写真は、いつものtokotyan2さんの写真ページから。毎度おおきに。タイトルは、"神聖"。美しい蓮の花ですね。

おやまん、
いつも有難う。忙しそうやね。最近、よく高崎って、、例の新店舗の視察が進んでるんかね?ええ物件あったかい?また、経営や時事や社会に関して幅広く論議に花を咲かせたいねぇ。

音羽さん、
あなたに頂く言の葉は、いつも優しく暖かく清冽な泉の如く
そして同時に、隙あらば怠け者である愚僧を律して下さります。
感謝しております本当に。

ケイさん、
> でも開経偈を読んでて思うじゃないですか。めったに出会えない法を受持する事を得たり、て。
>
> これだけで僕は良かった、本当に良かった、と思います。

そうですね。
私もいつもそう思います。また常にそれを心の奥底で噛締める為にも、私自身も晩行には在家用の噛み砕いた文言を一緒に読誦するようにしております。前々からそれをご存知ない皆さんのために記事にしようと思いつつ、横着こいてた私に機会を与えて下さったことに深く感謝致します。有難う御座いました。


、、、と云うワケで

先のケイさんに頂いたコメントの中で、《めったに出会えない法を受持する事を得たり、、、》と云う部分を原文と和訳で分かりやすくご説明したいと思います。と、その前に、、

如何せん、お経ってのは音読み(若しくは漢読み)ですから、そのまま読んでも意味が分からない。いや、文字を見た方が聞くだけより幾分、分かるでしょうか。

でもフツーの人が、坊さんが読んでるお経を聞くと、ナンだか何となく有難いような、何か癒されるような、、、そんな気がするんでしょうかね。でも、それはハッキリ申し上げて錯覚ですw。

私などは仏教・密教に自ら傾倒してゆく以前は、行事があって寺や神社で聞かされる(←・・されると思っていた自体が既に拒絶的?)お経や祝詞が退屈で退屈で死にそうでした。

こんなモン、聞いて何がどうなるっちゅうねん?そもそも、読んでる宮司や坊さん自体、意味分かっとんかい?そう、思いながら冷ややかな視線を彼らの背中に浴びせてました。

日本人は宗教学的に見ると、戒律嫌いの儀礼好きだそうで、、。だから、僧侶であっても妻帯もするし肉食はするし、在家においても戒められるのも律されるのも嫌だと。

でも、儀礼はそれらしくていい。だから、荘厳な由緒ある寺院でお経を聞くと、それらしく思うのでしょうか。和訳のお経は今までも、普及させようとした動きがあったらしいですが広まらなかったそうで。

まー洋楽も意味分からんままでも愉しむ人いますが、、リズムやメロディーとしてはいいけどでもね、やっぱり意味が分かった方が面白いですよ。#435【BON JOVI presents. "IT'S MY LIFE" 訳詩/大阪弁Vr.

例えば私は、お経を読みながらよく手を振り上げたり回したり、一点に向けたり胸に当てたりと、様々な動きをします。初めて見た人は「一体、何しとんねん?」と思うかも知れません。

それはお経の意味が分かっているから、自然に呼応して身体が動くのです。要は歌手が込上げる感情を自然に身振り手振りで表すのと酷似していると思います。決められた振り付けではありません。必ず動くワケでもありません。やはり、その時々の祈りの内容や感情が影響するのだと思います。


まその辺を踏まえて頂きつつ、戻りましょか。

ケイさん、
> でも開経偈を読んでて思うじゃないですか。めったに出会えない法を受持する事を得たり、て。

すると、こーゆー文言になります。

《無上甚深微妙(むみょうじんじんみみょう)の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し。我、今見聞し受持することを得たり、、》

これは、開経偈(かいきょうげ)の一部分ですね。
開経偈とは、【お経を開く(読む前)の、偈(げ≒詩)】ですから、次第ではこの後に般若心経などお経が続きます。皆さんがよく目にされる全文を、和訳と一緒に見てみましょう。


開経偈
無上甚深微妙法(むみょうじんじんみみょうほう)
*無上甚深微妙の法は

百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
*百千万劫にも遭い遇うこと難(かた)し、

我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
*われ、今見聞し、受持することを得たり、

願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
*願わくば、如来の真実義を解(げ)し、奉まつらん


いかがでしょうか。
こうして見ると随分、分かりやすいのではないでしょうか。

この和訳をまず読んで、その後に続けて通用の音読み文を読めば、読みながら意味も噛締められますし、通用文も忘れませんから寺院に参詣した際もスラスラと唱えげることが出来ます。

