『そもそも歓喜尊天とは、諸神諸仏の父母一切衆生の根源にして、一礼一敬もその功徳の力、計り知ること我ら愚かなる者たち能(あた)わずとは。仏の金言、諸神諸仏の捨て給う我らの愚願すらも、一心に信ずる者はただちに成就せしめるは、この尊天上様だけの奇しき御力、誠稀有なるご誓願なり有難や尊きや・・』

皆さん、こんにちわ。
ご無沙汰しとります。北斗法蓮です。

先の一節は愚僧が勤行時、五体投地前に唱えるものであります。途中、現在ではフツー使うことのない、"能(あた)わず" と 云う単語が出て参りましたが、これは簡単に申せば、"〜出来ない" と云う意味であります。

つまり、私ら(私だけ?)愚かなるものには、尊天上様(聖天さま)の大功徳は、その莫大な御利益を計り知ることなど出来ない
と。まーそんな意味であります。実際は、計り知るどころか憶測も想定も一切出来ないほどなのであります。

私は三日前から本日にかけて、それを身を持って知ることになりました。是非ともそれを皆さんにお伝えしたいと。そんな思いで筆を取りました。ただ、上手く文字で伝えられますかどうか。おやまんのように気心知れた相手にならば、少々解り辛くとも言葉足りずとも、ふんふん大体そーゆーことねと、心で補ってもらえるのですが。

こんにちまで、先の前置きと申しますか読経前にこの一節を唱え続けては参りましたが、正直、今日の今日まではこんな風に考えておりました。

きっと言葉のアヤなのであろう。尊天上様の御力を決して疑うワケではないが、それほどまでに多大なご利益を授けて下さるのだろう、兎に角、一心に信心して行こうと。

待乳山聖天・平田住職も仰るように、聖天さまのご利益は実際に受けた人しか解りかねる・・その意味がようやく分かりました。


思うに聖天さまのご利益と云うのは、大きく分けて二通りあるのだと思いました。その一つは単純明快、願えば叶うと云うもの。どんな神も仏も、パワーストーンやパワースポットですら謳う、ありがっちゃ〜ありがちな御利益。ただ、聖天さまがそれらと明らかに一線を画すところに聖天信仰の真の意義が隠されております。

例として聖天和讃にある別の一節。
『世の父母がその子らの、浮世を知らぬ我儘を無理な願いと知りつつも、願いを叶え給いつつ、導き給うにさも似たり・・』

『元より愚痴の我ら故、願い求める事毎に己の力を計らざる、無理なる事も多からん。然れども御胸にかけられて唯ひたすらに縋りなば、願いのままを得させんと我らがために説きませり・・』

他にもまだまだ沢山ありますが、これらに共通するのは、我儘な願いも無理な願いも、他の諸神諸仏ならば吐いて捨てられるような愚願すらも、要するにどんな願いでも叶えてやろうと云う聖天さまの云わば、大慈悲の御心を謡った和讃であります。

いずれにしてもここまでなら、ご利益の多かれ少なかれ、他で叶わぬでも聖天さまなら叶うと云った、要するに自分自身がお願いする、自分自身でこーなりたい、こーしたい、この問題を解決したい等といった願いですから叶えばその瞬間に分かることですし、それが成就した喜びも、そこまでに至るプロセスで変化もするでしょう。要するに準備も予想も想定も出来るワケです。


これらとは対照的に、願ってもいないこと。自分では全く予測のつかないご利益が起こるのです。願ってもないんやったら叶わんでもええんちゃうの?いやいや、そーやないんです。そもそも願うっちゅうのは、どんな願いであろうと欲望の一種なんです。

人助けも人のために祈るのも欲望です。自分ごとの小さな欲か、世界平和の大きな欲か、いわゆる大欲か小欲かとの違いだけです。大体、自分ごとで願うのは困っている状況に陥っているか、はたまた私のように欲張りなんかどっちかでしょ。必ず理由や原因が存在すると思います。

だからフツー、何か問題が起きたり、自分や周囲では解決出来そうにないほど困ったり、心身困憊してどーにもならんで信仰する人も多かろうと思います。然しこの数日起こったことが、正に聖天信仰の真骨頂だと実感したのは、それら窮地に陥る問題が未然に防げたと云う事実です。

もっと具体的に云うと、災い転じて・・っちゅうことに似てますかね。私は今、身分や過去を伏せて、ビジネス界と云う俗世に身を置き修行しとりますが、あるクレームからトラブルが発生し危うく大きな契約も破棄か?と云う危機的状況に切迫しました。

兎に角、そのトラブルを解決せねばと、心砕き奔走した結果、別の問題が新たに発生しました。ところが、その問題と云うのが実は最初のトラブルよりももっともっと大きな火種を抱えており、最初のクレームがもし無かったら、あとでドエライことに発展していたであろう問題だと発覚したのです。

要するに現時点でクレームにもならず、傍目にはスムースに進行しているように見えた契約も、このまま時間が経過し随時履行に着手して行けば、想像するだけでもゾッとするほど、大変な問題に膨れ上がっていたであろうと分かったのです。


人生は何が起きるか正直分かりません。有り得んことが起きるのが人生。有り得んと思うこと自体、有り得んのです。今私が仏道を歩いてること自体、摩訶不思議です。

人の知恵など所詮、学校や親から習ったこと、遊んで覚えたこと、社会で学んだこと、本読んだりや講習聴いたり、見る聞く書く話すの繰り返しから、スキルアップしてきたこと、その程度です。全部を予測出来ないですし、シュミレーションを繰り返しても、その通りになるとは限りません。

いやホンマ、聖天さまを信仰してて良かったと。心の底から思いましたです。人の知恵など遠く及ばん範囲にまで御加護御庇護頂いておると、ホンマ実感しました。これこそが聖天さまの真の御力なんでしょうな。願うことを叶えてやるぐらいは当たり前やと。

オマエらは智慧足りずにアホやから、願うことばかり叶えてやっとっても、他に問題が起きたらまた願い事が増える一方やし、ワシも敵わんわいと。大きな問題に発展する前に小さな問題で解決させとけば、スキルも必然上がるやろうと。尊天上様がそない仰っているような気がしました。


ほな本日はこの辺で。本年もあとわずか。
私の44歳と云う人生もあと一週間。
一日、一日を精一杯目一杯、生きていきたいと思います。
皆さん、お風邪など召されぬようご自愛下さいね。

伯耆丘鵜衣紋さん、毎度おおきに有難う御座います。
釈尊成道会で夜を徹した座禅行ご苦労さまです。

すごいでんな。徹夜で座禅は。
徹マン(徹夜でマントラ行)はしたことありますが
座禅のがキツいでしょうね。今の私なら間違いなく寝ます(笑)

先日、皆さんもご存知の音羽さんからメールを頂きました。
現在、四国八十八ヶ所遍路を巡礼中だそうです。
どうか事故無き怪我無き病無き、無事の結願満行を
一同心より祈念しとります。

それではまた。
本日もご愛読誠に有難う御座いました。

願わくばこの功徳を以って遍く一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成じ尊天上様に導かれんこと尊きや

感謝合掌
北斗 法蓮 百拝