冠省
皆さん。こんにちわ。
本日もご訪問、誠に有難う御座います。
この度のえにし(ご縁)に、心より感謝致します。

お待ちかねの皆さま、大変永らく待たせた致しました。申し訳御座居ません。
ようやく釈尊や無盡意菩薩にカーテンコールが聴こえたようです。拍手し過ぎで随分と手も痺れたでしょう。お疲れ様で御座居ます。アンコールとは到底、呼べぬほど引っ張りすぎですね(笑。

いよいよ観音経偈頌(げじゅ)=偈文(げもん)の和訳をご案内致しましょう。
皆さんが普段の勤行(おつとめ)で上げられるなら、前回ご紹介した長行(ちょうぎょうorごう):前文の長い経の部分。 は、省いて頂き、この偈文だけで充分で御座居ます。

私が今、毎日写経に励んでいるのもこの偈文部分を書いております。
これについても、この和訳が終わりましたら委細お伝えしたいと考えております。観音経偈文だけを単独で読誦されるなら、出来れば前に開経偈(かいきょうげ)、後ろに回向(えこう):天台で云う「法華成仏偈」を加えて戴くと更に宜しいかと。ではご一緒に進めて参りましょう。


【プロローグ】
前回の長行に対して、これからお話しする偈文は『詩』です。
大体同じような内容を、長行の理屈に対して詩で表現してあります。同じならもうイイんじゃねーの? と思われるかも知れませんが、当然ながら私たちは捏ねられた理屈よりも、直感的な詩の方が馴染みやすいですよね。CMで商品名を曲にするのもこの効果です。

「パンにはやっぱりネオソフト♪」って歌いながら、月曜の買出しん時にまんまと買っちゃいましたし(笑。そんな感じでスーパーで一人、例えロンリーな買い物中でもテンション高いままの法蓮ですが(日によっちゃあ踊ってるし(笑 あ、もし見つけて他人の振りしても無駄ですよ、追いかけて私から大声で声かけますから(爆 。)


兎に角、この観音経偈文もそういった意味合いで、韻文をさらに分かりやすく、親しみ易く説くためのものです。それ故に、多くの人に読まれるのでもありましょう。
まず、観音経偈文は通常、『世尊妙相具〜』から始まりますが、実は長行の最後の部分を付け足さないと、ちょっと変な感じがしないでもないのです。こーゆー事です。

世尊妙相具(せそんみょうそうぐ)と云うのは、世尊=釈尊なので、「釈尊さま、貴方は妙なる相(即ち、なんとも慈悲深いお顔)を、具えてらっしゃいますね。」と、いきなり始まるのです。
私たちはこれが、長行の続きですから(無盡意菩薩が話しかけている)と、事前に分かっておりますが、偈文しか知らない初めて目にした方には、誰が話してるのか? なんで話し出したのか? が、ピンと来ませんね。
ですから、前回シリーズ最後に「ここは偈文の予告ですよ。」とした、長行の最後の部分を思い出して頂くと、・・・

「爾時 無尽意菩薩。以偈問曰。」
(にーじー むーじんにーぼーさー。いーげーもんわつ。)
そのとき、無尽意菩薩が詩(偈頌:げじゅ)を以って質問した。

このようにありましたね。これで話しが繋がりました。
「無盡意菩薩が」「質問をした」その内容(偈頌)が、これから始まる偈文の冒頭部分です。その前に無盡意菩薩が、まぁ云わばお釈迦さまにヨイショしてるんですね。
良く学ぶ人は、良き師と巡り会えると同時に、教えられ上手、教えさせ上手でもありましょう。これは現代社会や仕事に従事する中においても大切な事であります。

どんな優れた上司も、やる気のない部下に手解きする程、面倒なことはありません。
なぜなら、人の上に立った事がある人なら分かりきった事ですが、人を指導する・育成すると云う事は、気の遠くなるほど根気のいる作業だからです。
例え更に上役の指図でも、そこは人と人。指導される側の元々の出来不出来にもよりますが、心が通わなければ面倒臭いに決まってます。