高野山真言宗の信徒手帳には、上記の和訳しか掲載されておりません。ですが難しい言葉の部分だけもう少し、解説しましょうか。

*無上甚深微妙法とは、
まず、無上は何となく分かりますよね。「この上が無い」とか、
最上であるとか。これ以上はないってな意味ですね。

次の甚深(じんじん)も、甚だ(はなはだ)深いですから、深遠である。と。

微妙(みみょう)は、現代語ではビミョーですから、どっちつかず、どちらとも云えんってな意味になりますが、この場合は本来の繊細で奥深いと云う意味ですね。

我がご本尊である尊天上様(大聖歡喜天)のご和讃にも、こーゆー節があります。【我れに微妙の法ありて 世間に類なきところ 我れに縋らんもあらば 我れは順世の法により 汝が求むる願いをば 得させざる事なきなりと我等が為に説きませり】

この一節にも二度出てくる微妙の"法"とは、仏陀の教えですね。それ以外の言葉が全て形容詞ですから、【最上にして深遠なる仏陀の教えに賛嘆します。】となります。

*百千万劫難遭遇とは、
「百千万劫」を冷静に見ると、千の単位の前に百が来てるからおかしいと思われませんか?でも何となく一千万年とか、時間の単位かなとも思いますよね。

その通り、時間を表すのですが、但し人が生きている間程度には数え切れぬような長大な時間のことです。劫(こう)とは、語源であるサンクリット語=カルパ (kalpa ) の音写=劫波(こうは)の略語です。

万と劫の間に"億"が入り「百千万億劫」とも表記します。億劫(おっくう)と云う言葉はこれが語源ですね。劫だけでも一説には、4億3千2百万年と云われます、億劫はその億倍ですからどんだけ面倒臭いねん?と云うことでしょう。

まー兎に角、想像すら出来ぬほどの時間と云うことです。仏教を学んでいくと、古代インドのスケール感に圧倒される事が多々あります。また、お経にはこういった明確な?単位を使わずとも、譬えで時間の長さや数の多さを表現することもあります。例えば、

観音経の中、無尽意菩薩と釈尊との会話です。
【無尽意。若有人。受持六十二億。恒河沙菩薩名字。復尽形供養。飲食衣服臥具医薬。於汝意云何。、、】この「六十二億恒河沙の菩薩」とありますが、恒河沙(ごうがしゃ)とはガンジス河の砂のことです。その砂粒の六十二億倍数の菩薩、、即ち無限の数の菩薩ということになります。

この文の続きには、【於百千万億劫。不可窮尽。無尽意。受持観世音菩薩名号。得如是無量無辺。福得之利。、、】百千万億劫に於いて、窮め尽くすべからず。即ち、未来永劫に於いて観世音菩薩の名号をお称えしたとしても、観音様の功徳は讃え尽くすことはできない。「無尽意菩薩よ、観世音菩薩の名号をお称えすれば、そのような無限宇宙の福徳が得られるのだ」とあります。観音経の和訳はこちら


あぁぁ、、
気付いたらまた長くなってしまいました。
今回はあっさり書くつもりだったんですが、、いいですかね。


まーそーゆーワケで、
開経偈を通して分かりやすくすると、

人によっては、何度生まれ変わっても未来永劫巡り遭うことも出来ぬほど、最上にして深遠なる仏陀の説かれた教えに、私は今、見ることも聞くことも出来ることを心より感謝致します。もし、叶うのであれば、その如来(大宇宙)のご意思を解(かい)し体得したいと思います。

要は開経偈とは、表明文ですね。この後に続くお経は宗派によって様々です。或いはご自身で好きなお経を決めて読まれて構わないのです。どのお経を読むにしても、ご自身が仏教(仏陀の教え)そのものに出会えたことへの喜びを表すと共に、これから読むお経の内容を理解し体現し、自ら家族の安寧と人や社会へ貢献することを宣言するものでもあります。

仏教では人が動いてこそ、神仏も初めて動かれます。とは申せ、既に仏の慈悲は一切衆生、生きとし生けるもの全てに遍く照らされています。即ち、人だけでなく牛も馬も豚もキリギリスも蟻んこも皆、平等なのです。それを自覚したものが仏教者となります。

ここがユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神契約教との違いですね。神と契約出来るのは人だけですから。但し、仏教も自覚出来るのは人だけかも知れません、、が、分かりませんよ。私は飼っている猫を見ていると、時折その融通無碍さに本当に仏だと思うこともあります。無垢な孫も然り。もしかすると、経を読めぬも彼らの方が仏に近いかも知れませんね。それではまた。


本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊き道や

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