さて、前回の記事の中で、『入我我入』について、メールやコメント、メッセージで様々な反響やご質問を頂きましたので、この機会にもう少しだけ、具体的な『入我我入』の方法を、FAQ(よくある質問集)を交えてお伝えしておきます。
元々、仏画を描いてみました的なところから、入我我入へと話しが進んだコンテンツでしたが、皆さんどなたも仏画のことは、どーでもいいようで一切触れず、入我我入に強くご関心がおありのようで。ナンだかちょっと寂しいのは気のせいでしょうか(笑。


〜『入我我入』についてのFAQ(質問集)〜
Q1:「入我我入とは、どこからどこまでを一巡とするのか?」
Q2:「そもそも、数珠の数え方が分からない」
Q3:「入我我入に適した数珠はあるのか?」

Q4:「真言を唱える際、どのタイミングで数えるのか?」
Q5:「ご本尊は、聖天さまでなければならないのか?」
Q6:「どうも真言(梵字)が、宙に浮くのを観想しにくい」
Q7:「自宅にお札しかなく、仏像が、(ご本尊が)ない場合はどうしたらいい?」
Q8:「お寺へ参拝した際にも、入我我入をするべきか?」
Q9:「十一面観音さまと聖天さまを、区別するのが難しい」
Q10:「入我我入のとき、印契は結ばなくても良いのか?」
Q11:「自分が入我我入出来ているかどうか、自己判断できるものか?」


Q1:「入我我入とは、どこからどこまでを一巡とするのか?」
A1:一巡を百遍、(数珠でひと回り)と捉えますと、入我(我は入る)で始まり、我入(我に入る)に終わりますから、具体的にいうと次のようになります。

1、行者(自分)の口から出る⇒
2、ご本尊のお臍へ入る⇒
3、ご本尊の胸を(種字を)廻る⇒
4、ご本尊の口から出でる⇒
5、行者の頭から入る⇒
6、行者の胸を(種字を)廻る⇒
7、再び、行者の口から出る。

これで、百遍(一巡)です。慣れてくれば、どうにでも自分のやり易いように工夫出来ますが、それまでの目安としては、全体を見てお分かりのように、行者(自分)には、「頭から入る」という過程があり、代わりにご本尊には、「お臍に入る」という、過程があります。
上記の「7」は重複ですので、それを除いてどちらも三つのプロセスを踏みます。丁度真ん中の、4の「ご本尊の口から出る」あたりを、五十遍ぐらいの目安として、1〜3と4〜6の過程に、数を振り分けていけば、巧く百遍で一巡出来ると思います。
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Q2:「そもそも、数珠の数え方が分からない」
Q3:「入我我入に適した数珠はあるのか?」

A2:
A3:数珠の数え方と、マントラに適した数珠は、交えてお答え致します。自分もそうでした。かつて、三重院の村上円信副住職にマントラ行〜その2〜にて、教えて頂きました。そのときは両手での数え方を教わりましたが、今般は右手を入我我入で使うこともあり、片手で数えております。

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これは普段、自分が使っている数珠です。四国歩き遍路のとき、どこのお寺だか忘れましたが、途中で数珠を紛失して買い求めたものです。菅笠を被ったまま、首から外せるようにと普通より長いものを選びました。しかし、札所に着いたときは暑くて暑くて、結局、菅笠を脱いでしまい意味がありませんでしたが(笑。

数珠は珠が全部で18〜43個くらいの略式の、持ち運びやすい小振りなものも御座いますが、真言を唱える、入我我入をするときは、本連数珠と呼ばれる、正式な108珠のものを用意した方が良いでしょう。
数珠の形は宗派によって色々御座いますが、浄土宗や時宗は独特の形状をしておりますし、浄土真宗の数珠は、念仏を数えて唱えることをしないため、マントラ行や入我我入には適していないかと思います。
そもそも、マントラ行や入我我入はどちらも密教の修法ですので。

また曹洞宗、日蓮宗は真言宗と基本的に珠の個数と配置が同じであること、一般的に真言宗の本連(八寸)は、八宗用として、宗派問わず用いることが出来る、とされていることから、今回は真言宗の数珠で例えさせて戴きます。