よく「ったく、教え方が悪ぃんだよ!」とか、「あんな教え方で分かるワケねーだろ!」って人がおりますが、仕事をいつまでも覚えられずに困るのは自分自身です。上司ではありません。
教える側は大抵、他の仕事と掛け持ちです。余程大きな会社で、研修システムに人員を配属できる余裕がなければ、教える側にとっては、『余分な』仕事に他なりません。自分の持ち時間を割いて、自分の仕事を後回しにしてでも指導しなければなりません。
教わる側の態度や覚えが悪ければ、イラつくのも当然です。
逆に一生懸命で、感謝の心を常に絶やさないような部下には、自分がサービス残業してでも教えてやろう、何とか伸ばしてやりたい!と云う、気持ちに駆られるのが人と云うものです。そこは流石に無盡意菩薩、多くの菩薩達を代表するだけあって、しかと抑えておりますね。


【観音経(偈文)和訳】
▼では改めて参りましょう。まずは、『問答編』から。
(せーそんみょうそうぐ がーこんじゅもんぴ ぶつしがーいんねん みょういーかんぜーおん)
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
「誠、ご慈悲溢れるお顔の釈尊さま。我は今、重ねて彼の(かの觀世音について、)質問をしとう御座います。」
「何ゆえの因縁にて(觀世音は)、佛の子たるものとして觀世音と名付けられたのでしょうか?」
*これって、前回の長行でも同じ質問をしていますね。ここでも繰り返します。

(ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに)
具足妙相尊 偈答無盡意
〜妙なる相を具えられた釈尊は、無盡意菩薩に対し、偈(詩)を以って、お答えになられた。〜

(にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょーほうしょ)
汝聴観音行 善応諸方所
「汝ら、観音の行を良く聴いてご覧なさい。」
「(万事自らの為に非ず、抜苦与楽なる悲願達成に特化されし、観音の行は、)善く諸々の方所(ほうしょ)に応ずるところにあり、」
「即ち觀世音は、苦しみ悩み悲しむ方々(ほうぼう)の人々のいる、この世の様々な場所へ、いちいち出向き、その都度に善処対応されておるからである。」

(ぐーぜいじんにょーかい りゃくこうふーしーぎー)
弘誓深如海 歴劫不思議
「(観音の願う)弘きその誓いは海の如く深く、何億劫年と果てしない時を歴(へ)だてても尽きることのない、不思議なものである。即ち、思議(しぎ)=人間の考えや思い⇒不)などは、遠く及びもしないほどである。」

(じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん)
侍多千億佛 発大清浄願
「(その観音が、)千億もの多くの佛たちに侍(つか)えて、大いなる清浄の願いを発したのだ。」
「清らかなる大願は即ち、《衆生無辺誓願度》であり、己を忘れて他人を救うがための行、それこそが忘己利他(もうこりた)である。従って、觀世音は一切の衆生を救済するまで、仏の座(如来)に安住することはないと云われる。」

(がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん)
我為汝略説 聞名及見身
「我は汝が為に概略を説法しようぞ。」
「(これが汝の問うた、因縁の始まりなる)観音の名を(音を)聞き、及び(観音の)その身体を見て(観て)、」

(しんねんふーくうか のうめつしょーうーく)
心念不空過 能滅諸有苦
「心に(観音を)念じ抱き、いたずらに空しく時を過ごさなければ、(自分が信じる因縁と、観音の誓願力が強く結びつき、)能く(よく)諸々に有ろう(人生における全ての)苦しみなど、ことごとく滅ぼしてくれよう。」


『功徳編』
1、(けーしーこうがいい すいらくだいかーきょう ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうち)
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
「仮に、人が有害な意を興し、炭坑のような大火の穴へ推して落とされても、彼の観音力を念じさえすれば、火の穴は変じて水が溢れん池と成るだろう。」

