皆さん。こんにちわ。

『観音経和訳にあたり』
妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五。所謂、観音経は聖天信徒に限らず、般若心経の次ぐらいに宗派問わず、広く人々に読誦されております。自分は秩父三十四観音霊場の巡礼にて、経本を買って観音経を初めて目にし、やがて聖天さまとのご縁を頂き、現在では毎朝晩の勤行で日々お唱えさせて頂いております。
兎も角、観音さまと云えば、お地蔵さんと並び、仏教や信仰にご興味のない方ですら、日本人ならばどなたでもご存知なほど、最もポピュラーな仏さまでありましょう。

ひと言に観音さまと云っても、六観音を始め、そりゃあもう、ありとあらゆる容姿、お名前を持つ観音さまがいらっしゃり、自分のようなIQではハッキリ申し上げて憶えきれません。今回は、そんな多面的な観音さまの中でも、特に代表選手的なプレーンなお経、(観音経)を、全文意訳対比でご紹介したいと思います。

和訳の本は沢山売られておりますし、分かり難い和訳の掲載された経本は幾つも見てきました。こうして今まで度々、お経をWEB上にアップしたりさせて頂いておりますが、経本を持っていない方でも、いちいち本を買わなくとも、WEBページならば、簡単にコピーして印刷することも出来ます。
まずは、偶然アクセスされたとしても、それを取っ掛かりに、お経を読んでみようか・・とさえ、思って頂ければ、大変本望なのであります。そしてそれ以上に深く知りたくなったら、ときどきお経を読んでみたくなったら、本を買ったり経本を求めても良いと思うのであります。

なぜなら、理趣経と同じく観音経も、ただ唱えるだけでも大変功徳のあるお経だからです。お経はただ持っていも(持経)、読んだりしても(誦経)、写したりしても(写経)、それぞれ御利益があると云われています。そうは云われても、読んでも聞いても書いても、何言ってんのかサッパリ分からないのが、日本におけるお経です。

何で仏教が伝来してから千年以上も経つというのに、全部和訳されないのでしょうか。キリスト教が戦国時代から、こんなに受け入れら続けているのは何故でしょか。仏教が伝来した、中国や朝鮮、インドなど。比較的、文化も肌の色も近いというのに、遥かに異文化の宣教師たちの教義が、庶民にとって分かりやすかったからではないでしょうか。いつまで漢訳のまま読ませる気なのでしょうか。まぁそんなことをグダグダ云ってもしょーがないですし、一応意味が分からなくても御利益がある。とはされておりますが・・。

でもどうせ同じ読むなら、少しでも意味が分かれば、なお有り難味が増すと思うのです。いや、確かに増します。また以前に、『お経を暗誦しよう!(お経の覚え方・暗記方法)観音経偈文 』ってテーマを書きましたが、憶える際にも意味が分かった方が、遥かに憶えやすくなるのは間違いありません。

思い返せば自分自身が、二年前に仏教や密教に日々傾倒していったころ、毎日片っ端から仏教関連の本を読んだり、色んなサイトを閲覧したりしていました。そんなとき、「おぅっ!これは使える!」「あぁっ!そうなんや!」と、思えるサイトに出会えたとき、とても嬉しかったものです。
お経でも唱えてみよっかなって思ってみた人は、大抵、短い般若心経から入るでしょうけど、絶対に真っ先に観音経から入る人がいないとは限りません。ですから、そんな人たちにでも少しでも分かり易く、また親しみやすい和訳に仕上げたいと思う次第で御座います。

