090419_1354~0001皆さん、こんにちわ。何日か前に生まれて初めて、墨絵で仏画を描いてみました。どうでしょうか? しかも聖天さま。(イイのかな〜?・・・イイんです!(笑)
原本は、【歓喜天曼陀羅】における雙身尊像。参考にしました、真鍋俊照(著:心が安らぐ 仏画を描く楽しみ (小学館)によりますと、京都の絵仏師大願が、文政十年(1827年)八月に、御室心蓮院で真乗院本を以って写したものだそうです。描線の描き方については、呉 斉旺(著 :水墨仏画入門 日貿出版社を参考にいたしました。
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ご存知のように聖天さまは、どこのお寺に行っても、その尊像のほとんどは、秘仏で御座います。
せめて、御影(おすがた)を頂戴しようにも、妻沼聖天さまも待乳山聖天さまも、本地佛である、十一面観音さまが描かれており、せいぜい聖天さまの種字真言(仏や菩薩などを、梵字一文字で表現したもの)、ギャクギャク(画像参照)が描かれている程度です。

中でも、伴侶として十一面観音さまではなく、福徳弁財天を抱く、珍しい雙身お姿の聖天さまとして有名な、女人一願聖天のお寺、(HP上とはいえ、聖天さまのお姿をネットで公開しているのはここだけ?)関東八十八ヶ所霊場第五十四番札所・圓明院は一時期、ご本尊をご開帳されていたようですが、そういえば自分が東国遍路巡礼で訪れたころは、全く聖天さまに無関心だったので、ご拝禮することが出来ませんでした。あ〜あぁ残念無念。ご縁とはそういうものですね。

ブログを辿れば、2008年3月17日。
芦屋の知己よりご縁いただき、京都巡礼中に、雙林寺で初めて聖天さまをお参りして以来、かれこれ一年が経ちました。以後、妻沼聖天さま、待乳山聖天さま、とご縁を繋ぎ、生駒聖天さまを三度目に参詣した、2008年8月からは、完全に中心的な信仰を聖天さまに定め、毎日の勤行で朝は待乳山聖天さま、夜は生駒山聖天さまの勤行次第に基づいて厳修し、それまで朝晩に五百遍づつ分けていたご真言も、各々千遍づつ、キッチリとお唱えしてきました。

思えば一日に二千遍であれば、ひと月に六万遍、九ヶ月で約五十四万遍。虚空蔵求聞持法に置き換えれば・・う〜〜ん。結構こなしていることになりますね。『信をおこして朝夕に 唯だ怠らず念じなば・・・』 ただ、怠らず・・絶えることなく・・ひたすら・・ひたすら。やはり、これこそが、聖天さま信仰における、重要且つ最も基本な姿勢なのでしょう。


斯く斯く然々・・
だから、そろそろ今回の仏画を描かせて頂くに至った。
という訳でもないのですが、もう一つ大きな理由は、【入我我入】にあります。
(にゅうががにゅう)と、キーボードに入力しても、恐らく素直に変換されないであろう、この【入我我入】とは、真言密教における修法の一つで、【三密加持(さんみつかじ)】と呼ばれる修行のことです。
ひとつ・・というより、【三密加持】・【入我我入】こそ、むしろ密教の根幹、根源というべき修行ではないでしょうか。前回ご紹介した、舎利禮文(しゃりらいもん)という、お経の中にも出て参りましたね。

これから色々お話しして行きますが、冒頭、簡単に言ってしまえば、【入我我入】とは、仏さまと自分が身心共に一体となる。と云うことであります。『大聖歓喜天利生記』によれば、ひとつの具体的な方法として、聖天さまのご真言「オン・キリ・ギャク・ウン・ソワカ」。

オン・キリ・ギャク・ウン・ソワカ梵字で著すと、画像のように六つの文字を一々心に思い浮かべ、その一字一字が、自分の口から飛び出すように観想する。と書かれています。続けますと、次に、その文字が珠玉のように繋がり列をなし、本尊(この場合、聖天さま)のお臍に入り込むように観想する。
そして、種字(しゅじ)であります、「キリ」の字が、聖天さまの胸にあるように観想し、お臍から次々と入った六つの文字が、種字をひと回りして、今度は聖天さまの口から出るように観想する。とあります。これが、「我入の修法」です。

