冠省
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。

初めてお遭いする方へ。
私は生涯、人生の歩き遍路・北斗法蓮。
そして生涯、悪態不良且つ悪漢坊主を目指します。
元・外道だった私が、勝手乍ら独断毒舌でエッコラムなお話しをさせて戴く、
それが本稿【心を洗う神仏とえにしの旅】。では、第425稿の始まり始まりぃ〜。



久しぶりに高崎の、少林山 達磨寺を訪ねました。
全く予想外だったのですが、たまたま休日で家に居た家内がいきなり、「お水取り
に行かない?」と云うので、ToDoやWorkをキャンセルし、キャンセル出来
ない買出しの準備と、図書館への返却する本やDVD(←今回はラピュタ)などを
持ち、トイレ掃除しぃの〜床磨きしぃの〜洗いモンしぃの〜戸締りしぃの〜ドタバ
タと、袈裟や数珠も用意して出かけました。

達磨寺には、寺務所の前に寺領から湧き出ておる水があり、いちおー立て看板には、
ひと言声掛けを促す文言がありますが、それは常識。そして勿論、無料です。
達磨寺では、本尊である北辰鎮宅霊符尊の霊験で、方位除けが有名ですが、家内も
方位にうるさく、今日はナンですか、我家から西の方角でお水取りに勤しみ、それ
を九日間かけて分けて呑むのが良いのだそうで。

そーゆーことに拘るなら、もっと真面目に勤行しろ!と云いたいですが(笑。
元はと云えば、私を仏門へと導いたのは、家内のような気も無きにしも非ずなので
すが、彼女にすれば余りに粗暴な私に、いや、幾ら仏門に入っても、そこだけは変
わらない、寧ろ突出してきたのを間近にモロ被爆しながら、ドンドン追い込まれて
ゆく生活に、かつての信心すら無くしてしまったのかも知れません。

ってことは、私のせいなんでしょうが、恐らくソコ以外の何もかもが、私と云う男
の中で変わってしまったので、昔は全体イメージの壱つだったものが、彼女にすれ
ば殊更、目に付くように思うのかも知れません。
どっちにしろ、私のせいですけどね(爆。


本来本日の予定は、昨日、ほとんど無風のサウナ状態の我家で、ラーメン屋鉢巻を
して、スコールのような汗をかきながら、念願であったシステムキッチン収納の整
理及び清掃Workに、ようやく着手し消化したばかりで、まだ工事中(←私は完
全未完のWorkをこう呼んでいる。)の、分かり易く云うと、収納にボコボコ突っ
込まれていた、不要な物を取りあえず出窓や床の隅にまとめてあり、そんな風に散
らかっているキッチンと最終決戦を向かえ、征服するつもりでおったのです。


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ついでなので、少々その辺のWorkのお話しをさせて戴くと、システムキッチン
の上部収納は三枚の扉があり、その扉はヤニと油でべったり黄ばんでおったので、
それらの清掃。そして中身の整理。

取りあえず、出すもの全部出して。気が付きませんでしたが、能く観ると扉の表面
だけでなく、アタマを潜らせると収納の底部分も、今にも油が氷柱のように垂れて
来そうな勢いのヒドイ油汚れでした。手が入れにくいので力が入りにくく、苦戦し
ましたがやっつけました。

一番コンロ寄りの扉には、小麦粉などの粉類が収納されてましたが、袋チャックの
ないパン粉などを入れたタッパーの中を見ると、底の方に使いさしの砂糖があって、
小さな蟻んこみないなのがウロウロしてるので、はっと思い小麦粉やパン粉を覗く
と、案の定、蟻んこだらけでした。しょーがない捨てて洗います。こうなったら、
収納棚の中も全部掃除かけて拭き上げです。

次は画像のキッチン出窓。ここは、三宝荒神さまの榊もある場所。
半分より左側が洗った食器の水切り台になっているせいもあって、水垢がヒドイで
すね。早くやりたかったんですが。取りあえず上にある物を一旦、半分撤去し、ガ
シガシ磨きます。ここはステンレス仕上げなので、金たわしとクレンザーで遠慮せず。

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終いにゃ〜収納棚についていた、照明器具のカバーまで外し丸洗い。
電子レンジや炊飯ジャーは、まだ次回のWorkだったんですが、
ナンか一度やり出すと、手からダスターが離れなくなって、夜になっ
て食事を二人に食べさせてる間も、取り付かれるみたいにずっとアチ
コチ拭きまくって、ビカビカになりました。