まず数珠全体を見て頂くと、二つあります一番大きな珠:親珠(おやだま)若しくは、母珠(もしゅ)と呼ばれるものから7つ、さらに14数えたところ(つまり、都合21)に、他の沢山ある主珠(おもだま)より小さな珠、四天珠(してんじゅ)が、全部で左右(両方)に四つ御座います。
この四天珠に近い方(七つしか離れていない方)の親珠を母珠としましょう。そのすぐ隣から爪繰って行きます。
そうしますと、四天珠が目安となって、7、21。次に33数えたところ(54)でまた親珠です。これを仮に父珠と致しましょう。これで半周50遍と見なします。再び33を数え、そこに反対側の四天珠、そして14でまた四天珠。そこから7で母珠へ帰ります。自分の場合は、四天珠も親珠も全て数えますが、通常はこれらを除いて数えます。親珠や四天珠を除いて、片側54、一周で108です。四天珠四つと親珠二つを足して、全部で114個の珠があります。

これを一つづつ、ご真言を唱えるたびに爪繰っていくのです。一巡すると、それぞれの親珠にボンボンのような、房がついていると思いますが、よく見て頂くと、四天珠よりも更に小さな珠が、片側に五個づつ付いているかと思います。
こんなもの憶える必要はありませんが、これを弟子珠といい、片側に合計十個。母珠と父珠側合わせて二十個あります。母珠側の弟子珠を百遍爪繰る毎に、一つづつ上に上げて行き、全部上がると千遍になるわけです。もうお分かりのように、父珠側の弟子珠を千遍に一度、爪繰ると一万遍まで数えられるということです。巧く出来ていますね〜。

弟子珠の先に、もっともボンボン側に付いている、フットボール型のひと回り大きな珠を露珠といいます。露型だから露珠なんでしょうが、そんなことはどーでもいいとして。これは、五百遍或いは五千遍上がった弟子珠を留めることに使います。
何遍も爪繰っていると、畳に数珠が擦れたり、脚に絡んだりして、時々、(アレ?さっき、七百遍だったはずなのに・・)と、数珠が下がったりしてしまうことがあります。それを防ぐためですが、実際は、トリップしてきたり、徹マン(徹夜でマントラ)をしたりしていると、段々ボケてくることもあり、弟子珠を爪繰ること自体を忘れて、親珠を通り越して連続二百遍とかやってしまうこともあります。

また、使い込んでいると、特に毎日使う母珠側の方は、露珠で留めておいても、弟子珠を通っている紐が摺れて減ってきて、緩くなってしまい、ちょっとした振動でも珠が下がってきてしまうこともあります。そろそろ、反対側(父珠)から使わないとかも知れません。こちらは千遍以上、数える時にしか使わないので、まだまだ紐も元気なままです。

まぁ原因はなんにせよ。自分はそういうとき、ご本尊に(この野郎!ちょっとダレてやがんな〜。シャンとせんかい!)と云われている気がします。虚空蔵求聞持法をしているときも、日にちが空いてしまったりすると、十万単位、一万単位は忘れないのですが、千単位を結構忘れてしまいます。
(アレ〜・・5千だったか、6千まで行ったのか?どっちだっけな〜)と、記憶が曖昧な時は、少ない方から爪繰り直します。本音をいうと、時間を無駄にしたとは思いませんが、やはり千遍でも労を費やた分、決して楽な行とは云えませんので、多少ガックリはきます。

因みにスタートした方(母珠側)には、もう一つ、浄妙珠というものが一個だけあります。親珠から見てボンボン側のすぐ隣にある珠です。マントラや入我我入を始めるときはこれを目印にしてもいいですね。ところで日蓮宗はこのボンボンが三つあり、従って弟子珠も全部で三十個と、見た目は一番豪華です。日蓮宗は在家信徒、僧侶に関わらず、正式な数珠を用いることが定められているとのことです。


