冠省
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。


観音経偈文和訳【功徳編】の続き第二話です。
今回の続編も前回のFirst Chapter、『妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五  長行(観音経・全文)/和訳(上・中・下)』 同様に、私が寂聴さん贔屓と云うことで、一部に瀬戸内寂聴:著の、 『愛と救いの観音経』 を、そして更に今回は、ひろさちや:著(原作)の 『奇跡のお経観音経』 も一緒に参照させてもらいました。然し、出来るだけ剽窃(ひょうせつ)に頼らず、自分の言葉、自分の考え、それにいつもの独特な香りの漂う、法蓮ハーブスパイスをたっぷりと練りこんで、綴りあげたいと思っております。

この本は全108巻あるコミックで、(漫画と呼ぶには、表紙も分厚く新刊本みたいですが。) 仏教を宗派問わず、宗教上の重要人物や密教は勿論、御釈迦さまのこと、色んなお経のこと、
『歓喜天・愛欲の神』 なんて、聖天さまの逸話が書かれたのもあります。
これら仏教に関する様々なことが、堅苦しくなく非常に分かりやすく、日常的なドラマとして描かれております。

仏教ってナンだろう? あの高僧はどんな人だったんだろう? このお経ってどんな意味があるんだろう? そんな疑問に、ビギナーの方からでも読みやすい内容になっています。待乳山聖天さまの休憩所にも置いてありますから、時間があるときにでも読んで見て下さい。参るたんびに読んでればその内、108巻読めるでしょう(笑。

ひろさちやさんは、あのユーキャンから 『ひろさちやの仏教入門・全12巻』 という、ビギナーに打ってつけのCDカセットなんてのも出されてますが、いつかご紹介した最近の著書、 『「無関心」のすすめ』 などに見られるような、ちょっと人によっちゃ極端すぎる言動は、このコミックでは見受けられません。この頃はきっと抑えてたんでしょうか(笑。


【念彼観音力】について少々。
前稿、観音経和訳:巻上にて既に二つご紹介致しましたが、観音経偈文(げもん)では、『念彼観音力』がこれからもしつこいぐらい延々と続きます。『念彼観音力』は、観音経偈文の中で連続12回、もうないかと思ったらまた最後の方に1回、トータル13回出てきますので本稿ではあと、11回和訳としてご説明することになります。

この『念彼観音力』は、曹洞宗の最後の禅僧と言われ、座禅一筋の生涯を貫き、一生涯、寺を持つことなく「宿無し興道」とも俗称された、澤木興道(明治13〜昭和40)師によれば、次の3通りに理釈できるとされています。
1、念ずる彼の観音力
2、彼の観音力を念ずれば
3、彼の観音力を念ずる心
これらはいずれをどう受け止めても、観音さまと自分自身の境目がなくなるのだ。と云い回されております。一心に観音さまを信じて念ずるうちに、必然的に観音さまと一体となり、自分が観音さまであるような安心感に浸れると云われます。即ち、入我我入ですね。

入我我入は、今まで最も反響のあった稿でありました。
その後、実践を続けておられる方からも、時折便りを頂戴します。そんな中で、少々気付いたコツを追記しておきますと、観音さまを始め聖天さま然り、全ての神仏への崇拝の念は、勿論忘れても怠ってもならないのですが、距離を置きすぎると入我我入には中々至りません。喧嘩でいうなれば、変な妙な間合いと申しますか・・。
ここだけは特に、気を付けて下さいね。自分を家族を労わるように、いやそれ以上に、慈しむように神仏と接すること、心から随身しきること。四六時中、いつ如何なる時もお慕い申し上げること。これが距離を近づけるコツです。

密教で云えば、すべてが大日如来へと繋がっていくわけで、大日如来は全知宇宙そのものであるわけで、そうなってくると自分自身も宇宙生命体の中のひとつなんだ!と直感的に感じられれば大成功です。
だって、自分がそんなどっからどこまであるのか未だに分からない大宇宙の一個一部分なのですよ。科学ではまだお隣の火星にすら降り立てないのですよ。地球から丸見えの月にすら、たった一度だけ。アポロ計画以後、月面を歩けてないんですよ。人間の科学なんてそんなもんです。屁ぇーみたいなモンです。
科学に頼るから、医者はさじを投げるのです。余命何年何ヶ月だと宣言する根拠は臨床データなのです。アシュリーは我々に、宣告された、蓄積されたデータ以上に生きて見せてくれたではないですか?
それらを超越した天地宇宙と一体となれれば、何に脅える必要があるのでしょうか。そんなことも含めて今回はお話しして行きたいと思います。