開稿当初から読んで下さっている、有難い有難い読者の方々へ。
先に侘び入れておきます。「オイオイ!理趣釈経は一体、どうなっとるんじゃい?」ハハァッ!も・もーし訳御座いません(切腹。しかし聞いて下さい。密教の真髄であり、密教色の非常に濃い理趣経よりも、どうしても先に、急いで観音経を和訳する必要がある。と思ったのです。
なぜなら、それほどまでに、観音経は大変情緒的即応的な内容である。と判ったからです。これほどあからさまなほどに、即物的な御利益の説かれたお経は他にありません。ですから皆さんに、一日も速くお伝えしたいのです。なにぶん勉強不足のため、こんな思いだけが先走り、お役に立てる形にならないかも知れません。しかし頑張ります。どうか勝手に頑張らせて下さい。


『そもそも観音経って?』
私たちがメジャーに読誦している、観音経と呼ばれるものは、406年に鳩摩羅什(くまらじゅう)という、なんだか人間ではないような名前の、しかし、あの玄奘三蔵(げんじょう さんぞう)と並び、二大訳経僧(お経の翻訳家)として称される、偉い偉いお坊さんが訳した、「妙法蓮華経」八巻二十八品ものの、二十五番目に当たるお経を、独立したように扱っているのです。その前後にも、286年に『正法華経』(竺法護訳)、601年の『添品妙法蓮華経』(闍那崛多・達磨笈多共訳)が現存する、三つの法華経であります。天台宗、日蓮宗の根本経典であり、諸経の王とも云われます。勿論、自分が爪先ほど籍を置く(笑 真言宗でもよく読誦されます。


『観音経の概略と構成』
観音経は難しいとされる法華経の中でも、云わばスタンダード版。易しい普及版ということで、普通=「普門品(ふもんぼん)」と呼ばれているのであります。全体を大別しますと、「長行(じょうごう)」と、「偈頌(げじゅ)」に分かれます。長行とは、前半の散文体の文章を、偈頌とは、前半の大意を韻文(いんぶん)=詩にして後半、歌い上げているものです。
よく表現される、偈文(げもん)とは、一定の文字数に制限するなどして、詩のような体裁にして書かれた文章のことを言います。ですから功徳(大意)部分は、偈文とも云われます。
前半の散文体は、さらに前編後編に分けられます。どちらも問答式になっていて、前編が観音さまの御名(みな)を称えることの功徳について。後編が観音さまの活躍ぶりが綴られています。これらを大体、上・中・下と三分割してお伝えしたいと思います。
無盡意菩薩メインキャストは、釈尊(お釈迦様)と、無盡意(むじんい)菩薩です。というより、ほとんど釈尊の独壇場です。無尽意菩薩?あまり聞いたことがありませんね。画像の彼です。良くお顔が分かりません。特徴のない菩薩は皆同じに見えます。三十日秘仏の二十一日仏だそうです。
三十日秘仏ってナンですか?すいません。今回そこまで説明している時間がありません。リンクからお勉強して下さい。画像も左リンクの、都内巡礼・下谷七福神巡りでお邪魔した、台東区の空飛ぶお不動様 正寶院(しょうぼういん)から借景です。
因みにここの『仏様の世界』や『やさしい仏教入門』などのコンテンツは、大抵何を検索しててもヒットするくらい充実しています。かつては二〜三時間平気で読みふけることが出来るほど、とても参考になる内容です。このブログを読み終わったら是非、アクセスして見て下さい。恐れ入りますが途中下車は出来ません(笑。
拝啓。ご住職様。いつも有難う御座います。頂いたお札は未だ大切にお祀りしておりますよ。陳謝合掌。


『観音さま人気の秘密』
瀬戸内寂聴:著の、『愛と救いの観音経』では、なぜ私たちに観音さまが馴染み親しむのか。その理由を五つに分けて語られています。
第一に、仏様は男でも女でもない中性とされながらも、観音さまの持つ、その女性的な美しさと母性愛の優しさ。この二つに人間は無条件に惹かれるとされています。
『日本霊異記』や、『今昔物語集』にも、観音さまの美しさに淫欲を抱いた男の話が出てくるそうですが、そういえば、かの聖天さまも、十一面観音さまの妖艶さに惹かれ、仏教に帰依したと前々回書きましたね。