ちょっと余談ですが、百遍以上、真言を唱える(数珠を数える)場合、宗派派閥により、五十遍を数えたら今辿った方を後戻りする。つまり、数珠の片側しか使わない。とされているところがあります。
これは親珠を越えない、即ち子が親を越えてはならない。とすることからだそうですが、自分は個人的な考えですが、あくまで子は親を越えていくべきである。と考えております。
それが子孫進化であり、親は子の目標となるべき生き様を見せるべきである。というのが信条であるのと、子の成長は親の最も望むことでもあり、さらに後戻りする、後悔するというのは、若い時分から人生において、最も嫌なことなのです。そういった理由から、勝手にガンガン親珠を越えて行きます(笑。
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Q4:真言を唱える際、どのタイミングで数えるのか?
A3:このご質問の意図が、ご真言の始めか終りか、どちらで数えるのか?と、いうことでしたら、例えば、聖天さまのご真言、「オン・キリ・ギャク・ウン・ソワカ」ですと、全部言い切ったところで、数珠を爪繰るのが良いでしょう。
なぜなら、出だしの「オン・・」で数珠を上げてしまうと、何か雑念が入って最後まで唱えそびれたり、噛んだりしたときに、カウントされてしまうからです。
まぁ相当早く唱えられるようになれば、どちらでも関係なくなりますが、基本的に自分は最後にカウントするようにしています。
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Q5:「ご本尊は聖天さまでなければならないのか?」
A5:そんなことは全くありません。たまたま、聖天さまをご本尊した場合の入我我入をご紹介したまで御座います。不動明王でも、阿弥陀如来でも、貴方様ご自身の信仰するご本尊であれば、どの仏さまでも結構です。行者であれば本来、入我我入は、ご真言を何遍唱えるときでも、如何なるときも取り組むべき心構えですから。
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Q6:「どうも真言(梵字)が、宙に浮くのを観想しにくい」
A6:ごもっともですね。だって何にも見えないんですから(笑。ですので、工夫としては、自分のように経本か何かから、前回お伝えしたように、ご真言をコピーするか、書くかして貼るとか。
もう一つは、数珠を紡いでいるのは左手ですから、右手は空いてる訳ですね。そこで例えば、1の「自分の口から出る」という、シーンでは、実際に右手を使い、自分の口元に持っていき、ご真言がご本尊のお臍に向かって、流れ出て行くような仕草を繰り返すのです。空也上人立像(六波羅蜜寺)

丁度、京都巡礼チャリンコの旅でご紹介した、六波羅密寺の口から「南無阿弥陀仏」を吐き出す、(例えが悪い?すいません)空也上人立像のように、です。そうして動作を加えることによって、イメージが高まりやすくなると思います。他の動作も同じですね。お臍へ入るときも、胸の種字を廻るときも同様に、右手を使って胸で種字をグルグル回したり、お臍へ入れ込んだりすると、より一層と『入我我入』をイメージし易いかと思います。自分はそうしてきました。
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Q7:「自宅にお札しかなく、仏像が、(ご本尊が)ない場合はどうしたらいい?」
A7:う〜〜ん。確かにお札だとイメージし難いですね。そもそもお臍が見当たりませんし(笑。 仏像がなくても、せめて御影(おすがた)があればいいのですが。貴方様ご自身の慕う、ご本尊をキチンとお祀りされている寺院などで、御影を戴いてみては如何でしょうか。必ずしも、御影にお臍が見えているワケではありませんが、大幅にイメージはし易くなるでしょう。余裕があれば、仏像をお求めになられれば尚良いでしょう。立派なものである必要も御座いません。小さなものでも十三佛や干支を守護するメジャーな仏さまなら、多々市場に流通しております。

なお、もし、聖天さまをご本尊として信仰される場合は、十一面観音さまの仏像をお求め下さい。自分も以前は、聖天さまの仏像が欲しくて堪りませんでした。今般、ガネーシャの知名度が上がり、チベットやネパール製の金属像など、多くのガネーシャ像が実しやかにご利益があるなどと、射幸心を煽いだ宣伝文句で売られております。しかし国産品では殆んど見当たりません。

つまり聖天さまの仏像としては、簡単に手に入らないのには理由があるのです。信仰と関係なく、仏教美術としてなら、ガネーシャ像でもなんら問題御座いませんが、聖天信仰として拝みたい場合は、十一面観音さまの仏像を推奨致します。御利益は同じです。理由はQ9:で後述致します。
「え〜っ!もう買っちゃったよ!どうすんべ?」という方は、待乳山か生駒山など、聖天さまを手厚く祀る寺院に奉納なさるか、已む無く所持する旨をご相談された方が賢明かと思います。
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Q8:「お寺へ参拝した際にも、入我我入をするべきか?」
A8:はい。するべきかと思います。というより、むしろ、是非行なうべきかと。なにしろ、お寺には念の強い、ご本尊が祀られている訳ですから。キチンと行者が日々ご供養し、また多くの人々が手を合わせる仏さまと、対面出来るチャンスは寺院参拝のときしかありません。また、参拝時の入我我入に因って、霊験あらたかなご本尊の御心(みこころ)を、少しでも持ち帰れれば、これほど有り難いことはないのではないでしょうか。

例えば、生駒聖天さま(宝山寺)では、毎月1日と16日の縁日の日、待乳山聖天さま(本龍院)では、毎月25日の合同大般若転読の日ですと、普段は見えない内々陣の前、つまり、聖天さまのお厨子のすぐ傍まで参れます。
待乳山の場合は、後ろに人が順につかえてますから、それほどゆっくりは拝めませんが、自分は普段、本堂の外陣であっても、他の信徒さんに迷惑にならぬよう、控えめに堂の端っこで手を動かして千遍唱えたこともあります。
生駒聖天さまでは、お厨子の真正面は次々といらっしゃる参拝者の方に譲り、皆さんの通路を確保して、お厨子の正面にあたる、反対側の壁際で代わる代わる拝まれる、参拝者の肩越しにでは御座いましたが、一万遍唱えたこともあります。

