大聖歡喜尊天和讃
(だいしょうかんぎそんでんわさん)

一、
帰命敬禮大自在 大聖歓喜雙身天
(きみょうちょうらい だいしょうかんぎそうじんてん)
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の本誓(みちかい)に
慈悲の御手(おんて)を 垂れ給い 
至らぬ智慧(ちえ)を 楫(かじ)として
覚束(おぼつか)なくも 現(うつし)世の
荒(あら)き浪風(なみかぜ)渡る身を 我ら一門願いの岸に着け給え

二、
そもこの天(かみ)の本誓(みちかい)の
げに有り難くましますは 世の父母(ちちはは)祖父母、諸人縁者が
其の子らの 浮世を知らぬ我儘を 無理の願いと知りつつも 
その智慧(ちえ) 浅きを慰(あわ)れみて
願いを叶え給いつつ 導き給うにさも似たり

三、
もとより愚痴の我等故 願い求むる事毎に
己が力を計らざる 無理なることばかりならん
然れども御胸(みむね)にかけられで 唯ひたすらに縋りなば
願いの儘を得させんと 誓わせ給うぞ有り難き

四、
凡(およ)そ此の世に示現(いで)ませる
諸仏菩薩の御心(みこころ)に 我等衆生の苦を抜きて
涅槃の岸に渡さんと 本誓(みちかい)あらぬはなけれども
納受まします願いには自ずと限り定まりて この天尊の如からず

五、
例えば宿業(しゅくごう)究(きわ)まりて
絶えなんとする玉の緒(お)を 繋ぎ止めんとする如き
難き願いに至りては 唯この天(かみ)を他(よそ)にして
如何なる神を祈るとも その本誓(みちかい)にあらざれば
験(しるし)のなきを如何(いか)にせん

六、
然れども独りこの天は 唯一筋に祈りなば
かかる難をも除け給う 増してや他の願望は
現世出世(げんせしゅっせ)の差別なく
祈る心のこの天に 届かざりける例(ためし)なし
霊験(しるし)なかりし例(ためし)なし

七、
然らばこの天(かみ)畏(かしこ)くも
我に微妙(みみょう)の法ありて 世間に類なきところ
我に縋らぬものあらば 我は順世(じゅんせ)の法により
汝(なれ)が求むる願いをば 得させざる事なきなりと
我等がために説きませり

八、
斯(か)かる奇(く)しき御力(みちから)を
御身(おんみ)に備えましませば 我等が祈る願いをば
遂げさせ給わぬ事ぞなき 乳を求めて母を呼ぶ
嬰児(みどりご)の如ひたすらに
ただこの天(かみ)を念じなば
感応道交(かんのんどうこう)ましまして

九、
卑賤(ひせん)の職にあるものも
*不遇の境にあるものも⇒待乳山配布の記述は*印にて
高貴の地位を占め得なん その日の糧(かて)に悩む身も
富貴の身とぞなり得なん 学問諸芸を望むとも
智慧辯才(ちえべんさい)を求むるも
信に隨應(ずいおう)増しまして 世に其の名をば共に挙げうべし

十、
或いは病に悩むとき 家内の不和を嘆くとき
人の嫉みに泣かんとき 立つ期の道に惑うとき
火難盗難剣難に逢うもただただ念じなば
声に來應(らいおう)増しまして 総ての難を除け給う

十一、
常に念ずるその家は 我が子を思う親のごと
暫しの隙(すき*ひま)もたゆみなく 
見霽(みはる)かしましましせば
邪(まが)つ鬼等の邪事(まがごと)も 窺い寄らん隙間なく
長閑けき春の日の如く いと安らげく過ごしえん

十二、
かく有難く慈悲深き 天(かみ)在(おわ)すとも
徳薄く 其の御名(みな)をつゆ聞かざらば
祈り縋らんすべもなしさるを 幸ある此の身かな
宿世(しゅくせ)如何なる善き縁(えにし)
この天(かみ)のため結びけん 天(かみ)の恵みを身に浴びて

十三、
天(かみ)のみ情け知るのみか 生みの親にもいや勝る
現當(げんとう)二世(にせ)の教主(おや)として
縋る幸をば知りにけり 辛き浮世を渡るにも 
ただひたすらに この天(かみ)を杖と頼みてゆく身には
心に罹(かか)る雲もなし

十四、
人のこの世をいと易く 渡らんのみか其の上に
來たらん次のあの世にも またこの天(かみ)に迎えられ
天(かみ)の御手(おんて)に引かれつつ
二世(にせ)の悉地(しっち)を成就して
龍華(りゅうげ)の會場(にわ)に値遇(ちぐう)せん
あな有難や あな尊(とうと)

十五、
大自在尊觀世音(だいじざいそーんかんぜおーん)
雙身隨類度衆生(そうしんずいるいどーしゅーじょう)
感應道交難思議(かんのんどうこうなんしーぎー)
是故我禮歡喜天(ぜーこーがーらいかんぎーてん)

嬰児(みどりご)が母に縋らむ それのごと
是非をば捨てて 唯すがらむ

南無大聖歡喜雙身天王
南無大聖歡喜雙身天王
南無大聖歡喜雙身天王・・・repeat..


主に関東圏、待乳山聖天で詠われている
この大聖歡喜天尊和讃をご紹介するのは二度目です。

これからも何度か機会ある度にご紹介しようと思います。
何故ならば、人が本当の意味で仏教と出遭い、真に心に捉えられるには、人それぞれのタイミングっちゅうもんがあるからです。

私自身も全くの無神論者でした。
然し日本人は、生まれた時から仏教に囲まれて生きています。
子供の頃は近所の神社や寺で遊びましたし、悪戯もしましたw

世界的に見渡しても外人に聞いても日本は立派な仏教徒国。
日本語や日本の文化習慣に悉く溶け込んでいる仏教。
気付かんし、いちいち意識せんだけですわ。

身内が亡くなって何宗かもワケ分からんままに
過去帳見て初めて坊さん呼んで、ほんで仏壇買いに行って
以後、法要と墓参りが始まる。

そないせーへん、クリスチャン以外は全員仏教徒ですわ。
そやけど、単に亡くなった方やご先祖を祀るだけやなしに
何かもっと違うもの、仏教の奥底の本質に触れたくなったとき
そのときが、その人にとっての発菩提心なのです。

私はこの聖天和讃を初めて読んだとき、ギャラクティカファントムをまともに食らったぐらいのインスパイアを受けました。って、どんな衝撃か知らん人には皆目分からんでしょうがw

そんな私でも出家以前や、芦屋の知己テルさんに聖天さまをご縁賜ってない頃などに見ても、読み流していたかも知れまへん。今、これを読まれた方の中でも、シャーっと読んだ方もおれば、一語一句引っかかった心に染みこんだ方も居られるでしょう。

そんなモンやと思います。そやから、機会が合えばバチンと来るはずですさかい。ちょこちょこご紹介したいと。そない思うんですわ。ほな、本日はこの辺で。


本日もご愛読おおきに
誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