また、田中治郎 /菊村紀彦 著の、『面白いほどよくわかる親鸞』では、自らの性欲の強さに悩み苦しみ続ける親鸞聖人に、六角堂に篭った95日目に夢の中に救世観音がこれまた美しい女性となって現れ、添い遂げ宥めてやろうと云われ、その後に親鸞は若く健康的で美しい妻、恵信尼(えしんに)と出逢ったと伝えられています。

ちょっと脱線:宜しいでしょうか?
自分にとって親鸞聖人は、遍照金剛空海様に続き、大好きな僧侶の一人であります。その著書、『愚禿鈔』(ぐとくしょう)に見られるように、自らを愚禿、つまり愚かな禿(はげ)と称し、また非僧非俗(ひそうひぞく=僧に非ず俗に非ず)と称し、僧侶でも俗人でもない生き方を貫きました。非難覚悟で仏教界のタブーである、「肉食妻帯(にくじきさいたい)」を公然と破ったのにも、表向きは仏道を精進し戒律を守っているかのように振る舞い、その実、妾を囲っていたような高僧に比べ、よほど親鸞聖人の正直な、己の心と向き合った勇気に感服致します。

男を巧くコントロール出来ずに、イライラカリカリされている、(*注:貴女が悪いという意味ではありません。貴女の美容に悪いのですよ。)私は一番、幸せになりたい!と願う、恋人や夫を持つ女性読者の皆さーん!。お待たせしましたー。元、カリスマ?モテモテ恋愛セミナー講師がぶっちゃけマスよー。
イケイケであったり、複雑ぶっている男ほど、実は非常に単純なものであります。 「女は男の胃袋をつかめ!!」 とも云われます。自分も三十代あたりまではそうでした。しかし、料理を遥かに凌駕する男心を掴む必勝の方法は、ズバリ!男を(観音さまのように)「心ごと抱(いだ)く」ことであります。
そうでなくとも、今般軟弱化していく男たちを甘やかせと云っているのではありません。女性だけが譲歩するべきだとも云っておりません。あくまで、御自身のため。貴女の幸せのための提言で御座います。

そうそう、たまたま見つけた、真宗の僧侶らしき方のHPに、非常に興味深い記述がありましたので少々引用させて頂きますと、
『居直りと言われるかもしれないが、表向き独身を取り繕いながら、実は妾を囲う坊主に比べれば、恥ずかしながらも、入籍して正妻を持つ方が、大変である。どう大変かは、坊主も一般人も変わるところはない。私を例に取れば、日々、愚妻に締めつけられている。「部屋を散らかすな」、「後片付けをしろ」、「犬の散歩に行け」、「犬の餌を作れ」、「まじめに働け」、「好き嫌いを言うな」、「早く寝ろ」、「早く起きろ」、「食べたいものがあるなら買ってこい」、「クリーニング屋へ行ってこい」、等々、並べ始めればキリがない。(滂沱の涙)』引用元:最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

いや〜スゴイ。見事によく在りがちなパターンでは御座いましょうが、それだけに余りにリアルで、失礼と思いつつ思わず読みながら、「ぎゃははははっ」と、声を出して爆笑してしまいました。他にも女房殿に散々と云われている方はいらっしゃるのではないでしょうか。
例えば、「日曜大工ぐらいしろ」、「車を洗え」、「便座のフタを閉めろ」、「小便をこぼすな」、「早く風呂に入れ」、「早くウンコをしろ」、「臭いウンコはするな」、「臭い屁をこぐな」、「ゴミを捨てて来い」、「もっと稼げ」・・本当にキリがありませんね(笑。
これなどは正に、慈愛ではなく、母親の都合で子供をぞんざいに振り回すような扱いですね。いえいえ、世の肩身の狭い亭主殿の味方をしようってんじゃありません。ただ、これではお互いに不満が堪る一方です。先の真宗の僧侶などは、女房を「妻と云う名の魔物」とまで称していらっしゃる。まぁ半分以上、お笑いでまとめようとされているとは存じ上げますが、自分の選んだ相手を卑下することは、自分をも同程度以下に卑下することになりかねないと思います。

