傷付けても平気な相手と、
裏切っても致し方ない相手は、必ずしも同一ではない。
愛するが故の苦しみは、愛されない苦しみの比ではない。
                   〜北斗法連〜

仏教では、渇愛(かつあい)と申しまして・・
渇く(かわく)愛と書いて、渇愛っちゅうのがおます。

あんま普段、使う人は居てまへんやろねコレ。渇愛は。どっちかっちゅうと、執着の方が多いんちゃいますかね。アレと同義語ですわ。

物事に執着する、モノそのものに、男に、女に、愛に、拘りに、・・・欲しい欲しい、欲しくてたまらない。要らん要らん、マジで要らん!メッチャ要らん!この何れも同じ執着、即ち渇愛でおます。


原語となっている、『Tanha(タンハー)』とは、「枯渇している」「満たされていない」「欲しい」等というような、云わば生命体の根幹的な欲望を指しております。

《初転法輪経》によれば、渇愛とは、三つの特色と、三つの欲望から成り立っていると定義されます。

渇愛の三つの特色とは、
壱、『punabbhava』停滞する事無く再成し続ける
弐、『nandi raga sahagata』喜びと愛着を伴う
参、『tatra tatrabhinandini』何時でも心の気に入り込む

渇愛の三つの欲望とは、
壱、『kamatanha』五官刺激欲=食べたい遊びたい結婚したい
弐、『bhavatanha』生存欲=生きたい死にたくない
参、『vibhavatanha』破壊欲=嫌なモノは排除したい


これらは初期仏教の経典を根源とはしてますが、
宗教的な理屈ではなく、生命としてのシステムなんです。

如実にそれを垣間見るのは、渇愛の三つの特色の二つ目と三つ目、『nandi ragasahagata』と、『tatra tatrabhinandini』です。

これらはどちらも、人の"喜び"の心模様を説いてるのですが、まずは、二つ目の『nandi ragasahagata』喜びと愛着を伴うとは、『nandi』 は「喜び」、『raga』 はラーガラージャのラーガ、即ち、愛染明王のお名前でんな、直訳すると「愛着」です。『sahagata』は「伴っている」。

先の二つの単語が何れも"喜び"を顕したものですから即ち、
"喜びが伴っている" と、いう特色です。

昔むかし大昔、16歳で初めて飛び込み訪問販売のセールスをしたとき、その事務所で毎朝叫んでたセールスの心得のひとつに、《販売商品に自信と愛着を持て!》っちゅうのがおましたが、扱う商品に全幅の信頼を寄せ、喜びすら感じれたら、ボコボコ売れるんは至極道理でありましょうね。


三つ目は、『tatra tatrabhinandini』。
《tatra tatra》は、「その場その場で、そんときそん時に、」
《abhinandini》 は、「喜び」。要するに、その場の喜び。

そんときの自分の状態を、環境を、シチュエーションを、大層気に入っているっちゅうこと、メッチャこれが大事やねん。と、思ってまうことです。

渇くっちゅうのは、どっちかとちゅうと喉が渇いて苦しいみたいな感じしますが、そうとも言い切れんのです。

私たち生命体は、何かを求め探し続けるてくこと自体も気に入っておって、見つからんでもその状態自体が気持ちええ、心地ええと感じるモンなんですね。

そやから、例えナンボ苦しいても、そこから逃げたい、離れたいと思う・・とは、限らんのです。確かに苦しないか?苦しいんか?って訊かれたら、苦しんでる自分も間違いなく居てるんですが、それが自分の生き方やと思えば、それを捨ててまで楽にさえなれたらええとは思わんのです。

例えば今、幸せ絶頂な人がその置かれた環境や状態を、楽しむっちゅうのは誰でも分かりまんな?そやけど今、不幸な人でさえ、その幸福とは云えん自分の状態に、愛着がないワケやないんです。

喧嘩っぱやく、すぐ怒り心頭する人居てまっしゃろ?
私もそうでっけど、仏教的以前にそれが周囲にも当然、ええことあらへんと分かっとるし、自分自身も実は怒ってたかて、気分はええことないんです。

