聖天信徒は、愚かものだからこそ尊天上様(大聖歡喜天)の稀有なる縁(えにし)に召されたのです。聖天信仰が深まれば深まるほど、自分の愚かを嫌と云うほど、『もぉ、ええっちゅうねん!ホンマ堪忍して下さいな。』これでもかと突きつけ露呈させられます。

徹底的に自覚させられる、即ち目覚めさせて下さる。そこも聖天信仰の独特で面白い部分であると私は捉えてますが。

だから、いつもいつも姿勢をシャンと正しておられるワケではありません。愚僧の場合、アクビをしそうになれば、子供の頃、母に教えられた技を使って制御します。舌の付け根の方を前歯でガチっと噛むと口は開きません。それでもバレてるんですがね、お経が途切れますから。

最悪は屁ですかね。やっぱり。実は私、ずっと朝めしを食う人間だったんですが、昨年の俗世の修行からあまりに朝が忙しかったせいで食べられず、それから一日二食の習慣がついてしまいました。そのため、朝めしを食ったら即排便と云う長年のセオリーも崩れてしまい、便意を催すタイミングが予測不可能となりました。

お寺で修行中は小便ごときでも、いちいち水行しないとですが、在家の皆さんはそんな事やってられないでしょうから、なるべく勤行前に排便を済ませておいた方がいいでしょう。なぜなら、、

勤行前にも、お茶やご飯をお供えしたりと色々と雑務があります。朝は特に、榊や神水や仏花の水を交換したり、お経も夜より若干長いので都合、一時間半ぐらいかかります。そんな準備の最中に、(アレ?、、やばいかな・・)と思う時は、先にトイレに行くようにするのですが、全然平気だったのに勤行中にヤバくなることがあります。

一旦始まってしまえば通常中断することが出来ないので、我慢すればするほどヤバさが増して行きます。マッハでお経や真言を読み上げても、ドンドン焦りも増して行きます。その内、一発目のすかしっ屁をこいてしまい、『も、、申し訳御座いません!』と詫びながら読経を続けます。本当の王なら、近くにいる近衛兵に首を叩き切られているかもですね。

本当に最悪なのはこれからで、肛門筋の我慢も限界に達すると、すかしっ屁をするつもりが、驚くほどの爆音と共に連続したエキゾーストのように連発するのです。こうなるともう、止めようがありません。『ほ、、本当に申し訳御座いません。』ただただ、平謝りするしかなく、そんな日は祈願など出来なくなります。やはり、勤行前に排便済ませた方が賢明ですね。


あまりに下らない話しで前置きが長くなり過ぎました。ここから本題です。お灯明をつけ、お線香を焚き、塗香(ずこう)を口の中、脳天、右肩、腹の順に着け身を淨めましょう。

実は、本当の挨拶は神水を交換するとき既に済んではいるんです。それが朝一番に、真正面から御傍に寄る瞬間ですので。でも、全ての準備と心を整え、坐した瞬間を勤行次第の中で改めて挨拶を致します。

尊天上様を正面にお迎えし、金剛合掌したままご挨拶するのですが、特に内容については決まりはありません。皆さんそれぞれ、挨拶を兼ねてその日一日の抱負などを御話されれば良いでしょう。

例えば、どこか遠出をされる日であれば、道中安全を。大切な商談や面談があればその円満成就を。但し、祈願は勤行の中で場面がありますから、ここではお願いすると云うよりも寧ろ、予定をお知らせする感じが良いでしょう。その結果報告と御礼については、晩行で行うようにします。

私の場合、特に何も予定がない日は以前お話ししたように、こんな感じになります。


大聖歡喜天勤行次第
◆ご挨拶
『尊天上様、お早う御座います。本日も五体満足、呑気にのんびり生き永らえさせて賜りました。有難う御座います。さらば、この命。この魂。尊天上様に導かれし、この仏心を以って、少しでも世の人のお役に立てれば幸いであります。本日も何卒宜しくお願い申し上げます。』

◆諸神諸仏への挨拶
次に私の場合ですが、今は脇佛として奉っている三面大黒天、愛染明王に。そして、高野山真言宗としての経緯から不動明王、弘法大師空海大阿闍梨、と続けてご挨拶をして行きます。

皆さんも、他の諸神諸仏を奉られている場合、仏像や掛け軸、仏画などがあれば、それぞれの仏様に向かいながら挨拶をして行きましょう。人間でもそっぽ向かれて挨拶されると、『オイ!誰に挨拶しとんねん?』となりますからね。