ちょっと余談ですが、憧れですね〜「宿無し興道」、宿無しっての。「オイラは宿無し〜by ツイスト 古っ!」違うか(笑。 ってか、元々オイラは風来坊な性分。ひと処にジッとしてるのが嫌いだから、あちこち家を持ちたがる(あちこち女を作る。もとい、作ってきた:過去形)そんな不純な動機じゃないけれど、一遍上人、市上人(空也)、高野聖・・、オイラもそんな風に遊行しながら、生涯行脚し続けたいのであります。


戻します。
そもそも、私たち人々の苦しみや悩みとは、元々どこから発生しているのでしょう。
近頃、身体の老化を早めるのは、食品添加物や便利になり過ぎた現代生活が、体内の活性酸素を助長させるせいだと分かりましたね。だから、皆さん一生懸命にポリフェノールとかラクトフェリンとか摂取して、アンチエイジングに励むわけですよね。
あそーそー、今日たまたま用があって行った、輸入雑貨とガーデニングをしている店で、偶然に絞りたてのオリーブオイルのテイスティングをやっておりまして、美味しかったのもあるんですが、ポリフェノールは活性酸素を抑制する効果があるので、いいオリーブオイルには沢山含まれていて、花粉に当然効果があるそうですよ。

ホント、毎日ヒドイ花粉と激闘しながら、鼻垂らしぃーのクシャミしぃーの勤行続ける法蓮ですが、赤ワイン呑んでオリーブオイル舐めて頑張ります。ホンット、うっとぉしいんですよでも。まるで鼻折って、鼻ん中にタンポンギプスを入れてるときのように、延々延々鼻水が出っぱなしです。マジでウザイです。毎日本当は機嫌が悪いです、昔だったら歩いてるヤツ片っ端からぶん殴ってます。これも精進、修行だと我慢してるだけです。


もいっぺん戻します。
同じように、悩みや苦しみの素が分かれば、最初っから自分に取り込まなかったらいいんですよね? 或いは、既に悩んでしまっていたら、除去する方法が分かればいいと思いませんか? 是非知りたいって人いらっしゃいませんか? ナンならお教えしますよ。しかも、一切無料で。


先日、先行公開された『ターミネーター4』。
もう結構、長く支持されてるシリーズですね。確か、2の試写会は大阪に居たころ観ましたから。まぁハリウッドもネタ切れって話しも聞きますが。シュワちゃん知事になっちゃって出演しませんしね。
その予告を観て思ったんですが、ターミネーターは金属製の殺人ロボットですね。知らない方のために、ヤツは一度プログラムされたら、徹底的にターゲットの命を奪うまで執拗に追跡してくる。マシンガンで打ちまくろうが、ロケットランチャで吹っ飛ばそうが、全く歯が立たず追撃の手を緩めない。泣いて懇願したって感情すらない。無論、取引にも応じない。人間なら倍の金積んで形勢逆転も可能ですが。ただ、冷徹に「殺せ」という指令に従うのみです。

でも皆さん、ちょっと考えたら、そもそもそんな強靭なロボットが必要なんか?って思いませんか? たかが、人間一人殺すのに。ゴッドファーザーPart2で、アル・パシーノ扮する巨大マフィアのドン、マイケル・コルレオーネがこう云いました。「この世で唯一、確かなことは人は殺せるということだ。」と。自分はこの映画が大好きで何度も観ておりますが、特にこの台詞が非常に印象的で、いつまでも忘れられずにおります。

何が云いたいのかと申しますと、人の命なんて本当に些々たる呆気ないものだと云う事を感じたのです。ターミネーターのようなマシーンや車なら、壊れない限り動きます。燃料が切れたら止るだけで、また補給すれば走り出しますが、人は食わないと確実に死にます。ただ、食事を与えない。たったそれだけで、簡単に死に至らしめることができます。
命ある者は放っておいても、老いても飢えても必ず死ぬのです。虫でも動物でもバクテリアでも同じです。そしてその命は、いとも容易く瞬間的にだって奪えるものなのです。政府要人であろうが、ヤクザの大幹部であろうが、玉砕覚悟で死も厭わなければ奪えない命などありません。