兎に角、このままでは男たちは益々萎縮していくでしょう。やはり男は奮い立たなければなりません。分かっているのです。本当は。男は。生命体として女性に勝てないことを。認めたくないだけなのです。所詮、男は母なる女性から生まれし産物。決してマザコンでなくとも、母なる慈愛に男は安堵せずには居られません。
また、そうしてやることで、バリバリ仕事もし、家事や子育ても喜んで手伝ってくれるでしょう。一度お試しアレ。但し、自分から聞いたとは口外しないで下さい。なにがどうなっても責任は持てません(笑。
同様に男性もまた、女性を観音さまだと思えれば、合掌するほどにリスペクトする気持ちも芽生えるのではないでしょうか。

どちらも難しいですか?そうですね〜。・・でもホラッ!世界のイチローも云ってるじゃないですか。「小さな一歩の積み重ねでしか、決して遠くへは行けない。」と。違うか?(笑。男と女というものは、仏教より難しいかもですね。しかし、仏教的生き方や心の捉え方次第では、随分と男も女も幸せに暮らしていけるはずだと思うのは、自分だけでしょうか。「当たり前の反対法則」など、実は仏教を活かし、男も女も幸福に暮らせる手立ては幾らでもあるのです。いつかそんなテーマでも書いてみたいと思います。


話しが随分と逸れました。観音様の人気理由の二番目に、親しみがあげられておりました。そのお姿は、威厳の強すぎる如来でもなく、怖い形相の明王でもなく、最も人也した菩薩のお姿であると。
菩薩とは、悟りを求め修行する人々との意味合いも含みますから、私たち凡夫が、どんなに頑張っても如来にはなれなくとも、菩薩行を懸命に積めば菩薩になれるかも知れない。手が届くかも知れない目標、生きる指標でもあるわけですね。

第三の理由に、観音さまは母性のシンボルであるとしています。第一の理由と被ってる気がしますが、私たちが幼い頃、甘えなついた母親の母性愛。イタズラをして少々叱られたことがあろうが、父にこっ酷く怒られたときに、そっと慰めてくれたり、半分ズル休みで学校を休んだとき、普段より優しく看病してくれて、一生休んでおきたいと思ったり、ときに励まし自信を付けてくれたり、悔しいときは一緒に泣いてくれたりと、自分はそんな母の優しさが、今でも克明に記憶に残されています。男には良く分かりませんが見ている限りでも、母にとって子が幾つになろうが子は子のままのようです。

仏教の戒律において、色欲を人の煩悩の中で取分け最も苦しむ根源とし、江戸時代であれば、よくて島流し・破門。悪ければ極刑獄門と、特に厳しく女犯(にょぼん)の罪を戒めてきました。しかし、「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う觀世音」近松門左衛門 /祐田善雄 著:『曽根崎心中/冥途の飛脚』からも読み取れるように、古人たちにも観音さまは如何に親しまれていたのかも分かります。先ほどの親鸞聖人の逸話が今に語り継がれるのも、女犯の罪さえ許して下さる、観音さまのご慈愛と優しさに、性欲に苦しむ私たち凡夫が救われたからでありましょう。

第四の理由として、"現世利益(げんせりやく)と、抜苦与楽(ばっくよらく)"と、書かれています。言い切ってしまえば、観音経の中には、およそ私たち人間が想像し得る幸福の全ては、観音さまさえ信じれば、全て与えられる。と書かれています。ことごとくの不幸も苦しみも、一切救って下さると説かれております。全くなんとも頼もしい限りの観音さまの威神力です。
卑しいかな、つまらないかな。・・そう思いつつも、果てしなく現世利益を求めてしまうのが私たち凡夫であります。勿論、生きているうち。出来れば、そうなるべく早く。願いが叶いますように。そう祈らざるを得ない私たちの切なる思いを、叶えて下さるのが観音さまですから、有難い有難い。としか、いいようがありません。

