今年もあっと云う間に残すところあとわずか。
温暖化の影響か今年は雪が降らず、どこのスキー場のゲレンデも、まるで草原のような原っぱがニュースで映し出されていた。
スキー場やペンションの経営者、スノーボードのインストラクターなど、みな商売上がったり。閑古鳥の鳴いている。

しかし25日から今年最大の寒波が日本列島を覆い、京都の三千院や
金閣寺も雪に包まれ薄化粧を施した。

(これであの経営者たちも一安心で商売出来るやろうな・・・)
(ってか、今朝はいつもより冷たいかもな・・・)
そんな独り言をいいながら、この日もいそいそと水行に勤しむ。


水行を続けさせて戴いて、もうかれこれ一ヶ月近くになる。
朝から水を被ることは今までしたことはない。サウナが好きで、しこたま汗をかいたあとに水風呂に浸かるのは好きだった。
子供のころは、よく銭湯で父親に風邪を引かないようにと、風呂を出る間際に水を被れと云われた。
大人になってから、わざわざ水を被ることなんてない。しかも冬に。しかも風呂上りでもなく寝起きに。
なんでやるのか?お行をさせていただくとは、如何にも不思議なものである。


前日の風呂上りに洗面所で顔を水で洗う。
これは以前からやっていた。夏でも氷水のボールに顔を浸けたりしていた。
要するに冷水パッティング。美容に気を遣っていたころの習慣の名残である。
群馬の水は大阪より冷たい。風呂上りは特に毛穴が引き締まって気持ちがいい。

面白いのは、この夜の顔を洗うときの水が強烈に冷たく感じる。
朝と夜とどちらが水温が低いか正確には分からないが、感覚的に手にしたその冷たさの水を被っているなど想像しにくいほど、冷たく感じるのである。気が張っているのと、気が抜けているのとではそんな違うものなのか。
それを湯に浸かり温まってもいない身体で、バサバサと何杯も被るのだから、ご真言を唱え、心経を読み上げて・・という、一連の作法を通じて気を高めて水行に入る中で、単なる気合というより、目に見えない何かに守られているような気がしなくもない。

冷水を被る最中、あることに気がついた。
バシャーンと被ったあと、よくみると自分の身体からホクホクと湯気が出ていた。
また桶に水が溜まり、バシャーンと次の水を被る。また水が溜まるまでの間、身体からホクホク湯気が出る。

なんじゃこりゃ?湯気が出るってことは、それだけ身体が熱を発しているのか?
奥歯の上と下をギューッと噛み締め、大きな声を出して何度も被る。
被った瞬間、「うぉおおおおーっ」と叫びたくなるくらい、メチャクチャ冷たく感じる。いや、もしかして「冷たい!」感じていると思っているだけで、本当は冷たくないかも知れない。

脳が勝手に被る寸前に、(来るぞっ!冷たいぞっ!)
そう思い込んでいるだけで、気の張った身体は実際そうでもないかも知れない。
人間の身体とは不思議じゃ。そういえば、お大師さまも仰っている。
「真言とは不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」と。
ご真言は御仏と我々を宇宙空間で直結する真実の言葉。その一字一句自体が御仏そのもの。御仏の無限の力と智慧が込められた神秘の言葉。

最初に智拳印を結び、大日如来のご真言。「おん あびらうんけん ばざら だとばん」と二十一遍唱える。最後に法界定印を結ぶ。
半目を開けて朝日に向かい、大宇宙の中に坐する大日如来を思い浮かべる。やがて自分もその大宇宙の中に身を置いている。
大日如来の身体から四方八方に、煙のような彗星のような霊魂のような、白くぼやけたものが幾つも解き放たれて飛んでいく。
そのとき我が身は風呂場にあって、風呂場にない。漆黒の宇宙の中に、ぽっかり青い地球が遠く大日如来の後方に見える。
宇宙から見れば地球は一つ。国境もない、人種もない、格差もない。小さな小さなただの星ひとつ。


さてさて、いつまで水行続くんやろか。。