そんなこんなで、昨日(16日)は一日中、熱い夏の日でありました。



さて、少林山 達磨寺。
ここは読者の方々はご存知の、以前は能く早朝勤行と坐禅会にお邪魔した、縁起達
磨で有名な黄檗宗のお寺です。車では空いてれば、寺務所近くまで登って行った駐
車場に停められますが、私は久しぶりに歩きたかったので、下の山門前にクルマを
止め、「上まで行ってていいぞ。」と家内にクルマを預けました。

この寺は下から登れば本堂まで150段ぐらいあります。歩き遍路での経験からす
れば何ら大したことはないのですが、家内はいつも、下に行こうとするとダルがっ
て、上へ停めてくれと促します。

そんなんだから、バブくなるっつん(笑。
そう云っても、モテてたらしい若き日の栄光に縋りつき、終いにゃ「デブが好きな
人だって居るもん。」と開き直る始末。「ほんだら、デブ専のキャバでも行って稼
いで来いや。」と私。(笑


山門前で深くお辞儀。自然に重なる手の平。合掌。
心もすぅっと軽くなり、周囲の木々と調和してゆきます。

私が余りに極端なことをしでかしたせいで、現在の経済的事情や背景もあって、
めっきりお参りに行けなくなっている今。あれだけ毎日のように、散々あちこちの
社寺仏閣を訪ね歩いた日々がまるでウソのような地味な主夫生活。
そんな日々の中で、だからこそかも知れませんが、こうしてお参り出来るコトの喜
び。そう心から感じたときふと、(あぁ・・ワシも結構知らん間に、すっかり仏教
徒になったモンやのぉ〜)そう思いました。

この寺のご本尊、北辰鎮宅霊符尊さま、そして観音堂に居わす十一面観音さま。
仏と直接合間見える幸せを胸に染みじみと噛み締めながら、カラーンコローンと下
駄を鳴らし、釣鐘を備えた寺門を仰ぎ見ながら一段一段、所々苔むした石段を登り
ました。


私は、出家してようがしてまいが、住職も小僧も檀家も信徒さんも、皆、同じ仏教
徒だと思っています。僧籍があるとか、高い僧位があるとか、全然関係ありません。
言い換えれば、仏面して葬式で読経しながら、バカ高い戒名代をぽっぽナイナイし
て、クラブ行って女の肩抱いて呑んでるような、裏で何やってんだかってボンクラ
住職よりも、真面目に壱つの寺に数十年と通い続け信心する在家信者の方のほうが、
余程に真の仏教徒だと思うのです。

いつなんどきでも、俗世に身を置きながら、一心に御仏に心を捧げている方は、在
家でも沢山いらっしゃいます。仏教徒とは、本当に仏を一心に信ずる者を云うので
あって、世間出世間関わらず、仏を信じる者は皆平等に一様に仏教徒だと思ってお
ります。

ごめんなさい。夏の緑豊かな達磨寺の画像が一枚も撮れませんでした。
充電しっ放しの携帯忘れたんで。本堂前では、般若心経。観音堂では十一面観世音
菩薩随願即得陀羅尼経をそれぞれ上げさせて戴きました。読経中、強い日差しと久々
の石段を登ったのが相まって、額から汗が流れ落ちます。

然し、観音堂の前でお唱えしておると、さささーっと、何とも清らかな風が吹いて
まいりました。すかさず私は、合わせていた金剛合掌のまま、風と云う仏に軽くお
辞儀をして御礼をしたところ、観音堂の前で唱えておる間中、途切れることなく爽
やかな風が頬の汗を癒してくれました。有難い限りの出来事でありました。


本日もご訪問・ご愛読、心より厚く御礼(おんれい)申し上げます。
有難う御座いました。 蒼々


我が願い尽き果てようとも、他益願うは尽きることなからん。
我ら一同等しく、この願い思い祈りが、一人でも多くの方に回向しますように。
願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道

厭離穢土欣求密厳浄土

感謝合掌
法蓮 百拝


〜編集後記〜
南国鳥さんへ
>今日は質問ですが、歓喜天様の前で唱えるお経、真言は、歓喜天真言、般若心経、
>軍荼利明王真言、十一面観音真言などがありますが、著者によっても違いがあり
>ます。
>光明真言や毘沙門天真言が入っている場合もあります。
>この場合の選定の基準は何なのでしょうか?
>また、一緒に唱えてはいけない、あるいは一緒に唱えても意味がないお経とか真
>言はあるのでしょうか?
>どうか宜しくお願い致します。

