一家破産の六つの法則
1、酒や薬物などに溺れ堕落すること
2、夜な夜な街を徘徊し遊びまわること(いたたた・・)
3、コンサートや演劇など娯楽に夢中になりすぎること
4、賭け事や博打にふけること
5、悪友とつるんでいることを自分の居場所とすること
6、ダラダラぐーたら己の成すべきことをサボること

それぞれの項目に更に六つの法則があります。
例えば、6番目のダラダラ怠惰にふける=怠けるには・・

1、寒ぃ〜から仕事出来ねぇよ
2、暑ぃ〜から仕事やってらんねぇよ
3、そんな朝早くから仕事出来ねぇよ
4、そんな夜遅くまで仕事やってらんねぇよ
5、腹減りすぎて仕事出来ねぇよ
6、腹がパンパンで仕事どころじゃねぇよ

と、なんだかんだ理由をつけて仕事をしない者はどうなるか?
仕事以外にも成すべきことは多いのに、こんな人が未だ財産を持てるワケもなく、仮に親から受け継いだ財産も失ってしまい当然、一家離散の憂き目が待っているでしょう。

この処世訓とも云えるものは、今の言葉に分かりやすく私が勝手に直してありますが、近頃の本屋さんに並んでいる本に書かれているものではありません。

なんと、2500年もの前にお釈迦様が話した言葉です。
原始経典である長部経典の『第三一経 シンガーラへの教え』と云う世俗の倫理を説いた、いわゆる善生経(シンガーラ教誡経)の中の『六つの財を失くす門』です。

今でも、いえ今だからこそ十分通用する教えだと思いませんか?
仏教とは宗教と云うより、寧ろこのように、生活指導原理と云うか生活倫理を説いたものなんです。

音楽や演劇を楽しむぐらい何がアカンっちゅうねん!

そうですよね。私も音楽が大好きでしたし、コンサートもミュージカルもシルクドゥソレイユもよく行きました。これは全く行くなと云う意味ではなく、溺れるなと云う戒めです。

でも中には私のように別んとこで、耳の痛い方もいらっしゃるのではないですか?私ぁもっともっと耳の痛い話しがあるのでそこは今回カットしますw。


他にも親友と親友に似た敵の見分け方として、『友に似た敵』の中では本当の親友と、親友の振りしたそうでない人、それぞれに4つ、それが更に4つと合計32に細かく説明されています。

例えば、親友に似た敵の中で『へつらうもの』とは
1、相手の悪いところに同意し
2、相手の良いところには同意せず
3、面と向っては彼を褒め
4、他人の前では彼の悪口を言う

などです。面白いでしょ?
なるほどこれでは真の親友とは呼べませんね。

相手が自分を本当にどう思っているのかは、自分の居ない場所で自分のこと相手がどう呼んでいるのかで分かると思います。


意外と皆さん、誤解されてるようですが
仏教は決してお金儲けに否定的ではありません。

寧ろ、お釈迦さまも弘法大師空海さまも、自分と周囲を幸福にするためにお金の必要性を説き財産を蓄え、経済活動を実践されつつ支援奨励されてきました。

証拠に、財を得る六つの方法として・・

1、乞食をする
2、主に仕える
3、田畑を耕す
4、学問を得る
5、金貸しをする
6、商業を興す

この内、財を得るのに最も効果的なものは
6、の商業を興すとされてあります。

私も同感ですね。
1、はホームレスですから話しになりませんし
2、はサラリーマンだから限度があります。
3、は農家ですから身体壊したり自然災害で収入ダウンです。
4、はキャリアや医者になっても自分が働かなくちゃですし
5、はお金があるなら貸すよりもっと有効手段があります。
6、は私がやってきたことだから云えることですが・・

学歴も資格も要りませんし、何歳からでも誰でも出来る権利がありますし、また誰もがサラリーマンの何生涯分も稼ぐ可能性があります。


この古代インドの文献には、次のようにも記されています。

財物によって達成されないものは何もない。
それ故、智慧あるものはただ財物を得るために努力すべきである。

財あるものには友人があり、財あるものには親族があり
財あるものはこの世の人物であり、また財あるものは賢人である。

この世において、財を持つものは敵も味方となり
貧乏人には味方もたちまち敵となる。

『パンチャ・タントラより 友人の離反 2〜3及び5』

世の中の人間関係も財産があるかどうかによる。
とまで書かれています。かなり思い切った言い切りではあると思いますが、まんざら的外れでもなく道理でもあります。私は事業界を引退したときに、それを痛感致しました。

然し、肝心なのはお金を稼ぐことは決して悪いことではないと云うこと。寧ろ、正しく稼いで正しく使えばそれはそのまま仏道に繋がります。節税対策であろうが偽善であろうが、お金で救える命があるのも亦事実です。要は貪ってはならんと云うことですね。


"示有資生而恒觀無常實無所貪"
資生(ししょう)有るを示せど、恒(つね)に無常を観じて、実に貪る所が無く

経済(財産)があるように見えても、常に存在するものは無常と観て、実に貪る(あれもこれもと欲しい)モノは何もない。

維摩詰所説経 仏道品(ぶつどうぼん)第八


このように仏教とは私たちの生活に、生き方に人生に非常に密着した生活指導書のようなものであり、それが現代まで何ひとつ変わらずに活かすことが出来るのは、すべてが道理だからです。

仏教は物事の道理を根幹としている。
となれば、仏教を学べば世の中の正邪の輪郭がハッキリと見えてくような気がします。全てのものは表裏一体、対立する二つのものは即ち一つである不二と分かれば、善悪を見極め毒も薬もきっと上手に使いこなせるでしょう。

戦国時代、懐柔策を得意とし、人たらしとまで云われた秀吉は、人の心を動かすのもまた道理なんだと知っていたからでしょうか。今でも私たちは日常会話で、『道理でねぇ〜』と納得するでしょ?その瞬間、道理はその場に貫かれてるんです。

道理を外れた拝金主義が、大企業の隠蔽工作や不祥事に繋がり、またそうすることで一時逃れしても、ゆくゆく豊かな人生は送れないと、結局は不合理なんだと、小さな自分が邪な考えをし始めたら、どうか自分で自分を戒めることです。人を騙しても自分も誰も得はしませんよ。


本日もご訪問おおきに、
ご愛読有難う御座いました。


感謝合掌
北斗 法蓮 百拝