◆父母、ご先祖への挨拶
その他、もし仏壇にご先祖供養の位牌があるならご先祖様にも当然、挨拶を致します。私は父は15歳から、母は25歳から会っておりませんので父母への感謝と敬愛も込めて挨拶します。

◆五恩に感謝
壱、父母に感謝
感謝と云う部分では上と重複はするのですが、自分が生まれ至るまでの代々のご先祖、即ち父祖。更に大事に育ててくれた否かに関わらず、父母、祖父母への感謝。両親、そのまた両親と父母の縁があってこそ今の自分がいることを忘れてはなりません。どんなに辛いことがあっても強く生き抜くと云うことは、ご先祖様への恩返しではないでしょうか。

弐、諸人に感謝
これは人だけでなく、一切衆生と考えてもいいでしょう。動物にも癒されること、生きる勇気をもらうこともあります。増して食してもいる訳ですから、命も繋いで貰ってますね。

人に関しては、先の父母と同様に、三世(さんぜ)えにし賜れし諸人たちへ、今の自分を知ると同時に感謝すると云うことです。また人は知人、友人、血縁とは全く無関係な様々な人と人の繋がりによっても生かされている事を知りましょう。

例えば、白人列強国によって近代世界システムの名の下、我が国は戦国時代と江戸時代末期に二度、あわや植民地化され収奪の限りを尽くされかねない危機的状況を迎えています。

これについて、いつか書きたいと思っておる事が山ほどありますが、兎に角、そんな危機を乗り越えてくれた先人の叡智があったからこそ。そして、若き命を投げ出した戦没者の屍の上に構築された現代の日本だと、即ち今の自分だと、掘り下げて行けばどれだけ感謝しても決して足ることはありません。

或いは、全く知らない誰かが云った一言が、とった行動に因って自分が救われることも多々あり得るのです。ですからそう云う意味においては地球上、全ての人々に感謝です。

参、師に感謝
これは『人みな、わが師なり。』の精神では、諸人にも重なりますが、特に直接影響を受けた師として存在する方への感謝です。個人的には、生き様など見習いたいと思う尊敬する人も師であると考えます。

四、天地に感謝
天地宇宙、三千大千世界八十余億の神仏。密教では大宇宙の理を大日如来と定義しますが、この地球もご機嫌を損ねると人間など、ひとたまりもないことは我が国では特に周知の通りですね。東日本に続き、つい先日の台風12号で1700年の歴史を持つ世界遺産である、熊野那智大社が土砂崩れで、泥にのみ込まれた。市街地につながる車道は途中で崩落し、重機などを搬入できず復旧の目途は立たない。奈良、和歌山、、郷里近隣の馴染み深い町が災害を受ける痛みがようやく身に沁みました。

天災地変が起きずとも、人は生き物である以上、生老病死から逃れられません。私と密教を結びつけ、出家する機会を与えて下さった師僧、小林阿闍梨との仏縁となった映画マトリックスの中で、『こんな脆い身体では生きられない』と、エージェントスミスが云います。

その通り、私たちは非常に脆弱な身体を持つ生き物です。孫を見ていても、人ほど生まれて手のかかる、目を離せば死にかねない弱い生き物はないでしょう。健常者の大人ですら、不衛生な場所に監禁して食事を与えぬだけで簡単に死にます。

そんなに弱い生き物なのに、いつ天災が襲うやも知れぬのに、それでもわざわざ効率の良い殺戮兵器を造り続け、人と人が殺しあうことがこんにちも絶えません。これだけ文明と文化を積み重ねてもです。なぜでしょうか。仏教徒として平和活動は今後、私の大きなテーマとなっていきます。

五、国王に感謝
我が国には国王はいません。だからこれは、自分を取り巻く全ての社会と云うことです。社会とはナンでしょう?ミクロは家族です。マクロは国家を超えた世界と捉えるべきでしょう。

もはやグローバル化の波は、一市民である私たちが意味分かんないからいいや、では済まされない、即ち前述した国際的危機が切迫しているのです。個人的には第三の開国などとマスコミや一部政治家の呼称に反論する部分もありますが、、これも後日。

兎に角、家族さえ良ければいいでは、町内で孤立するでしょう。町内が平和でも市や県の行政に従わぬ訳には行きません。当然、国家の政策は大きく私たちの生活に影響してきますし、日本さえ良くても諸外国から反発や非難を浴びるでしょう。

だからこそ、今、かろうじて平和の均衡が保たれていることにも、社会全体に感謝をするべきでありましょう。自分自身の幸福は世界の幸福にある。世界の幸福なくして、一個人の真の幸福はないと考えてゆくべきではないでしょうか。


あぁ。ごめんなさい。
また長くなってしまいました。この先はまた。

本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