今は仏道に生きるこの身で、命の尊さを軽んじてるワケでは御座居ません。家の中に迷い込んだ、蚊も蝿も蟻も古本に挟まってる変な虫も、今は一切殺しません。やめろっつってんのに、「だってヤなんだもん。」と、家内はバンバン皆殺しにしますが(笑。

そしてまた、どんな人の命にも重い軽いはないのです。
社会に大きく貢献した人も、歴史上の偉人も、連続殺人を犯した凶悪犯も、命の尊さは本来同じなはずです。どっちかは死んでも当然、とは本当に満場一致なのでしょうか。
それを人が人を裁き、正義や道徳の名の元に制裁を科しているのが、極刑や戦争ではないでしょうか。戦争で人を大量に殺せば戦勝国にとっては英雄ですが、敗戦国にとっては無慈悲で残忍な悪魔にしか見えません。強盗で人を刺せば遺族には許し難き殺人者です。貧困な国へ行けば、3千ドルでも持たせれば喜んで人を殺します。人を殺してレジや財布から、わずか3百ドルを奪う人もいます。


随分、遠回しになってしまいましたが。
もうお分かりのように、私たちの悩みや苦しみは、私たち自身の心が作り出した、云わば幻影だとは思えませんか?。自らの心の執着や確執から生まれた我執(がしゅう)から派生しているのです。第六識、即ち『意識(心の主たるもの)』と相応する、悪見(あくけん)=誤った見解に固執する心の働きの一つであります。*そういや、『意識』も仏教語ですね。覚えるとオモシロイでしょ。えーー?ってのが沢山あります。

ですから、貴方は貴方以外に何者でもなく、そんな誰にも掛け替えようのない、尊い命を持ってこの世に生まれ、(これが私の思う、座右の銘:天上天下唯我独尊の意味。) そして死なずに、飢えずに、また殺されもせずに今をこうして生きている。世界の国々を見渡しても、極めて治安国家たるこの日本において、ウジウジ悩んだり、シクシク泣いたり、ゴチャゴチャ考え込んだり。そんなことしてる自体が馬鹿馬鹿しいと思いませんか?。

靴が履けずに、裸足で歩く脚からバイ菌が入って死んでいく子供たちをご存知ですか?。
私たちの子供が、学校で当たり前のように摂取しているワクチンがなくて、バタバタと倒れていく子供たち、その屍に群がり飛び交うコバエ。そんな光景を貴方は目の当たりにしたことがありますか?

貴方の悩みや苦しみは、彼の子供たちの未来ある命よりも深刻ですか?
貴方の晒された立場は、彼の子供たちの状況より不幸なんだよと、
貴方が会社や家族に対する不平不満も、決して贅沢な事は云ってないんだよと。
そう、その子たちの円らな瞳を探りながら、果たして本心として言い切れるでしょうか?


『莫妄想(まくもうぞう)』という、言葉があります。
元は唐の無業禅師の言葉で、和尚は誰が何を尋ねても、いつも「莫妄想!」とだけ答えたそうです。「莫妄想」とはどんな意味でしょうか。妄想は現代語でもありますから、分かりますね。あの誇大妄想の妄想です。莫は? (バク)って苗字の方もいますが、「莫(なか)れ」とも読みますね。即ち、(妄想する莫れ!)と答えられてたんですね。

鎌倉時代に禅宗に帰依していた北条 時宗が、日蓮を佐渡に配流した同じ年、1274年に来襲した強大なモンゴル軍の対処に困窮し、中国から亡命的に招いた無学祖元へ、戦勝の智慧を求めた折にも示した言葉です。
「どちらが勝つか負けるか、家臣に巧い戦いぶりを見せようとか、敗退しては困るとか、損か得か?等に囚われ、自己の集中心を失くすようではいけない。そういった相対的欲望に囚われることが自体が妄想である。」と。


実はこれこそが、観音経の真の功徳なのです。

一心に観音さまを帰依し心に描き、描ききれば一体となり、これが任せ切るという境地であります。また自ら描いてしまった、しかもこれまた上手に詳細に、あたかもそうなってしまったかのような、妄想如きに囚われるな。と云うことです。