2、(わくひょうるこーかい りゅうごしょきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ)
或漂流巨海 龍魚諸難鬼 念彼観音力 波浪不能没
「或いは、巨大な海に漂い流され、龍魚(大蛇)や、餓鬼・夜叉・羅刹・赤や青の鬼たちの難に晒されても、彼の観音力を念じさえすれば、大荒れ波浪警報が発令されようとも、没することも能(あた)はず。(〜ことはない。)」

『功徳をどう受け止めるのか?』
*このたったの二つの功徳だけでも、現代人の常識的な知識やスキーマーでは、到底信じられない出来事でありましょう。
だってそうじゃないですか?、1の火難を例に挙げますと、今は見られなくなってピンと来ないかも知れませんが、炭坑とは石炭を掘るような深い坑道のこと。
そんな穴に誰かに突き落とされた上に、その中ではゴォーゴォーと火が吹いているですよ。1000%即死に決まってるじゃないですか?
いくらキックやってた私でも、反撃の間合いも取れないないでしょうね。今はメタボだし、黄金の左脚が上がらんし(笑。
勿論、頭に来てド発狂するでしょうが、「ワレ何さらすんじゃ!コラァァァァァ〜」とエコーしながら、空しく墜ちてくだけですね(笑。

次の水難にしても、既に漂流してそのままでも充分死ぬってな絶望感に駆られている時に、追い討ちをかけるように、鬼だの何だのウジャウジャ出てくるんですよ。
どうします? もう最悪もいいとこでしょ?
「あのぉ〜もう放っておいて結構ですから。間もなく死ぬと思いますんで。」って、云いたくなるでしょ?


こんな話し、以前の私なら到底信じられませんでした。
第一、皆目興味がないからお経すら学ぼうともしませんでしたしね。でも、少なくとも今、これを真剣に読まれてる(か、どーか分かりませんが(笑) そんな皆さんなら、「一体、何でそこまでの功徳が戴けるのだろう?」とか、「本当にそうならいいな。」「縋りたいな、信じてみたいな。」と思われる方も、きっといらっしゃる筈ですよね。

もうお分かりのように、前者のかつての私のような者には、例え観音経を読んだって功徳など戴けるワケはないのです。ここが運命の別れ目なのです。「本当なのか?」という時点で既に半分以上信じているのです。本当だったらと期待しているのです。

逆に日常の例えで云えば、「あの人、アタシの他に女がいるんじゃないかしら?」この時点で相当疑ってるワケです(笑。 といっても、自分以外に女がいる事を、当然決して期待しているワケではありません。大半の女性たちにとって、『浮気しない。』のが大原則で当たり前ですから、その彼女達の『当たり前』を破ったかも知れない、裏切りの疑惑を確かめる追求心は、男どもの想像を遥かに超越した凄まじいエネルギーを発揮します。

まさかあの、何かといやぁすぐ泣くような女が、そこまでしないだろうよ。とナメてかかると、とんでもないことになりのでご用心を(笑。
「もし、本当にいたらどうしてくれようか?」と既に目論んでもいます。その結果、例え真相が掴めなくとも、ひとたび疑惑の的となったら、それこそ何億劫年歴(へ)だとうとも、その記憶は削除されません。後ろめたさに駆られた貴方が、どこかへ連れてってあげた、美味しいモノをうんと食べさせてあげた、そんな事は遠慮なくボンボン忘れますが(笑。
ただ、尽未来際(じんみらいさい=永久)未解決事件、即ち疑惑ありのままです。ついでに時効という名の、生ぬるい特赦もヘッタクレも御座居ません。(爆。


話しを観音さまの功徳を信じようとする方に戻しますが、100%信じたいからこそ、さらに突き詰めようとするのです。その疑問を解こうとする行為、真意を確かめようとする過程、これが仏への道のり=仏道であり、即ち方便なのであります。