最後に第五の理由が、"観音の威神力の応験(おうげん)"です。応験とは、応じる験(しるし)ですから、あからさまな御利益の体験談みたいなものでしょうか。それが実に速く、さらに保証までされているというのです。

猛烈な法華経信者である日蓮聖人は、現実に観音さまの霊験を体験された一人として、こんな事件があったそうです。鏑矢光和 著:『竜の口法難の一日』では、文永八(1271)年九月十二日、既成仏教をこき下ろすとして、幕府に捕らわれた日蓮聖人は、鎌倉竜の口の処刑場において、依智三郎直重が今にも斬首しようとした瞬間、暴風雨が起こり篝火は消え、刀が鍔元から三つに折れてしまい、尚且つ使者が早馬で駆けつけ、処刑中止命令まで下されたそうです。観音経の偈文にあります、「惑遭王難苦 臨形欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊・・」。和訳しますと、「或いは、王難の苦に遭い、処刑の場に立たされ、今正に命が終わろうとしても、彼の観音の力を念ずれば、刀が次々段々に壊れることだろう。」を、正に自らの命を以って応験された最たる実例といえるでしょう。

全三十三巻ある、『今昔物語集』の第十六巻:本朝付仏法は、全篇が観音さまの霊験譚なる様々な実例で埋められているそうです。今昔物語が成立したのは平安末期以降とされています。その当時の人々が、如何に率直に観音さまを信じ、霊験に浴していたかが分かるそうです。良い事も悪いことも、正しいことも誤ったことも、即座に手に入る情報の波に揉みくちゃにされながら暮らす私たち現代人にとって、何が本当で何がそうでないのか。なかなか見極めるのは困難です。
聖天さまの功徳にせよ、微塵も疑ってはいけないともいいます。だから純粋に信じたい。でも違っていたらどうしょう。信じたいんだから、確証をくれとさえ要求してしまいます。しかし、私たちの周りに飛び交う情報は全て本当に必要なのでしょうか。ときには大らかに遮断してしまい、何も確証のなかった当時の人々のように、心から純粋に観音さまのご霊験を信じてみるのも、反って気が楽になるような気がします。


さぁ、例の如く随分と前置きが長くなって申し訳御座いませんでしたが、いよいよ、




妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五  長行(観音経・全文)を和訳対比させていきます。観音経についての本は沢山出ていますが、参考にしましたのは最も優しく書かれていると思う、先述の瀬戸内寂聴:著の、『愛と救いの観音経』です。しかし、それでも初めての方が見て、まだ分かり難い部分があるかとも思い、それ以外の著書も参照しつつ、自分の言葉でも出来るだけ砕いてみました。
また、あまり砕き過ぎると、反って原文のどの部分のことを云っているのかすらも分からなくなってしまうのも事実です。お経は同じような意味を繰り返すことが多いものです。なので、前文後文と分けられるような部分は、極力、前文では原文の言葉を引用しつつも、後文で砕いた表現を使うなど工夫してみました。
読み方は三行一組です。一行改行して次の文へ移ります。上から原文、唱え方、和訳となっております。また、各シーン太字でにチャプター分けし、簡単に解説してありますので、イメージを膨らませて頂くと、さらに楽しいかと思います。文中の太字も同様ですので、原文(お経)には含まれておりません。
なお、三行振り分けは、読み易さを優先し、文法の違いによる若干の改行の上下のズレはご容赦下さい。

【妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五  長行(観音経・全文)/和訳】
シーン1:
一心称名 皆得解脱