アレやコレやと考えても分からない事を、とうに済んでしまったどうにもならない事を、今更クヨクヨ悩むな、考えるなって事です。タイムマシーンが完成しても、理論上も過去へは行けないのだそうです。ターミネーターと違って、過去はどうにも改変出来ないそうです。あ、アレも見方によっちゃあ、そうですよね。必然的な未来に向かって行ってるだけとも観れます。
私は後ろを振り返らずに生きてきました。ある意味、身勝手な生き方でしたが、「もう、済んだこっちゃ。」が私の口癖です。ああすれば良かった、こうすれば良かったって、云いたくなる気持ちは分かりますが、どうしようもないっちゃないのです。
どうにも出来ないことを、いつまでも悩むのも、それによって引き起こされる「かも」知れない、未来に脅えるのも、どちらも馬鹿馬鹿しくないですかって話しです。それは「妄想」に過ぎないからです。決まってるかどうか分からないのです。

もし貴方が思う通り、絶対そうなるなら、貴方は今すぐ会社に辞表を出して、未来予報士になった方が宜しいです。私の未来も予報して下さい。国家の未来を予報してビリオネアになって下さい。いやいや、ホントに思った通りになるのなら、「俺、アラブの国王になっちゃうよ〜どうすんべ?」と、そんな内容なら不安がりませんよね。私が崇拝し実行してきた、ナポレオンヒルの思考は現実化するとは、また違う話しですよ。

自分にとって、嫌な都合の悪いことを不安がり災難だ不幸だといい、都合のいいことを御利益だラッキーだと思ってる人が多いですが、どっちも御利益なんですよ。たかが自分です、その自分に都合悪いことも自分がそう思い込んでるだけで、そう受け取れるような結果も功徳なんですよ。
聖天さまはよく、望んだままの形ではない結果でご利益をもたらされると云われますが、それは聖天さまが他の諸神諸仏よりも、何事も叶えてくれる微妙(みみょう)の法を持ってらっしゃるからなんです。

分かりやすくいうと、ストライクゾーンがめっちゃ広いんです。一見、ヤベェよこの状況とか思う事も、最終的に良い結果として下さるための布石なんです。「せやからオタオタ要らん心配すなっ!」と云うてるんです。我々の望むこと自体が、そこにも気付かんぐらい如何にアホみたいなこと。ということです。
生駒山聖天さまの和讃には、「増してや祈る願望は、いかでか空しかるべきか。此れ天尊の悲願なり。」とあるように、そこに気付けやってことです。「それがワシの悲願なんや、早ぅ分かれや。」と聖天さまは云っておるのです。うろたえずに待ってりゃいいんですって。だから「不・思・議」なんですよ。

案ずるより産むが易し、百考は一行に如かずって前に云ったでしょ?これが観音力の真髄です。
起きるか起こらないか、人にどう思われてるのか否か、どうでもいいじゃないですか。それよか、今を一生懸命生きましょうよ。今の貴方に出来るコトを精一杯やればいいだけの事です。超カンタンでしょ。貴方に出来ることナンかしっかあるでしょう。ナンでもいいんです。そうしてれば救われないワケなんてないのです。少なくとも、貴方が聖天さまや観音さまを信仰されているのなら。


さてさて、いつまで経っても肝心の和訳に入りませんが、やる気あるんでしょうかね?全く感じられませんが(笑。 まだ、『念彼観音力』の話しは続きます。今回はそれだけで終わりそうです(爆。 観音経偈文自体、元より『詩:聖歌』ですから、『念彼観音力』が繰り返されるこの辺りからが、曲で云えばサビ部分とも云えますでしょう。ここまでがAメロ、『念彼観音力』がサビ、後ろがBメロ、最後の二行がCメロです。ホンマかい?(笑。

発心当初だったと思うんですが、般若心経を覚えたてのころ、コレってもしかして、ラップで唄ったらおもしれぇんじゃね? と思い、ラップ調でよく唱えてたことを思い出しました。自分が私寺を持てたら、こんな愉しくお経を上げたら、きっと仏教に興味のなかった若い連中も取っ付き易くなる。
そうすれば、信仰心を持った人が増える・年齢層も拡大するってことだから、日本はきっともっとずっと良くなるはずだ。と思ったのです。どうですかね? 私とマジシャン高橋さんと狐天狗さんで3MCやって、テルさんがDJみたいな。ケツメイシならぬ、ケツボウズみたいな(笑 やってみませんか?