「ウソも方便」って日常語化してますが、『方便』とは仏教語なのです。
多くの仏教語がそうであるように、この『方便』も決して『ウソ』の中の一つではなく、長い日本文化の中で徐々に本来の意味が姿を変えて今に残っている言葉なのです。
これもまた今度、詳しくお話しする予定なので今回は割愛致しますが、兎に角、この『方便』に導かれていくと、果たしてどうなるでしょうか?
疑問の反対語は答えですね。そうです、答えがそこにあるのです。一人ひとりにあった、自分だけの答えが。それが『悟る』ということなのです。お経に書かれた功徳の多くは、この『方便』を通じて我々に『悟らせる』手段の一つなのです。


観音さまを信じようと決めた時から、一心に念じようとします。
だって、そう書かれてますから。その通りにすれば、しないとご利益は戴けないんだ。だったらやるしかないですよね、ここはただ素直に。信じてみようと。

一心とは前稿にも書きましたが、無我夢中のこと。恋は盲目と同じ。
親友がやめときなって言おうが、親が反対しようが、終いにゃぶっ飛ばされようが、「あの人だけは違うのよっ!」と思いたいですよね。「きっと愛してくれている≒救われる」そう信じたい、信じている。その気持ちです。
だから懸命になってるときほど、周囲からは冷ややかな色眼鏡で見られることもあるでしょう。
(どうせ、泣かされるのがオチだよ。)
(アンタのための思って云ってるんだよ!)とかって。

これは無神論者から見た、信徒たちも似たように見えます。私もそうでしたから。
しかし、一心にお経を読む、或いは真言を唱える。そう続けていると、例え刹那な一瞬でも、そこに主観も客観も存在しない無我の境地に至ることがあります。
これこそが一切皆空の世界、つまりは『涅槃』の世界なんだっ! かも知れないぞっ!と、分かること。即ち、認識できた≒自覚できた≒覚れた(悟れた)ということなのであります。


ぶっちゃけ、これが信仰の種明かしでもあります。
お経に残されている。ということは、お釈迦様自体がこの方便を利用して生涯、法を説いて来られた。ということなのです。しかし、マジックもそうでしょうが、驚きや賞賛に値した素晴らしいマジックも、種を知ってしまえば「ナンだ、そんなことか。」とつまらなくなってしまうものでありましょう。ねぇ?マジシャン高橋さん。

但し、種が分かっても昨日今日で真似出来るものでも御座居ません。
一応、そーゆーことだったんだ。という、程度でご理解して戴き、忘れても結構です。ただ、このように一心に毎日を神仏と、即ち(おの)が自身と向き合うことで、まるで本当に神仏からダイレクトに・・・
(はい、私自身はそう信じて疑っておりませんが、)下知されたかのように、真如の月の如くありのままの心模様が、自分の口を通して成すべきこと、興すべきこと、願うべきことなどがポンポン出て参ります。

しかも、全く無意識にです。
であるからして、思わず言葉にしたときは大抵、はたと驚きます。無意識ですから。それ以上に、自分が求めていた答えが得られたこと、考えが及ばなかったこと、それらがポンと見つかるのですから、神仏のご下知に違いないのです。
これが先ほどもお話しした、『不思議』=思議(人間の思考力など)に、(不可)及ばない、即ちここでいう観音力は『不可思議』だと云うことです。この気付き(下知)こそが、大きな功徳ではないかと思うのであります。


さて、まだ始まったばかりの感も御座居ますが、こちらの和訳も何度かに分けてお送りしたと思いますので、今回はこの辺にて切り上げさせていただきます。
本日もご訪問、誠に有難う御座いました。

感謝合掌
法蓮 百拝



〜編集後記〜
まずは芦屋の知己ことテルさん、そしてマジシャン高橋さん、このお二方に厚く御礼申し上げたい所存であります。
前稿『悪縁退散』のコメントにて、お二人からは非常に貴重且つ、ご自身の身辺に起きた大変大きな問題にも臆することなく、またこうしたWEB上において、デリケートなプライバシー部分にも迷うことなく発言して下さったこと。そんなお二人の温かなお心とお気遣い、さらに勇気を心底称え、深く感謝の意を表したいと思う次第で御座居ます。本当に有難う御座いました。