釈尊の説法を聴きに、多くの聴衆が集まっています。
聴衆を代表する、無尽意菩薩が觀世音菩薩の名前の由来を、釈尊に尋ね、またその名を唱えること(称名)による、功徳を釈尊が約束される場面から始まります。

爾時。無尽意菩薩 即從座起。偏袒右肩
(にーじー。むーじんにーぼーさー そくじゅーざーきー。へんだんうーけん)
釈尊がまさに第二十五品を説かれようとした其の時、無尽意菩薩が弟子達の中から立ち上がり、右の肩を肌脱ぎにし、

合掌向仏而作是言。世尊 觀世音菩薩。
(がっしょうこうぶつにーさーぜーごん。せーそんかんぜーおんぼーさー。)
合掌して、釈尊に向かってこう云いました。

以何因縁名觀世音。仏告無尽意菩薩。
(いーがーいんねんみょうかんぜーおん。ぶつごうむーじんにーぼーさー。)
「世尊よ。観世音菩薩様は、どういう因縁で観世音と名づけられたのですか?」

善男子。若有無量 百千万億衆生 受諸苦悩。
(ぜんなんしー。にゃくうーむーりょうひゃくせんまんおくしゅーじょうじゅーしょーくーのう。)
釈尊が、無尽意菩薩にお答えになり、「さて、善男子よ」と呼びかけられました。
「もし、過去現在未来全ての世界の生きとし生ける者達が、様々な苦悩を受けたとき、」

聞是觀世音菩薩。一心稱名。
(もんぜーかんぜーおんぼーさー。いっしんしょうみょう。)
「この観世音菩薩の御名を聞いて、一心にその御名を称えたならば、」

觀世音菩薩 即時觀其音聲 皆得解脱。
(かんぜーおんぼーさーそくじーかんごーおんじょうかいとくげーだつ。)
「観世音菩薩は即時にその音声を観じて、つまり、世の音を観ずる(知る、観る、察するして)、それらの苦しみからすっかり解放して下さるのである。」


シーン2:
七つの難

ここから人生における七難に対する、具体的な救済例が示されていきます。「七難即滅」「七福即生」の観音信仰は、このお経から派生した言葉であります。

第一難:火難
若有持是 觀世音菩薩名者。設入大火火不能焼。由是菩薩威神力故。
(にゃくうーじーぜー かんぜーおんぼーさーみょうしゃ。
せつにゅうだいかーかーふーのうしょう。ゆーぜーぼーさーいーじんりきこー。)
「もし、この観世音菩薩の御名を常に受持する者は、設い(たとい)燃え盛る火中に入っても、菩薩の威神力によって、その身を決して焼くことは出来ない。」

第二難:水難
若為大水所漂。稱其名號 即得淺処。
(にゃくいーだいすいしょうひょう。しゅごーみょうごう そくとくせんじょー。)
「もし、大洪水に漂わされても、観音の御名を称えたならば。たちまち浅い所に逃れることが出来る。」

第三難:風難
若有百千万億衆生。為求金銀瑠璃硨磲碼碯珊瑚虎珀眞珠等宝。
(にゃくうーひゃくせんまんおくしゅーじょう。いーぐーこんごんるーりーしゃーこーめーのーさんごーこーはくしんじゅーとうほう。)
「もし、三世世界の人々が、金、銀、瑠璃、硨磲(しゃこ)、瑪瑙(めのう)、珊瑚、琥珀、真珠、等など、海の珍宝を求めんが為に、」

入於大海。假使黒風 吹其船舫。飄墮羅刹鬼国。
(にゅうおーだいかい。けーしーこくふう すいごーせんぼう。ひょうだーらーせつきーこく。)
「大海を渡っていると、突如暴風雨が吹き起こり、船が漂流し、人食い羅刹鬼の国に吹き寄せられそうになったとしても、」