W・ゴールドバーグ主演の『天使にラブソングを』って映画ご存知ですか?
アレって、本当にあんなノリノリに騒いじゃっていいもんなんですかね?あれがフツー? 私は聖歌隊とかって観たことないんですが、映画だし少々デフォルメはされてるんだと思いきや、それ以後も色んなドラマなどで、愉しく歌う聖歌隊が映し出されてるのを観て、そして今、仏道を歩みに至りやはり思うのです。愉しくないとおもろない。と。つまんねーと思うから、修行も苦しいと感じるのだと。

仕事も愉しくやれば、バンバン効率上がりますのは、以前 『あなたにとって仕事とは?』 にて、お話しした通りですし、信仰だからってわざわざ堅苦しくすることないと思うのです。そりゃ、いい加減にやれとか、テキトーにやれとかって話しじゃ勿論ないですよ。ただ、皆で正座して黙々と、爺さん坊主の半分寝てるんか死んでんだか分からんような、眠たいお経を聴かされてても、「早く終わんねーかな〜ったく。」とは思っても、まさか自分で「俺も唱えてみてーな!」とは思わないでしょ?

そんな人は是非とも一度、私の勤行を観に来て下さい。
お察しの通り、常日頃から終始テンション高い法蓮で御座居ますが、特に渾身の思いを込める、聖天さまへの禮拝『大聖歓喜天使咒法経』では、テンションもスピードもピークに達します。
正座はずっとしたままですが、上半身は左右上下に揺らしっ放し、ステージで熱唱するが如く、ときに両手を広げ、ときに胸に当て、拳を握り締めたり手の平を差し出したり、仰け反ったり屈んだりと、一大パフォーマンスを繰り広げております。
畳へ生足の長時間正座による、バツグンに甲高なガンダム脚の痛みも、とっくにピークの筈なんですが、ノッてるときは不思議と何にも感じません。
そんな風に身体でメッセージを発することが出来るのも、お経の意味が分かっているからこそなのです。

英語の歌も意味が分かると、ただ英語の音写だけで唄うより、特にラブソングなど遥かに気持ちがこもるでしょう?アレと全く同じ理屈で御座居ます。今は意味が分からなくても、皆さんもこの観音経全文和訳が終わったころには、きっと詩って踊れるようになってるはずです(笑。

なので、聖天さまへの一連の勤行を済ませると、精根使い果たしヘロヘロになってしまい、ここで一旦小休止しなければ、続く仏前での勤行が出来ないのです。閑静な住宅街に、家中全開の窓から朝っぱらから木霊する、お経や真言、金剛鈴の音、数珠を擦る音。
例えば聖天さまに捧げる真言は毎座千遍。真言て素人さんには、何云ってんだかサッパリ分からんでしょう。増してや、自分の超高速真言は、300km/h近いスピードで高速道路を走ったときの車線のように、間髪なく数珠続きになって、ただウニャウニャ延々とこの静かな住宅街に蔓延してるでしょう。更に時折、「ア・ビ・ラ・ウンッ・ケンッ!どぅぉりゃぁああっ!南無!」と奇声を発する叫び声。特に70センチお隣さんやご近所は、マジで不気味がってると思いますよ。

だって今まで、髪の毛白金で、ドルガバ着て、フルスモークでオプシアンブラックのブラバスやAMGやって、ど派手な厳ついSクラスの後部座席から降りてきて、極たま〜〜に帰って来てたかと思ったら挨拶もせんし。
それが突然、坊主頭で毎日作務衣着て、ワケ分からん言葉延々唱えて、外にゴミだし行って、マイバッグ持って買いモン行って、ニコニコして「こんにちわー」とか云ってるんですよ。気色悪すぎでしょ?相当。


然し、そこまで疲労困憊するほど、魂を昇華させ跳躍させることが、自分では精一杯のご供養だと思っておりますし、まぁここまで派手なパフォーマンスは別としても、少なくとも何らかの魂の起爆剤は、入我我入においても供養にしても、またご利益を願うにしても必要なんではないかと思うのであります。

今後、法蓮は一切衆生救済祈願成就のため、様々な修法を身に付けられるよう精進を重ねて参りますが、それら密教における修法もまた、この魂の爆発力の違いにより、断然、効果効能に差が現れるはずだと思うのであります。
皆さまへは、普段の祈願成就などへの具体的活用法など、これらはまた別の稿でお話し致します。どんどん原稿ノルマが増えて行きます。自分で自分の首絞める行為を嗜むのが大好きな法蓮です(笑。