そない分かってても、アタマに来ることは来るし、発狂すんのを止めようとは中々思わんモンです。どうしても暴れてまう。即ち、やめたくはないんでしょう。趣味っぽいです。

私を誘拐した婆ちゃんもそうでしたが、《私ね、今これだけ薬飲んでんのよ。心臓・肝臓・腎臓・すい臓・・》って自慢しとりましたように、例え病気になったかて、病気そのもんが生き甲斐のようになってしまいます。

それが生命のシステム上、そないなってもうとるから、一瞬ウソやろ?と理解し難いですがそーなんです実は。仏教の教えは、ほとんどこのような真意と云うか道理でんな。


まーイロイロ書きましたが、ロジックな話しよか要するに、
どーゆーこっちゃねん?と申しますと、・・


仏教で云う、煩悩(ぼんのう)とは簡単に欲望のように解釈されてまっけど、まーそれはええとして、その欲望の胴元んなっとるのが、この渇愛ですわ。要するに、執着心。

ぶっちゃけ、欲望を断ち切ろうとしても、中々手ごわく立ちはだかられるモンです。ほんで大抵、そこで挫折する。欲望と真っ向から勝負しようとしても、益々油に火ぃ注ぐようなモンです。

親に無理やり引き裂かれた恋人同士みたいに、益々燃え上がり欲望も膨れ上がりまっしゃろ。相手に彼氏彼女が居ったら余計、家庭があったら尚更。
その届かぬ思いに辛さを感じつつも、そう不幸な愛を選んだ自分を悔やみ苦しみつつも、それを上回るその場の愛に身を委ね心焦がしましょうや。

男の場合、自分が家庭を持ちながら独身女性と付き合うことは多いでっしゃろ?そんなとき、大抵のコは最初、「貴方の家庭を壊したくないの」とか、「奥さんの元へ帰ってあげて」とか、能ぉ云いますやろ?

これは大概、本心で云うんのと違ぉて、愛してはならない人を愛してしまった悲劇のヒロインな自分への擁護です。本心で云うてるコも居てますが、大体最初だけでんな。

途中からはそんなモン、どっかぶっ飛んで忘れてます。私は悪くない、奥さんも可哀想、と最初は思うコも居てますけどね。同じ女性同士ですからすぐ結託するし。これやられるともぉ、私でも中々太刀打ち出来まへん、最強の連合艦隊ですから。

究極は、互いに家庭がある場合でんな。
どちらも家庭があり、子供のこと、家中のことも分かる。夫とは?、妻とは?、それぞれの立場も分かる。
夫婦が何たるか?馴れ初めも歴史も悉く理解出来る。分かり過ぎるほど解る。この場合、クチにする「相手の家庭を壊したくない」には、相当な覚悟と信憑性がおます。

それでも、・・・
それでも尚愛しい相手が現れたら、裏切ってはいけない傍にいるものを裏切りざるを得ないのならば、出来れば傷つけたくないと願う。

深い罪に苛まされながらも、愛は止められず苦しみの中に身を置く自分自身にも、人を愛し胸を焦がす思いに喜びを見出し、そんな愛をくれた相手にも復(また)、罪と同じ深さの感謝を感じずにはいられない。これはかなり苦しい渇愛となりましょうや。経験者しか解らんでしょうが。


例えばタバコもそうでんな。吸いたい!と云う衝動は欲望でんな。吸わんとイラつくんじゃ!と云うのも欲望。タバコなしでは生きられんねん。と、状態を作ってる依存してんのが渇愛でんな。

私もかなりヘビーですからね。一時期やめよかとも思いましたが、こんだけ周囲が禁煙当たり前ブームんなって、喫煙者だけを罪人扱いにしやがるのも許せんし。

こないなったら、ひと箱千円になろうが地球最後の一人になったかて吸い続けたんがな上等じゃ!と思うてまっけどw
あ・・ただ、カラスの髪がヤニ臭くなるのだけはヤかな・・その為だけなら唯一止められるかも。