とにかく自宅に比べれば、最もご本尊の傍でお唱え出来るのは、とても良い機会だと思います。但し、誤解無きよう申し述べておきますが、仏さまは本来、無形のものであって、ご本尊としての仏像はお寺のものでも、自宅のものでも、有形の象徴に過ぎません。ただ、待乳山聖天さまなら、推古九年:601年(縁記は595年)。生駒山聖天さまなら、延宝六年:1678年(大聖無動寺としては、655年)と、幾千何百年もの、太古(いにしえ)の頃より、土地土地の人々に厚く信仰されてきた歴史的背景が御座います。
生駒聖天さまなら、三百年もの間、毎日午前二時から浴油祈祷を続けられている行者がいらっしゃいます。現代まで何人何十人ものご住職、行者たちによるご供養が、ご本尊に念として沁み込みんでいること。また、そういった永く信仰されるご当地そのものに、元よりパワースポット的な力が存在するのかも知れません。
例え大層なご由緒があり、高僧が開山したとしても、現在、今この世で神社や寺院を常々奉る、ご住職や神主が渾身の思いで祈祷供養していなければ、お札にしたって御守にしたって、ただの印刷物。ファンシーグッズに過ぎません。
また、多くの方が参拝すれば其の分、ご本尊に様々な念がこびり付いてしまいます。それらを祓い淨める意味でも、宮司さんやご住職が境内に居住されている、寺院や神社がより好ましいとされています。

しかしあくまでも、ご供養する行者の心(行力)、信仰する我々の心(信力)、そして観音さまなら妙智力、など仏さまの法力仏力が融合しあって、初めて得られるのが御利益であることに変わり御座いません。仏さまの御力(みちから)=仏力・法力は無限∞であるとして、御利益=法力∞×≦×行力≦×信力となるでしょうか。それぞれがゼロでは法力は届きません。また、最も非力と思われる、私たち凡夫衆生の信力が肝心要ともなり得るのだと思います。
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Q9:「十一面観音さまと聖天さまを区別するのが難しい」
A9:このご質問を頂いた方は、恐らく待乳山などで受けられた、十一面観音さまの御影などをお持ちだと思いますが、これはとても良くお気持ちが分かります。確かに難しいんですよね〜ホント。自分も聖天さまの仏画を描くまでは、いえ、描いた今でも習慣が抜けず、時折、十一面観音さまの御影に向かって、入我我入をしてしまいます。

ご存知ない方のために少々・・で済むかどうか分かりませんが。
まず、第一に、何度かお話ししておりますように、聖天さまは他の諸神諸仏と違い、ご本尊として仏像を自宅にお祀りしてはならない。ということになっております。詳しく書くとそれだけで相当記事が増えてしまいますので、今回は理由を訊かないで下さい(笑。敢えて、一個人ではお祀り仕切れないとだけ申し上げておきます。

第二に、斯様な理由から、本地佛であられる十一面観音さまを、聖天さまとして、お参りお祀りするわけですが、自分も最初のころ、入我我入どころか、この区別すら(という表現が正しいかどうか明言致しかねますが)中々出来ませんでした。
と申しますのも、例えば待乳山や生駒山、どちらの「大聖歓喜天禮拝作法」の中にも、聖天さまのご真言の前に、十一面観音さまのご真言「オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ」を百遍唱える。と御座います。
この時点で、目の前にいらっしゃいます、十一面観音さまの御影を見て、十一面観音さまを想い、お唱えするのですが、すぐさま其の後、今度は同じ御影を見て、聖天さまと想い、お唱えしなければなりません。つまり、あくまでここでは、聖天さまとして拝まなければならず、十一面観音さまを十一面観音さまとして、拝んではならないのです。
とはいっても、目の前にある御影は紛れも無く、十一面観音さまでありますし、どこをどう見ても、聖天さまには見えません。だから、聖天さまと想え!と言われたって、難しいものは難しいのです。
だから自分の場合は正直に云いますと、前回お話ししましたように、敢えて絵柄を捉えられない、象徴的な古ぼけた東寺の両部曼陀羅に、男天と女天とを分けてイメージしていたのかも知れません。これはもう、慣れるまでイマジネーションを描き立てるしかないかもです。