生まれつき全盲のピアニスト、『辻井伸行』さんが、今月7日にアメリカ・テキサス州フォートワースで開かれた、ピアニストの登竜門・「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で、並居る競合を抑え見事優勝(タイ)しましたね。少し彼の話しをさせて欲しいのです、今しばらくお付合い下されば有難く存じます。

本当に素晴らしいことです。
まだ若干二十歳の彼は、歓喜の優勝後に「両親をはじめ、サポートしてくれた皆さんに、この喜びの気持ちを伝えたい。」「オーディエンスにいらっしゃる方々のために懸命に弾きました。」と、少々照れるような口調で語った。まだまだ少年の面影が残るような、その表情とは裏腹に既に彼には威風堂々としたオーラを感じました。

彼が優勝したコンクールは概ね、4年に一度開かれる、云わばピアニストのオリンピック。米国の文化使節として活躍したピアニスト、バン・クライバーンの名を冠した名誉ある世界的国際コンクールです。
非常に難易度の高い、リストの曲を奏でた彼は、願い通りにオーディエンスを湧かせ「神業」と評価を得ました。何度も何度も「ブラボー」の歓声がわき起こりました。ネットでリアル応援していた父親の喜びもひとしおだったことでしょう。

石川遼クンにしてもそうですが、私の半分以下しかない歳の若い人たちが世界に羽ばたいていくのは本当に嬉しいですし、日本人もまだまだ捨てたモンじゃねーなって思いますね。
同時に自分ももっともっと精進しなければと、励みにもなります。我々大人たちが腐ってる場合じゃありませんね。「おんどれ、ナンボのもんじゃい!」とは、誰かさんの昔の口癖でしたが、本当に私たち大人が「ナンボの」人生を歩いてきたって、胸を張ってそう云えるのでしょうか。辻井伸行クンのように、オーディエンスに向かって堂々と云えますでしょうか。

彼は生まれつき目が見えません。
なのに彼は、「お客さんが感動してくれたのが一番嬉しい。障害者というより、一人のピアニストとして聴いてくれた手応えがあるので、それがとても嬉しいです。」とコメントしました。
まだ老眼は始まってませんが、(ってか私は多分、キックの後遺症もあって極度のど近眼ですので遅いかも知れませんが。)目が見える私がもし、あのリストの曲を彼と同じレベルで弾くには千年かかりそうです。

彼の父親は医師で、特に音楽家として恵まれた家庭環境という訳でもない。
ここが非常に興味深い部分ですが、彼がピアノに目覚めた端緒は2歳の頃、たまたま母親がハミングしたメロディーを、傍にあったピアノのおもちゃで遊んでいた彼が、正確無比に弾いたことに家族が驚き、ピアノを習わせることにしたことに始まるのです。

この、 『今日の風、なに色?』 著者であり彼の母親である、 『辻井いつ子さん』 は、自らのホームページでも冒頭に、「才能のない子なんて、いないのです。」と語っています。
全盲で生まれた我が子に、ただただ悲観せず、世界に名だたるピアニストに育て上げた、彼女の生き様もまた皆さんに深く感銘を与えるのはないでしょうか。
自分の子は才能なんてあるのかしら? ウチの子はどうしてダメなんだろう。 どうして、こんな障害を背負ってるんだろう。 そんな悩みを持つ、母なる方には是非ご覧になって頂きたいと思います。「わが子の才能をいかに引き出し、伸ばすか」について、あなたと一緒に考えたくてこのホームページを立ち上げました。と彼女は言ってくれています。彼女もまた、御姿を変えられた観音さまでありましょう。

私より5歳も歳上で、やけに美人だな・・と思ったら、元フリーアナウンサーでした。
このニュースを見ていた私は、「すごいなぁ・・この母親。やっぱり、男は家康でいうたら於大(おだい)みたいに、まずは母親で決まるんやな。」と、独り言を云うと、隣に居合わせた家内が、「こんな子供だったら、みんなこんな母親になれるのにね。」と云いました。