まだ、『念彼観音力』の話しは続きます。しつこい?(笑
『お経を暗誦しよう!』で、この観音経偈文を題材にお経の暗記方法をお話ししました。その際、『1、火坑変成池 2、波浪不能没 3、如日虚空住 4、不能損一毛・・』この順序で覚えましょう。としましたが、あれは『念彼観音力』が散々続くので、どこかで区切りを決めないと、非常に覚え難いからでした。実際の意味合い的には、例えば次の3番目と4番目の『念彼観音力』を見てみると・・

3、(わくざいしゅーみーぶー いーにんしょーすいだー ねんぴーかんのんりき にょーにちこーくうじゅう)
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
「或いは須弥山に在って、人が為に推し墜とされても、彼の観音力を念じさえすれば、(身体は)虚空に浮かぶ日輪(太陽)のように住まうであろう。」
「即ち、(おの)が有頂天にあるときも、悪意の者に足元を救われようとも、観音力を念じること即ち、自らの慢心を謙虚に見直すことが出来たら、足許をすくわれても落下することはない。立場を脅されても、失脚することはないだろう。」

4、(わくぴーあくにんちく だーらくこんごうせん ねんぴーかんのんりき ふーのうそんいちもう)
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
「或いは、悪人に駆逐されて、(雄大にして堅牢なる険しい)金剛山から墜落させられても、彼の観音力を念じさえすれば、髪の毛一本すら能(あた)わず。損なうこともない。」

とあり、常に『或いは=或(わく)』という言葉から、始まることに気が付きますね。観音経をお写経しておれば、自ずと飲み込めても来るのでありますが、人によってはここをポイントに覚えたって一向に構わないのです。
こう云われずとも、貴方がご自分で気が付いて、さらにもっと良い方法を見つけたら、迷わずそれを大いに応用すべきでしょう。但し・・・。

【感謝の変貌】
ここで云いたいのは、かつての私ならそんなシュチエーションで必ずこう云ったでありましょう。
「おぉっ!こないしたらええんやがな!やっぱりワシ、天才ちゃうか?」と。
或いは、「ナンでこんなにワシって、頭ええねん?マジで。」とか。
慧眼な読者の方々なら、もうお分かりですよね。今の私もようやくここで、感謝が出来るようになりました。誰に? 云うまでもなく、その『気付き』の切欠を、端緒を与えてくれた相手にです。 例えばですが、もし、このブログの何らかの記事の一行でも、それが貴方の気付きの端緒になったとするならば、この稿を書いた私に感謝をすると云うことです。

自分で云うてどないすんねん! 見返りのない布施にならんやろが! 仰る通りで御座居ます。これは一例としての具体的表現に過ぎません。私が書いている、即ち私が自分で云うから横柄なヤツだ!、そう思えるのも致し方御座居ません。然し私は、別段、皆さんに感謝して欲しいなどとは、これっぽっちも思っておりません。感謝されたいがためになど毛頭、必死こいて書いておりません。

然し、いつかどこかで誰かが、こうしてハッキリ云わないと、どうしても分からない人がいるのです。ですから敢えて、私は自分を例にして云っているのです。
記事を書く私ばかりでは御座居ません。皆さんから戴けるコメントにも、ダイヤモンドの原石が如く、金剛の智慧が散りばめられております。そこに気付くか、自分のモノに出来るか否か。その際は当然、コメント下さった方々にも感謝すべきでありましょう。出来れば逐一、名指しで礼を述べれば尚のこと善い功徳が積めるのは云うまでも御座居ません。

コメントを書いて下さる彼らもまた、自分が感謝されたいがためではないと思います。ただ、困窮してるのなら何とかしてあげたい、力になってあげたい、人の苦しみが手に取るように分かる。だからこそ、そう心の底から思うからこそ、己の恥じも外聞も捨て去って、助け舟を出されていると思うのです。これは私から云わせれば、信仰する上で重要な姿勢であることは元より、私がなぜ発心以前から貫いてきたかというのは、それが男のケジメであり、男ならスジをビシッと一本通す。それが男として生きる上でも最も肝心要だからで御座居ます。