と云う、ご質問でしたね。
まず、Mg高橋さんの仰るように、大事なのは【迷わない】と云うことなのですが、
私も迷うと云うより、どれが正しいんだ? どうやればいいんだ? と、模索しま
くり、本を読みまくり、検索しまくってた時期があります。
それはひとえに、【ちゃんと信仰したい!お参りしたい! 出来れば間違ったこと
は避けたい!】と云った、切なる真面目な思いが根底にあるからに他なりません。

アナタもきっとそうだと思うのです。
それはこれから訪れるであろう、その先に待っている、一段上の信心のための布石
だと思えばいいのです。
要するに、端的に云えば、間違ったってイイんです。だって、ビギナーなんですか
ら。分からないことがあって当たり前ですって。元より、お経自体ナニ云ってんだ
か分からんのですから。

私なんか、テキトーでは決してないですが、自分勝手ですから自分なりにこうかも
ああかもって試行錯誤を繰り返して来ましたし、今でも勤行は待乳山と生駒の作法
を基本的には取り入れながらも、オリジナルである事には変わりません。
まーそのまんまではイヤじゃって、オリジナルに拘る、ひねくれモンな私の性分に
も拠るんですが。だからこそ、半年に一度ぐらいの割合で皆さんに、勤行次第を公
開しておるのです。


まーですから、余りナイーブにならないことと、Mg高橋さんの言うように、まず
は何よりも、南国鳥さんならばせっかく四国札所とご縁がある住居を構えられてお
るのですから、ご住職さんなどに相談するか、取りあえずお持ちだとは思いますが、
八栗寺にあるようなら専用の経本に従って、ご真言なども唱えられたら良いと思います。

ハッキリ云って、選定基準などどーでも良いのです。
ぶっちゃけ、そんなトコ気にする処ではありません。肝心なのは、聖天さまを如何
に手厚く、自分の出来る範囲で御祀りするか? と云うことですから、ご自身が参
る寺によって、そこに居わす聖天さまが、どんな眷属や守護神を誂えておるのか?
と云うことの方が肝要なのです。


因みに、光明真言はこちらの過去記事に詳しく書いておりますが、
【大日如来の万徳を二十三字に集めたり・・】と、比喩されるように、大日如来の
真言そのものです。密教では大日如来が全ての仏の根幹であり、天地宇宙の真理そ
のものでもありますから、その真言を唱えるのは、どんな仏を祀るときも至極当然
でもあるのです。

なお、聖天さまを祀る寺院では大体、軍荼利明王、十一面観音、三宝荒神、毘沙門
天の真言も唱えることが多いですが、勉強されてると思いますがこれは、軍荼利明
王は聖天さまを調伏せしめる唯一の明王であり、十一面観音はご存知、聖天さまの
本地仏。三宝荒神と毘沙門天は、聖天さまの守護神であるからです。
それぞれに理由があってのことです。

ですので、ドナタを一緒に唱えたらいけないと云うよりも、聖天さまと全く関係の
ない、直接関わりの無い仏さまを唱える必要がないと云うことです。
これが寺院に由る経本に従うべきだと云うことでもありますし、分かり易く云えば、
他に心慕う仏さまが居るとすれば、それはソレ。聖天さまは聖天様。
しっかり分けて唱えることです。


周知のように私のご本尊は、お三方いらっしゃいますよね。
聖天さま、三面大黒天さま、愛染明王さま。毎日の勤行では、聖天様だけは次第
一式、きちんとこなす。これで一座。
そして、すっかり終わらせてから残るお二方のご本尊と、私の場合は父の守護仏で
ある千手観音と、母と私・家内そして娘の守護仏でもある、普賢菩薩、空海大阿闍
梨、大日如来、不動明王。
これら七体の仏像・仏画とご先祖さまを交えて、もう一度、御祀りします。
これが二座目です。やっぱ、早く勤行次第アップしとけば良かったですね。
その方が飲み込み易かったでしょうね。

まーナンやかんやと書きましたが、最後に壱つだけ。
重複しますが、唱えても意味のないご真言などありません。恐らくそう云った意味
で仰ったのではなく、聖天さまと一緒に。と云うことでしたら、別座を設けて唱え
て下さい。
意味がないと云うより、唱えりゃナンでもイイってモンじゃなく、お喜びになられ
る仏さまを集めてってことですかね。
誰でも仲いい人に囲まれたいでしょ? まーそんな風に受け取っていればいいと思
います。今はまだ。宜しいでしょうか。

法蓮合掌