ちょっと長くなりますが、なぜ、十一面観音さまを聖天さまとして、拝むのか?について、『大聖歓喜天利生記』からの引用が、分かりやすいと思いますのでご紹介致します。自分も信仰を始めたころ、これを読んで大まかに理解が出来ました。それでも複雑だったのですが(笑。

『大聖歓喜天利生記』より
「聖天様はその御本地は観音様であるけれども、観音様としてはどうしても聞き届けられることの出来ないような、我欲一点張りの願いまで聞き届けてやろうという、広大無辺の大慈大悲に基づいて、他化自在天、即ち大自在天として、現れ給うた十一面観音菩薩が、即ち聖天様である。だから観音様は観音様であっても、唯の観音様と我々に取っては全く有難さの違う観音様である。」(中略)

「観音様と大自在天として、お扱いをするのとどう違うかと云うと、観音様の場合は之を仏壇の中にお祀りしても差し支えないし、又忌引(きびき)中や身体の穢れておるときに、之を拝んでも差し支えない。更にその前で先祖や知人の冥福を弔うても差し支えない。つまり、全てを仏様の扱いにしても良い。然し、仏様であるからその前で、御神酒(おみき)などは上げられないことになる。」

「之に対して、大自在天のお扱いをすると、全てが神様に準ずるお扱いになる。だから御神酒を上げるのみならず、全ての不浄や穢れを忌んで、なるべく他の神仏と一緒にお祀りしないようにしなければならないのである。だから、聖天様として拝む場合には、ご本尊は十一面様のお像であっても、なるべく之を別の神棚かお宮にお祀りして、全て之を神様らしくお祀りしなければならないのである。」


斯く斯く然々の通りで御座います。参考になりましたでしょうか。
聖天さまに限らず、真言密教では全ての仏さまは、突き詰めればぶっちゃけ汎神論的な大日如来の三輪身(さんりんじん)であります。三輪身(さんりんじん)とは、早い話しが、自性輪身(じしょうりんしん)が、真理そのものの五智如来を差し、それでは我々凡夫衆生の目が覚めないので、人也をした菩薩に化現し教化救済して下さるのであります。
しかし、それでも未だ目の覚めぬ輩には、ついに教令輪身(きょうりょうりんしん)の明王となって、強剛難化、最も救いがたき衆生を、慈悲なる忿怒相且つ、云わば武力行使をもって恐怖心で強制矯正折伏されるのです。

生駒山聖天禮拝作法による和讃に、「金胎両部の教主たり。外には忿怒の御姿(みすがた)ぞ、内は慈悲の御心(みこころ)ぞ。故に衆生の苦を抜きて・・」と御座います。時には明王のように忿怒相で私たちを叱り戒め、時には観音様のように、暖かな御慈悲で見守って下さいます。観音様自身も三十三化身とお姿を変えられます。
また、何度かお話ししました、大黒天一時千座行においても、三面大黒天から不動明王を、不動明王から大日如来へと観想を展開して参ります。このように、密教行者としては究極的には、自性輪身としての大日如来との入我我入を具現化していくのであります。
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Q10:「入我我入のとき、印契は結ばなくても良いのか?」
A10:両手を使う、自分のやり方でなくとも、数珠でご真言の数を数えていれば、片手が塞がって、印契は結べません。まぁ、ご真言がせいぜい21までなら、頭の中で数えらると思いますが、百や千は無理でしょう。
なので印契は、ご真言を唱える前後に結ぶようにしております。因みに自分は、聖天さまを禮拝する際は、勤行の前後にも聖天さまの印契を結んだまま、五体投地を致します。
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Q11:「自分が入我我入出来ているかどうか、自己判断できるものか?」
A11:う〜〜ん。これは一番難しい質問ですね。ただ、これが正しいのかどうか明言出来ませんが、自分の場合は、ご本尊が(ご真言が)自分の頭から入ってこられる、「我入」の際に、頭上が熱くなることがあります。初めは不思議に思いました。如何に汗かき熱がりな自分といえど、右の手の平だけが勝手に熱くなることは御座いません。
けれど、手の平が頭の頂上に近づく瞬間、つまり、ご本尊の口からご真言を受け取り頂いている数秒だけ、パーマをあてたりカラーリングしたときの赤外線?が、強烈に当たってるような感覚になるのです。いつもいつもではありません。だから自分としては、そのようなときは、きっとご本尊の御心に触れられたのだ、と有難く頂戴するようにしております。
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今回は以上で御座います。
ご参考になりましたでしょうか。
世のGWも中盤、変なインフルエンザも流行っておりますが
皆さまくれぐれも体調崩さず、交通事故のないように休日を謳歌して下さい。

本日も有難う御座いました。


感謝合掌
法蓮 百拝