また、私は例えば本屋で立ち読みして何か気付いても、その著者には勿論のこと、ウザがらずに黙って読ませてくれた店員さんにも感謝しております。そのような折に触れたら、本はお経のように額の前に挙げて一礼して棚へ戻しますし、店員さんにも帰りに会釈します。このように、貴方の目の前に現れる或いは、目に触れるもの、その誰も彼もが観音さまなのですよ。そこを知るということ。これも『Nosce te ipsum. ≒Know thyself. ≒汝自身を知れ』なのです。


それに申し訳御座居ませんが、私は既にそこは悟りました。通り越しております。感謝されたいから何か事を興す、ってなレベルはもう卒業しました。一足お先に失礼させていただきます。I ain't any longer there. so sorry.
感謝する気持ちを持ち顕わすことは、前回の全盲のピアニスト・辻井伸行クンの稿にも書いた通り、事業時代からずっと培ってきました。様々な場面で人が抱く、感謝するという気持ちは、徐々に心模様の中で変化を繰り返し、やがて成熟してゆくことをご存知でしょうか。

人に天地宇宙に神仏に、感謝の気持ちすら持ち得ない者から持ち得る者へ。 次に胸に秘めるその心地を言葉に、更にはキチンと行動で顕わし、人さまに伝えらきれる者に。そして今度は自らが、人さまに感謝してもらえるような人間になりたいっ! そう願える者に。そして更には、貴方に感謝させて頂きたいっ! そう、心の底から願える者へと。
即ち、人の喜びを我が物とする人、(おの)がための祈願より、先に人の祈願成就を心から喜べる人、人のために我がごとのように祈りを捧げられる人、私たちもそんな人間になりとう御座居ます。誰もがなれるのです。ただ、『念彼観音力』と一心に一心に念ずれば。心ごと預けてしまえば良いのです。これ以上、楽に頼りになるものが御座居ますか?あるならどうか教えて下さい。


長行和訳でお話しした、【七つの難】。
もう気付きのように、冒頭の『念彼観音力』が続く部分は、この七難を表しております。

5、(わくちーおんぞくねう  かくしゅーとうかがい ねんぴーかんのんりき げんそくきーじしん)
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
「或いは、怨賊(おんぞく)に遶(かこ)まれて、各(おのおの)が刀を執って、害を加えるに値せん(状況に)、彼の観音力を念じさえすれば、咸(ことごと)く即ちのうちに、(その賊たちが、)慈悲の心を起こすであろう。」

6、(わくそうおうなんく りんぎょうよくじゅじゅう ねんぴーかんのんりき とうじんだんだんね)
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
「或は、王難の苦に遭いて、即ちに国王の命令によって、刑に臨み寿(いのち)終らんと欲せんがときに、彼の観音力を念じさえすれば、刀(かたな)尋(つ)いで、段段に壊(お)れん。」
*斬首刑にされようとした時、観音さまの力を念ずれば、刀はバラバラに折れてしまった。おっとぉ、聞いたこと御座居ますね。忘れた人は、First Chapter を読み直して下さいね。

これら、七難は現在に置き換えると様々な逆境などに比喩できますが、仏と一体となることが出来たら、七難なんぞ怖いモンでも災難でも不幸でも何でもないんです。煩悩の夢・幻なんぞ理性を越えた観音力が吹っ飛ばしてくれます。

入我によって神仏と一体化する、この際に自分の中の自分は空っぽになるはずです。全部スッポリ入っちゃうんですから。そして、空っぽになった自分に今度は、我入によって神仏がお入りになる。
つまり、自分が空っぽでないと神仏は入って来れません。また、神仏の中へも入りきれません、自分の中の自分が残っちゃうから。ですから、天地宇宙に比べたら小さな小さなちっぽけな自分というものを、改めて見つめ見つけて、一切合財空っぽにしちゃうのです。これが我執(がしゅう)を捨て、無我の境地に入るということであります。


さぁ長くなってしまいました。申し訳御座居ません。
これで今回の巻中を終わらせていただきます。
あと、一回でとても最後まで和訳しきれるとは到底思えませんが(笑。

それでは本日もご訪問、ご愛読誠に有難う御座いました。
こうして書かせて戴けるのも、皆々さまのお蔭です。
心より皆さまに感謝させて下さい。法蓮はもっともっと精進致します。

我ら一同、我ら等しく、尊き道へとお導き下さいませ。
南無帰命頂禮 大自在大聖大悲歓喜雙身天王

怱々


感謝合掌
法蓮 百拝