其中若有乃至一人。稱觀世音菩薩名者。是諸人等。皆得解脱 羅刹之難。
(ごーちゅうにゃくうーないしーいちにん。しょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃ。ぜーしょーにんとう。かいとくげーだつ らーせつしーなん。)
船中にたった一人だけでも、觀世音菩薩の御名を称えている者がいれば、乗船者は皆、羅刹の難から逃れ脱することが出来る。」

以是因縁 名觀世音。
(いーぜーいんねん みょうかんぜーおん。)
「是の因縁を以って、觀世音と名づけるのである。」

第四難:刀杖難(剣難)
若復有人。臨当被害。稱觀世音菩薩名者。
(にゃくぶーうーにん。りんとうひーがい。しょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃー。)
「もし、また人が、今にも斬り殺されるか、殴り殺されそうな害を受けた時、觀世音の御名を称えれば、」

彼所執刀杖。尋段段壞。而得解脱。
(ひーしょーしゅうとうじょう。じんだんだんねー。かいとくげーだつ。)
「相手の振り上げた刀杖(とうじょう)であれ棍棒であれ、尋(つ)いで段々に壊れて、逃れ脱することが出来る。」

第五難:悪鬼難
若三千大千国土 満中夜叉羅刹。欲来悩人。
(にゃくさんぜんだいせんこくどー まんちゅうやーしゃーらーせつ。らくらいのうにん。)
「もし、三千大千国土の中に満ち満ちている、夜叉羅刹どもが大挙して襲ってきて、人を苦しめ悩まそうとしても、」

聞其 稱觀世音菩薩名者。是諸悪鬼。尚不能以悪眼視之。況復加害。
(もんごー しょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃ。せーしょーあっきー。じょうふーのーいーあくげんじーしー。きょうぶーかーがい。)
その人がこの觀世音菩薩の御名を称えるのを聞けば、これらあらゆる悪鬼どもは、悪意の眼が見えなくなり、増してやそれ以上害を加えることなど到底出来なくなってしまう。」

第六難:枷鎖(かさ)難
設復有人。若有罪若無罪。杻械枷鎖 檢繋其身。
(せつぶーうーにん。にゃくうーざいにゃくむーざい。ちゅうかいかーさー けんげーごーしん)
「設いまた人が居て、もし有罪だろうと無罪だろうと、首枷(くびかせ)、足枷、鎖で牢獄に束縛され繋がれようとするときに、」

稱觀世音菩薩名者。皆悉断壞 即得解脱。
(しょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃ。ししつだんねー そくとくげーだつ。)
觀世音菩薩の御名を称えれば、皆、悉(ことごと)く、枷や鎖がバラバラに千切れ壊れて、忽ち被害から逃れ脱することが出来る。」

第七難:怨賊難(おんぞくなん)
若三千大千国土 満中怨賊。有一商主將諸商人。
(にゃくさんぜんだいせんこくどー まんちゅうおんぞく。うーいちしょうしゅーしょうしょーしょうにん。)
「もし、大宇宙の中に充満する、怨めしい賊が横行しているとする。一方、ここに一人の大商人がいて、」

齎持重宝 経過嶮路。其中一人 作是唱言。
(さいじーじゅうほう きょうかーけんろー。ごーちゅういちにん さーぜーしょうごん。)
「多くの商人を引き連れ隊商を組んで、大切な宝物を持ち抱え、険しい路を通過しようとしている。しかも、いつ山賊に襲われるか分からない。そんな状況下で、その一隊の中の一人が觀世音の御名を称えた。」

諸善男子 勿得恐怖。汝等応当 一心稱觀世音菩薩名號。
(しょーぜんなんしー もつとくくーふー。にょうとうおうとう)
「全ての善男子よ。何も恐れ脅えることはないのだ。お前達はいつでも一心に、ただ觀世音の名号を称えさえすればいいのだ。」

