妻沼聖天・歓喜院 本坊 2


来る、三月十二日と十三日に
妻沼聖天において、浴油万日講が御座います。

◎三月十二日(土曜日)五座
九時、十時半、十二時、一時半、三時

◎三月十三日(日曜日)三座
九時半、十一時、二時

◎場所:
妻沼聖天山 歓喜院 本坊(*本殿とは違います)

◎講金
三千円(お札、福箕、宝団、弁当、 授与)


先般、取子さんのコメントにも御座いましたように、妻沼聖天は本坊と本殿が現在、道路を隔てて100m近く離れており、平素の参拝や祈祷などは本殿で行われておるのですが、実際、毎朝ご住職が浴油祈祷をするのは本坊であります。

本坊の存在自体、知らない方も多かろうと思いますが、この本坊が一般内拝出来るのは、表向き年に二度しか御座いません。

ですので是非、この御機会に本坊に鎮座される聖天様を心中近く感慨されてみては如何でしょうか。但し、ご開帳とは主旨が異なりますので、聖天様のご本尊を目の当たりにする事は出来ませんので悪しからず。

然し、ちょうど今日、おやまんも申しておりましたが、この本坊の普段閉ざされた扉の前で、ただ読経しておるだけでも、芳しい香の匂いが漂い、みるみる心が静かに淨らかに落ち着いてゆく。そんなご経験がある方は他にもいらっしゃるでしょう。

本坊の扉には、二つの開口部があります。やっとお賽銭を投げ込める程度の小さな小さな開口部です。私は本坊に参った時はいつも、お賽銭をそっとお預けしてから、後ろ向きに階段を下りて一番下で読経致します。

扉からすれば直線で2m以上。きっとご本尊がいらっしゃるお厨子は扉からもっと奥に鎮座しておるでしょう。それでも、そのたった二つの小さな穴から、まるで天空を舞う龍の如く踊り出でて、読経中の私を見下ろされているのでは?と思うほど、聖天様の存在感と同時に清淨なる結界を感じます。


私は別に妻沼の回しモンでもなんでもありませんのでw、大袈裟な話しはしておりません。まー兎に角でんな、そんなぐらいですから中に入られる機会は逃さん方が宜しいかと。

最後に一言、申し上げておきますが。
このような機会に限らず、平素の寺院への参拝の本当の要は、訪れたその場でご自身が肌身で感じられたことを大切に心に刻み、普段の生活や信仰、勤行に活かしてゆくと云うことであります。

アレ?・・もしかして神様仏様ってホントにいるのかな。
ここの仏様って、神様とも言われてるけど、何故なのかな。
目を閉じると静かだな、何だか心が少し落ち着けたかな。

あぁ・・昨日はあの人に悪い事したな。今日は謝ろうか・・。
そう云えば今日、あの人とあの人とあの人にも世話になったな。
考えてみれば、もしかしてこれが御蔭ってやつなんだろうか。

御礼・・してなかったな。今ここで代わりにさせてもらおう。
◎◎さんも、◎◎さんも有難う、本当は感謝してます。・・


そのような小さなきっかけから、神を感じ仏を感じ、そしてあなた方ご自身の中にも仏を感じ、またご家族一人ひとりにも、やがて他人は勿論、石ころや木々や花々や鳥や猫や生き物、自然の全てにも仏を感じられるようになります。仏教では、それらを一切衆生と表現致します。

密教の申すところの、如来は大宇宙であり、あなたご自身も亦、小宇宙なのであります。宇宙とは、ギリシャ語でコスモスであり、完璧な調和を保つ秩序のこと。対義語であるカオスとは、混沌や無秩序を表しますが所謂、その混沌をも内に含め、秩序と調和を求めようとするのが我々なのではないでしょうか。

即ち、コスモスとカオスは対をなしながらも、小宇宙があり大宇宙であり、大宇宙あっての小宇宙でもあり、どちらが欠けても亦、秩序の調和が保てないのであります。

同じく対義語で構成される、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい≒煩悩は即ち菩提である)と同様に、而二不二(ににふに)と申します。二つであって、而(しか)も二つではない。

と云う、何やよぉワケ分からん説明しか出来まへんw。でもオモロイでしょ。何となく。皆さんもその内、人様に上手に説明出来んでも、ご自身でそれが何でか?空とは何ぞや?っちゅうのが、徐々に分かってこられると更にオモロなりますよ。


本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