入我我入かくして、聖天さまの口から出て参りました、六つの文字列は今度は念じている、行者の頭から入り、胸の辺りまで来ると、先ほどと同様に、同じく描かれた「キリ」の種字をひと回りし、また口から出て聖天さまのお臍へと向かうのであります。
これが「入我の修法」とあります。他にも諸説御座いますが、これら一連の過程が「入我我入」の簡単な説明です。
*ちょっとギモン:
『大聖歓喜天利生記』には、聖天さまの種字は「キリ」とされておりますが、「ギャクギャク」とする説も御座います。「キリ」は、十一面観音を顕わしますので、本地仏としては理解出来るのですが・・。現時点では勉強不足で解りません。どなたかご教示願えれば幸いで御座います。

まぁ、こう書き写すは簡単ですが、実際やってみるとこれがなかなか難しいのです。ポイントは、「珠玉のように繋がり列をなす」というところで、六つ文字のご真言をグルグルと途切れることなく、巡回させるのが至難の業です。
ちょっとでも雑念が入ると、簡単に途切れてしまいます。だって、実際は目に見えてないんですから(笑。更に弁明するならば、五穀を断ち堂に篭って精神を研ぎ澄まして行くなら兎も角、自宅でありますと、最中に掃除機の音が聞こえたり、「宅急便で〜す♪」と玄関のピンポンが鳴ったり、外の喋り声や道路工事の音、車の騒音、料理の匂いがして腹が減ったりと、色々魔が差して参ります。そこで、【入我我入】を云わば素人が、修法修行として自分に取り入れるためには、少々工夫が必要で御座います。


胎蔵界曼陀羅今まで自分の場合、ご真言である六つの梵字をイメージし易いようにと、真正面の十一面観音さまの御影(おすがた)の横に、経本を拡大コピーした梵字を貼ってあります。更に、左右の両部曼陀羅にも其々貼ってあります。
これは僭越ながら私流ですが、生駒山聖天の和讃に、『金胎両部の教主たり』と示されますように、金剛界と胎蔵界の教主、即ち大日如来の権現(ごんげん=権(かり)の姿で現れた神仏)で在られます。
更に聖天さまは雙身天王、つまり男天と女天が寄り添う、或いは抱擁し合う、といった今回、仏画として描いたような、いわゆる歓喜仏的なものが通例であります。(単体多臂像(身体は一つで腕が4〜6本ある)のは、聖天さまよりガネーシャ神としての意匠が強いです。)

ですから、一旦、両部曼陀羅にそれぞれ観想した上で、最後に中央上部に貼ってあります、「ギャクギャク」の種字に向かって、聖天さま種字両部曼陀羅から繋がって出てきた文字が合体して、(解り易いでしょ(笑)。
また自分の頭に降り注がれるように観想するのです。この際まず始めに、仏間正面向かって左、西側に掲げた金剛界曼陀羅に、男天としての単身の聖天さまを観想します。
まるで自分を鏡に映したように、ポッコリと真っ白でメタボなお腹をした聖天さまです。これは非常にイメージし易い(笑。そしてなぜか、いつも寝そべっておられます。
自分がご真言をお臍へ差し込むと、「おっ?やるんか?」てな感じでムックリ起きていただけます。そうですね・・数珠を繰りながら数にして、六つの文字を二巡したぐらいですから、十二遍でしょうか。
充分、目を覚まして頂くと次に、東の胎蔵界曼陀羅へ入ります。こちらはなぜかイメージするのは、黄褐色の肌の女天なのです。インド人なのでしょうか?聖天さまは何で色白?白い象だから?よく分かりませんが、そうイメージしてしまうのです。但し、メチャクチャべっぴんさんです。

或る逸話によりますと、聖天さまがまだ、強暴魔物な摩羅醯羅列王(まらけいられつおう)から、大鬼王毘那夜迦になられた頃、救いを求めた国民の願いを受け、十一面観音さまが妖艶な女天となり現れ、その美しさにメロメロに虜となった聖天さまは、后に娶る代わりに仏教に帰依し、人々を救うことを誓われたのです。
う〜〜ん、よく分かります。そんなモンです。所詮、男ですから。(笑。

