『彼の人の四十九日忍びて、比叡の法華堂にて、ことそがず装束よりはじめてさるべきものども、 細かに誦経などせさせ給う。経仏の飾りまで愚かならず』〜源氏物語・夕顔〜


震災発生より四十九日。4月28日午後4時現在で死者1万4575名、行方不明者は1万1324名。1か月以上が過ぎた今もなお、18都道県の概ね2500か所の避難所でおよそ13万人が避難生活を強いられる。家屋被害は、全壊と半壊合わせおよそ10万6400戸、一部損壊の建物は22万3600戸を超える。

ディズニーランドの再開に喜ぶ人たちもいる。地震当日、来日早々にビックリして走り回った上野のパンダも、ようやく観覧できるのだとか。然れど、震災で夫を妻を子を親を兄弟を失った遺族や、大切な恋人を師弟を、世話になった上司を面倒見た部下を失い、悲しみに打ちひしがれた方にはやるべきことがまずある。

そしてそれは亦、我々僧侶としても仕事ではなく正に息をするのも同様に、今遺族と共に心ひとつに追善供養するのが食ってクソするほど当たり前のことである。自坊があろうがなかろうが、檀家がいようがいまいが、頼まれてようがなかろうが、他宗であろうがそんなものは一切関係ない。


四十九日とは、最後の審判の日である。
出家する前の無心論者の私でも、(しじゅうくにち)この言葉だけは聞いたことがあった。(当時、意味は全く知らなかったし知ろうともしなかったが。)さておき仏教では人は死後、四十九日間を中陰の期と云い六道輪廻の間を彷徨うとされる。

四十九日は七七日(なななぬか)忌とも云う。本来は初七日(しょなぬか)から始まり以後、四十九日まで七日ごとに七度営まれるのを中陰供養と云い、七掛ける七で最後の四十九日を満中陰と云う。死者が本当に旅立ってから三十三回忌までを、十三の仏たちがそれぞれ配され供養される。なので私が出家した機会となった高野山真言宗では、日々の勤行において十三仏真言をお唱えすることとなっている。

こう書いた方が分かりやすい。
審理日数と呼び方、配される仏及び十王としての呼称
*十三仏なのに、なぜ十王なのかは後述する

7日目・初七日(しょなぬか)不動明王/秦広王 しんこうおう
14日・二七日(ふたなぬか)釈迦如来/初江王 しょこうおう
21日・三七日(みなぬか)文珠菩薩/宋帝王 そうていおう
28日・四七日(よなぬか)普賢菩薩/五官王 ごかんおう
35日・五七日(いつなぬか)地蔵菩薩/閻魔王 えんまおう
42日・六七日(むなぬか)弥勒菩薩/変成王 へんじょうおう
49日・七七日(なななぬか)薬師如来/泰山王 たいざんおう
 
百カ日忌 観音菩薩/平等王 びょうどうおう
一周忌  勢至菩薩/都市王 としおう
三回忌  阿弥陀如来/五道転輪王 ごどうてんりんおう
七回忌  阿しゅく如来
十三回忌  大日如来
三十三回忌 虚空菩薩


そもそも最後の審理とは何か?
仏教では人は死んでも、この四十九日間はまだあの世へは旅立っておらず、云わば現世と来世の中間と云うか、死んでもなければ生きてもない状況にある。要は、やがて新しい生を受けるまでの待機期間と定められている。これを忌中(きちゅう)と世間では云う。私も以前はそうだったが、喪中(もちゅう)と一緒にする人がいるが喪中とは一般的に一周忌までを差す。ではその間、一体どこに居て何を待っているのか。

子供の頃、婆ちゃんに悪さばかりすれば、地獄に落とされ散々な目に合わされると地獄絵図を見せられた。嘘をつけば閻魔さまに舌をペンチで抜かれて喋れなくなると。よく脅された。

因果応報は仏教と関係なくもよく聞くだろう。
良くも悪くも自らしてきたことは、後に自らに全て降りかかる。悪を咎め善を勧める「因果応報・勧善懲悪」仏教の根幹であり揺るがせぬ宇宙の法則でもある。

とはいえ、人は善悪一体の生き物である。誰かにとって最愛の人は、誰かにとって最悪の人でもあり、頼れる国家元首は他国にとって悪魔でもあったりする。


まー兎に角、生きていた頃に起こした善行・悪行について初七日から七日毎に、十王によって冥土で尋問・審理が行われるのである。誰もが七回全ての審理を受けるのではない、審理過程で問題が無いと判断された場合は次の審理は回避され、イチ抜けして転生していくのだ。要するにいい人ね。因みに私は絶対最後までいると思う。何でも経験したがりだから、七回ぜんぶ受けたいし十王全員にも会いたいしね。もう行け!と云われても、フザけんな!と云われても留まると思う。

この最後の審判が薬師如来こと泰山王が受け持つ、四十九日である。私のように最後まで残る人は、いよいよヤバイと云うところか。然し、薬師如来もその他の王たち(裁判官)も鬼ではなく、仏だと云うところがミソなのだ。この間に、遺族や僧侶たちが懸命に追善供養することがエールとなり、裁判官に対し少しでも故人の刑罰執行に情状酌量余地を生むことになる。地獄に落ちる人も落とさないであげて下さい。これが本当の冥福を祈ると云う意味である。

大川小学校児童を亡くした親たちは一様に、『どうしてあんないい子が死ぬなんて』と嘆き悲しんでいるだろう。然し、その子がいい子かどうかは主観的なもの。じゃあ隣の子は死んでいいのかとなるからだ。誰かにとって大切な人も亦然り。人の命は皆平等。少なくとも私たち僧侶は生きとし生けるものの差別選別をしてはならない。だから私たちは分け隔てなく普く祈り続ける。

余談だが、仮に祈り届かず(いや、祈りきれぬほど悪行重ねた輩か?)六道輪廻最悪コース、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に決議護送されたとしても、実はまだ再審と云う救済措置の温情があるのだ。それが、百カ日忌から一周忌、三回忌までの間。だから十三仏に対し、審理官は十人(十王)しか居ない。

この間に三悪道に落ちた本人が嘆かず諦めず模範囚となり、善業や修養を積み、また遺族や僧侶によって命日などの法事などが正しく行われれば三悪道から救い出される。既に上の修羅道・人道・天道に居たならば更に徳が積まれ、六道輪廻を超えもっと上の世界に転生できる事となっている。


四十九日間、あの世とこの世の間を彷徨う拘置所にあるが如き霊魂は、必ず最後の審判により結審が下され六道輪廻の輪廻先が決まる。この重要な日に、現世(げんせ=この世側)で遺族や僧侶が供養をすると、積まれた善業(ぜんごう)が故人にも及ぶ。故人が出来るだけ善い世界に生まれ変われるよう善業を積み重ねること、これを追善供養と云う。

同時に四十九日とは、「忌」明けとも云い、六道輪廻が終了して忌の汚れが禊ぎ祓われたことを祝う行事でもある。盛大に法要が営まれるのはそういった理由からだ。従って故人がせめて、せめて間断容赦なき三悪道にだけは落ちぬよう、現世に残った遺族の、亦我々僧侶による追善供養(回向)が亡者救済のため、とても重要だと云うことになる。


本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