是菩薩 能以無畏 施於衆生。汝等。若稱名者。於此怨賊 当得解脱。
(ぜーぼーさー のーいーむーいー せーおーしゅーじょう。にょうとう。にゃくしょうみょうしゃ。おーしーおんぞく とーとくげーだつ。)
この菩薩は能(良)く、我々から畏れを無くす様に施して下さる。お前達がもし、觀世音の御名を称えるならば、この怨賊に襲われることなどありはしない。」と。

衆商人聞 倶発聲言 南無觀世音菩薩。稱其名故即得解脱。
(しゅうしょうにんもん ぐーほつしょうごん なーむーかんぜーおんぼーさー。しょうごーみょうこーそくとくげーだつ。)
「これを聞いた多くの商人たちは、一斉に声を発(あ)げて、南無觀世音菩薩というだろう。その御名を称えた故に、即刻難から逃れ脱することが出来る。」

無尽意。觀世音菩薩摩訶薩。威神之力巍巍如是。
(むーじんにー。かんぜーおんぼーさーまーかーさー。)
「無尽意よ、觀世音菩薩摩訶薩は、威神の力は誠、偉大(巍巍)なること、之のようなものである。」

以上。
【妙法蓮華経觀世音菩薩普門品偈第二十五  長行(観音経・全文)/和訳(中)】へ続く。
次回は、シーン3:三毒の難(煩悩からの解脱)からご紹介致します。




〜編集後記〜
また、狐天狗さまより、貴重な情報を頂きました。
度々本当に有難う御座います。

先にコメントをアップしておきましたので、既に読まれた方もいらっしゃると思いますが、待乳山聖天さまの御影の十一面さまの裏は、歓喜童子さまだそうです。ほー。やっぱり捲らなくて良かった(笑。
林屋先生のもう一冊の著書「聖天信仰の手引き」ですか・・
欲しいですね〜。なかなか手に入りません。

さらに。こう書かれておりました。
>四国の大山歓喜天さんのお札が双身像の思い切り書かれたお札です。

・・・えっ?四国? もしかして、ま・・またですか?
おそるおそる調べると、やはり大山歓喜天=四国別格二十箇所霊場一番札所でした。
『別格1番大山寺 逆打ち遍路四十二泊目? 』で、しっかりブログも書いてました。
但し、聖天さまの御影には「聖」の字も触れていませんが(泣。
(ここも歩き遍路で行ってるや〜ん!)あとの祀りとは、本当このことですね(笑。


大山歓喜天 御影>ググればどこかのサイトで画像みれるはずです。
ググりました。ありました。これですね。
歩き遍路のときは、本当にたった1グラムでも荷物を減らしたかったので、お札類はほとんど頂かなかったですからね〜。いや〜残念無念。またお伺いします。画像は辺境新聞社より拝借。


最近。コメント欄で、音羽さんが高橋さんとおしゃべりしていて愉しいですね。
まるでミクシーみたいになってきました(笑。
あそうそう。音羽さんがブログを始められるそうです。
リンクしたらお知らせしますね。実はマジシャン高橋さんも、素敵なブログをとうに書いておられるんですが、これを機会に長い間、放置いているリンク集も整理しようかと思います。

宜しければ、いや実は俺も書いてるんだよねとか、私も書こうと思います!という皆さんも是非、ブログURLをメッセージかコメントからお知らせ下さい。
神仏や遍路、巡礼に関することであれば、トップページにて直リンク致しますし、無関係なサイトでも読者の方でしたら、サイドバーの『かんたん相互リンク』をクリックしていただき、相互リンク登録タブから登録されるか、面倒な方、携帯の方などは、相互リンクからどうぞ。あくまで善良な読者の皆さんとの親睦を深めるためであり、単なるアクセスアップ目的の方はご遠慮下さいね。大して変わるモンじゃありませんから(笑。 お互いにそれよか、人さまの役に立つコンテンツの充実を図りましょうね。


それでは本日も長々と有難う御座いました。
感謝合掌 法蓮 百拝