まぁそのシュチエーションをイメージすると、胎蔵界に、つまり妖艶な女天のお臍にご真言を入れていくと、微かに西の金剛界から、気になってしょうがない聖天さまが、チラホラ覗いているような気もしてくるのです。
自分はわざと知らん振りして、無遠慮にご真言を入れて行きます。そうすると、女天の胸の種字を一巡したご真言は、やがて中央のギャクギャクに向かう頃には、焦らしに焦らされた聖天さまが、ヤッキになって追いかけてきます(爆。
そんなイメージで行なうと、とても楽しく(いや、失礼。)、とても集中できて精神統一され易いのです。

これは最近判ったのですが、含光記 毘那夜迦誐那鉢底瑜伽悉地品秘要
(びなやかがなはっていゆがしっちぼんひよう)歓喜天法によりますと、
其左天著天華冠。鼻牙短。
其目亦細著赤袈裟福田相衣。身白肉色。
右天面目不慈。鼻長目廣。不著天冠及福田衣。身赤黄色。
唯以黒色衣而纒其頚肩。此天以面相著前女天面。
作愛惜相。是像顯權實相。

とあって、要するに、「双体の歓喜天は、男が鼻が短く、白い色。女が鼻が長く、赤黄色である。」と示されています。これを見た時は、感動すら覚えました。勝手になぜか、自分が思い描いていた、肌の色そのものだったのですから。
蛇足ですが、仏画の左側の仏が右側の仏の足を踏んでいますね。これも、『大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌』に、手足有瓔珞環。亦用其兩足蹈男天足端。「女天は、男天の足の先を踏んでいる。」とありました。
ってことは、この仏画の左側が女天なのですね。なるほど、少々身体の線が細いからそうかもなぁ〜と描きながら思っておりました。ナンで踏んでいるのかって?そんなコト知りません。聖天さまに聞いて下さい(笑。

そんなこんなで、自分なりに工夫すると、入我我入も楽しく集中できる修法ですよ。という、一例で御座いました。はい。
あっ、そうそう。だから今回、仏画を描いて、より一層イメージを高めようと思った次第で御座います。それを云うのに、ここまでかかりました。しかも忘れるところでした(笑。


ざっと、サワリに触れたところで、真面目な話しに戻しましょう。

入我我入は密教だけでなく、様々な文化や道を究めていく過程にも応用されています。
例えば、嵯峨華道専門学校・副校長 垣花悦甫さんは、「花を愛でる、そしていける。花をいける人といけられる花が一体になる。」これを真言密教では、入我我入と言います。仏 我に入りて、我 仏に入る状態を言いますが、いけばなでは、挿者と花が一体となって、時間と空間に存在することです。そして空間を荘厳するのです。」と仰っています。

また、私も以前勉強しました、密教と親密な共通点がある気功。
NPO法人日本一指禅功研究会では、気功の目的として、入我我入を次のように語られています。
『氣功法の基本的な心の持ち方である「入我我入」を氣功の修行法であると説いている。入我というのは自分に入ってくるもののことである。逆に我入とは、自分から自然に帰すもののことを言う。』
『氣功の練習は必ず入我より我入を優先させなければならない。まず、欲望を捨て、欲しい気持ちを捨て、無駄な力を捨て、無駄な力を捨て、いらない雑念を捨て、 邪気を捨て宇宙に帰すことである。そうすると力の元である外氣が自然に内氣に変わっていく。「入我」になってゆくと説いている。』と説明されております。


まぁ兎角、修行といえば、滝に打たれる(滝行)。冷たい水を被る(水行)。険しい山道を練り歩く(山伏修行)。以前ご紹介した火渡り、何日も五穀を断ち、坐禅を組む。など厳しい修行、所謂、荒行が先行イメージされがちです。
虚空蔵求聞持法に代表されるような、山篭して真言をひたすら唱え続ける、マントラ行も、精神的には非常に厳しい修行といえますが、歩くことに限らず、車や電車を使っても巡礼もまた、立派な修行と云えます。

しかし本来、密教は修験道などとは違い、荒行を本質とはしないものなのです。現在、自分の考える本当の苦行とは、現世において己に強く、人に優しく生き抜くこと。三重院の村上住職の云われた、日々是修行。今を生きることこそ、現代人の最たる行のように思います。 とはいえ、私たち心は弱き愚かなもの。そんな私たちを時に戒め、時に正し導く、心の杖となるべきものが信仰ではないでしょうか。

