ハヤトさん、初めまして。
コメントおおきに有難う御座いました。

滝やらナンやらで、お返事お待たせしましたね。


> 私も聖天様をお祀りして1ヶ月経ちます。
> しかし、持病の喘息と失業の問題が解決していないので途方に暮れております。
> 未だに失望から解放されていない私はまだ信仰が足らないのでしょうか。


ぶっちゃけ突き詰めれば、
一言で云うなれば、【そうです。】

なぜならば、
聖天さまに叶わぬ望みは何一つないからです。


増して、まだ信仰ひと月と云うことであれば
如何に聖天さまのご利益が、どんな諸神諸仏よりも
けたたましく霊験あらたかと申せど、あまりに短すぎましょう。

人を愛するも、信じずるも
時間は然して重要ではありません。

信仰も同じです。
早い人から順にご利益が下るのではありません。

また、聖天信仰は例えば摩利支天のように
早々とご利益が現れるものでもありません。

ただ、多少時間を要してもその分、ご利益は絶大で
また絶大であるからこそ、その準備が必要なのです。

現在の窮地は、
今まで貴方が歩いてきた道、歩いてきた生き方そのものが
すべての要因となって、現在の貴方がいるわけです。

そこに突然、けたたましいご利益が下っても
それを受け止められる貴方はまだ居ないのです。


さらば、信仰に限らず
物事は行動を起こしてこそ、その行動を通じてこそ
やがて或る日、突然見えてくるものだからです。

始めることこそが、最も尊く
続けることこそが、最も近道なのです。


然れど、
それだけでは余りに無慈悲な答え。故に

聖天さまはどこのお寺と結縁されてますか?
普段、どこのお寺に参られてますか?

例えば、日本二大聖天寺院である
東の待乳山(まつちやま)や、西の生駒山では
信徒の勤行次第に、和讃がありますね?

あれら和讃は、云うなれば聖天さまの功徳を称える讃美歌です。
お経とほぼ同じことが書かれてますが、お経よりも砕かれていて
何よりも、聖天さまの功徳を集約し特科した、詩です。

ですから、

能く能く(よくよく)
和讃を鑑みて下さい。

能く能く
和讃を理釈してみて下さい。

理釈(りしゃく)とは、言葉の表面や
言語そのものではなく、その向こう側にある真の意味するものです。

実は和讃には、功徳がどーのこーのよりも
叶えて頂くための云わば方便が、そこかしこに星屑の如く
散りばめられておるのであります。

云わば、和讃こそが
聖天信仰の大ヒント集みたいなモンです。

能く能く
和讃を読み解いて観て下さい。


ただ、一概に落胆されぬよう。
アナタのように、なかなか思いが遂げられない困窮したる中で、
そのファクターが己にあるのでは?

と、お考えになられただけ、アナタにはきっと全ての願いが
聞き入れられる日が来ると、私はそう確信しております。



どれだけの事をしたか?

ベストを尽くしたか?


私と比べてどうかって話しじゃありません。

呑気な主夫だから、出来る余裕があるから、
僧侶の端くれだから、今までの人生が違うから・・

それを云っちゃあ身も蓋もないでしょう。
人は人、己は己。

うぬが人生は、おのが決めること。
どちらも己と云う語源から来ている言葉でしょう?


人と比べることではなく
アナタ自身が、アナタ自身の置かれた立場で、
アナタ自身の出来うる、可能な限り最大の範囲内で今、

どれだけベストを尽くしたか?

そこに、一切の口実も言い訳もなかったか?

甘やかす己は一寸もいなかったか?

この一点にかかってます。


逃げず、惑わず、迷わず。
聖天信仰に限っては、なんらご利益を疑う余地はありません。

細かく云えば
聖天信仰に関する、注意事項や逆に気にしなくても
いいことも多々御座います。

されど今回は、内容の充実よりも
早めのお返事と思い、たたっと書かせていただきました。

聖天信仰に関しては未来永劫の深遠なる題目ですから
書きたいと暖めておる事項は能ぉけ御座います。
ですので今後も順々にお伝えしていこうと思っております。

直近では京都巡礼の折、
また素晴らしい聖天さまのご縁を賜りましたので
その記事も近日中に更新致しますから、たまにいらして観て下さい。



でもま兎に角、
頑張って下さいね。

そもそも、聖天さまと結縁(けちえん)されておる
こと自体、非常に尊いことなのですから。

そこに自信を向けて
それを支えにして

貴方はきっとずっと、私よりもまともな人間でありましょうが
聖天さまは、私のような愚か者ですら救い導いて下さります。

どうぞ安心して信仰を続けて下さい。
必ずや貴方の心の杖と支えとなりましょうや。


本日もご愛読、ご訪問
誠に有難う御座います。

毎度おおきに。


感謝合掌
北斗法蓮 百拝