「アホか!オマエ、外で喋んなや。」と口止めしておきましたが、私がここで吐露してるのでバレバレですが(笑 仕方御座居ません。許しておくんなせぇ旦那さま。まだまだ家内も悟っておりませんもんで。しかし、そんな家内が居たからこそ、今の私の信仰があるのもまた事実で御座居ます。

私はそのとき、言外にこのように思ったのであります。
まず、たまたま遊びで弾いていた彼のおもちゃのピアノの旋律に、溢れん才能を見出したこと。信じてみようと思ったこと。これが一番。
次に本格的に習わせようにも、全盲の子供です。そこら辺の近所にあるピアノ教室じゃ教えてくれなかったかも知れません。探したでしょう。相談し祈願もしたでしょう。ご主人も協力と理解を求め、説得されたでしょう。相当苦労もあったと思います。

そして極め付けが是です。
せっかく待ちわびて生まれた我が子が全盲だったら、貴女ならどう受け止めますか? フツーは悲観的になってしまうでしょう。我が子に起きた悲劇は、自分ごとの悲劇。どうして、私には健全な子供が生まれなかったの? どうしてウチの子だけがこんな目に合わなきゃなんないの? と。悲劇のヒロインは貴女です。

考えて下さい。もし、彼の母親、辻井いつ子さんが、悲観と絶望に毎日明け暮れ、仕事から帰ってきた旦那にも文句ばっか云って、ギャンギャンギャンギャンとしょっちゅうヒス起こしていても、同じように彼はグングンと勝手に才能を伸ばして行ったと思いますか? そもそも、そんなイライラしてる人が、台所に立ちながら機嫌良くハミングしますか? やかましいからって、ピアノのおもちゃすら持たさないかもですね。


人は得てして、自分の不幸は人のせい、社会のせい、旦那のせい、子供のせいにしがちです。勿論、女性ばかりでありませんよ。男も妻のせい、上司のせい、会社のせい、終いにゃ国家のせいにだってするでしょう。
逆に自分の幸福は自分のせい、自分が頑張ってきたから、自分に才能があったから、自分がキレイだから、自分が賢いからと、人への感謝の気持ちを忘れがちです。今回の稿でお話しした、『気付き』についてもそうですね。自分で気付けたんだから、自分がかしこい。エライのは自分、アホなんはアンタら。ってね。ナンボのモンでもないっちゅうにね。自分がごとき。

そうではなく、見える見えない、感じた感じられないは一切関係なく、神仏が多くの人々に姿を変え、多くの人々の声を通して私たちを導いて下さっているのです。自分の不幸は、間違いなく自分のせいです。誰のせいでもありません。これが自業自得。
自分の幸福は人のせいです。ちょっぴり自分も頑張りました。そう褒めてやればいいのです。これが他業自得です。いいことがあったら、他業自得。悪いことは自業自得。
そう思ってれば反って楽ですよ。人のせいにするから頭に来るし、ぶっ殺してやろうと思うのです。歩道を歩いていて、青信号で車に引かれたなんて、ちょっとビミョーですが、でもボサっともしてたんでしょう。コンマ1%も引かれる可能性が、なくはないとこ歩いてんですから。我子が引かれたとしても、一生その運転手を怨み続けていては、間違いなく幸福にはなれないでしょう。


冒頭に辻井伸行クンが言った、「両親をはじめ、サポートしてくれた皆さんに、この喜びの気持ちを伝えたい。」この感謝の気持ち。彼ほどの才能を持ちながら、いえ、スポーツ選手でも、財界人でも、どんな業界でも才能のある人ほど、周囲への感謝の気持ちを絶やさないようにも思います。かつて私も、そこに気付いてからは事業も伸びました。
才能を伸ばしてゆくこと自体が、気付きと訓練の連続。如何ほどの才能も磨かなければ光りません。逆にいえば、こういった感謝の気持ちを持ち合わせて生きてゆくこと。それが神仏から与えられる、『気付き』の数や機会にも、きっと比例していくような気も致します。

さてさて皆さん、いかがでしょうか。
最後までお付合い下さり、有難う御座いました。


怱々

法蓮 百拝