一神教でも多神教でもいい。何宗でもいい。どの宗教でも、大筋云わんといていることは似ていますし、大抵は間違いではありません。余程、商業主義的な霊感商法や、或いはオウムのような狂信的な宗教でなければ、なにかしら信仰心を持ち、それを現実生活に活かして幸福な生き方を学ぶのは、良い心掛けではないでしょうか。
但し、宗教や神の名の元に殺戮に及ぶことは、断じて許されるべき行為ではありませんし、論外であることはいうまでもありません。皆さん、上手に信仰を、幸福な生活実現に活用して下さいね。

では、【入我我入】を更に考察していく前に、少々【三密加持】に触れておきましょう。例の如く、ちょっと長くなりそうですが、毎度のことなので気にしないで下さい え?既に長いですか?(笑。
まず、三密と加持を分けて考えましょう。三密とは、遍く大自然、天地宇宙の森羅万象そのものを、大日如来の象徴と見なす真言密教では、生けとし生きるもの全ては、身体(身密)、心(意密)、言葉(口密)の三つの(即ち大日如来の)働きかけから成り立っていると考えます。これが三密で御座います。

三密を初めて耳に目にする方も、三業(さんごう)ならご存知ないでしょうか。
業(ごう)とは梵語の:カルマン(karman)の訳で、私たちの行為や所作を指します。一般にカルマともいい、ヒーリングセミナーや心理カウンセリングなど、特に信仰とは無関係に聞いたことがあるかも知れません。以前、お話しした因果律とセットになった法則として、多々応用されております。 

業(ごう)とは本来、「なすことそれ自身」という意味であります。従って勿論、善い業=善業(アカルマ)もあるのですが、普通、仏教の見識では、「人は皆、抜け出し難い業を背負っている」と捉え、一般的に業とは、悪業(ヴィカルマ)のことを指します。その場合の業(ごう)とは、罪を生み出す(生み出してきた)元である。と説かれます。

三業(さんごう)とは、1、身業(しんごう)とは、身体で行った行為の罪、偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)のこと。2、口業(くごう)とは、人が口で喋った言語の罪、妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ・あっく・きご)のこと。3、意業(いごう)とは、人が心で思った意識の罪、貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)のこと。

砕いていうなれば、身業とは、奪い、犯し、盗み、殺すこと。口業とは、騙し、罵り、謗り、心なき言葉を吐くこと。意業とは、忌み憎み嫌い、怒れる、懼れる、歪んだ心。のことなどで、これらに「不」を付加えれば、もうお分かりの通り、三業を細分化し、戒めたものが十善戒で御座います。

 これに対し、真言密教では、この身・口・意(しん・く・い)の三業を、単に「業」とは捉えず、「三密」と呼び、この微妙(みみょう)なる大日如来の働きである、身・口・意を、よくよく思惟・習得してこそ、仏になれると説きます。因みに密教という名称は、私たちが真に目覚めなければ、凡そ窺い知れない、大日如来の(即ち秘密主の)奥深い教え。これが、三密に由来していると解く説もあります。
まぁそれは今回さておき、この「仏になれる」ことこそ、「即身成仏」であり、真言密教の究極の教えであります。

何度もご紹介させて頂いております、映画『空海』でも、北大路欣也扮する、空海が疫病に苦しむ村人達を前に、「生きたこの身のまま、仏になるのだ!生きている間に幸せにならずして、なにが成仏か!」こう言い放ったシーンが、非常に印象に残っています。

人は皆、その心中に仏性を持って生まれているとも、以前書きました。
仏性とは仏の性質、資質、性分。正に仏そのもので御座います。それが曇りに曇り、汚れに汚れ、歪みに歪んでしまっているのが私たちであります。
映画『マトリックス』に例え、バーチャルリアリティーを生きる私たちは、「なんかおっかしいやろ?!」「なんやよう分からんけど、このまんまはアカン!」と、気付き(目覚め)、プラグを抜いて自己を解き放ちましょう。そう書いてきました。
誰もが目覚めさえすれば、仏として生きられる。それが密教の「即身成仏」です。
ところで、仏になったところで、何がどないなるねん?なんか得なことあるんかい?そもそも仏になって生きるっちゅうは、どういう意味やねん?ハイ。そう仰る方もいらっしゃるでしょう。その件については、また追々お話しし合って行きましょう。