話し戻しまっけど、そやから欲望を抑えるよりも、その根源である執着心を失くしてまうことが大事でんな。断ち切りたいときはね。

名誉が欲しい、そんなんどーでもええ。
喰いたいモンが食いたい、一汁一菜でええ。

オンナが欲しい、オンナなんか要らん。
あのコが欲しい、このコは要らん。

SEXしたい、SEXなんかせんでもええ。
彼氏彼女と付き合いたい、もう別れたい。
隣ん家の旦那がええ、ウチの旦那は要らん。

金が欲しい、金なんかのぉてもええ。
AMGが欲しい、ワゴンRも要らん。
海外に行きたい、ビデオ屋にも行きたぁない。

これら全部一緒。「欲しい」は「有」への、「要らん」は「無」への、どちらも同じ執着ですわ。結局、「欲しい」も「要らん」も表裏一体、本質は同じ渇愛です。


男と女の話がいっちゃん分かり易いでっしゃろ。
オンナが男に云う、「なんでもっと稼いで来てくんないの?」「もっと広い家に住みたいんだけど」「洋服が買いたいわ」「家事、料理、育児を手伝ってよ」「騙すのもいい加減にしてよ」・・・

これら皆、渇愛。即ち、どの言葉の理釈も同じ、「もっと愛してよ!」「大事にしてよ!」と、云ってるんです。「ウソ云わないで」っちゅうたかて、「分かった分かった」ってクチ先だけでっせ、必ず繰り返します。

なぜなら、本人が心底、「コイツにだけは、ウソ云いたくねーよ」そう思わんと、人の心なんて言葉だけで縛れまっかいな。

男が女に言う、「ちゃんと料理しろよ!」「掃除しろよ汚ねーな!」「俺の話しを聞けよ!」「いつも化粧しろよ!」「仕事の邪魔すんな!」「仕事手伝えよ!」「もっと俺をバックアップしろよ!」「俺のことだけを考えとけよ!」・・・

これもみ〜〜〜〜んな渇愛でっせ。
「愛してくれよ俺を」っちゅうとるんでっせ。カッコ悪ぅ〜

それがメッチャカッコ悪いことやって、ようやく悟りました。
私も散々云うてきましたから。男はこうあるべき、女はこう。男はこれやらん、女がやればええ。男はしても女はするな・・

ただ私の場合、それをクチにするときって終焉を迎える幕引きんときですが。待てん性分やったんでね、改善要求して結果が出るまでなんてそんな気ぃ長いこと出来まへんでした。終わりっちゅうたら終わり。足元に縋り付かれて玄関先で泣き叫ばれようと。アカンもんはアカン。


渇愛要求の場合、自分が相手をどんだけ愛しとるか尽くしとるかは無関係です。じぇんじぇん関係おまへん。自分がどんだけ愛されとるんか? だけが、ここでは最重要なんですさかい。渇愛は。


そやからね、
今、私はこない思うんです。

そんなモン、頼まれたからっちゅうて
易々と愛せるかい!っちゅうてね。

愛は頼むモンとちゃいまっせ。
ほな、お尋ねしまっけど・・

頼んで愛されてホンマに幸せでっか?
ムリさせてるかも知れん、いつか爆発するかも知れん

そんな相手に無理やり愛させて
それであなたは幸せでっか?

ウチの娘みたいに或る日突然
出て行かれまっせ。

昨日までのことがウソのように
突然、終わりまっせ。そんな愛は。


私はそんな愛はもう要りまへん。
要りまへんっちゅうのも渇愛でっけどね。

ただ、完全拒絶するっちゅうほどの執着やのぉて
私の場合、幸い能動的立場の男ですさかい、
単なる、NO THANK YOU のみで全然OKでんがな。


愛は無償に与えるモンでっしゃろ?
自分も当然要求もせん、貰えるとも思わん。
アレすんなコレせぇとも云わん束縛もせん。

苦しないんか?と訊かれたら
苦しいに決まっとるやろボケッ!と答えます。

然し・・


然れど求めず、
ただ与えるのみ。

渇愛を越えられたら、
その向こうにあるのは、・・・


無上の愛でっせ。究極の無上の愛。
これこそ、神仏の愛。大いなる慈悲の愛、慈愛なり。


ビッグの次は?・・・


決まってまんがな
グレートでっせw

亦いつかの稿にて、この渇愛を乗り越える
北斗神拳究極の奥義を享受し合いたいと思います。
長なりましたな、ほなこの辺でさいなら。



本日もご愛読、ご訪問
誠に有難う御座います。

毎度おおきに。


感謝合掌
北斗法蓮 百拝