【三密】が【即身成仏】に繋がっていく。ということが分かったところで、では次に、【加持】についてです。加持祈祷が良く聞かれますように、加持とは密教特有の言葉であります。弘法大師空海が著した、「即身成仏義」では、こう解説されています。
=の後ろは意訳:空海コレクション 1 及び2 (ちくま学芸文庫)を参照。
【速疾に顕わる】
「三密加持して速疾に顕わる」と曰う。=
「仏と我々との三種の行為形態が、不思議な働きによって応じあうとき、速やかに悟りの世界が現れる」というのである。
加持とは、如来の大悲と衆生の新人とを表わす。=
加持とは、如来の大悲と、人々の信心を表している。
仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、=
あたかも太陽の光の如く仏の姿が、人々の心の水を照らし、そこに現われるのを、「加」といい、
行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。=
真言密教の行者の心の水が、よく仏の太陽を感じとることを「持」と呼ぶのである。

と分かりますように、「加」とは如来の大悲。「持」とは衆生の信心のことであります。「加」とは、仏のご加護・ご庇護が、私たちの心に映ることであり、「持」とは、私たちの心が仏のご加護・ご庇護を、よくよく感じることです。従いまして、三密加持とは、私たちの本来備わっている、仏性を引き出す造作の儀を顕わします。

【三密加持】について、ゴチャゴチャと書き並べましたが、造作そのものは理屈に比べ、至ってシンプルなものです。具体的には、身(手)で仏の印を結び、口(言葉)に仏のご真言を唱え、意(心)に、仏そのものを念じて祈ることです。突き詰めれば、真言密教は真言による祈りの宗教ともいえます。


同じく、「即身成仏義」において、【三密加持して速疾に顕る】の稿では、
「もし真言行者あってこの義を観察して、=
もし、真言密教の修行者の一人が、この意味を正しく観察して、
手に印契を作し、口に真言を誦し、心三摩地に住すれば、=
手に印契を結んで、口に真言を唱えて、心を瞑想の境地に集中するならば、
三密相応して加持するが故に、早く大悉地を得。=
仏と我々のそれぞれの三種の行為形態が、相応じあい、力を加えあうから、
すみやかに偉大な覚りの感性の境地を得るのである。

とあります。前述同様に、空海コレクション 1 及び2 (ちくま学芸文庫)を参照して、=の後ろに、意訳を記載致しましたが、意訳しても非常に解り辛いですね(笑。要するに、最後の部分の、「早く大悉地を得」という、「悉地」とは、サンスクリット語「Siddhi(シッディ)」の音写で、成就のことです。(蛇足ですが、「悉地を成就する」を、「覚りを得る」と訳されることも多いですが、本来、悉地は成就ですから、同義語を重ねて表現しているといえます。)それに「早く」と「大」がくっ付いてますから従って、若い子の言い方をすれば、「三密加持すれば、ソッコーでマジパネー願いが叶う。」ということであります。(笑

イイですね〜イイじゃないですか〜どのような願いごとも叶う。
ホンマかいな〜いや、絶対ホンマでしょう。信じるものは救われる。ですから。
但し、いつもお話ししますが、密教でいう加持祈祷は、世間一般の多くの祈祷がそうでありますように、自己願望達成のためだけに、仏を仏法を利用し手段化するのでなく、本尊に全身心を傾けて帰依し、自己を空しくして三昧に入り、本尊と入我我入することが肝要なことはいうまでもありません。

この三密加持によって、私たちは天地宇宙根源の神秘に迫ることさえもできるのです。なぜならば、繰り返すようですが、私たちに本来、備わっている、仏性を引き出す修法だからなのです。
信じてしまえば、仏性とは、仏さまと同じ心を持つ⇒同じ能力を持つ。ということです。仏さまの力は無限でありますから、仏性もまた⇒無限の力を持つ。ということです。つまり、私たちが潜在意識下の仏性を、三密加持で引き出すことで、神秘的な体験や力を生み出すことができたとしても、なんら不思議ではないかも知れません。
言い換えれば、「貴方の本来持つ、無限の可能性に早く気付き(目覚め)、それを開発しなさい。そして、それによって各々の人生を成功、(物質至上主義でない、本当の意味での幸福)へと導きなさい。」と、弘法大師空海は云っているのです。
そう捉えると、真言密教は、松下政経塾においても松下幸之助が、素直な心になるための一つの重要な手段として、常に重きを置いた自己観照から始まり、自己改革を繰り返す哲学でもある、と云えるのではないでしょうか。



さぁ、【入我我入】について、随分見えてきたと思いますが、一見とてもシンプルな造作に思える三密加持のうち、最も難しいのがやはり【入我我入】であります。話すことが出来れば、ご真言は唱えられます。指も両手五本づつ揃っていれば、印契は結べます。しかし、常々清浄なる心の中で仏さまを観じるのは、なかなか容易ではありません。【入我我入】とは、正に【入我=我は入る】で、ご本尊を前に己の精神を注ぎ込み、更に【我入=我に入る】で、ご本尊の精神を受取り、一身一体となること。この造作こそ、即身成仏そのものなのですから、無理もないかも知れません。

【入我我入】を極めると、なにがどうなるのでしょうか?
ここでとても興味深い、有名なエピソードをお話ししましょう。
真言宗中興の祖にして、新義真言宗始祖。空海以来の才僧と称された、興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)が、腐敗衰退していた高野山復興に向け努め、大伝法院(現在の新義真言宗総本山、根来寺へ移籍される以前の)と、金剛峯寺座主を兼任するまでに至り、事実上、高野山全体を掌握する強大勢力を得ました。

しかし、それまでの堕落した古参上下派閥(僧侶を職業と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧)ら、反対勢力と対立が発生し、保延6年(1140年)、覚鑁の住房である密厳院を含む、覚鑁一門の寺院を急襲し焼き払った上、高野山追放という凶行に打って出ました。
その際に、覚鑁が密厳院内の不動堂で、本尊不動明王を前に護摩を焚いておりましたが、そこへ押込んでだ刺客の目の前には、不動明王が二体いらっしゃり、斬り付けた同像から血が流れ出たのを見て、腰を抜かして驚愕し引き上げ、覚鑁は辛くも一命を取り留めたと伝えられます。
この覚鑁の身代わりとなり、木像でありながら、人の生き血を流したのが「錐鑽(きりもみ)不動」という伝説であります。このご本尊は、今なお、新義真言宗大本山・密厳山誕生院(佐賀県鹿島市)に尊像として祀られています。そして、これこそが、【入我我入】の究極の姿なのです。

まぁここまでに至るのは、相当精進が必要でありましょうが、何度も申し上げますように、基本的には一心に真言を念誦することであり、龍猛(りゅうみょう)菩薩が、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』において「難行道」と「易行道」を説きましたが、「易行道(いぎょうどう)」とは、比較的誰もが実践し易い修行法なのであります。
「密教こそ絶対他力の易行道なり。」「密教は、僧俗を問わず、誰でも、何処でも、何時でも、実践できる他力易行道である。」と、今まで難解とされてきた弘法大師の教えの核心である、加持の法門を分かりやすく説かれた、高野山真言宗大僧正 故・織田 隆弘著:如来の不思議―真言易行道の奇跡正純密教入門参照。
都内の方なら、四谷霊廟をご存知でしょうか。江戸三十三観音第十八番札所 汐干観音 金鶏山 真成院の先代ご住職ですね。
また、浄土宗の開祖、法然上人も、その著『選択本願念仏集』の中で、この易行と難行について詳細な批判=吟味を行い、当代に於いて易行を行う意義を高らかに主張した一人であります。


さらに覚鑁曰く、論文集「五輪九字明秘密釈」において、これらを「一印一明一観」と、密教の本質を見事シンプルに説いております。
「衆生の根機(素質のこと)種々不同なり。一門一尊(一つの本尊)の三昧に入って、一印一明一観にして悉地(悟りのこと)を成ずるあり。正、像、末の異を論ずることなくこれを修する時、これすなわち正法なり…」
=意訳:
「仏教にはいろいろな行法があるが、そんな複雑なことをしなくとも、一つの印を結んで、その真言を唱え、それを本尊として心に念じる、その行法だけで成仏できるのである。」


それでは今回はこの辺で。まとまりなく終わらせて頂きます。
よくよく勉強させて頂きました。本日も有難う御座います。


感謝合掌
法蓮 百拝


お知らせ:
マジシャン高橋さんの、待乳山聖天内でのマジックショーの
模様画像を、追加アップしてあります。是非、スライドショーでご覧下さい。

*携帯からアクセス頂いている方は、スライドショーがうまく表示されないとのご指摘が御座いましたので、こちらをご利用下さい。